フランチェスカの優雅な一日【part 山】
ある日の朝。
「……はっ!?」
中西悠希はいつものようにホラー映画もかくやという目覚めの良さで覚醒し、即座に相棒に手を伸ばす。さらに管理人代行がいなくなったことで消滅してしまった大楯の代わりに、畳返しの如き手際の良さでマットレスをひっくり返して頭から被って防御態勢をとる。
ちゅどぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉんっ!!
そして爆音とともに隣室との間に隔たりを築いていた貧弱な壁が吹っ飛ぶ――ことはなかった。
「……うん?」
待てど暮らせど爆発音は聞こえてこない。恐る恐るマットレスから顔を出してガスマスクを外すも、窓の外から駄ルキリーに追いかけられる管理人の悲鳴が聞こえてくるだけの、いたって平和な光景が目の前に広がっていた。
「…………」
とはいえ、長年異世界邸で暮らしてきた悠希はこの程度で油断したりはしない。つい先日も、珍しく平和な朝を迎えたと思ったら魔法少女にされてしまった。この流れはつまりはそういうことである。
「あれ?」
ところが、用心深く周囲を確認しても赤毛の子猫はどこにもおらず、ついでに白蟻の親玉が床や壁を齧る咀嚼音も聞こえてこない。どうやら今日は本当に何もないらしい。
「珍しいこともあるもんですね」
のそのそとマットレスの影から這い出し、ハンガーにかけてある学ランに手を伸ばす。
もはやスカートなんかより着慣れた首元のホックまできっちり締め、軽く朝食を済ませようと自室の扉に手をかけた。
「あ、おはよ~」
「…………」
扉を開けてすぐそこに、作業着を着た見たことのない美女がいた。
「お、おはようございます……?」
思わず挨拶を返してしまったが、悠希は油断なく美女の姿を注視する。
紺色のツナギを首元まできっちりファスナーを上げて着込んでいるにもかかわらず、モデル顔負けの完成されたプロポーションの持ち主であることが見て取れる。胸ポケットや腰のベルトにいくつもの工具が収納されているため何らかの作業員のようにも見えるが、この異世界邸に来るのは大工くらいしか思い当たらない。
……いや、待て。
「最近すっかり寒くなってきたね~」
「はあ、そうですね……」
こののんびりゆったりした口調には覚えがある。
それに邪魔にならないよう後ろでまとめている栗色の巻き毛は……。
「え……まさか、フランチェスカ?」
「ん~? なぁに、悠希ちゃん?」
「……っ!?」
ずざっと悠希は後ずさりした。
まさか、そんな!?
「いつもきわどいネグリジェに白衣羽織ってペタペタとビーサンで歩き回ってる歩く化学兵器庫のような奴が服を着てやがります!?」
「え~、私だってたまにはちゃんとお洋服着るよ~?」
「たまにじゃなくって普段からちゃんと着やがれってんです!? グリメルの教育に悪いんです! あとツナギを『お洋服』ってなんか違う!」
「あ、それでなんだけどね~、悠希ちゃん」
と、悠希の狼狽を意にも介さず、ツナギ姿のマッドサイエンティストは何でもないかのようにこう宣った。
「私、これからお仕事で麓まで下りるから~、フミフミくんに伝えておいてくれないかな~」
「…………………………………………は?」
たっぷり3秒ほど、思考がフリーズした。
* * *
「で、睡眠ガスぶちまけてそのまま出てきたのか」
「うん」
「うんって」
「だって悠希ちゃんもフミフミくんごちゃごちゃうるさかったんだも~ん。規約がどうの外出届がどうのって~」
「いや、外出届くらい書いてやりなよ」
喋りながらも、フランチェスカの手は止まらない。
一体どうやっているのか、ギッチリと締められているはずのネジやボルトを爪の先で引っ掛けてくるくると回し、次々と外していく。
「相変わらずの手際だなあ、フラン」
「そう~? ……そっちは少しやつれた? カーくん」
顔を上げず、微笑みながらも陰のある表情を浮かべるフランチェスカ。それに対し背もたれに肘を乗せ、子供のように椅子を回しながら両足を伸ばす中西翔は、贔屓目に見て顔色が悪い。
「まあねえ。でも、この前の白蟻の件で大量発生した患者、ようやく全員退院させたよ。やっと通常業務に戻れる」
「お疲れ~……よっと」
ガゴン!!
凄まじい音を鳴らしながらカバーを外すフランチェスカ。その荒っぽい解体作業をはらはらしながら見つめていた看護師の一人がついに絶叫を上げる。
「一台3億円のMRIがあ!?」
「……そんな高いの~?」
「まあね。この前の春に思い切ってもう一台導入したやつ。中古だから安い方だよ」
「あ~、それでこんな摩耗が激しいのね~……ほいっと」
バキン!!
