001*放課後オレンジ
*この話のタグ的な何か*
スクールラブ 女主人公 学校 ハッピーエンド
放課後の教室。好きな人と二人っきり。
いつもより近い彼からは、甘い甘いオレンジの香りがした。静かな教室には、互いの呼吸音だけが響く。私は緊張を紛らわすため、ポケットの中に入れたままのアメを探る。かさかさ、というアメの包み紙から鳴る音が、静かに沈黙を破る。指先で摘まんで袋を裂けば小さな宝石が転がり落ちてくる。ひょいと摘まんで口に放り込めば、酸味の中に甘さがあるオレンジの風味が広がる。私はオレンジが好きだ。味も、匂いも。私が好きな彼も、オレンジの香りがする。多分、好きになった切っ掛けは……オレンジ。口の中で転がせば、小さなそれはじんわりと溶けて、やがて跡形もなく消える。私も彼も何も話さない。どきどきと気まずさに包まれた時間は、いつもより進みが遅い気がした。どうしようかと考えている間に、しっとりとした柔らかな音が外から聞こえてきた。
「あっ……」
「雨か」
私と彼が声を上げたのは同時だった。夕方、唐突な雨。しとしととした音はやがて激しい音に変わり行くだろう。声を上げた彼を見れば、彼もこちらを見ていた。どちらからともなく声を上げて小さく笑う。
「雨だね」
「そうだね、君は帰り大丈夫?」
不意に彼が自分の席を立ち、私の目の前に来る。そして、私の前の席に置かれている椅子を無遠慮につかみ、座る。こんなに近くで彼の顔を見たのは初めてなんじゃないだろうか。
「私、歩きなんだよね。そっちは?」
「俺も歩き。傘あんの?」
頷いた私を見やった後、肘までYシャツを捲り上げた両腕を枕に私の机に寝そべる彼は、自由気ままな猫に似ていた。黒いふわふわとした髪の毛が視界いっぱいに広がる。彼から香るのは、やっぱり私の好きなオレンジの香りだ。こんな純粋なオレンジの香りは非常に珍しいのではないのだろうか。柑橘系の香りと言えばグレープフルーツの香りだが、私はグレープフルーツが好きではないし、オレンジとは違うがみかんの香りも一応柑橘系の香りで間違ってはいないと思う。等とつらつら考えていた私は、彼が突然顔を上げた事に驚いて身を引いてしまう。その顔に浮かぶのは好奇心。“にんまり”というのが相応しいその笑みは綺麗で、私の心臓をうるさくさせる。
「井上のこと、待ってんでしょ」
井上桜子は、私の友人。一緒に帰りはしないが、彼女の迎えが来るまでよくおしゃべりをしている。放課後の教室はいつも静かで、私たちの会話だけが教室を占める。だが、今日は一人きりで待つ予定だったのだ。用事があるから先に帰っていても良いと告げた桜子を待つことにした私は未だ彼女が帰っていない事にひどく狼狽したのだった。一体、彼はどんな気まぐれでこの教室にいるのだろうか。
思考の海に溺れそうな私を現実に引き戻したのは、好奇心を宿した彼の声だった。
「ね、俺と帰らない?」
「え?」
彼はずいと先ほどより顔を近づけてそう言った。キスでもできそうな距離感。湿気を含んだ空気のせいか、先程よりも強いオレンジの香りが鼻腔を占める。いや、湿気のせいだけではないか物理的に距離が近いせいだ。照れと混乱で何も言えない私に、彼はそのしなやかな指をついっと向け、そして、そのまま獲物を甚振る猫そのものの動きで私の首筋を撫でたのだった。さっと頬に朱が散るのが分かる。近い、そして良い匂いがする。ぱくぱくと餌を求める鯉のように口を開くしかない私を見て、くつくつと笑う彼。
「君がいつも一人で歩いてるの知ってるよ。だから、俺と帰ろ。それに、俺さ。濡れるのやだから傘の中入れて」
「でも、桜子ちゃんを待って……」
絡んだままの真っ直ぐな彼の視線に堪え切れなくなってつい、と視線を逸らしながら言えば、彼はまたくつくつと笑う。意地の悪い人だ。そう思って横目に見れば、彼の口がゆるりと弧を描いている。首筋から離れた手は、私の毛先を撫でて離れていく。ふわりと漂うオレンジの香りと静寂を支配する雨の音。それだけが二人の世界を占めていた。
「……井上なら今頃、健志に告られてるよ」
口火を切ったのは、彼の方。その驚きに満ちた内容に反射的に顔を上げれば、目に映るのは目を細めた彼の顔。これは、獲物を狙う時の猫の顔だ。だとしたら、獲物は私だろうか?
