耳寄り情報は里帰りで 【part 紫】
穏やかな日差しに、僅かに冬の気配が滲み始めた朝。
「いつまで実家で油を売っている気だこの不良娘」
「妊婦にあの伏魔殿に戻れと催促するなよくそばばあ」
瀟洒な佇まいの日本家屋の奥、主家に近い一室で、切れ味も鮮やかな罵詈雑言が飛び交った。
開口一番のやり取りに家人達がそそっと距離を置くのにも関わらず、罵詈雑言の発生源──玖上家当主とその娘による攻防戦は止まらない。
「はんっ。いい年こいて旦那押し倒して高齢出産するような不良娘にそんな気遣いが必要なもんかね。四家の方々を巻き込んでまで詐欺をしてからに」
「あれは眞琴が自主的に協力してくれただけだ、あたしが手を回したのは病院関係者のみ。元職場の同僚達を頼って何が悪いか」
「その結果、最愛だなんだと抜かしながら別居中の旦那をだまくらかしておいて「何が悪い」とは開き直ったもんだね。全く、前中西家当主に顔向けができないよ」
「あの『中西』の血を引いているとは思えない、奇跡のような人格者に真っ当に顔向けできる奴が、翔の妻なんぞ務まるもんか」
「……。胸張って言うことか、悠希にまんま伝えるぞ」
「安心しろ、絶賛反抗期の不良娘が聞いたところで勢いよく肯定するだけだ」
「あんな環境下で真っ当に反抗期迎えてるだけで十分さね」
止めどもなく流れる言葉の応酬はこのまま暫く続くかに思われたが、落ち着いた壮年男性の声が柔らかく押しとどめた。
「その辺にしてください、お二人とも。家人達が困っておりますよ」
栞と栞那が同時に顔を上げる。和服をきっちり着こなした、栞那より少し若い年回りの男性が、苦笑混じりに二人の元へと腰を下ろすところだった。
「栞那姉上が来ると、母上もすっかり張り切られて。少し落ち着かないと、また血圧が高いと叱られますよ」
「ふん。現状の紅晴について悩んでる時点で下がる血圧も下がらないってもんだよ」
「まあ、それはそうなんですがね。本題に入れません」
穏やかな口調で諭して、男性は次に栞那へと目を向けた。
「栞那姉上も。栞母上の口の悪さが受け継がれているのは貴方1人とはいえ、玖上家としては家人達の教育を疑われかねません」
「あたしに説教するだけあって相変わらずその語調が板に付いているな、蘇芳」
「栞那姉上は、ご自分を棚に上げて俺達には厳しかったですからねえ」
「そりゃ、玖上の次期になるにゃあ教養がないと恥だからな」
「……ええまあ、俺達弟妹一同、姉上に育てられたようなものですし、感謝はしておりますが」
悪びれもしない栞那に、男性──栞那の弟であり玖上家の長男、玖上蘇芳は静かに苦笑した。
玖上家長女である栞那と、直ぐ下である長男蘇芳は年が10離れている。更にその下に次女次男三女と二年おきに続く。玖上家運営で忙しい両親に代わり、弟妹達の子育ては栞那が殆どこなしていた。
その間、色々あった為に少々グレた栞那は口調が荒れに荒れたが、流石に自分がイレギュラーである自覚があったため、弟妹達には口調や所作までがっつり躾けたのだ。なお、栞那もその気になればきちんと振る舞える。単に面倒臭いだけだ。
「ふん。跡継ぎになる気もなくフラフラしていた不良娘が、突如医者になるなんぞ言い出した時にはついに気が違えたかと思ったもんだがね」
「あ?」
「はいはい、母上も程々に。あの時も申し上げましたが、我々の中で最も頭が良かった栞那姉上が医療の世界に入ってくれたのは、玖上にとっても良かったでしょうに」
紅晴の医療は『中西』が司っている。栞那の実家である玖上は『嘉上』の分家だが、その『嘉上』は勿論、他の三家も医療については門外漢だ。そんな医療の世界に単身飛び込んだ栞那が橋渡し役となってくれた事で、現状不安定なこの街の動乱を、四家と『中西』のみで何とか回せているのだ。
「蘇芳兄上の言う通りよ。栞那姉様の役割は本当に大きいわ」
「お、久々だな香栞。帰ってきたのか、お疲れさん」
「なんとかねー……」