「ああああああああああっ!?」
「うわ~、配線回り特に酷いね~。どういう使い方したらこうなるの~。ふっ」
「ひえええええええええっ!?」
明らかに触っちゃいけないような基盤を素手で直接取り外し、隅の方にたまっていた埃を直接息で吹き飛ばす。院長が個人的な伝手で呼んだ修理業者に目を回した看護師は、ソファーの上に項垂れるように倒れこんだ。
「彼女大丈夫~? 疲れてるんじゃないの~?」
「疲れてるのは否定出来ないけどね、君の修理光景を初めて見たら疲れていなくてもああなるさ。少しはこっちの世界の基準で作業できないのかい?」
「や~よ、面倒くさ~い。それに今私、これでも素手じゃないし、マスクもつけてるんだよ~?」
「俺の目には見えないんだけど?」
「だってゴツすぎてオシャレじゃないからね~。見えないように加工してるの~」
「そのツナギはセーフなのか?」
「これは機能美に溢れてるからセーフなの~」
「ふーん」
バッキンバッキン音を立てながら次々と部品を引き剥がしていく。翔には昔からの見慣れた光景だが、初めて見る者からすると心臓に悪い映像以外の何物でもない。
「懐かしいなあ。高校の時も、そんな感じで理科室の装置直してたな。何だっけ、あの……」
「エバポレーター? 減圧機」
「それそれ。何であんなものが高校の理科室にあったのかは未だにわからない……まあうちの高校そんなのばっかりだったけどさ。ともあれ、長いこと壊れたまま放置されてたのをフランが休み時間のうちに修理してな」
「あんなの、私のいた世界じゃ子供向けの通信教育についてくるおもちゃみたいなもんだも~ん」
「……そんな世界から来た君でも、世界渡航は未だ厳しいんだね」
「…………」
フランチェスカは無言で、摩耗していた部品に何か薬品のようなものをこすりつけ続ける。すると丸みを帯びていた部品が、どういうわけか新品のように角立ち、心なしか磨かれたかのように光を反射し始めた。
「もう何年前になるのかな? 君がこの世界に来たの」
「この世界の時間軸だと24年8カ月17日と9時間51分28秒13前だね~」
「うわあ、もうそんなに経つのか」
「……カーくんが突っ込んでくれない……」
「フランならカウントしてそうだと思って」
喉の奥で笑う翔に対し、フランチェスカはくちゅんと口を尖らせて拗ねた。いくつになってもこの子供っぽい仕草は変わらないと、背もたれに顎を乗せながら翔は苦笑する。
「覚えてるよ。フランがあの邸の冷蔵庫から転がり出てきての第一声」
「え、何だっけ~?」
「『やったあああああ! 世界渡航に成功したあああああ!! ざまあみろおおおおおっ!!』ってさ。その後の落胆ぶりもな」
「……あー、何だか思い出してきた……」
「嘘つけ、君が忘れるわけないだろ」
翔がまだ愛娘と同じくらいの歳の頃の話だ。
当時は異世界邸の医務室を任されていた翔が、いつものように言いつけを破って異世界邸の医務室に侵入していた友人を貴文が追い返したのを見送ってすぐだった。例によって例の如く冷蔵庫が医務室に突如出現し、内側から爆破するのような勢いで扉が開け放たれ、中からオイルと煤にまみれた少女が一人転がり出てきた。
少女はただでさえふわふわしていた巻毛が爆風でさらに乱れているのにも気にせず、周囲を見渡して自身に見覚えのない風景であることを確認し――先の雄叫びを轟かせたのだった。
「異世界の存在証明のために転移装置作って自ら実験台になる15歳っていうのも大概ぶっ飛んでたなあ。転移が自分の発明品じゃなくこっちの世界の魔術的要因で引き起こされたって知ってブチ切れてたし」
「だって悔しいじゃん~。いくら目的が達成されても、それが自分の理解の外の事象で引き起こされてたら~。しかもよりにもよって魔術なんて非科学的な要因だよ~?」
「異世界は信じるのに魔術は信じないって、相変わらずよくわからないなあ」
「信じてないわけじゃないの~。特例で中学高校とこの街に通わせてもらってたし、あの邸に住んでたら嫌でも目の当たりにするからね~。……でもね、私はあくまでどっぷり科学側の人間だから、根っこの部分ではちゃんと理解できないんだ~」
自分に理解できないものがあるのが悔しくないわけではない。
けれど、どこかで線を引かなければならない。
私はこっち、あなたはこっち。
住み分けは重要だ。でないと際限なく全てを欲し、最終的に駄肉まみれの醜い怪物になってしまう。
そんな怪物を、フランチェスカは幼いながらに何匹も見てきた。
あんな怪物にはなりたくない――美しくない。
「だから私は今度こそ転移装置を完成させて、自力で元いた世界に帰るの~。あの冷蔵庫を遣えばすぐに帰れるけど、そんな邪道はしたくな~い。もう20年以上経ってるし、もしかしたら向こうではとっくに異世界転移は当たり前の技術になってるかもしれないけど――私は私の興味を途中で投げ出したりはしない」
