ハッピーエンドをわたしに。
幸せなら手を叩こう。
母に教えてもらった童歌の一節。
幸せという言葉の意味を知らなかった幼い私は、母に尋ねた。
「しあわせってなに?」
すると、母は苦虫を噛み潰すような表情をして、こう言った。
「知らないこと。何も知らないことが一番幸せ」
大人になった今でも、母の言葉に納得する。
知れば知るほど、私は不幸になった。私は、祖国を知らない異邦人。世間が言う流民だった。
流民に個はない。だから、私には名前がなかった。
流民は外れ者。だから、私は母と同じように、娼婦になって金を稼ぐしかなかった。
何も知らないことが幸せ。
幸せになるためにすべてを忘れて、知らない頃に戻りたい。それが、私の願いだった。自分が流民であること、娼婦であること。自分の母が、強姦で死んだこと。
そして、もうすぐ自分は――
*****
黒い空から雨が降っていた。
建物の屋根を打つ雨が、太鼓の角を叩いたように、かんからと固い音を響かせる。裸電球を括り付けた鉄線が、くすんだコンクリートビルの間を渡していて、ぼんやりとした光がゴミに埋もれた路地裏を照らしている。
しゃばしゃばと雨どいから滝が流れる音に息を潜めながら、男と女は交わっていた。
女は切なげな声をうわ喉から漏らし、男の肩に背伸びをして、もたれかかるようにして抱き付く。男はにんまりと笑いながら、彼女の胸の谷間に千円札を二枚忍ばせた。
紙幣を見ると女は、ほくそ笑んだ。
少し、不器用な笑い方だ。口角が上がる前に、一度下がった。
やがて女は、男に乱暴に押し倒された。すえた臭いを放つゴミ袋の上に女は転がり、その上から男の身体が覆いかぶさった。
半ば破くかのように乱暴に、胸元が大きく開いたワンピースを女の身体から引き剥がした。女の顔が歪み、胸の谷間に挟んだ札が、彼女の顔に覆いかぶさった。それを拭って、男は無理くりに女の後頭部をむんずとつかみ上げて、自分の唇を女の唇にあてがう。
「っやっ――」
「娼婦の流民が、一丁前に抵抗するなっ! 流民のお前に二千円もはたいた。お前らが欲しくてたまらない金だっ! 下賤な流民には働き口もないからなっ! 二千円などというはした金、すぐに元締めにむしり取られるわっ!」
男は女の身体にまたがりながら、女の素性を罵った。
「この日本でお前らが、交尾の相手を選べるとでも思うなっ!」
女の下腹部に、自らの腰をあてがおうとする男。そのこめかみに、突如として銃口が突きつけられた。
ちゃきりと引き金に手をかける音がする。女にしけこんでいたあまり、背後に忍び寄る靴音に気づかなかったらしい。
しまった。そう思って口をあんぐりしたときには、もう遅い。
男の耳に最期に轟いたのは、拳銃が火を噴く轟音だった。
女の顔に血の雨が降り注ぐ。
女は泣き喚きながら、裸のままで、恐れのままに後ずさり。ゴミを溶かした汚水に濡れた下半身と、雨に強く打たれた上半身。恐れなのか、寒さなのか、訳も分からないくらいに女は震えていた。
「流民、お前を買う気はないよ」
銃を携えた凶手の声は、思いのほか、優しい声だった。携えているのはグロック社の拳銃。雨脚の中で紫煙をくゆらせながら、スペアマガジンを装填する。
女は、凶手の態度の急変に戸惑いを隠せない。口をあんぐりと開けていたところに、彼は自身が来ていた着古したトレンチコートを女に向かって投げた。
むろん、雨に濡れている。それでも裸よりはマシだと、彼は笑う。
「俺も流民だ。こいつが、うちのシマで色々と派手をやってくれて、始末を頼まれた。――お前は、標的じゃない」
両の掌を上に向けて、敵意はないと女に伝える。
そして、女のもとに近寄ってしゃがみ込む。裸電球の灯かりが、彼の瞳までもが優しげであることを、女に伝えた。女はそっと、男から受け取った煙草の匂いのするトレンチコートを自身の肩にかけ、男に上目遣いを向ける。
「お前、名前はなんていうんだ?」
「――ウソ」
「えっ?」
「私に名前なんてないよ。流民だから」
「俺も自分でつけた名前がある。マコトだ。お前も自分でつけただろ?」
