アイノカタチ【part 山】
瀧宮白羽は強い。
それは人外魔境・神魔の坩堝たる異世界邸においても言えることであり、例え幼子ゆえのスタミナ不足と経験不足により『情報の神の世界録』で討伐難易度S+程度の評価に甘んじ、異世界邸の総評からすると平均的なものであったとしても変わらない事実である。
要はスタミナがないゆえに長期戦に向いていないだけなのだ。
それは白羽自身も十二分に理解しているところであり、しっかりと対策済みである。
身体能力の強化による超短期決戦。
かつて実年齢と外見年齢が完全に一致していた頃に身に着けた特殊技能――寒戸と呼ばれる時間超越型の神隠しをベースとした、自身の存在時空を歪曲させる身体強化術。これを用いた一撃にしか見えない連撃を叩き込むことで、大抵の相手はそもそも長期戦にもつれ込む前に膝をつくこととなる。
だからこそ、常日頃から爆音轟く異世界邸でも生き残ることができ、かつ――
「てめぇシブリ映画見るなら『斜向かいのトロロ』だろうが!!」
「ふざけんな! 俺は『ハスラーの不動の砦』派だっつーの!」
「邪魔ですわ」
……かつ、フランチェスカの魔改造によりブルーレイディスク再生機能を付けられたポンコツと何の映画を見るかという理由だけで揉め、既にエントランスホールを半壊させていたトカゲ野郎の両名を一瞬で沈黙させることも可能なのだ。
「全く……シブリは『尾根の上のポチ』一択でしょうに」
暴れる二人の知覚外から一瞬で接近し、一撃で叩きのめした白羽はふうとため息を吐き、手元の白刃の具現化を解除した。
ちなみに床に転がる二人に外傷はない。白羽自身のもう一つの特技であるところである『斬るべき物のみ斬る』力により、二人の意識だけを『斬り落とした』ためである。……その際、あまりにも早すぎた剣撃により発生したカマイタチで周囲の床や柱がさらに深く抉るように破壊されたのはご愛敬。
「また貴様らかポンコツクソトカゲぇぇぇぇぇっ!? ……あれ?」
その時、竹槍をひっさげ邸の奥から駆けてきた貴文が白羽の前で急ブレーキをかけて停止した。
「あら、ごきげんよう管理人さん。ただいま麓のお勤めから戻りましたわ」
「あ、ああ。お疲れさん。……もしかして、コレ一人で伸したのか?」
「ええ、まあ。この程度準備運動にすらなりませんわ」
ふふんと自慢げに胸を張り、腰に手を当てる白羽。さあ褒めろと言わんばかりのその態度に、貴文は何とも言えない顔を浮かべる。
「なんか刀でぶった切ったような痕跡も混じっているが?」
「ポンコツが斬撃系の新兵器を搭載していましたわ」
何でもないようにしれっと嘘を吐き、ふわぁと小さく欠伸をする。
「何もないようでしたら白羽はこれで。また今夜も麓の見回りですもの、仮眠をとらせていただきますわ」
「ああ……あー、暴徒鎮圧協力感謝する」
「当然のことをしたまでですわ。あはは♪」
愛らしく笑い、白羽はポニーテールを揺らしながら階段を上り自分に宛がわれた部屋へと向かっていった。その小さい背中を眺めながら、貴文は「程度さえ弁えてくれたら何も言うことはないんだがなあ……」とため息をついていた。
* * *
「ふわ……んー、寝すぎてしまいましたわぁ……。なんか微妙な時間……」
くぁっと小さく背伸びをし、壁にかけられた時計を見ると午後3時半。麓に降りるのは日が暮れる少し前でいいため、まだ時間に余裕はあるが羽を伸ばして遊びまわるには少し物足りない。そんな時間。
「んー、アリスちゃんもいないし、その辺散策でもしてみますかー」
寝入る前、激務に圧し折れ同じく仮眠をとっていた管理人補佐のアリスを抱き枕にしていたのだが、起きたらいなくなっていた。白羽が抱き着くとちょうどいいサイズ感だったためぜひとも再び抱き枕になってもらいたいが、今いないのでは話し相手にもなってもらえない。
白羽は大人しくベッドから這い出し、綺麗にたたんでいたワンピースを着直す。そして手櫛で簡単に髪を整えながら部屋を出ると、扉の前にいた二人と危うくぶつかりそうになった。
「おっと」
「うわっ、びっくりしたー」
「あら、ごめんなさいですわ」