バキン、と。
フランチェスカは外した部品を元の位置に嵌める。
ケーブルをつなぎ、他の部品と組み合わせる。
そして最後にカバーを元通りにして完成だ。
「はい、お疲れさま~。これであと10年はバリバリ働けるよ~」
「おお、それはありがたいな」
「あ、出力速度上がるようにアップデートしておいたよ~。絶対ないけど、不具合起きたらすぐ呼んでね~」
「フランが絶対というなら絶対ないさ。次に呼ぶのは10年後か、こっちで勝手に壊した時だな」
「ふぅん」
いまいち釈然としない物言いに鼻の頭をこするフランチェスカ。10年後、まだフランチェスカがこの世界に残っているだろうという意味か、行って帰ってきてると確信しての言葉か、どっちだ。
~♪ ~♪ ~♪
その時胸ポケットの中に入れていた携帯電話が振動と共に小さく鳴り出した。
「ケータイ出ていい~?」
「どうぞ」
念のためにこの場の最高責任者の許可をとる。フランチェスカはポケットから二つ折りの携帯電話端末――いわゆるガラケーを取り出して開いた。すると画面から薄水色の光が漏れだし、空中にアプリアイコンが3D映像として出現する。それを眼球の動きで操作して電話に出た。
「なに、その数十年は時代を先取りしたケータイ。基本デザインはガラパゴスなのに」
「ガラケーって見た目格好いいよね~」
「ツナギもそうだけど、いまいちフランの美的センスの基準が分からないなあ」
付き合いは長いが相変わらず趣味がいまいちそぐわない友人の呟きを背に、フランチェスカは通話に耳を傾ける。
『お久しぶり、フランさん』
「はいはいお久し~。元気してた~?」
『あなたほどじゃないけど元気ですよ。……最近ちょっと疲れ気味だけどね』
「あは~、いろいろ大変だったもんね~。で、そろそろかな~?」
『ああ、うん。そろそろ到着するから足止めは十分だよ』
「オッケ~。じゃああとヨロシク~」
簡素な対応で通話を終わらせ、ケータイを閉じる。胸ポケットに戻して振り返ると、興味アリマセンみたいな顔をしつつ聞き耳を立てていた翔がこちらを見ていた。
こういうあたり、本当に昔から遠慮がない。今更気にするフランチェスカではないが。
「それじゃ、私帰るね~」
「おや、もう行くのか。茶の一杯くらい淹れようと思っていたのに」
「嬉しいけど、そろそろいい加減フミフミくんも怒り出しそうだからゴメンね~」
「そうか、それは残念。まあ、あんな歩く特異点みたいな奴が君を連れ戻しに下山してきても困るしねえ」
「だね~。じゃ、そゆわけでヨロシク~」
いうとフランチェスカは手早く身支度を整えてさっさと扉に手をかけた。と、あることを思い出して最後にもう一度振り返る。
「そういえばカーくんって栞那ちゃんとすっごい仲良しだよね~」
「うん? どうしたんだい、急に」
「えへ~……実は私も子供の頃はカー君のこと好きだったんだよ~」
「……それはそれは、光栄だね。ちなみに今は?」
「今は――フツウかな?」
* * *
異世界邸を毎朝爆破しても悪びれないマッドサイエンティストで通っているフランチェスカが、仕事が終わったからと言って大人しく山に帰るはずもなく、大きく遠回りをして街の北側――海岸沿いまで足を延ばしていた。
先の白蟻事件の際には戦艦の墜落地点として使われた場所だったが、フランチェスカも知るところである優秀な術者によって慎重に受け止められたため、ほぼ無傷といってもいい。しかし別にフランチェスカは美しい景観の存続を憂い、損なわれていないか確認しに来たわけではない。
単に、数年単位で山に籠っていたため海が見たくなっただけだった。
「ん~、ちべたぁい! そしてうまぁ~い!」
あと、学童の頃に通い詰めた懐かしのケーキ屋のアイスクリームを食べるという重大なミッションもあった。
「全然変わってなくて安心した~」
「そうかいそうかい、あたしも久しぶりにフランちゃんに会えて良かったよ」
「えへへ~、おばちゃんも元気そうで何よりだよ~」
「もうおばちゃんと言うよりばあちゃんだがね! あっははは!」
かつての記憶とほぼ変わらない、店の入り口とは別に設けられた小窓。そこから差し出された昔懐かしのカチカチのアイスクリームは、一度口に含むと牛乳の香りが一気に口いっぱいに広がる。
小窓から身を乗り出して豪快に笑う浅黒い肌の老婦は、フランチェスカの記憶よりだいぶ小柄になってしまっていたが、このアイスクリームはまだまだ当分楽しめそうだ。