「だから、ウソだよ。私の名前は、ウソなの」
マコトと名乗った男は、ウソと名乗った女に怪訝な顔を向ける。
「どうして、そんな名前を?」
「私の人生も世界も、私自身もウソの方がいい。私は、死ぬのが怖いだけ」
マコトは口を歪める。
ため息をついてから、こう言い放った。
「俺のところに来るか」
「何で、そうなるの?」
「お前がこれ以上、誰かに無理矢理犯されるのを考えたくない」
マコトはぶっきらぼうに、ウソの手を引いた。
引きよせられて立ち上がるときに、ウソはよろけて、マコトの身体にもたれかかった。脚が生まれたての小鹿のようで、危なっかしい。
マコトは、ウソの手を自分の肩に回して、彼女の身体を負ぶった。
突然の行動に、彼女は目を丸くする。
「ちょ、ちょっと――」
「すまん。お前を厄介させてくれないか」
「変な人……」
彼女は目を細めて、彼の首筋にそっと頬を寄せた。
しばらく歩くと、その肩を抱き寄せる彼女の腕の力がきゅうっと強くなる。彼は、それを感じ取って、ひそかに口元を緩めて足を急ぐ。
――灰色のコンクリートビルが身を寄せ合う街から外れ、傾斜のついた坂を上り始めた。足元は、真黒なアスファルトだったのが、草が青むようになっている。彼は道を照らしていた懐中電灯で、ゲートがそこにあることを確認すると、慣れた手つきでその掛金を外した。
蔦の巻き付いた赤く錆びついたゲートをくぐる。そこには夢の跡があった。
赤く錆びついた骨格からは、崩れ落ちそうな危なっかしさとともに、人工物が自然に呑み込まれていく退廃的な美しさが感じられる。人の目を外れているけれど、そこにはかつて人がいた。夢の跡と形容するに相応しいもの寂しさ。
「どうだ? なかなか洒落ているだろ?」
「……、うん」
彼女はそれを嫌がるでなく、むしろ親近感を感じているよう。そしてまた彼も、この夢の跡を自らの巣としていた。
誰もいない料金所の小屋の前を通る。大人の目を忍んだ、秘密基地のよう。
打ち捨てられた観覧車のゴンドラは、ふたりが乗ると危なっかしくきしんだ。それでも外の雨は凌ぐことができる。
「ちょっと待ってろ」
そう言って、彼女をゴンドラの座席におろす。彼は料金所に入り、缶詰を二つとランタンを持って来た。使い古した様子のランタンとは対照的に、缶詰は最近買って持ち込んだのか、見た目は新しい。
ランタンに火を灯し、その火を煙草にも移し、円筒形の缶詰のタブを起こす。かぱりと音が鳴って蓋が開いた。中にぎゅうぎゅうに詰め込まれていたパンが膨らみを取り戻して、缶の口から少しはみ出た。
「腹がすいたろ」
パンの缶詰を彼女に手渡す。
物珍しそうに、しばらくじっと見つめてからひと口つまんだ。俯いた顔でパンを咀嚼した後、彼女は濡れた乱れ髪で自分の顔を覆ったまま尋ねた。
「なんで、私を拾ったの?」
「妹に似ていた。――でも、お前は妹じゃない。妹は死んじまった」
マコトはウソの顔を見ないで、アクリルの窓の上を雨粒の滴が伝うのを、物憂げな瞳で追っていた。
「流民の妹は流民だ。俺は裏社会の人間だし、妹もお前と同じ娼婦だった。俺は妹が身体を売らなくてもいいよう稼いで金を貯めていた。けれど、肝心の妹は病をもらっちまってな。――流民は汚れているから、性病なんぞにかかるんだって……。妹を汚したのは、てめぇらじゃねえのかよっ」
その声は、空しい怒りに震えていた。
祖国を知らない異邦人、流民は病を患っても野放しにされるのみ。まるで玩具か、それ以下の扱いをされた家族に、マコトは頬に一筋の川を流す。
「俺は人を殺して生きている。――だから、せめて誰かのためじゃないと、耐えられそうにないんだ。我儘とは思う。だけど、しばらくここにいてくれないか」
それが、ふたりの始まりだった。
赤い錆がはらりと落ちて、耳障りの悪いドアのきしむ音。
それが鉄骨を伝って身体に響くのを感じると、ウソはゆっくりと顔を上げる。マコトはの光の中に優しく微笑みかける。彼のトレンチコートには、まだ赤い血がついていた。
「今日は晴れていたんだぞ」
「そうなの?」
