異世界邸の噂【part紫】
貴文が怒鳴り声と共に飛び出していくより、およそ3時間前。
「つ、疲れた……」
げっそりと悠希が呟くと、栞那は首の筋を鳴らしつつ言い返す。
「コラ若いの、何を朝っぱらから音を上げてやがる。この程度の患者数、中西病院では寧ろ暇扱いだぜ」
「なんであの父親はさらっと自分の病院をブラック化してやがるんですかねえ……」
げんなりと呟くと、栞那は苦笑して肩をすくめた。
「ま、あの御仁なりに信念みてーなもんはあってな。中西病院でしか受け入れない患者もいるからそうなるさね」
「それに巻き込まれる側の迷惑は考えてなさそうですよね、あの院長」
「ま、その辺りは上手く人使ってんだろ、あの外面で」
「あぁなるほど、綺麗に言いくるめて騙し上げてこき使いやがってるわけですね、あの外面で」
嫌そうな顔で納得の相槌を打ち、悠希は母親を見上げた。
「じゃあ、自分は学校行きますからね。先生、間違っても途中で抜け出したり寝てる患者ほっぽって新たな問題引き起こす原因になりやがるなですよ」
「あーあー分かった分かった、ちゃんとやっとくっての。悠希もきっちり女子中学生(笑)やっとけよ?」
「(笑)ってなんですか! 自分は歴とした女子中学生です!」
「学ラン着てるくせに」
「マウンテンバイクだからだっつってんですよ!」
「あーはいはいそうだったな」
真っ赤になって反論する悠希を軽くあしらい、栞那が片手を振る。
「おら急げ、遅刻するぞ。中学高校のうちはきっちり優等生しとけっつったろ」
「わーってますよ! 行ってきます!」
荒々しく引っ張り出した愛用のマウンテンバイク——奇跡的に傷1つない強度の高い相棒——に跨がり、悠希は栞那に背を向け坂を駆け下り始めた。手慣れたハンドル捌きで跳ねる車体を操り、一気に加速していく。
さして時間もかけずに山を下りた悠希は、そのまま近くにある駐輪場にマウンテンバイクを駐めて、徒歩での登校を始めた。
悠希が通う中学のある街は、中央に山、四方を東から時計回りに山、丘、山、海に囲まれたなんだか妙な土地である。異世界邸は西の山にあり、中高一貫の金持ち学園がある故に比較的登校路は治安が良い。
……そんなお坊ちゃまお嬢様が気軽に通る道の果てに、文字通りの人外魔境があるとは誰も夢にも思っていないわけだが。
悠希としては、異世界邸から近いその私立の学園に通いたがったのだが——
(ちっくしょうあの馬鹿院長、金あるくせに『学費払わずに済むならその方が良いじゃないか』とかほざきやがって……)
——父親の意向により、そこから更にしばらく歩く公立中学に通っていた。更に言えば、高校も公立にしろとの仰せである。
「ここまで来ればただのドケチですよ……」
「だーれがドケチ?」
思わず漏れた愚痴に応じた声に、悠希は顔を右に向けた。
「おっはよー悠希。珍しいね、ココに皺寄ってたよ」
そう言って眉間を指差すクラスメイト、畔井真理華に苦笑し、悠希はゆるりと首を振る。
「ちょっと考え事してました。おはようございます、真理華」
「受験とか? まだ2年生なのに、先生煩いもんねえ」
そうですね、と応じつつ、密かに悠希はまた内心で父親を罵倒する。娘の意見を却下して自分の母校に通わせようとする父親など、反抗期の中学生にとってはうざくてたまらないのは当然だろう。
幸い真理華も受験のことは余り触れたくないらしく、話は直ぐに逸れて中学生らしい他愛のない会話となった。雑談していれば時間は早く過ぎるもので、いつしか2人は中学の靴箱に到着していた。
「今日は……あー入ってますねえ……」
「わー、悠希相変わらずモテモテー」
くすくす笑う真理華に肩をすくめ、悠希は靴箱に入れられていた手紙を丁重に鞄にしまう。
心を込めて書かれたラブレターだ、悠希といえど一応目は通している。自分が女性なのに9割9分9厘女性からのラブレターだとしても、一応。
