前文
まずは前文を読んでみよう。
これだけでも、じっくり読めば、いかに日本人が期待された民族かがわかる。
私は憲法学者ではない。法律家ですらない。もっといえば日本国憲法自体、読み進めたことも数えるほどしかない。だが、私には見える。この憲法はわれわれ日本人にとっては恐ろしく強い武器である。誇るべき寄る辺を失いつつある日本人にとって、この憲法が示す「普遍の原理」を身に纏って生きることは、何よりも輝かしい未来を約束するのではないかと思う。ゆえに、あえて浅学を顧みず、試論を述べたい。
この憲法がもたらされたのはUSAの識者たちの草稿だ。だが、その成り行きこそむしろ世界から期待され、やがて輝く日本における象徴的出来事であったのではないかとすら思う。一文一文を見ていくが、ここに示されているのは「精神力学」である。武士道と言ってもいいかもしれない。USAの起草者たちが理解していたのは「自由・平等・博愛の哲学」だったかもしれないが、図らずも示されたのは日々切磋琢磨し、己を鍛え上げ、自分の道を切り拓いていける居合武士の魂だった。宇宙・自然の法則(真理)から導出される人間普遍の原理は武士道と重なっていく。
では、さっそく内容を見ていこう。
「前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
注目すべき言葉、「正当」「代表者」「子孫」「協和」「決意」。説明する前にこれらをじっくり味わってほしい。そして負のワードも対比して欲しい。「政府の行為」「戦争の惨禍」。
我々は正当に選挙で選ぶのは代表者である。支配者ではない。そして考慮すべきものには子孫が含まれている。そしてそこから期待されるものとして導き出されるのは、協和によって成果を得る、そして最終的には決意である。これらを漠然と考えなくなるだけで、この憲法に秘められた、自らと国民の誇りを掘り起こす効果を実感できると思う。
対比されているのが、政府の行為であり、そこが必然として連れていく戦争の惨禍なのである。代表者は惨禍をもたらすことはないが、支配者は惨禍へと国民を送り込む。代表者と支配者の違いも明確に意識すべきところだ。この辺りは後に出てくる憲法第12条の理解と密接にかかわってくる。
また、戦争は、場合によっては相手国の思惑通りなのかもしれない。ここに明確な歯止めをかけておけるのは、この地勢的に不利な国家において戦争は明らかにペイしないことがわかっていて、そんな機運を盛り上げることに動機を持たない国民の代表者でしかありえない。支配者ならば相手国と個人的に結託することもあり得るのである。支配者になろうとする人間だけが、国民の権威(後述)を理解せず踏みにじるのである。
まずは厳密に理解しようとするのではなく、この憲法からにじみ出てくる普遍の原理に通じていこう。何度もその原理を反復するうちに、理解が誇りへと転換し、それを味わえるようになると思う。ともかくいい加減なことは書かれていない。この段階からすでにとても整然とした自然な力学が述べられている。
次へ行こう。
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。」
ここでも強いワードを味わおう。「信託」「権威」「人類普遍の原理」。信託にかかる形容詞、厳粛なも力強いワードである。信託にはそれだけの想いがある。そして権威は国民、権力は代表者である。福利の享受も国民が得るものであって、代表者でもなければましては支配者でもない。
これは権利を主張すべきというのではなく、これを粛々と遵守することが「人類普遍の原理」なのである。つまり権利というよりはむしろ義務なのである。だからこそ、これは原理であり法則なのだ。こんなすごい力学が仄めかされていることに気が付いたら、これを誇らずにいられようか。
誇りは大事だ。自分が自分を認める前に誰が自分を認めてくれるのだ。権威とはこの誇りと密接にかかわっており、この権威を国民が感得できなくなることにより、誇りを失って迷走する。それが権威を奪う支配者のもたらす災厄である。支配者は権威と権力を併せ持つことが己の目的なのだ。だから、この普遍の原理の理解はとても大切であり、その理解もまた義務であり権利である。これがしっかり理解できると国民は権威を維持できる。この循環構造は大切である。
ともかく、これらも踏まえてじっくりと読み味わってみるといい。違う味を感じる人もいるかもしれないが、それなら自分は何を感じたのか、じっくりとその相違に思いを巡らしてみよう。それもまた、誇りへと通じる道だし、誇りなどいらないという人は私はきっといないはずだと思う。それもまた法則であり、普遍の原理なのだ。
次へ行こう。
「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」
強いワードを挙げよう。「恒久の平和」「人間相互の関係」「崇高な理想」「自覚」「公正と信義」「名誉ある地位」。