素直に軽く頭を下げ、今まさに白羽の部屋をノックしようとしていた二人を見やる。
片方は白羽よりも幾分背が高い黒髪の少女――貴文の娘のこのの。そして彼女に手を引かれた、マジシャン姿の黒兎のぬいぐるみを抱た褐色の肌の少年――元「迷宮の魔王」グリメルだった。
「どうしたんですの? お二人でとは珍しいですわね」
白羽は小さく首を傾げて尋ねる。
別にこの二人が一緒にいること自体は珍しくない。ただ、普段この二人の世話を押し付けられている悠希の姿がないというのは意外と見ない。
「悠希は今日はモギシケン? とかでお休みだけど学校なんだってー」
「ああ、模試ですの。……それにしては帰りが遅い気がしますわ」
何か巻き込まれていなければいいが。一応、後で真理華に連絡を入れておくことにしようと白羽は心中にメモを残した。
「それで、どうしたんですの?」
「うむ! 一緒にこの邸の冒険に行かないか!」
「ぼーけぇん?」
ニッコニコと笑みを浮かべて誘ってくるグリメルに白羽は訝し気に眉を顰めた。
確かにこの異世界邸は広い。空間がねじ曲がっており、外見からは想像もできないほど中は膨大な広さを誇っている。
が、それでもあくまで「家屋として広い」だけである。白羽は実際に目にしたことはないが、かつてグリメルが根城として引き籠っていたノルデンショルド地下大迷宮ほど複雑に入り組んでいるわけではない。そんなところを3人おてて繋いで散歩して何が楽しいというのだろうか。
「実はね、さっきリックさんが10日ぶりに帰って来たんだけど」
「はあ。……10日!?」
こののからもたらされた情報に、さすがの白羽も目を剥く。
リックと言えば、際限なく広がり続けるこの邸の見取り図の作成という不毛な作業を貴文から言い渡されているホビット族の青年である。かつて彼が住んでいた世界ではプロの冒険家としてそこそこ名は売れていたと聞いているが、そんな彼が10日もの間一時帰還もなしに邸に潜り続けていたというのはなかなかの事態である。
「それで、大丈夫だったんですの?」
「うん。かなり疲れててフラフラしてたから医務室まで運んであげたんだー。それでね、理由を聞いてみたら、なんかリックさんでも道に迷ってエントランスまで戻れないくらい廊下が入り組んでた場所があったんだって!」
顔を上気させ、小さく拳を作りながら声に力を入れるこのの。そしてグリメルもまた楽しそうに瞳をキラキラさせていた。
「な、な! 楽しそうであろう!」
危険=超楽しい。
子供の中の常識であり、自分は実年齢14歳であると言い張る白羽だが、肉体的には8歳児のままである白羽にもその常識は残されていた。
「いいですわね! ちょうど今暇していたところですしお付き合いいたしますわ!」
「やったー!」
「うむ、では行こうぞ!」
――後に3人の冒険を耳にした悠希は、心の底からその場にいなかったことに安堵した。
異世界邸管理人の娘、このの。
元「迷宮の魔王」グリメル。
そして、八百刀流陰陽師現当主、白羽。
この問題児3人にツッコミを入れ、引き留めるだけの力は、彼女にはないのだから。
* * *
現在、住人の居住が確認されている最奥部であるセシルの部屋からさらに奥まった地点に足を踏み入れた途端、雰囲気が徐々に変わりだした。
まず分岐が増えていき、丁字路や十字路の廊下はもはや当たり前、それどころか五差路六差路とどんどん複雑な造りになっていく。さらに立体交差でもしているのか、小規模な階段も混じるようになり、巨大迷路としてはかなりの難易度となっていた。
「これは、どっちに行けばいいのか分からなくなっちゃうね……」
「目印の傷もいつの間にかなくなったな」
グリメルが廊下の壁を見上げて呟く。
最初こそ、先行したリックがつけたと思しき目印が壁に彫り込まれていた。しかし進むうちに等間隔だった傷が少しずつ間隔があき、ついには次の目印らしき傷を見つけられなくなった。
どうやらリックが辛くも脱出してからさらに構造が変化しているらしい。
「……確かに、これはなかなか……」
白羽はごくりと唾を飲み、目の前の光景に目を奪われる。