高校を卒業し、完全に異世界邸に引きこもる直前にスタンプがたまり、ずっと大切に財布に入れていたポイントカードを差し出す。老婦には「あんたまだ持ってたのかい。とっくに期限切れてるが、まあ今回は特別だよ」と笑われたが、それもなんだか嬉しくなってフランチェスカもまた笑みを浮かべる。
「なんかもう全部が懐かし~」
変わらぬ味のアイスを食べながら海岸沿いを散策する。
記憶の中ではコンクリートの表面がボロボロにはがれていた堤防が真新しく張り替えられていたり、遠くに風力発電の風車が立っているのが見えたりと、意外と様変わりしているところは多い。
「ふむ……」
無意識に風車を凝視し、その構造を観察する。
羽をもう少し長くすれば効率が上がるのではないか、低周波や騒音の問題はクリアするには代わりにどこを削ればいいか、この世界では未知のあの素材があれば軽量化が望めそうだ――
などと考えていたその時。
「動くな、でありますれば」
硬質的な白い肌の腕が、フランチェスカの首に回された。
「……!」
反射的に――とは言わないまでも、元々戦士でも何でもないずぶの素人にしては比較的素早い動きで腕を振りほどこうと掴む。しかし見るからに人間のものとは思えない腕の力はやはり尋常ではなく、種族的にはか弱い人間でしかないフランチェスカにはどうしようもなかった。
「騒ぐなでありますれば。言う通りにすれば命までは取らないでありますれば」
襲撃者はそう言い、腕を首に回しながら後ずさる。
されるがまま、フランチェスカは襲撃者について移動する。幸いにも周囲に人気はなく、目撃者はいないようだ。
「さて」
連れていかれた先は海辺に打ち捨てられた道具小屋跡。利用されなくなって久しいのか、基礎から床にかけてが完全に砂で埋まっている。
「このまま質問をさせてもらうでありますれば」
「何かな~?」
「勝手に喋るなでありますれば。貴様に許される言葉は『はい』か『いいえ』のみでありますれば」
「……はい」
これは相当気が短そうだ。
フランチェスカはため息交じりに大人しく答える。
「貴様はこの街の魔術師でありますれば?」
「いいえ」
「その割には落ち着いて見えますれば。いわゆる異能者のような存在については以前より知っていたでありますれば?」
「はい」
「……ふん、単に耳の広い一般人でありますれば。それでも、貴重な情報源には違いないでありますれば……」
歯噛みする気配を首の後ろに感じながら、フランチェスカは急所を押えられているにもかかわらず図太く情報を整理していた。
襲撃者はいわゆる異能の世界の住人である――これはほぼ間違いないだろう。でなければただ歩きながらアイスを食べていただけのフランチェスカをピンポイントで襲撃はしてこないはずだ。
そして異世界邸から降りてきてしばらくして襲撃された――つまり、襲撃者はフランチェスカが山を下りてきた時からずっと尾行していた? 否。下山して中西病院に到着する間にも襲撃が容易そうなポイントはいくつもあった。
中西病院から出てきたから襲われたという可能性もほぼゼロだろう。病院内での会話は盗聴されていなかったはずだ。翔がそんなヘマをするわけがない。単純な盗聴器であればむしろ自分で気づいただろう。つまり、たまたまフランチェスカを見かけたので襲撃してきたという可能性の方が高い。
では何故自分が狙われた? これがセシルや友人夫婦の妹分であるところの「彼女」であったならばその身に宿す魔力とやらが目印となっただろうが、残念ながらフランチェスカには無縁な才能だった。
視覚による情報でも、聴覚による情報でもない――魔力感知のような第六感によるものでもない。
で、あるならば――
「少し前、この街を襲った白蟻について知っていますれば?」
「はい」
「では、貴様から微かに漂う姫様――フォルミーカ・ブラン様の匂いについて説明してもらいますれば」
――嗅覚か。
カチッ
「っ!?」
フランチェスカは、中西病院での作業からずっと装備したままだったステルス加工された特殊マスクから伸びるケーブルの一本を奥歯で噛み潰した。
瞬間、マスクの後ろ側――ちょうど、襲撃者の鼻先に当たる部分から白色のガスが噴き出た。
「ぐっ、うっ!? ぐぅっ、あっあっあ!?」
全く予想だにしていなかった反撃に、襲撃者は思わずフランチェスカを放して後ずさる。しかし思いっきりガスを吸い込んでしまったらしく、言葉にならない悲鳴を上げ続けている。
「ポンコツが装備してる蟻滅重機一型を私なりに改良してみた防虫剤だよ~。元の状態でもヴァイスちゃんに1度は効いたみたいだから、あなたには相当クるんじゃないかな~」
悠々と振り返り、フランチェスカは改めて襲撃者を観察する。
「……ぐ、っぐ……! クソが……!」
