in the world
これは真っ黒な世界と真っ白な世界と繰り返される灰色の世界を描いた認められない少年の物語。
少年は終わりの始まりの絵を描いた。
たくさんの花弁がその花にはあって、でもどの花弁も真っ白で穢れがなくて。
ボクは焦がれるようにその色に吸い込まれて、気がついたら──キャンパスを広げて絵を描いていた。
ボクは冷たい風が吹き付けるのもかまわず、ずっとその花を描いていた。
花はお日さまにきらきらとして綺麗だった。
白だから、色を乗せられない。下手に色を乗せるとこの綺麗な花を綺麗なままの姿でキャンパスの中に納められない。色を乗せられない。それはとても残念だ。でもそれが愛しい。……綺麗だなぁ。
この花を勝手に摘んで持ち帰ったら、怒られるんだろうな、主に母さんが。怒られるボクの盾になっていつも守ってくれるんだ。そんな母さんが辛い目に遭うのは嫌だ。
それに手折ったらすぐ、きっとこの花は枯れてしまうだろう。この白の一つ一つが萎れていくのを見るのはきっと心苦しい。思っただけで胸がじくじくと痛む。だから、そんなことはしたくない。
嫌だ。
じゃあ、花を摘まず、手おらずに綺麗なこの白を見つめ続けるにはどうしたらいいだろう? ──やっぱり、描くしかないよね。
白という色を表すのは難しい。だって、何色にも簡単に染まってしまう、何色でもない色だから。多分、ボクが触れたら、ボクのこの手についた絵の具や木炭や鉛筆の混じった汚い色が移って、この綺麗な色は失われてしまうだろうから。
だからまずはじっと見つめる。この白がどんな白か。キャンパスの地の色? 空にふよふよとのんびり浮かぶ雲の色? 汚れる前のボクのシャツの色? 気味悪がられるボクの髪の色かな?
うん、どれも違う。どうしたら、この白を表せるかな?
白い画用紙の上に白い絵の具を垂らしてみても、普通は違いなどわからない。けれどね、画用紙の白は少し青くて、絵の具の白は淡く黒い。
ほんの、ほんの少しだけの違い。雲の色だって、それぞれに違う。空に透ける青い白、雨粒を孕んだ黒い白。雲の白は雲の厚さによってその濃さも変わるし、それを語り出したら、果てなどない。
白と言えば、街行く人々の肌の濁った白。人の眼球の白目部分の薄紅が射した白。ボクの、白、白、白い髪。
どうしてだろう? ボクの知る白はみんな汚れている。
木炭のデッサンに使うパンくず。あれも元は白。線画を描く鉛筆を消す消しゴムも本当は白。でもね、白は消しゴムもパンくずも同じように、すぐ汚れていく。ボクの乗せる色が滲んでいく、染み着いていく。
けれどこの花はどうだろう? そう考えたとき、ふと笑いが込み上げてきた。
「あはははは、ははははは!」
周囲にはさぞや変人に思われたことだろう。けれど、ボクは笑わずにはいられなかった。
だって、だってボク、純白の花をキャンパスに、画用紙に、ほんの少しの失敗でいくらでも穢れてしまうものを使って穢れなき花を描こうとしている。なんという矛盾だろう。なんとおかしいことだろう。
けれどそれを悟ると同時、ボクにはもう一つのことがわかった。
絵の修正のために使うパンくずや消しゴムは、その身を犠牲にして、画用紙の白を保っているのだ。
光あらば影ありというように、きらびやかな絵の完成のためにはパンくずや消しカスといった犠牲の上に成り立っている。犠牲なしに、絵の煌めきはあり得ないのだ。
そう、思い返せば基礎の基礎。白が白たらんのは黒という影があってこそ。その輝きはいつも、黒の犠牲に成り立っている。
何か、吹っ切れた気がして、ボクは止めていた手を動かす。カリカリ、カリカリと削れていくペン先。そのペン先をなぞり、黒く滲んでいくボクの指先。
木枯らしがその白い花弁をさらっていっても、ボクはその花を描き続けた。
「もう齢は十を超えるというのに、絵なんて子どもの児戯を、一体いつまで続けるつもりなんだか」
ボクをそう蔑む声も聞こえた。知っている。ボクが異端だってことなんて。けれどみんな、絵とこうして向き合ったことがある? 真剣に描く対象と向き合ったことがある?