まっすぐ続いていた廊下が突如下方向に折れ曲がり、巨大な崖のようになっていた。しかも廊下の窓から見える外の風景もしっかり90度回転している。もはや意味が分からない。
「これ、下りれるの?」
「エレベーター作るか!?」
「ちょっとお待ちなさいな」
白羽は無言で柄と鍔のない太刀を顕現させ、付近の壁を適当に切り刻んで破片を作る。それを廊下の崖下目掛けて放り投げると――欠片は不自然な弧を描き、崖の側面に吸い付いた。
「ほっ、と……」
それを確認した白羽は迷わず崖から飛び降りる。すると先ほどの欠片と同様に白羽の体が崖に吸い寄せられ、こののたちから見て90度回転した状態で着地した。
「重力まで捻じれてるみたいですわね。なんだか不思議な感じですわ」
「おー、すごいすごい!」
「よーし、余も行くぞ!」
こののとグリメルが二人仲良く崖に飛び降りる。しかし白羽のように上手く着地はできず、尻からどしんと崖の側面――白羽から見て床に尻もちをついた。しかし二人はそれすらも面白いのか、顔を見合わせてキャッキャと楽しそうに笑っている。
「ここから先、分岐だけでなくこんな仕掛けも満載みたいですわね」
白羽が呆れ半分で廊下の奥を見やる。
廊下の突き当り――本来ならば窓があるべきスペースに何もなく、代わりに床と同じデザインのタイルが敷き詰められている。一体どっちが上か下か分かったもんじゃない。
「幸い、床と天井のデザインは統一されていますし、窓もずっと続いているようですから、急に落っこちて怪我をするってことは避けられるようですが……」
試しに窓を開けてみると、見覚えのある異世界邸の裏山の風景が広がっている。これなら、窓を叩き割って脱出し、正面玄関から帰還するという手段は取れそうだ。やはりこの邸、中身が捻じ曲がっているだけで外見は不変らしい。
「さて、これからどうしますの? 白羽としては、もうちょっと様子見たら引き返す感じでお仕事に行くにちょうどいい時間なので――」
窓を閉め、振り返り、硬直した。
さっきまで廊下にいたのに、白羽は一人何もない殺風景な部屋に立っていた。
そう、一人で。
こののもグリメルも、忽然と姿を消していた。
「これ、まずいですわ……!」
さっと青ざめ、白羽は今度は自身の魂が込められた白刀を顕現させて窓に叩きつけ壁ごと粉微塵にする。
「んなっ!?」
綺麗に壁が吹き飛び、目の前に裏山が広が――らず、新たな廊下が出現した。
「まずい、まずいまずい……!」
邸に、否、迷宮に呑まれた。
目の前が真っ白になるのをぐっとこらえ、白羽は頭をフル回転させ、今後をシミュレーションする。
まず、白羽たちの行方不明に最初に気付くのは誰か? これから街の見回りに協力することになっていた麓の術者? 否定。連中はそもそも白羽を煙たがっていたし、無断欠勤したところで「それ見たことか、やはり外部は信用ならん」程度にしか思わないだろう。加えて、麓から邸への連絡網など皆無に近い。
では、こののの両親の管理人夫妻? 愛娘が行方不明とあっては血眼になって探すだろうが、あの二人存外放任主義だ。特に貴文は他の問題児鎮圧が重なるとそっちに掛かりきりになってこののの相手もできなくなる。
それなら、グリメルの親代わりの那亜――微妙だ。今の時間、那亜は夕飯の仕込みで一番忙しい時間帯だ。グリメルが独り歩きできるようになってからは好きに遊ばせることが多くなったと聞くし、気付くには時間がかかりそうだ。
「あー、もう! 結局白羽が何とかするしかないじゃないですの!!」
改めて白刀を構え、目についた壁目掛けて斬撃を食らわせる。
「壁を全部手当たり次第にぶち壊していけばいつか辿り着けるでしょう!? 行きますわよ!!」
粉々になった壁だった空間を潜り抜け、白羽は駆け出した。
……迷宮と迷路は全く異質の存在であり、壁を壊しても脱出できないということを白羽が知るのは、もう数カ月先のことである。
* * *
「「きゃっほう!!」」
そんな白羽の心配を知ってか知らずか、おそらく知りもしない幼児二人は、ターザンロープにしがみつき、急斜面の廊下を猛スピードで下り降りていた。
当然、グリメル作である。
ガキン!