涙と鼻水と涎と汗――顔から出るもの全部垂れ流しながら睨み付けてくる襲撃者。声からも分かっていたが、性別は女。メイド服を身に着けているようだが、水矢や美智子、ミミが仕事中に身に着けているコスプレまがいのものではなく、最低限のフリルがあしらわれた上品なエプロンドレスだ。とは言え、ところどころ焼け焦げ、破れてしまってその下の陶器のような硬質さを放つ白い地肌が見えていいるため、いかがわしさで言えばこちらの方が段違いだ。
「その堅そうな肌には覚えがあるな~。防虫剤も効果抜群みたいだし、君、やっぱりフォルちゃんの関係者だよね~」
元々は貴文からの依頼で開発していた、フォルミーカが邸を食い荒らさないよう振りまくためのものだったが、直接振りかければ普通に殺虫剤だ。
「姫様を……そのように軽々しく呼ぶなでありますれば……!」
襲撃者が巌を潰すが如く堅く握った拳を振りかぶる。しかし、防虫剤が目にも入っているためろくに視界も効かず、フランチェスカでも容易く避けることができた。
ドォン!
空振りしたその一撃で、古びた作業小屋は木っ端微塵に吹き飛ぶ。
それを見て、まぐれ当たりでも普通に死ぬと即座に判断したフランチェスカは慣れない動きで足を踏み込み、見よう見まねで拳を突き出した。
バキィン!
「ぐぅっ!?」
「あれ?」
視覚も嗅覚も奪われているはずなのに、襲撃者は驚くべき反応速度でフランチェスカの拳を右腕で受け止めた。
だが、完全には受け止めきれず右腕の表面がひび割れた。
「き、貴様本当に一般人でありますれば……!? 私の甲殻が一撃で……!?」
「ふ~ん、なるほどね~……」
フランチェスカは腕に残った武骨な機械の残骸を剥がしながら目を細める。
マスク同様、ステルス状態で装備しっぱなしだった特殊グローブがものの見事に粉砕してしまった。元はあくまで工具だが、遊び半分でパワーアーム機能も付けていた。それが、襲撃者の装甲を打ち砕いた代償として完全に壊れた。
だが、問題はない。
グローブとは往々にして左右ワンセットなのだ。
「ほいっと~」
「なっ!?」
フランチェスカは壊れていない方のグローブがはまっている手を伸ばし、襲撃者に触れる。反射的に身を引こうとするのをがっしりと掴み、逃がさない。
「は、放せでありますれば!?」
「じゃあね、おやすみ~……スイッチオン」
瞬間。
「ぎゃああああああああああああああああああああっ!?」
フランチェスカの手から青白い閃光が放たれる。
それをまともに喰らう羽目となった襲撃者は白目を剥いて絶叫し、床に倒れこんで全身を痙攣させた。
「ふう……全身がいくら硬くても電撃はどうしようもないよね~」
設計以上の高圧電流を放出したため、もう片方のグローブもショートして完全に使い物にならなくなった。しかしフランチェスカは満足げに笑い、意識を失った襲撃者に視線を落とした。
「科学なめんな異能者……ってね♪」
* * *
「……はっ!?」
女は途切れていた意識を無理やり呼び覚まし、かっと目を見開いて覚醒させた。
気を失う前に喰らった謎の霧で使い物にならなくなっていた目と鼻は復活している。しかし身動きは取れない。目を動かして状況を確認すると、薄暗く狭い空間で後ろ手に縛られて座らされているようだ。かなり頑強な魔術的封印がなされているらしく、力ずくでは壊せそうにない。
「ここは……」
徐々に回復してきた感覚を頼りに周囲を探ると、どうやら結構な速度で移動しているらしい。次元戦艦が墜落した後も、この強固すぎる甲殻によって今まで生き延びてきた。その間に何度も見た自走式の鉄馬車に乗せられているようだ。
「あ、気付いた~?」
と、気の抜けた口調が聞こえてきた。
顔を上げると、鉄馬車の御車席から栗色の巻き毛の女がこちらを覗いていた。
匂いで確認するまでもなく、先ほどの戦闘で返り討ちにされた女だ。
また何をされるか分かったものではない――身動きの取れない身で最低限身構えようとしたら、栗毛の女はこちらの気が緩むような間抜けな笑みを浮かべた。
「ごめんね~、あのままじゃまともにお話しできないと思ったからちょっと強引に眠らせちゃった~。痛むところとかなぁい?」
「……ふん」
女にかち割られた甲殻もすでに完治している。かつての上官ほどではないにせよ、再生能力は決して低くはない。
「ここはどこでありますれば」
「あ、その前に自己紹介しようか~。私、フランチェスカ~。フランって呼んでね~」
「……ムラヴェイ。蟻天将が末席、ムラヴェイでありますれば」
と、名乗ってからふと気づく。
今日はやけに舌が回る。気を失っている間に何か細工でもされたか? しかし、女――ムラヴェイの意思に反して、己の口はいつもは考えられないほどよく動く。
「ムラヴェイちゃんね~、よろしく~。じゃあ早速で悪いんだけど~、いくつか質問してもいいかな~?」