排除したのは普遍の原理に違反するものである。そして、普遍の原理はこの憲法を全体として理解できたとき、身体に染みついていくものである。この憲法のすごさは実はこの普遍の原理を体得できるところにある。そしてこの普遍の原理が体現するのは武士道精神である。誇りの体系である。ここまでも反復してそれを示してきたが、これに反論あるむきは、以下も読み進めながら冷静に論を整えていただきたい。
さて、念願するのが「恒久の平和」であるが、これは決意とともにあることを味わうといい。そして、「平和を愛する諸国民」という言葉で他国家の民衆のあり方もさりげなく要請している。日本国民が念願するのは普遍的真理であるのだから、ぜひ、それに賛同すべきであるという協力要請である。
これは外交において強い大義名分を与えるだろう。普遍的真理に近い「恒久の平和」への念願を無碍にするのは非常に骨の折れる作業である。さらにはその念願が、人間相互の関係を支配しているのが崇高なる理想であり、公正と信義を信頼すると言われて真っ向逆らうことなどできはしない。あまりにも直球過ぎて打ち返せないのである。
「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」。これもすさまじい牽制である。国際社会が実際にそうであるというのではない。そうであるべきであるという次元を、すでにそうであると語ることによって、有無を言わさぬ説得力を発揮するのである。この論法は強い。何人たりとも踏み込ませない。専守防衛の居合の剣である。そしてこの剣が全ての理想を相手に呑ませる威力を発揮する。この論法の中にも普遍の原理が見える。
我々は今、日本国憲法を読むことによって、普遍の原理を体得しようとしている。それを意識して、じっくりと味わってほしい。この普遍の原理は、実は日本人の中にはずっと眠っているものであるから、恐らく体得というよりは封印解除に近いと思う。普遍の原理に通じることはまさに誇りなのである。そして、この普遍の原理を体得しているからこそ、この普遍の原理は威力を正しく発揮するという構造も忘れるべきではない。
これを段階的に国際社会で示していけば、名誉ある地位など、望まぬとも向こうからやってくるであろう。戦わずして勝つ。戦う気力すら奪い、周囲から戦いの雰囲気を除去してしまうまでになる。これは平和への希求などではなく、明らかに決意なのである。きれいごとを押し通すには、きれいごとを体得して実践していればいいのである。
叩かれても埃が出ない、恐ろしいまでの境地を我々は目指している。だからこそ誇りが持てるのだ。できっこないと諦めれば、その途端にこの普遍の原理は力を失う。出来るかどうかではない。やってみようと前向きに進むのだ。そのとき既に誇りは芽生え、普遍の原理は活性化していく。頼れる武器あるところでは安心感が広がり、余裕を持った態度は理解を深め、さらに原理・法則は威力を増す。
理想を語ることを恥じるな。恥とは恐れである。日本人の弱さはこの恥であり、恐れである。恥じるべきを恥じるのは素晴らしいが、臆病と怠惰の病をこじらせるなら、この恥はもっと見つめ直して、本当に恥じるに値するかをじっくり考慮する必要がある。現実とマッチした理想ほど、強いものはない。そして理想は常に現実以前にある。理想なくして出現した現実を現実と認める必要はないのである。これもまた、普遍の法則である。
次へ行こう。
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」
強いワードを見ていく。「全世界の国民」「政治道徳」。ここで全世界の国民やいづれの国家もという言葉が出てきているのは注目に値する。これもまた、理想状態へ他国も引き込むための概念的な装置である。理想状態で戦う時に無敵なのは、理想を体現した者であるのは言うまでもない。そのための土俵づくりをこの憲法は一瞬で成し遂げる。この概念武器としての性質を深く理解して、大いに活用すべきである。
「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」。これは非常に強い要請である。この要請を行える者があるとすれば、これを体現している者である。それだけこれを体現するのは難しいとも言える。これは個人に当てはめれば、「自分のことのみに専念して他人を無視してはならない」である。これは日本人にとってそんなに難しいことなのだろうか。だからこそ、日本人だけがこの憲法を武器とすることができるのである。この普遍の原理に通じて誇るべきである。
とりあえず前文だけ読んだ。元気出てこないか? 平和憲法なんていうから弱々しいと思ってたはずだが、よく読みこなせばとんでもないくらい日本人だけが理解できるだろう、誇りについて語られているのである。私はむしろこれをUSAの識者が理解して起草したことに驚きを禁じ得ない。そしてUSA国内でこそ、この理想は実施したかったに違いないのである。だが、無理だろう。その点、日本人はこの精神を自覚はしていないが、わかっているのだ。
では、つづきはまた。