ロープは終着点まで流れると激しく留め金にぶつかり、振り子の原理で二人を大きく飛ばす。
「うわーい!」
「ふははははは!」
綺麗な弧を描いて飛ばされた二人は華麗に着地――したところで床板をぶち抜いてどことも知れない階下へ突入。そのフロアもそのフロアでまたぞろ重力が捻じれていたため、二人は勢いそのままに弾丸のように飛んでいく。
「すごーい! 邸の奥ってこんな風になってたんだね!」
「うむ、これはいい遊び場を見つけたな!」
「それにしても、白羽ちゃんどこに行ったんだろうね」
「もっと奥に進んだのかもしれないな。余たちも進もうぞ!」
グリメルが壁に足場を作り、そこに着地する。手の届く場所にあった窓に手をかけ、開けてみると案の定新しいフロアが目の前に広がっていた。
「よし、こっちだ!」
「この先に白羽ちゃんがいるの?」
「知らぬ! だがこの先に何かあるような気がするのだ!」
「すごい! さすが元魔王だね!」
「ふふん、もっと余を褒めるがよいぞ!」
こののの無邪気な喝采に気分を良くしたグリメルのテンションはうなぎ登り。無駄に豪奢な門扉を大量生産しながら壁に穴をあけてどんどん奥へと突き進んでいく。
普段の居住スペース空間であればすぐさま貴文が飛んできて説教を垂れるところだが、今日この場に止める者はいない。グリメルは魔王の力をいかんなく発揮しながらこののを従えて迷宮を突き破る。
本来、迷宮の踏破には手順がいる。
例えば、迷宮内の全ての封印を解除する。
例えば、配置された全ての守護者を倒す。
例えば、特定の順路で全ての通路を通過する。
迷宮と迷路は全くの別物であり、壁を破壊したとして脱出できる、もしくは目的地に到達できるとは限らない。単純な迷宮構造であればそれも可能だろうが、こと魔術的な意味合いを含んだ迷宮であればそう簡単に行くことは絶対にない。
どんなに魔術に精通していても、どんなに知識に長けていても、一度迷宮に呑まれれば等しく手順を踏んで対処する必要がある。
だが、グリメルだけは話が違う。
彼は「迷宮の魔王」――彼にとって迷宮は呑まれるものではなく、支配するものである。
彼が進む道こそがその迷宮突破のための最適な手順であり、最短ルートなのである。
全ての迷宮は彼の前に跪き、彼を行く先へと導いていく。
例え周囲を無暗に破壊しても、「やっぱこっち!」と来た道を戻っても、たまに意味もなく立ち止まっても、それが迷宮にとっての最適解。
かくして、グリメルとこののは、異世界邸の素朴な廊下のデザインからすると浮きまくっている不気味な祭壇へと辿りついた。
* * *
「こののさーん!? グリメルー!? どこですのー!?」
瀧宮白羽、絶賛迷子中。
* * *
「えっと……」
「…………」
廊下の突き当りにぽつんと一つだけあった扉をくぐると、そこは完全に異世界邸ではない空間が広がっていた。
薄暗い空間に黒く爛れたような不気味な木目の天井。そこから紫色の薄いカーテンが何重にもぶら下がっており、奥の様子は全く窺えない。明かりは部屋の四方に立てられた燭台と、中央のテーブルの上の蝋燭だけ。それにしても、山羊の頭蓋骨に穴を開け、油を注いで火を灯すという悪趣味なものだ。
そして何より目を引くのは、決して狭くはない部屋の半分近くを占拠しているのではないかという巨大な天蓋付きベッドである。壁にかけられたカーテンとは違い、こちらは濃いピンク色。しかもどこからともなくむせ返るような甘ったるい香りが漂ってくるせいで、いかがわしい雰囲気がばんばん伝わってくる。
幼い二人も「なんか、見ちゃいけない気がする……」と気まずくなって目を逸らす。
と、ベッドのカーテンの奥で何かが動いた。
「な、なに……?」
「…………」
グリメルを庇うようにこののが一歩前へ出る。
ごそごそと衣擦れの音が微かに響き、ゆらりとカーテンが揺れる。
「ひっ!?」
そこに現れたのは、まさしく異形。
頭は巨大な角の生えた黒毛の羊そのもので、感情の読み取れない横長の瞳孔が静かに虚空を見つめている。それでいて、首から下はやたらと肉感的で蜂のように腰の括れた女の体をしていた。辛うじて局部だけが隠れる呪術的な装飾をじゃらじゃらと体にぶら下げ、羊の蹄の生えた足でゆっくりとベッドから立ち上がる。