蹲ったところから顔をあげて、まるで知らなかったような返事をした。もちろん、ずっとうずくまっていたわけではないだろうが、彼女は空を見るということをしなかったのだろう。
「今だってほら、星が見えている」
「――そうね」
マコトが曇ったアクリルの窓を拭って、火のついた煙草で瞬く星のひとつを指す。観覧車の周りは、それを囲む鬱蒼とした森とは違って、夜空が見晴らしよく、くっきりと見えるのだった。しかし、ウソは瞬く星の数々を見ても、瞳に光が映ることはないようだった。
「お前は星空を綺麗だと思わないのか」
「さあ、わからない。――私にとって、目に映るものは本当にそこにある必要があるのか。全部、ウソだと思ってしまったほうが楽」
彼女は虚ろな瞳で、世界を呪った。
まるで自分自身が、生きていることすら疎んでいるかのような口ぶりだ。マコトは眉をしかめ、懐からウイスキーの小瓶を取り出した。タンブラーを汲み置きした水で軽くすすぎ、そこに琥珀色に輝く香り高いウイスキーを注ぐ。それを彼女の眼前に突き出した。
「酒はイケる口か」
「慣れてるわ。酔うと感じやすくなるって無理くり飲まされてね」
「俺の前で、そういう話はするな」
「――いつまで、私を匿うつもり?」
「さあな」
タンブラーを受け取るも、ウソは礼を言わない。
彼女は頻りに自分を取り巻く世界に疑問符を浮かべるのみ。彼女がそう言うように、彼女にはこの世界が必要なのかすら疑わしいのだろう。
「ウソは鳥の名前だよ」
「え……?」
全て嘘だったら。
世界を呪い、自身を疎む彼女に、マコトは鳥の名前を教えた。鷽という黒い頭をした、雀よりも少し大きい鳥。雄は胸元が鮮やかに赤く色づいて、雌にはそれがない。ヒーホー、ヒーホーと澄んだ声で鳴くと。
「私が鳥なの?」
「ああ、鷽が鳴くと、過去の厄がなくなって、幸せがやってくるんだ」
「私が……鳥……」
静かに、何かを噛みしめるように呟いて、彼女はウイスキーを口に運んだ。
ところが、喉元を通らず、むせてしまった。
「えほっ、えほっ! げほっ!」
胸を抑えて咳き込む彼女。慌てて駆け寄るマコトの目に映ったのは、彼女の口を覆う手の指の間から滲み出た、赤い血。
「お、おいっ! しっかりしろっ!」
マコトは、彼女の身体をゆっくりとうつ伏せに寝かせて、口の下の位置にポリバケツを置いて弱弱しく震える背中をさすった。血に混じって、吐瀉物も吐いた。
「ごめ……ん……、もっと隠したかったけど」
左手で彼女の背中をさすりながら、彼はボンベをつないだシングルコンロでお湯を沸かした。それにレモネードの粉を溶かす。
「身体が弱いのか」
「お母さんがね、妊娠中も何回も犯されたんだって。私はそのせいで虚弱体質で生まれた。――でも、大したことないよ。もう慣れたから。自分で自分のことくらいは分かるから」
ウイスキーが注がれていたタンブラーには、今度は柑橘系の爽やかな香りと蜂蜜の甘い匂いのする温かなレモネードが注がれた。
「ねえ、私のこと、嫌いになった?」
「いや……」
背中越しに投げかけられるぶっきらぼうな声に、顔を俯ける。
ウソは彼の優しさに触れるたびに、感謝の念ではなく、後ろめたさに襲われるのだった。彼女は背中に当たる彼の温かい左手を、自分の柔らかな胸の膨らみにあてがった。
「お、おいっ」
慌てて彼女の手を振り払う。
「お礼のつもりだったのに。私を犯してもいいのよ。男の人に犯してもらってお金をもらう。そうして生きてきたの、知ってるでしょう?」
「それじゃ、お前は幸せになれないだろ?」
「――、変な人」
彼女の喉には、男を誘惑するための切なげで掠れた声が張り付いていた。
衣服は胸元をはだけた状態で着用し、くっきりと入った谷間の影をのぞかせる。彼女の身体は愛を歌わない。偽りを嘯くのみ。まぐわいの本当の意味を知らない彼女は、彼の意志を噛みくだけないでいた。
「ウソ、お前にとって幸せって何なんだ?」
「何もかも忘れること。――知ってる? ハッピーエンドっていうドラッグがあるの」