「まあ、外見は文句の付けようのない綺麗な男の子、口調は敬語、中身は竹を割ったようなさっぱりした性格で女子に優しくトラブルにも素早く対処する、なーんてトコを見せられちゃったら、思春期の女の子としては惚れないわけにはいかないよねー」
「自分が男なら否定要素はないんですがね。というか、世の男共の視線を一手に引き受ける豪華系美人の真理華に言われたくはないですよ」
真理華の持つラブレターの束を目で示し悠希が指摘すると、真理華は「あら」とわざとらしく声を上げ、右手で口元を隠した。
「あらあらまあまあ、悠希にそう言ってもらえるなんて光栄。ストレートな口説き文句に胸が高鳴るわぁ」
「その胸の高鳴りは如何にして真理華を打ち倒そうとしてくるかの期待なわけですよね。何故そんな美人なのに中身は脳筋に生まれてしまったんですかねえ……」
動じるどころか溜息混じりにやり返した悠希に、真理華は艶然と笑みを浮かべて返した。全く反省する気はないらしいと分かり、悠希は廊下の窓から遠くを見やる。
そう、真理華は見かけに喧嘩を売る、根っからの脳筋である。世の男共の視線を問答無用に引き寄せるグラマラスなナイスバディから繰り出される、それは見事な側頭蹴りに吹き飛ばされた変質者及び恋人立候補者は、中学生にして既に星の数。
……変質者はともかく、「私の恋人になるなら私より強くて守ってくれなくちゃね!」の一言で吹っ飛ばされた恋人立候補者達を思えば、彼女に彼氏が出来るのは果てしなく低い確率である気がする悠希である。
ちなみに悠希が真理華と友誼を交わしている理由は、
「私の回し蹴りを初見で躱したのは悠希だけなのよねー……そのくせその後勝負は逃げるし、もう残念。ねえねえ、今からでも相手してよー」
「ええ、自分としても人の顔見るなり「私の彼氏になってください!」と言いながら蹴りかましてくるド美女とか残念としか言いようがありませんね。あと、自分は逃げる事しか出来ないのでサンドバッグになるのはお断りします。……まあ、自分も逃げ足には自信あったので、爛々と目を輝かせて追ってきた胆力だけは評価してますよ」
互いに「自信あった分野で裏をかかれた」という友情の定義を疑うものである。
「ところで」
教室に入った悠希が、思い出したように真理華に尋ねた。
「今日は片割れの脳筋とは別行動なんですか?」
質問は予想の範疇だったようで、真理華は平然と応える。
「ああ、あの脳筋は今日は柔道部の朝練に飛び入り参加するとか言ってたわ」
「双子揃って安定の脳筋ですね」
「まあ失礼ね、あの筋肉増やす事と強くなる事にしか興味の無い脳筋と違って、私は私より強い殿方を待っているだけよ」
「その台詞はこの中学の男子武道部ひっくるめた全員を伸す事の出来る巫山戯た武道の腕前を顧みて、それでも言えるもんなら言ってみろです」
溜息混じりにそう返し、悠希は自分の椅子に腰を下ろした。1つ前の席に同じく座り、真理華は肩をすくめる。
「そんなに強くなった感覚はあんまりないんだけど、父に鍛えられ過ぎちゃったのかなあ。駿河も私も」
「間違いなくそうだと思いますよ」
あの人外魔境でのサバイバル生活をこなす自分と同じかそれ以上の身のこなしを見せている時点で、この友人を「あちら側の人間」と見なしている悠希である。
その時、人影が悠希の後ろで立ち止まった。
「お、悠希だ。おーはよ」
「あら、噂をすればね」
「本当に。おはようございます、駿河」
真理華の双子の兄、畔井駿河である。中学生と言うには詐欺レベルで肩幅が広く筋骨逞しい彼は、にっこりと外見に似合わぬ可愛らしい笑顔を悠希に向けた。
「オレの噂? なーんの話してたんだよ」
「いえ別に。告白された側から蹴りかかる真理華も真理華なら、ちょっとでも強そうな相手を見つけると勝負を挑み、英単語はスクワットしながらならやすやす覚えられる駿河も駿河ですねという、どうしようもない話です」
「ええ? はは、いやあ照れるなあ」