『…………』
羊頭の女は二度三度凝りを解すように首を捻り、ぐっと腕を上へ持ち上げて伸びをする。一連の動きを終えたところでようやくこののたちに気付いたように、ゆっくりと顔をこちらに向けた。
『……客人……否、迷い子であるか』
羊の口は微動だにしていないのに、やけに言葉は響き、耳に届く。
こつこつと蹄を鳴らしながら近寄ってくる異様な女に、こののはざわざわと髪の毛を逆立てながら警戒し、小さな牙を剥いて威嚇する。
「あなたは誰!? ここは私たちの家よ! 住むのは構わないけど、ちゃんとお父さんに断った!?」
『……? お子共の屋形であると? 異なことを言う。ここはやつがれの領域。故に、お子の父君の了承など不要』
「か、勝手を言わないで! ここは異世界邸! 住むんならちゃんと家賃入れてよね! うちはいっつもカツカツなんだから!」
「こののよ、その脅し文句はどうなんだ……?」
グリメルに冷静に突っ込まれても反応できる余裕はない。というか、自分でも何を言っているのかもうよく分かっていない。
なぜならこの羊頭の女から発せられる威圧感――異世界邸を襲撃した白蟻の魔王フォルミーカにすら匹敵しかねなかった。今のところ会話がギリギリのところで成り立っているが、いつ気まぐれに殺されるかも分からない。
と、羊頭の女は首を捻りながら膝を折り、こののに視線の高さを合わせた。
『お子の言うことはよく分からぬ。ここはやつがれの領域。それは変わらぬ。やつがれを追い出そうとは不遜なお子よ――が、やつがれは今機嫌がよい。無礼は目を瞑ってやろうぞ。ところで――』
と、羊の口元が初めて動いた。
にやりと、嗤った。
『お子よ、ぱんつは何色か?』
ただの変態だった。
* * *
「こののさーん!? グリメ――は!? なんか今、とてつもなく邪悪な気配を感じましたわ!? なんでか知りませんがお二人と一緒にいなくてよかった気がしますわ!?」
瀧宮白羽、絶賛鳥肌中。
* * *
「――〈大地の指標〉」
『ぬぅっ!?』
突如羊頭の女の額に魔法陣が浮かび上がりる。そして女が抵抗する間もなく、弾丸のような速度で横方向に吹っ飛び寝台を木っ端みじんに破壊した。
女は何度か起き上がろうと試みたが、今度は床に張り付けられたかのように微動だに出来ない。
「やれやれ、やっと繋がったか」
グリメルがずっと大事に抱えていた黒兎のぬいぐるみから渋いバリトンボイスが聞こえてきた。
「我が主君、やんちゃもほどほどにしていただかないと困りますぞ。こんな奥深くまで来ていたとは」
「ラピ!? どういうことだ、貴様は今日はあの刺青女のところにいたのではないのか?」
「大変失礼ながら、我が主君が抱えているソレは我のスペアです。邸から我が主君の気配が突如消えた故、急遽本体から魂をこちらに移動させました」
多少時間はかかったが間に合って何より、と黒兎のぬいぐるみ――〈貪欲の黒兎〉ラピはグリメルの腕から離れ、玩具のような杖をクルクルと回す。
「え、どういうこと? グリメルの気配が消えたって、ここは異世界邸じゃないの?」
「……管理者の娘よ。君がこの邸をどこまで理解しているかは我は知らぬが、ここは少なくとも、未だ『異世界邸』になりきっておらぬ空間よ。故にああいった粗忽者が迷い込んでいても不思議ではない。しかし――」
壊れた寝台の破片が爆音とともに更に破砕し、周囲に飛び散る。それを簡易障壁を張ってグリメルとこののに当たらないよう防ぎながら、ラピはとてつもなく嫌なものを見るように立ち上がった羊頭の女に視線を向ける。
「何故貴様がここにいる」
『んん……? んむぅ……?』
コキコキと首を捻りながら女はラピをじっくりと観察する。
『黒兎のぬいぐるみが己が足で立ち、魔術の真似事をする。実に奇怪よ』
「ふん、ついに頭がイカれたか。元々、話が通じるような質でもなかったが」
『んむぅ……? やつがれを知っておるのか?』
「薄情な。かつての同胞を忘れたか。もっとも、貴様を仲間と認めていた者は鴉の阿呆くらいだったが」
コツン、とラピは杖で床を叩く。
「改めて聞く。ここで何をしている――〈残虐なる螺旋〉よ」
『螺旋……螺旋……黒兎……お、おおぅ? おおおおお!』
ガバッと歯を剥き出しにし、女は笑う。