裏社会で生きる流民にとって、薬物は馴染み深いものだった。
煙草よりも気持ちいい薬。それぐらいの認識の者だっている。コカインやヘロイン、はもちろんのこと。それらを調合し、さらなる快感を求めたものは、カクテルのような名前が付けられて闇社会の中を横行していた。
「ハッピーエンド。物凄く気持ちよくって、何もかも忘れられるの。痛みも苦しみも悲しみも、寂しさも。お母さんがいつも言ってたの。それがあったら幸せになれるのにって。マコトは知ってる?」
「聞いたことはある。巷じゃ有名なブツだ。ヤッたことはないがな」
「何にもなくなっちゃうんだって。痛みだけじゃなくて、感覚も感情も。なのにその人は幸せになれるの。変な話でしょ? ――でもね、私はそれが本当だと思うんだ。私には、全てがウソだから」
ぼそり。ぼそりと消え入りそうな声で呟くウソ。彼女の視線は、アクリル板の向こうの星空を眺めるマコトの首筋を見つめていた。
煙草の先が、鮮やかに燃え上がって、紫煙を空気に溶かしている。
彼がそれを加えて、呼吸をすると、無骨に浮き出た喉仏が上下するのだった。
「……、俺がお前を拾ったのは、気休めで、――亡くなった妹の当てつけかもしれない。だから、せめてお前の幸せくらいは守ってやりたいと思ってるよ」
煙草の臭いがする息に乗せられた、ぶっきらぼうな言葉たち。
まだ背中に残る彼の体温のあと。その主を手繰り寄せて、ウソはマコトの左手にそっと頬を摺り寄せ、初めての言葉を謳った。
「――、ありがとう」
噛みしめるように、目を閉じて彼の手の指に自分の指を絡ませて。そっと目を閉じる。うっすらと毛が生えていて、ごつごつと骨ばっていて力強い。右の頬をあてがっていたところから、鼻頭を指の間にうずめて、彼の匂いを嗅ぐ。彼の匂いに包まれて、指の先に唇を押し当てた。
乱れた髪のベールに包まれた、彼女の初めての笑顔は、彼の瞳には映らなかった。
鳥たちの囀る声が聞こえる。
舞い戻った意識の中で、瞼を焦がす眩い朝の光。ゆっくりと上体を起こすと、いつも通りのひとりぼっちの朝だった。眼前、ちょうど観覧車のゴンドラでの向かいの席の上に、宿主を失った毛布が丸まっていた。
マコトはいつも、ウソが目を覚ますころにはいない。
今日もどこかで人を殺して、金を貰っている。自分を強姦の手から救ってくれたあの銃声が、今日もどこかで響いているのだろう。
それを想像しながら、ウソは彼が着ていた毛布に向かって右手で銃を作って構え、撃つような真似をする。
「バーン」
彼女の唇が動いた。奥歯を噛みしめて、胸の奥から湧き上がってくるような微笑み。彼女には新鮮な感覚だった。
ゴンドラを降りて、料金所の足元の棚――マコトが食料を貯蓄しているところから、水の入ったペットボトルと、バターデニッシュの入った缶詰を取り出す。
昨日まではそれらを携えて、ゴンドラの中で蹲って食べていた。
だけど、その日の彼女は、それらを携えて外の世界を歩くことにした。
夢の跡は、観覧車の周りにも広がっていた。暗い上に腰の高さまで雑草が生い茂っていたため、あの夜にはわからなかったが、メリーゴーランドや空中ブランコもそこに打ち捨てられていた。
錆びたレールから、脱線して横転した汽車。落ち葉や泥が座席に溜まったコーヒーカップ。彼女はそれを軽く手で払い落とした。ふと、足元にデジタルカメラが落ちているのを見つける。
屈んで、拾い上げる。
「まだ、使えるかな」
そう思って、ボタンを押すと電子画面のファインダーに、レンズの向こう側が見えた。まだ、カメラは生きていた。
デニッシュを頬張りながら、アルバムをめくる。幸せそうな家族の笑顔が映っていた。あどけない顔立ちをした男の子が父親に抱かれて、汽車に乗っている。カメラを持っていたのは、母親ということになるだろうか。
自分には到底、手の届きそうにない光景だ。自分のことは、自分が一番分かっている。昨日、マコトとかわした会話を、彼女は思い返す。
『ウソは鳥の名前だよ』