「褒めてませんよ」
冷たく切り捨てられても、駿河はニコニコと笑うばかり。その隣にいる真理華もまた笑顔で頷いているのを見て、悠希は溜息をついた。
「なーんで自分は、こうも変なのばかりと関わっちまうんですかねえ……」
***
「そういえば悠希。貴方確か、家が西の山の麓近くだったよね?」
時は昼休み。いつも通り真面目に授業を受け——何せ悠希が唯一集中して勉強出来る時間である——、いつも通り購買の戦争を勝ち抜いて戦利品のコロッケ弁当を味わっていた悠希は、ふと思い立ったように尋ねた真理華に曖昧な答えを返した。
「ええ、まあ……それがどうかしましたか?」
悠希の実家は、実は中央の山から然程距離のない場所にある。現在は父親が1人で独占している為、しばらく寄りついていないが。
異世界邸は一般人には知覚不能であるため、適当に「麓近く」と誤魔化している。遊びに来たいと言われたらどうするかについては、その時の状況判断に丸投げしている悠希であった。
その為、すわ「その時」がやってきたかと密かに身構えた悠希だったが、真理華の返答は斜め上方向ながらド直球なものだった。
「いえね? 最近、あの西の山の頂上近くに化け物屋敷があるとか、面白そうな噂を聞いたのよ」
「……化け物屋敷、デスか?」
やや片言になりながらなんとか聞き返した悠希に、真理華はどこかうっとりとした眼差しで頷く。
「ええ……噂によるとそこにはとても強い魑魅魍魎が巣食っているの。白い髪を振り乱し、まるで舞踏のように2本の槍を持って戦う鬼がいるのだとか」
(間違いなくうちのアパートですねそれは! そしてその鬼ってもしや管理人ですかっ!? あのヒト確かに無駄に強いですが、竹串が槍になると途端人外度が跳ね上がりますね確かに!?)
案外噂が目撃者ありきな事に焦るべきか、噂内容の絶妙な尾びれの付き加減に笑うべきかで混乱する悠希を尻目に、珍しく昼練に行かなかった駿河が会話に加わった。
「あ、オレもその噂きーたわ。その鬼の側には絶世のド美女しかも狐耳尻尾付きがくっついてんだって? うらやましーよなー」
(神久夜さんはやたらとプラス方向な噂!? あのヒトさては情報操作してる! って、それなら旦那のこともっとまともにしてやりやがれです!?)
「へ、へー……自分は初耳で」
「くっついてではなく寄り添ってと言って欲しいところね。それから確か……」
(まだあるんですか!?)
誤魔化しがてらの相槌をぶった切られ戦慄する悠希を余所に、真理華は夢見る乙女の眼差しで両手を胸の前で組んだ。
「全身火だるま状態で巨大な鉄板を振り回す事で毎日心身を鍛えている天狗。まるで近未来の夢を叶えたようなサイボーグが天狗の鍛錬に付き合って、毎朝それはそれは激しい取っ組み合いをしているのだとか」
(天狗じゃなくて竜神ですがあながち間違ってませんね! 鍛錬じゃなくてくだらねー子供の喧嘩で管理人が鉄拳制裁に入ってますけどね! 管理人がいつもテキトーな処置するから自分も先生も放置ですけどね!)
「へー。それは知らんかった。オレも混ぜて欲しいなー」
「私も。そして告白したいわあ」
「自分より強ければ人外でも構わないんですか真理華!? そしてどう見ても危険なのに混ざりたいんですか駿河!? 歪みない脳筋ぶりにちょっと付き合いきれませんよ!」
流石にツッコミを入れないではいられなかった悠希の切なる叫び——主にそんな事されたらまた怪我人が増える為に——は、切なくもスルーされた。
「後は怪しげな煙を漂わす白衣の美女に、1度食べるとそれ以外の食事を受け付けなくなる呪いの食堂だっけ?」
(ミス・フランチェスカのアレは怪しげな煙なんて可愛いもんじゃねえですよくっそ迷惑です!! はっ、ってまさか母親の煙管!? あの馬鹿、だから煙管は程々にと! そして『風鈴家』が謂われのない風評被害に遭っているのですか! 異世界邸唯一の良心、那亜さんに謝りやがれです!?)