『〈貪欲の黒兎〉! そうだ、うぬは〈貪欲の黒兎〉! そしてやつがれは〈残虐なる螺旋〉! 確かにそう呼ばれていたこともあったわ!』
「ふん、ようやく思い出したか。流石、あの大結界が張られる直前に一人だけ逃げ果せた薄情者はお頭の出来が違うようだ」
ラピは吐き捨て、表情のない造形の人形の顔つきで睨みつける。
『しかし。しかし妙よ。うぬらはかの巫女に封じられ、亡き者となったはず。あのもやし諸共滅んだはず』
「……かつては『我が君』と呼び恋い慕っていた主君を、もやし呼ばわりか」
『その時のやつがれのとれんどが「引き籠りのヒモ男」だったというだけの話よ』
「故に、熱が冷めたから一人だけさっさと逃げたと。我が主君の迷宮に選ばれたわけでもなく、外からやってきて勝手に住み着いた畜生が何を偉そうに」
『それで』
羊頭の女――〈残虐なる螺旋〉は改めて問いかける。
『何故うぬが生きておる? もやし――グリメル・D・トランキュリティはどうした』
「ふん、貴様が去った後、我が結界を欺き、我が主君だけは何とか生き延びたわ。完全に無事ではなかったが。我は最近復活し、こうしてこの邸に住まわせてもらっている」
『ほう、ほう。流石は小細工だけは上手い人形よ。それで、かの迷宮の魔王は何処か。元妻として、近くにいるのであれば挨拶ぐらいさせてもらおうか』
「何が元妻か、図々しい。それに我が主君ならそこにいる」
『ぬ?』
〈残虐なる螺旋〉が首を巡らせ視線をこののに向ける。そして『……随分と可愛らしくらなれた』とニイっと口元を歪める。それにラピはため息をつき、コツンと床を杖で叩く。
「阿呆め。貴様の記憶では我が主君は女子であったのか?」
『では、こちらが?』
さらに首を巡らせ、グリメルに歩み寄り顔を覗き込む。
『んむ……魔王としての素質を失っているのか。それに魔力もだいぶん変質しておる様子。が、面影は確かに』
「ひぃっ……!?」
『お久しゅうございます。……何をそんなに怯えておられる』
「貴様、かつて我が主君に働いた度重なる無礼を忘れたのか」
『無礼とは無礼な。やつがれは妻として我が君の寝所へ足を運んでいただけよ』
「それだそれ。最終的な我が主君の対人恐怖症の三割は貴様が原因であると我は睨んでいる」
『ところで――』
ラピがグリメルと〈残虐なる螺旋〉の間に割り入ったのにも気に留めず、さらにグリメルに顔を近づける。
『今のやつがれのとれんどは、幼子にございます。――この〈残虐なる螺旋〉、今、冷静さを欠こうとしております』
「――――っ!!」
グリメルの声にならない悲鳴が轟いた。
* * *
「こののさーん!? グリメ――」
ズドォンッ!!
「ほにゃあああ!?」
突如として白羽の目の前に鉄の扉が出現した。何の気配も前触れもなく生成されたそれに構える暇もなく、ガコンと扉が開き中から出てきた虎の仮面と毛皮をまとった大男に白羽はさらに面食らった。
「な、何ですの!?」
「…………」
虎仮面の大男は白羽に気付くとぬうと大きな手を伸ばして襟を掴み、ひょいと持ち上げる。
「きゃー!? 何なんですのあなた!?」
「よし、上手くつながったぞ!」
「白羽ちゃん!」
と、大男の圧倒的存在感に気付かなったが、左腕の上にこののがちょこんと座っていた。さらに見上げると、肩の上にはグリメルが肩車の格好で男の頭にしがみついている。
「こののさん、グリメル! よかった、無事でしたの!? ていうか、こいつ誰ですの!?」
「そんなことより今は逃げないと! 虎さん、お願い!」
「…………」
小さく頷き、三人を抱えて虎仮面の男はどすんどすんと巨体に似合った大ぶりな動きで駆け出す。
「一体なんですの!? いい加減説明をくださらない!?」
「えっとぉ、グリメルの昔の奥さん? が異世界邸の奥に勝手に住んでて」
「あんな女を妻として迎えた記憶はないわ! かつてもいつの間にやら余の迷宮に勝手に住み着いておったのだ! 力は強かったからそのまま階層の守護を任せていたが――うぅ、頭が……!」
何やら封じていた記憶が呼び起こされそうな感じに頭を抱えて震えるグリメル。仮にも元魔王が震え上がるってどんな追手が来ているんだと、白羽は虎男の腕からひょいと顔を出して背後を確認する。
すると。
ちゅどぉぉぉぉぉぉぉぉぉんっ!!