もし、自分が本当に鳥だったら。彼女は想像しながら空を仰ぎ見る。廃遊園地を囲む森の木々。青々とした葉を広げた枝に、ふっくらとした可愛らしい鳥が止まっていた。大きさは雀より少し大きいくらい。黒い帽子を被ったような頭をしている。
鳥は喉をゆっくりと膨らませ、嘴から清らかな囀りを漏らした。
ヒーホー、ヒーホー。
「――鷽だ」
鳴き声を聞いた瞬間、そう感づいた。マコトが言っていた、鷽という名前の鳥。自分で自分を呪うためにつけた名前なのに。マコトは、ウソという名前にもうひとつの意味を与えた。
(近づいてみようかな)
知りたい。ウソの中で、そんな新鮮な気持ちが溢れた。
何を以って、マコトはその鳥の名前を彼女に与えたのか。近くに行けば、知ることができる。そんな気がして、彼女はコーヒーカップから降りて、廃遊園地を囲む深い森の中へと駆けて行った。
丈のある草木をかき分けて、枝の上で囀る鷽。木の根元までたどり着いた瞬間。大きく羽を羽ばたかせて、雲に閉じられた灰色の空に飛んで行ってしまった。
自由な鳥が、羨ましく思えた。手を伸ばしても届かない。地上に縛りつけられた重たい身体に、ぽつりぽつりと雨が降る。
屋根の下に戻らなければ、濡れてしまう。
そう思う間に、土を穿つほどの強い雨が降り始めた。左の掌を頭の上に広げて、到底役に立たない傘をつくる。そして、走る。それでももちろん、激しい雨を凌げるはずもなく、身体はずぶ濡れになった。
彼女はその場に膝を折る。左胸がナイフで突き刺されたように痛く、呼吸がままならない。走りすぎてしまった。そう気づいたときには遅く、冷たい雨に奪われる体温という別の脅威が彼女を襲う。肩ががたがたと震えるも、屋根はなく、立ち上がろうとするも力が入らない。
体温が雨粒に奪われて、溶けて下に落ちる。
自分の身体が温度を失って、土に帰っていくような感触を感じた。
「おいっ! 大丈夫かっ!」
どれぐらいその場所で眠っていたか。自分ではわからない。自分を呼ぶ彼の声は、鬼気迫っていた。今にも泣きそうになっているほど潤んだ瞳が、自分に向けられている。そして、意識が戻ったことが分かると、彼の瞳は安堵の色に染まった。
「――、マコト」
まだ自分の目が再び開いて、彼の姿を捉えるとは思えなかった。
彼女は、彼の名前を呟いてから、心からこみ上げる涙で声を上げて泣いた。背中に彼の手が触れる。昨日と同じ体温を感じる。いや、昨日よりも温かい。そして力強く、逞しい。
また、彼女は彼の背中に負ぶられて、あのゴンドラへと帰っていく。背中越しに伝わる彼の鼓動から、安堵も感じ取れるが、どこか怒っているような感情も聞き取れた。
「お前がゴンドラにいなかった。心配でどうにかなりそうだった」
「――、怒ってる?」
「俺の知らないところで、いなくならないでくれ。もう、誰かを守れなかった後悔を引きずるのは、嫌なんだ。――お前、本当は大したことなくなんか、ないんじゃないのか」
目の前で、死にかけたんだ。
大したことない。慣れているから大丈夫。そんな軽薄な強がりは、もう彼には通用しないように思えた。
「心臓が弱いみたいで、走ると発作が起きるときがある。肺も弱いし、出来損ないで生まれた私には、子供を産む力も無い……生理が来ないの。――笑けるでしょ?」
身体を交えることだけが愛じゃない。
子供を産むことが女の存在意義じゃない。道徳や人徳が立てた良識は、むしろ身体に突き刺さるように痛く聞こえる。人生の選択肢の少ない流民にとって、それは全て叶いもしない綺麗ごと。
子供を宿せない。犯されて、捨てられて。娼婦にうってつけで。もし、大事にされることがあっても、その男の時間だけを奪って、自分は消えていく。
「死ぬのが怖いだけで続けてきた毎日は、何にもない。――全部、ウソなの。だから、もういいよ。私を捨てて」
また、背中越しの鼓動が怒った。
嬉しいけれど、その優しさがたまらなく後ろめたい。
「厄介にしかならない、私がそんなに大事なの?」
「お前は、傍にいてくれるだけで、意味がある」
ウソはマコトの肩をぎゅっと抱きしめる。