「……拒否したところで、私に拒否などできないのでありますれば?」
「察しがよくて助かるな~。私拷問とかしたことないから素直に教えてくれるとすっごい助かる~」
「…………」
その緩い口調に乗せられた明らかな虚偽を指摘できるほど、ムラヴェイは余裕が残っていなかった。
「じゃあまず一つ目~。私を襲ってきたのは何で~?」
「……貴様から姫様――フォルミーカ・ブラン様の匂いがかすかにしたからでありますれば。姫様の消息が絶たれてしばらく経ってなお、匂いが残っているということは何か知っていると思ったでありますれば」
「なるほどね~。シロアリに限らず、社会性を築く昆虫はフェロモンを用いて統率をとるというけど、そんな感じかな~」
「ふぇ……? 何でありますれば?」
「ううん、こっちのお話~。うん、じゃあ、ムラヴェイちゃんの疑問にお答えしちゃおう~」
フランチェスカはにっこりと笑い、御車席から身を乗り出してきた。
「フォルちゃん……フォルミーカ・ブランさんは生きてるよ~。完全に無事ってわけじゃないけどね~」
「……っ!」
その言葉を聞き、ムラヴェイの表情に一瞬の安堵が浮かびあった。しかしフランチェスカの後半の言葉に、眉間に深くしわを寄せた。
「貴様ら……姫様に何をしたでありますれば!!」
「あー、これは言葉をミスったかな~。えっと、安心して? ちゃんと五体満足だし、監禁してるとか痛めつけてるとか、そういうことじゃないから~。ただね~……」
うーんと唸り、どう説明すべきか悩むフランチェスカ。しかしこの場には他に託す者もいないため、しかたなく慎重に言葉を選ぶ。
「まず私は魔法とかそういうの全然分からないって前提で聞いてほしいんだけど~、フォルちゃんは確かに生きていて、私たちのお家で一緒に住んでるの~。魔王もやめたって言ってたよ~」
「魔王をやめた……?」
「うん、私もよくわからないんだけど~、そういう気分じゃなくなったって感じなのかな~?」
フランチェスカのざっくりとした説明に、ムラヴェイは首を傾げつつも合点がいった。
フォルミーカが生きているのに眷属であるムラヴェイが見つけられなかったのは、隠れ家が巧妙に隠蔽されていたことに加え、フォルミーカの魔王因子が消滅したことにより見つけにくくなっていたからか。さらに以前であれば、フランチェスカを尋問するにしても「命までは取らない」など絶対に口にしなかっただろう。無理やりにでも痛めつけて吐かせていたに違いない。これも主の魔王性が失われた影響か。
「でも魔女の呪い? とかなんとかをかけられちゃって、言いたいことが言えない状態らしいんだよね~」
「魔女……それはもしかして、降た、ん……ぐ、ぎぁああ!!??」
突如ムラヴェイが苦悶の表情を浮かべ、歯をがちがちと鳴らし始めた。それを見たフランチェスカは慌ててムラヴェイをとめる。
「はいストップストップ! えっと……ムラヴェイちゃん昨日何食べた~?」
「ぅ、ぐぅ……? その辺の、流木でありますれば……この世界の木材は味は良くても、流石に塩気がきつくて喉が渇いたでありますれば」
「そりゃそうでしょ~……落ち着いた?」
「え……あれ……」
「うん、どうやらそれが魔女の呪いとやららしいんだよね~。ほら~」
フランチェスカはツナギの胸ポケットから小さな手鏡を取り出し、ムラヴェイに見せる。それを覗き込むと、首元をぐるりと一周、首輪でもかけるかのような醜い痣が浮かび上がっていた。
鏡など見ていなかったため気づかなかった。いったいいつからついていたのだろう。
「やっぱりその痣が呪いとやらの証なんだね~。その魔女のことを口にしようとするとすっごく苦しいんだって~。…………………………強力な自白剤かがせた状態でもダメか」
フランチェスカの最後の小さな呟きは、思考に頭を巡らせていたムラヴェイの耳には辛うじて届かなかった。
確かに、フォルミーカが追っていた魔女のことを口にしようとした途端、喉を万力で締め上げるような苦しさに襲われた。これは恐らく、フォルミーカにかけられた呪いが眷属である自分にまで伝播してしまった結果だ。このような苦しみを主にもさせてしまったとすれば、自分の首がいくつあっても足りない。
「というわけで、現在我が家に居候しながら魔女さん探しをしているらしいの~。この街の近辺に存在してることは確かみたいだけど~、今のところ手掛かりないのよね~。で、ね。私たちとしても~、そんなおっかない人が近くにいるのも居心地悪いからさ~――手伝ってくれるよね?」
「……私としては」
ムラヴェイは小さく頷く。
「願ったりかなったりでありますれば。姫様が魔王を辞したとしても、それはそれとして私は姫様にお仕えするだけでありますれば。そして姫様の元へ連れて行ってくれるというのであれば……」