「そっちは興味ないわね、私」
「いやオレもないけどさ」
「力(物理)にしか興味ないとか、ぶれない脳筋ぶりですね!」
叫ぶように合いの手を入れた悠希に、真理華と駿河の驚いたような眼差しが突き刺さる。
「あらどうしたの悠希? なにかあったの?」
「メシ不味かったかー? 購買戦争の常勝者がめっずらしいなあ」
2対1。
「…………イエ、ナンデモアリマセン」
透明無邪気な心配の眼差しに、悠希は潔く敗北を認めた。異世界邸で治療してる時の気分になっただなんて、気のせいだきっと。
半ばやけくそ気味にコロッケを頬張った悠希は、続く真理華の言葉に危うく吹きかけた。
「後聞いたのは……やけに動きが悪人くさい執事と戦場帰りの軍医コンビ、やたら元気に死神の鎌振り回す美少女だったかしら」
「っ、ぐっ」
喉を詰まらせかけて咳き込む悠希に、真理華は心配げな表情で背をさすった。
「あら悠希、本当に大丈夫?」
「……ある意味大丈夫じゃありません」
(盗賊崩れのウィリアムはどーでもいいとして、中西病院生え抜きの母親が軍医扱いなのも納得出来るとして、自分まで軍医扱いされてるのはひとまず横に置いておくとして、何故今朝異世界からやってきたばかりの戦女神の噂まで……っ!? 真理華、一体全体どうやってこの昼間までにその情報を手に入れやがりましたか!)
「……あのう、その噂ってどこから来てるんでしょうね? 自分、初耳だったんですけど」
案外看過出来ない噂の正確性に悠希がおそるおそる触れると、真理華と駿河は顔を見合わせ——
「さあ、噂の内容にしか興味なかったから知らない」
「真理華に同じく」
「このマッスル双子! 脳筋!!」
——思った以上に脳筋以外の何者でもなかった真駿コンビに、悠希は流石に頭を抱えた。
だが。
「そう言われても。私としてはそんなに素敵な人が揃ってるのに、近寄ろうと山を登っても気付けば麓に戻っていると聞いてしまったからには、もう興味出ないんだもの」
「あー、誰も近づけない誰も見えない、だっけ? 実際そんな愉快な騒ぎがあったら山火事かなんかで消防署沙汰になってそうなもんだけど、静かなものだもんなあ。そういやオレもそれ聞いてどうでも良くなったんだった」
「あれ、そうなんですか? なんだ」
拍子抜けした悠希が関心を薄めた理由が「それなら一般人巻き込むような面倒な怪我人は出なさそうですね」である時点で、悠希もある意味同類と言えるのだった。
「何が「なんだ」?」
「え? ああ、そこまで行くと結局はただの噂なんだろうなと思っただけですよ」
持ち前の如才なさで悠希がさらりと誤魔化すと、脳筋故の単純さで2人はころっと騙され……もとい、納得した。
「やっぱり悠希もそう思うよねー……ほんっとうに、残念。ようやく恋人が見つけらるかと思ったのに」
「結局はデマなのかーって俺も思ったわ。実在するなら土下座してでもそこに入らせてもらって鍛錬相手にして欲しいぜ」
「…………」
一瞬、ほんの一瞬だが。
悠希に「鍛錬で釣ればこの人達、住み込みバイトのトラブル対処係になってくれないでしょうか」という誘惑が脳裏を過ぎった。主に管理人が悠希よりも気に入って、フランチェスカの隣というバイオハザード区域から抜け出せまいかという打算の元に。
(くっ……怪我人増加と危険域脱出を天秤にかけて悩む自分は、2人の友人失格でしょうかっ。いやけど、この2人なら何となく逞しく脳筋こじらせてくれる気もしなくは……)
そこまで考えて、悠希は我に返った。
(……やめましょう、これ以上の困りものを増やすのは。主に管理人の胃の為に)
そうして比較的真っ当な結論に至って引き下がった悠希は、その真っ当さ故に管理人に気に入られているという事実に気付けず、今日の放課後も忙しくこき使われる未来に変わりはないのである。