なんか迷宮化していた邸の廊下が全部丸ごと爆ぜ飛んだ。
「何ですのー!?」
「だあああっ!? もう追いつかれたのか!?」
涙目になりながらもグリメルは懸命に魔力を練り上げ、やけくそ気味に叫ぶ。
「顕現せよ! 〈猛進の大牙〉! 〈飛翔する逆鱗〉!」
練られた魔力が実体を持ち、それぞれ鉄仮面をかぶった大猪と豊かな髭を蓄えた老龍へと形作られる。出現した二頭の魔獣は主の命が出る前にぞれぞれ動き出し、追撃者を迎撃するべく身構える。
各々が並の勇者一行程度であれば蹂躙できるほどの力を持つ最高位の魔獣――しかし、いささか相手が悪かった。
『何故。何故逃げるのですか我が君』
飛んできた小さな魔力弾に、大猪と老龍はあっけなく吹き飛ばされる。
「ひぃっ!?」
『はあ、はあ……! やつがれと過ごした熱い夜を、今一度……!!』
「ひぃゃあああああっ!?」
「何ですのあの痴女!?」
邸の廊下がが破壊され、虚空のみが残された謎空間にむやみやたらにスタイルはいいがほぼ全裸の羊頭の女が出現した。その周囲には巨大な牝牛の石像の破片と翼を持つユニコーン、そして無数の鼠の死骸が力なく宙を漂っている。〈残虐なる螺旋〉を初めて目撃した白羽は、その異様な姿に的確なコメントを投げかけ一気に血の気が引いた。
「グリメル! あなたあんなのが良いんですの!? これは悠希さんへの報告案件ですわよ!?」
「だから違うのだ! 誤解なのだ! 余はむしろ被害者だ!!」
「そんなことより早く逃げよう!」
「顕現せよ! 〈大地削ぐ蛇腹〉! 〈絶望の猿猴〉!」
再びグリメルが魔力を練り、巨蛇と魔猿が実体化を始める。それが完了する前に虎男は「あんなのともう二度と関わりたくなかったのに!」と言わんばかりの脚力を見せ、三人を抱えながら全力疾走する。
と、廊下の先から何やらがやがやと走ってくる人影が見えた。
「やっほー♪ オマタセ☆」
「うわぁ、何アレ~……ファッションセンス疑うわ~」
「いえ、あなたも大概ですわよ……?」
「う~い、なんかヤバげなのがいるね~……ヒック」
「明らかに魔族ですけれど間違いなく強者! ぜひともお手合わせを!」
セシル、フランチェスカ、フォルミーカ、カベルネ、ジークルーネ――貴文を除く、現異世界邸最高戦力が揃い踏みという悲惨な光景が広がっていた。
「我が主君! ご無事であられるか!」
と、セシルの改造白衣のフードから黒兎のぬいぐるみが飛び出してきてグリメルの元まで飛んできた。
「ラピ! 無事だったのか!」
「はっ、ご心配をおかけしました。何とかギリギリのところで魂を本体に戻すことができました故。ついでに、声をかけられる者全員に声をかけておきました」
「ちょ、ちょっとこのメンツは大げさじゃないかな!?」
「何を言われる! 相手は〈残虐なる螺旋〉! これくらい用意してもまだ我が主君の貞操を守れるかどうか……!」
「あなたちょっと過保護すぎません!?」
こののと白羽がぎゃああぎゃあ喚く中、ドスンと目の前に何かが音を立てて降ってきた。
「……き、ぅきっ……」
「「は?」」
それに顔色を変えたのは、カベルネとジークルーネ。
かつて神魔二人をして苦戦し、結局決着をつけられなかった魔獣――〈絶望の猿猴〉が、全身黒焦げになりながら白目を剥いて痙攣していた。
「!? ちょ、ちょっとそこの黒兎!! アレが相手だなんて聞いてないですわよ!?」
と、ワンテンポ遅れてフォルミーカも色白の顔を更に青くして悲鳴を上げる。視線の先では、〈残虐なる螺旋〉が片手で鈍色の鱗を持つ大蛇――〈大地削ぐ蛇腹〉の頭を叩き割っていた。