同じクラスの建志君は、桜子の好きな人。それで告白されているとしたら、きっと桜子は良い返事をするだろう。
「建志って、同じクラスの建志君のこと……だよね。でも、なんでそんな事知ってるの?」
「だって、建志とも話すもん、俺」
きっとそう言われた時の私はきょとんとしていたに違いない。なんでそんな簡単なことに思い至らなかったのだろうか。思えば、彼は誰とでも話す人だった。決まったグループを持たず色んなところをふらふらしている、そんな姿をよく見たものだ。やっぱり彼は猫に似ている。
「建志のことだから、きっと井上のこと逃がさないだろうし、待ちぼうけになるよ。だから、ね? 一緒に帰ろう。……それとも俺に一人で濡れて帰れって言う?」
「良い、んだけど……でも」
「でも、何? この時間なら誰も残ってないし部活のやつらは校庭だから会うこともないよ」
気にしていた人目はないと、彼は言う。でも、それだけじゃなくて、好きな人と相合傘とか願ってもないことだ。だが、これは――。
「私、貴方のこと好きだから、勘違いするよ?」
――それとも、そういう遊び?
思わず正直に問えば、彼は愉快だとでも言いたげにくつくつと笑って、私の手を取った。私は昔から素直だ、言わない美徳など総じて無視してストレートに言葉を紡ぐ。敵は多かったが、今ではそれなりに口に出さない事も学んだので裏表のない人間として認識されている。本当に、思わず、口に出すつもりがなかった言葉がポロリと出て来たのだ。正直、恥ずかしい。だがそれ以上に、揶揄いであったのならば私は彼を許せないだろう。
私の荷物も自分の荷物もまとめて持って、彼は私の手を引いたまま教室の外に出て、そのまま階段を下ろうとする。そして、踊り場に差し掛かったあたりで、キス。触れるだけだったけど、彼とのキスはオレンジの味がした。
「ちょ、なっ……!」
「好きだよ、だから一緒に帰りたい」
「……順番が違いすぎやしませんかね」
「そうだね」
怒る間もなく言われた愛の言葉は、明らかに順番が間違っている。だが、ふい、と顔を逸らした彼の、そのふわふわの黒髪から覗いた耳が、真っ赤になっていたのを見て怒りもどこかに消え失せた。それどころかなぜか愛しさが湧いて出てくる。相変わらず自分がちょろい。ちょろいことこの上ない。
まぁ、でも。好きになったものは仕方ないと思う。
恋は、グラスから溢れた水に似ている。溢れてしまって、床にでも零してしまったらどうしようもないってところが。
“私はこの人のことが好きだ”そう思ってしまった時から水は貯まり続けて、ついさっき溢れたところだ。
でもまぁ、好きな人が自分を好きとかいう幸運に巡り会えたのは非常に良いことだと思う。
まずはこれから二人で雨を避けながら帰って、それから、今度は私からキスをしよう。
「改めて。貴方が好きだよ、付き合って」
「……君には勝てないなあ」
*Fin*
*テーマなど*
気ままな猫系男子×裏表無い意思はっきり少女
場所「放課後の学校」
フェティシズム「香り」