ありがたい話でありますれば。
そう口にして、ムラヴェイは自分でも驚いた。
これもフォルミーカが魔王を辞し、人の心を取り戻した影響なのだろうか。かつては餌とすら見ていなかった人間を相手に感謝の気持ちなど抱くとは。
「話はまとまりましたかい?」
と、御者席からもう一つ声が聞こえてきた。
声のする方に視線をやると、日に焼けてやけにテカテカしている大柄な男がこちらを見ていた。……気付かなかった。いや、見えてはいたのだが、なんか黒いしでかすぎて人間と認識できていなかった。
「もう着きやしたぜ。そちらの魔族のお嬢さんも連れて行くなら拘束外しやすが?」
「ん。お願いね~、松ちゃ~ん」
「……その呼び方やめてくれませんかねえ、フラン先輩」
巨大な図体に似合わない繊細なため息をつきながら、大男は大きな手でパンと一つ柏手を打った。するとムラヴェイの手首を拘束していた圧迫感がふっと消え、身動きが取れるようになった。
「じゃあ行こっか~。松ちゃん送ってくれてありがと~」
「いや、仕事のついでだったんで別にいいんですがね、フラン先輩……。寺湖田組をタクシー代わりに使うのってこの街でもあんたくらいっすよ」
「えへへ~」
「褒めてないですがな」
大男は大きなため息をつきながら御者席の扉を開け、鉄馬車から降りた。
* * *
「ん……?」
「どったのムラヴェイちゃ~ん?」
山の中腹を過ぎ、もうすぐ異世界邸に着くという時にムラヴェイがふと足を止めて来た道を振り返った。
否、その目線はずっと先にある麓街――紅晴市に向けられている。
「……いえ。何でもないでありますれば」
しかしすぐに向き直り、歩み始めた。
その顔は、侮蔑とも悲哀ともとれる何とも言えない表情で、フランチェスカはつい麓街とムラヴェイの背中を交互に見つめた。
だがまあ、本人が何でもないと言うのだから問い詰めたところで実りはなかろう。表情を見るに、既に心の整理は終えているようだ。
「そっか~」
ふすと小さく鼻を鳴らし、フランチェスカもムラヴェイの後に続く。一体どういう体力をしているのか、棺桶のような巨大な工具箱を担いだ寺湖田組の畔井はかなり前を歩いている。
そのまま3人で特に話すこともなく歩き続けること数分。
木々の影からようやく巨大な洋館が見えてきた。
「ん~、帰ってきた~。久々の下界楽しかったな~」
「ここが姫様のおわす邸であります、れ……ば……?」
はい?
そんな感じの、意味不明の物体を目の当たりにしたような声がムラヴェイの口から零れ落ちた。
フランチェスカとしては畔井が来ている時点で大よそ察しはついていたのだが、まあ初めて見た者にとっては真っ当な反応だろう。
「はははははははははは! 今日はまた一段と珍妙な壊れ方してますなあ!」
担いでいた工具箱をドスンと地面に下しながら高笑いする畔井。
彼の言う通り、異世界邸歴は長いフランチェスカでもなかなか見ない壊れ方を今日はしていた。
「シル○ニアファミリーかな~? 手前の壁だけ綺麗になくなってるね~」
それはさながら女児向け玩具の箱庭の如く、邸の中の構造が丸見えの状態で聳え立っていた。すでに何人か住人が避難して庭まで出てきているが、綺麗に壁だけ消え去っているため倒壊までは至っておらず、人数は少ない。
その少ない人影の中に管理人・貴文と、彼の前で正座させられている二人の人影があった。
「あ、ああ……!」
ムラヴェイが歓喜と安堵が入り混じった声を漏らす。
それもそのはず――人影は彼女の主・フォルミーカとその筆頭従者であるヴァイスであった。
「ひ、姫様……!」
なんで主とその従者が床に正座させられているのかはともかく、本当に生きていた……表情の乏しいムラヴェイが珍しく感情を露にして走り出そうとしたその時。
「あ~、あの感じはまたフォルちゃん摘まみ食いしちゃったのかな~。断面が齧られてるみたいになってる~」
フランチェスカのその一言に、凍り付いた。
「……フランチェスカ。今、何と?」
「え? フォルちゃんが邸の壁を食べちゃったみたいだね~、って~」
「…………」
すうっとムラヴェイの表情が氷に戻る。
「フランチェスカ。このようなことはよくあることでありますれば?」
「え? う~ん、まあこの邸ではよくあることかな~」
「姫様がこの規模の『摘まみ食い』をすることも?」
「よくあるね~」
ムラヴェイは改めて正面の壁が消え去った異世界邸へと目を向ける。
ぱっと見ただけでも横幅は50メートルほど、高さも5階建てほどで天井の高い作りになっているため20メートルといったところか。さらに壁も場所によっては相当厚い。
これだけの質量がどこに消えた?