音も無く襖を滑らせ会話に割って入った和服の女性──玖上家次期当主玖上香栞は、栞那の労りに疲れたような溜息を漏らして膝を落とした。困ったように苦笑した蘇芳が背中をさする。
「伊勢参り、疲れただろう。お疲れ」
「うう……疲れたよお……今回の百鬼夜行はちゃんと周辺に迷惑掛けずに片付けろとか、そもそも魔王討伐に外部の力を借りた臆病者とか……白蟻の相手してからそういう事は言ってよね……」
「伊勢は相変わらずか」
手元のお茶を嗜みながら、栞那は嘆息する。神を祀る中枢とも言える彼の地に奉じられた術師というのは、それはもう面倒臭い輩しかいないのだ。
「血筋と役割意識に雁字搦めになってる連中を見ると、自分の襟を正すってもんだろう。紅晴の術師も年を取れば取るほどあれに似ていくからな、今のうちにあの鬱陶しさを覚えとけ」
「……栞那姉上、やっぱ今からでも帰ってこない?」
「異能も持ってないあたしに無茶を言うなっての」
「異能あるだけの奴よりよっぽど助かるよお……猫の手でも借りたい……」
「……そんなに人手不足なのか? 怪我人はほぼ復帰しただろう」
栞那が里帰りしている間に、『四家』始め戦闘に携わる術師の治療は随分進んだ。白羽が手伝いに来ている間は、教育と発破がけ目的で殆ど実戦経験のない連中ばかりが駆り出されていたが、魔王襲撃で先陣を切って戦った連中もそろそろ復帰できる。
それでもなお、人手が足りない事態が発生しているとは栞那も聞いていない。いや──
「──ああ、そうか。もう、神無月か」
「そういうことー……ふふ、今年は豪勢な百鬼夜行が待っているからと、『四家』の方々が今からぴりぴりしているわ……」
「ここ最近、異世界邸も色々やばかったせいで失念していたな」
「ふんっ、妊娠だなんだと浮かれていたからだろう」
「母上、そのくらいに」
神無月。ほぼ全ての国津神が出雲に集まり、土地の加護が薄れるこの時期に、紅晴には百鬼夜行が夜な夜な訪れる。街全体に人払いの結界を張り、街中を駆けずり回って一般人の被害を食い止める、術者達のもっとも忙しい時期だ。
そして今年は魔王襲撃の際にばらまかれた瘴気のせいで、常より更に厄介な妖が大集合しそうだという情報は、栞那も妹分から愚痴として聞いていた。
「それもあって、母上の暴言だったのですよ、栞那姉上。身重であの妖気の坩堝たる百鬼夜行に巻き込まれては良くありませんし、そろそろあのアパートに戻られた方が安全です」
「戦えもしない不良娘を庇って百鬼夜行を乗り切れるほど、今の玖上に余裕はないってことさね。情けない」
「……母上の言う通りよ。私達も全力を尽くすけれど、大丈夫と言えるだけの力は、今の玖上には無いわ」
「…………」
栞那は束の間押し黙った。弟妹達の覚悟を決めた瞳に思うところは、ある。栞那が1人出ていった結果、彼らの双肩にのしかかった重圧は決して軽くない。それでもなお、自分の身を心配してくれる弟妹達に、返せるものなら返したいと思う。
けれど。それでも。
「じゃ、そうさせてもらうか。……あの伏魔殿と百鬼夜行のどっちが身体に良くないかは分かったもんじゃないがな」
栞那は自分と家族のために、頷いた。さらりと肯定した栞那に、ほっとしたような笑顔を見せた弟妹を見て、ほんの少し湧いた罪悪感は呑み込んで無視した。
「追い出すようで悪いけど、よろしくね。結界手前までだけど、送る車は出すから」
「有り難く甘えておくよ」
「あ、そうそう。これは母上経由の内緒話ね」
「ん? なんだ」
玖上家の「内緒話」の精度は高い。下手な情報屋よりも余程確実、かつ部外者が絶対に知る事の出来ない重要情報がさらりと手渡される。異世界邸にとっても『中西』にとっても情報の命綱たる栞那は、興味深く耳を傾けた。
「この街への侵入の機会を図っている妖が──『那亜』という名前を出したみたい。角なし、って知っているかしらね?」
「……何?」
そこで出て来た異世界邸でも数少ない良心の名前に、栞那は己の耳を疑った。