児戯である絵描きは何も考えず、好き勝手に描くものだよ。そこには思いもないし、美しさもない。あるとすれば子ども特有の無邪気さと奔放さ。
それで、十を過ぎる頃には絵を捨てて、見下し、蔑む。ねぇ、勝手に描かれて、勝手に捨てられた絵が可哀想だって思ったことはないの? あの頃の無邪気さと奔放さを捨てて"大人"になったキミたちは幸せ?
こんな疑問を抱けるボクは、やっぱりまだ子どもかい?
「何をあの子、白い菊なんかを熱心に見つめているんだろうねぇ」
「手元をご覧よ、絵を描いている。見たところ齢は十を過ぎているだろうに、あんなものにまだすがって」
「可哀想にねぇ」
可哀想? 勝手にそう思うがいいさ。自分の幸せは自分が決めるものだ。ボクがボクの描きたい絵を描いて、幸せなら、それでいいじゃないか。あなたたちにどうこう言われる謂れはない。
それより、この多弁花、菊というのか、覚えておこう。
画用紙いっぱいに描いた花は、黒い線と手で擦ってつけた影のみで、神々しい陽光の照らす白い菊そのものだった。
この一枚絵を描くためにボクは世界の様々なことを学んだ。だから、ボクは世界中の誰もがこの絵を嘲っても、ボクだけはこの絵を大切にしたい。
だから、この絵に名前をつけようと思う。ボク以外、誰も知らなくていい。ボクと、この白い菊だけの秘密の名前、とっておきの名前をつけよう。
そう、ボクがこの花で知ったのは世界の真実。
光あらば影あり──黒の犠牲なしに白という色は表れないという事実。
絵が児戯で、蔑まれても、ボクにとって絵は絵で、大切にしたいもので。
それをないがしろにする世界は少し歪んでいるかもしれないということ。
この花が、菊という名だということ。
ひたむきに白く咲くこの花に、誰も目を止めない。けれどボクはこの花が息絶えないように、水をやる。
描く対象に誠実に向き合うことの大切さ。
誰に理解されなくてもいい。ボクがこの真実を、この花の、この絵の名に込めよう。
この絵の名は"マナ"。"真名"と書いて"マナ"だ。ボクに絵と世界の全てを教えてくれた。真実に生きるべきものの名。……うん、我ながらいい名だと思う。
それがやがて世界を壊す萌芽となることも知らず。
ボクは描いた白菊に微笑んだ。
足元に小さく、同じ花が咲いたことにも気づかずに──
黒ずんだパンくずを生きる生活には、もう慣れている。
だから、ボクは笑顔で家に帰れる。
──十五の誕生日を迎えるまでは。
持ち帰った白い菊の絵を見て、母さんは目を丸くしていたね。
「珍しいわね。あなたが絵に色を乗せないなんて」
意外そうなあなたの顔は面白かった。そしてちょっと、こそばゆかった。
「へへ、ボクもデッサンだけで済ませるときだってあるのさ」
ボクはそうやってへらりと笑ったけれど。
本当はね、母さん。
色を塗らなかっただけなんだよ。
マナにはもう、手を加える気はしない。
ボクの焦がれた白銀の花が、もうそこに描かれていたから。
どうして気づかなかったんだろう。
そのときから、世界は、モノクロでしかなかったんだ。
このとき気づいていたなら、キミにあんなに、辛い思いをさせずに済んだのにね、──。
ごめんね。
十五歳の誕生日。
母さんに引き裂かれた絵の中には、当然のようにマナもあった。
色を塗らなかった画用紙の絵は、白い花弁のように舞い散っていたね。
あのとき、ボクの心もばらばらに千切れたんだよ。母さん。
でも、世界の真実を知るボクだから、ボクはあの子を救えたんだと思うな。
譬、世界が絵のように綻んでも。
──to the pain──
ええと、これはある作品の前日譚ですが、わかりましたでしょうか?
言葉遊びついでにタイトルを紛れ込ませております。
気づいたなら、九JACKまでご一報を。