「アレ、『誑惑の魔王』エティスですわよね!? あまりにも強大すぎる力を保有する癖に、人も魔王も気分次第で滅ぼす気まぐれな性格から魔王連合からも危険視されていたエティスですわよね!?」
「アレ魔王なんですの!?」
「連合に所属していれば確実にわたくしより上ですわ。ヴァイスたちも呼ぶべきでしたわね……」
「この邸、やっぱ魔王ホイホイじゃん♪ チョーおもしれー☆」
セシルがケタケタ笑いながらも超高速で魔法陣を構築し、その場にいた全員に魔術を施す。
「ほい、なんか今までになくヤバげな感じだからセシルちゃん特製の身代わり魔術かけといたよん♪ 2回までなら死ねるから、じゃんじゃん突っ込んでアレ制圧してきてね☆」
「え~、なんか近寄りたくない感じなんだけど~」
「ワインセラーぶっ壊されたくなかったらちゃきちゃき働けこのアル中♪ フランちゃんは傷薬大量に用意しててて☆ 多分セシルちゃんの治癒魔術だけじゃ全然足りないからさ♡」
「オッケ~、任せて~」
「では一番槍は私にお任せください!」
大鎌を構えたジークルーネが嬉々として〈残虐なる螺旋〉目掛けて走り出す。その後を渋々といった感じでカベルネとフォルミーカが続く。
「おい何だこの惨状は!? またテメエかポンコツ!」
「違うわ! どうやらあの痴女が騒ぎの原因らしい! いくぞ! これ以上好き勝手させるな!」
「おうよ! ヤロウぶっ飛ばしてやらあ!」
ちゅどぉぉぉぉぉぉぉぉぉんっ
「「ぎゃああああああああああっ!?」」
なんか横から割り行ってきたトカゲとポンコツは一瞬で星になった。
『ああ、我が君! これがやつがれと我が君の間に立ちはだかる愛の壁なのですな! いいでしょう、そちらの方が燃えるというのであればこの〈残虐なる螺旋〉、いくらでもお付き合いいたそうぞ! そして今夜は――はあ、はあ!』
そして〈残虐なる螺旋〉は気持ち悪く吐息を溢しながら目を爛々と光らせていた。
戦乙女、堕天使、元魔王、そして痴女――ではなく正真正銘の魔王が入り乱れた惨劇はまさに地獄。セシルとフランチェスカのフォローがなければもっと悲惨な状況になっていたであろうその光景を目の当たりにし、一人白羽はすっと冷静になってちょいちょいとフランチェスカの白衣の裾を引っ張った。
「ん~? どうしたの~?」
「あの、白羽、これから麓でお仕事なんですが、帰っていいですか?」
白羽は強い。
戦闘そのものも大好きだ。
強者との熱い戦いはもっと大好きだ。
けれど、これにだけは混ざりたくない。
というか、あの痴女と戦いたくない。
何となく、アレに近付いたら白羽にも怪我以外の何か傷を負うような気がするから。
そんな心の声が届いたかどうかはともかく、フランチェスカはにっこりと笑って白羽の頭を撫でた。
「じゃあこののちゃんとグリメル君を居住区まで避難させて~、ついでにフミフミ君にも声かけてきて~。これだけ騒いでも出てこないってことは、仮眠室で気絶してるんだと思うから~」
「あ、はい。分かりましたわ」
了承し、白羽は虎男の腕をぺちぺち叩いて指示を出す。
「と、いうわけですので、安全なところまで送ってくださいません?」
「…………」
虎男はこっくりと頷き、地獄のような様相がさらに悪化し続けている戦場に背を向け、走り出す。揺れはするが謎の安定感を持つ虎男の腕の中で、白羽は「とりあえず、世話役の本屋さんには遅刻の連絡をしないと……」と現実逃避をすることとした。
地獄は、白羽に叩き起こされた貴文が投入されてもすぐには収束せず、結局、麓でトラブルに巻き込まれていた悠希が異世界邸に帰還した夕暮れまで続いた。