首筋に頬を摺り寄せて、まるで彼の温もりと匂いを自分に宿すように。初めてだった。自分が誰かに、意味があると言ってもらえたのは。
「ありが……とう」
消え入りそうなかすれ声で呟く。
ゴンドラに着く。涙に濡れた彼女の頬を、そっと彼は拭き取った。これまで泣いたことなら何度もあった。恐れや、悲しみ、憎しみ、悔し涙ならいくらでも知っていて、全部忘れてしまいたかった。
でも、今彼女の瞳からとめどなく溢れるそれの理由を、彼女は知らなかった。今日、今この瞬間初めてその意味を知った。
「マコト、私はいてもいいんだよね?」
「ああ。ずっといてくれていい」
きいきいときしむゴンドラの中で、彼はアクリルの窓越しに星空を眺めていた。いつも通り、煙草から紫煙をくゆらせながら。彼の視線の先の星が、なぜだか輝いて見えた。
いつだかは、何も感じなかったはずなのに。
「通り雨が晴れて、夜空が綺麗だね」
何気なくそう話しかけると、彼は笑った。
初めて彼女が外の世界に、興味を持った。意味を見出した。そのことを噛みしめるかのように。それから彼女は、デジタルカメラを拾った話をした。鷽を見つけたことも。星の瞬く夜空の下、きいきいと揺れるゴンドラの中。初めてふたりは、本当の笑顔で笑い合った。
「ねぇ、こっちを向いて」
ウソは、向かいの席に座るマコトの身体に寄り縋った。
煙草の匂いがする彼のトレンチコートには、また血の染みが増えていた。人を殺して生きている。冷たい生き方だけど、彼女には彼がたまらなく温かく感じるのだった。
「ちょっと、――」
戸惑いを漏らす、彼の唇に、線の細い彼女の指が宛がわれた。
「今なら、大丈夫。あなたとなら、大丈夫」
その指は、彼の顎にうっすらと生えた髭を撫でた。そして、彼の顔を引きよせて、互いに顔を交差させるようにして、深く口付けた。舌を通して互いの体温を感じ合う。互いの、存在意義とともに、すべてを身体ごと、ひしと抱きしめ合った。
アクリル窓の向こう側から、月明かりが身体を絡めるふたりを照らしていた。
*****
朝が来て、マコトはまた仕事に出かけた。
私はまた、ひとりで目が覚めた。
昨日拾ったデジタルカメラを取り出す。自分と向かい側の席、マコトの定位置にカメラを置いた。少しだけ寝癖のついた髪を手櫛で直してから、レンズに向かって笑顔の練習をひとしきり。
それから、カメラの撮影ボタンを押した。
===
マコト、いつまで続くか分らないから。言いたいことだけ言おうと思って、この映像を撮ってる。マコトが帰って来て、私がもういないこともあるだろうから。
私の人生はウソだった。辛すぎて、何も覚えていたくない。ただ、死ぬのが怖いだけ。だから、こんなひどい名前をつけたの。でもね、マコトは私の名前に、新しい意味を与えてくれた。不幸を忘れさせてくれる鳥の名前。
マコトはね、ウソしかなかった私の人生に、本当をくれたんだ。だから、マコト。あなたは私のヒーローなの。
いつか言ったの覚えてるかな。全部を忘れさせてくれる薬があって、たまらなく欲しいって。今までね、辛いも寂しいも、忘れたい気持ちでしかなかった。でもね、マコト。あなたと過ごしてから、全部覚えていたいって思うようになったの。
マコト、私のハッピーエンドはね。あなたの隣で、あなたを想いながら迎えることだよ。マコトがね、世界を変えてくれたんだ。
知りたいことも、覚えていたいことも、すべてマコトがくれたんだよ。本当にありがとう。
私ね、あなたに会えてよかった。あなたと過ごして、私は本当の幸せを知ったから。
私がもし、いつかいなくなっても、私はここにいるよ。
私がいなくなっても、あなたが私という人間にくれたものは、きっとなくならない。だからマコトもいなくなっちゃダメだよ。私がここにいるのに、私をひとりにしないでね。
約束だよ。マコトは、私のヒーローなんだから。
===
このビデオがいつマコトに届くのか、分からない。
私が死んだら届くのだろう。それまでは、このカメラの中で眠ることになる。それがいつ来るのかは分からない。
だけれど、それまでは、この物語は続いていく。ずっと、ずっと――