――もちろん、フォルミーカの腹の中である。
「ひっ」
甲高い、上ずった声が漏れる。
そして次の瞬間。
「姫様ああああああああああああああああああああっ!!!!」
ムラヴェイは憤怒の形相を浮かべ、大地が抉れるパワーで駆け出した。
「は? なん、ぶべらぁっ!?」
そしてそのままフォルミーカの前で仁王立ちして説教していた貴文にタックルをかます。異世界邸管理人にして異端の勇者である貴文をして、あまりにも唐突すぎる不意打ちに対応しきれず遠く上空まで吹っ飛んでいった。
「げぇっ!? ムラヴェイ!?」
しかしそんなことを気にする余裕なく、フォルミーカは突如目の前に湧いて出た眷属に青褪め、仮にも「姫」と呼ばれるには少々下品な悲鳴を上げた。
「あああああ貴女、生きてたんですの!?」
「ええ、幸いにも……姫様に頂いたこの甲殻にて〈グランドアント〉墜落にも耐え、今日まで生き延びておおりますれば……!」
「そ、そうですの……それは何よりですわ……あはは……」
笑うフォルミーカ。しかしその表情にいつもの高貴さと余裕はなく、目を決してムラヴェイと合わせようとしない。
「姫様……」
「な、何ですのー……?」
据わった眼でフォルミーカを見つめ、ムラヴェイはごきっと指の関節を不穏に鳴らした。
「まず最初に、ご無礼をお許しくださいでありますれば」
「え、何……ぅをおっ!?」
フォルミーカの目の前からムラヴェイが姿を消す。
そして次の瞬間には背後に出現し、その両の腕でぐわしと――フォルミーカの腹を摘まんだ。
「ひゃあああああああああああああああっ!?」
甲高い年相応の女の子らしい悲鳴。
しかしそれに臆することなく、ムラヴェイはフォルミーカの腹をもにゅもにゅと揉む。
「……っ! こっ、これはぁっ!! 一体どういうことでありますればぁ!! 姫様ぁっ!!」
「えぇっと、こ、これはぁっ……!」
鬼の形相のムラヴェイを遠巻きに見ながら、フランチェスカは「そう言えば最初の頃より若干丸くなった気がする~、物理的に」と小さく呟いた。
「魔王を辞したということは道すがら聞いておりますれば! ですが姫様はあくまで高貴なるご身分でありますれば! このような駄肉を腹に蓄えるほど堕落した生活を送っていいわけではないでありますればぁっ!!」
「ご、ごめんなさいですわぁっ!?」
「そしてヴァイス様!!」
「は、はい!?」
ひとしきりフォルミーカの腹を揉み終えると、今度は矛先をヴァイスへと向ける。
「貴女がついていながら何なのでありますれば、この姫様の体たらくは! 姫様の健康管理は側近の務めでありますれば!?」
「い、いえ、確かにそうですが……いや、私にも事情がありまして」
「事情!?」
「実は今のこの私はごく最近、姫様によって新たに作り直された私ですので、姫様の記憶の中以上の引継ぎはなされておらず――」
「……なるほど」
「「ひっ!?」」
ムラヴェイの発するオーラに、白蟻の魔王とその筆頭眷属は肩を寄せ合い震え上がる。
「なるほどなるほど。了解したでありますれば……ふふふ」
かつての白蟻の魔王軍が誇る蟻天将――その末席でありながら防衛、そして全軍の教養も担っていたムラヴェイがうっすらと笑みを浮かべる。
「お二人には明日からと言わず、今すぐ『お勉強』が必要なようでありますれば」
「ひっ……」
「お、おおお助け……!」
二人の悲鳴は、残念ながらその場の誰にも聞き届けられることはなかった。