不思議な人格のアリス【part 山】
アフリカ大陸某所――
砂と岩が地平線の先まで埋め尽くす不毛の大地にポツンと湧いたオアシス。そこに嚙り付くように作られた小さな小さな集落の、そのまた外れの小さな小屋。
辛うじて人が住めるだけの生活必需品が揃えられた部屋の片隅で、一人の少女が蒸し風呂の如き室温の中で毛布を頭から被って膝を抱えて座っている。
「 」
少女は一切身動きをせず、ブツブツと毛布の中で常人には理解できない言語で独り言を吐き出す。乾燥地帯特有のはっきりとした陰影の浮かんでいる室内に置いて、その姿はいっそ異様とも言えた。
「 」
乾季真っただ中。更に日中故に温度計は50度を振り切っているが、少女は汗一つかいていない。
汗など、数日前の出来事で冷や汗として一生分出し切った。
あの街から飛び出すように逃げ出し、この隠れ家にほうほうの体で辿り着いてから、少女は食事も水も、一睡すらもとらずに、膝を抱えて蹲っている。
「…………」
と、少女の呟きが、数日ぶりに止まった。
少女の耳に、ザリザリと砂を踏み締める微かな音が届く。集落の人間ではない。歩調からすると音を立てない歩法をとっているらしい――のだが、中途半端に足音を消そうとして失敗している、何とも間抜けな足音だった。
少女は舌打ちをグッとこらえ、僅かに顔を上げて毛布の隙間から部屋へ入るための唯一の扉を睨みつける。
「先輩、水汲んできたっす」
扉を開け、巨体を屈めるように入って来たのは、優しい顔立ちをした青年。地域に溶け込むためなんだろうが、白い民族衣装のサイズが合っていない上に汗をだらだらと流して変装用のメイクが流れ落ちて酷い見た目になっている。どう贔屓目に見ても不審者だ。
「…………」
ギリリと奥歯を砕かんばかりに噛み締めて舌打ちを堪える。
「根を詰めるのもほどほどにしないと、体壊しちゃいますよー」
こいつだ。
この木偶のせいで――
「…………」
少女は感情の爆発を脅威の精神力でグッと呑み込む。
「せめて水くらい飲んでくださいよ。せっかく貴重な水がもったいないっすよ」
……まだだ。
まだ悲観するほどではない。
ここからでも十分取り戻せる。
そう言い聞かせるように心中自身に語りかけ、ほんの少しでも心を落ち着かせようと視界から青年を外す。
開けっ放しの扉の向こうに、黒ローブの男が立っていた。
「……っ!」
少女はその姿を認識するや否や、毛布の下にずっと隠し持っていた拳銃の銃口を向け、即座に発砲した。
銃声は皆無。
弾丸ではなく、魔術によって空気を硬質化させて射出するタイプの魔銃。使用者の痕跡が全く残らないためこれまで愛用してきた得物だったが、この日初めて、魔銃は少女の役に一切立たなかった。
「……っ!?」
「おっと、危ない危ない」
発砲した時には、ローブの男は既に室内に侵入し終え、少女の細腕を横から掴んで拘束していた。見れば、水汲みから帰ってきた青年はとっくに昏倒させられており、床にその巨大を転がされている。
「……っ! っ!!」
「あー、落ち着いて落ち着いて。別に獲って食おうってんじゃないんだから。あの子を気絶させたのは二人で話をしたいから。オーケー?」
言いながら、男はフードを外して顔を晒した。その顔を見た瞬間、少女は目を見張る。
「な……貴方は……大魔術師――」
「しーっ」
男は人差し指を口に当てる。すると少女の口から目の前の男に関する情報だけが発せられなくなった。
「あ、これ便利だな。前に羽黒青年が使ってたのを見様見真似でやってみたけど、応用が効きそうだぁね。後で練習しとこ」
「……何故、貴方のような身分の人がこんな辺境の地にいるのです」
少女の所属している組織の人間であれば知らない者はいない、他組織でさえ知らない者がいればモグリと称されるほどのビッグネーム。そんな組織の長重要人物――大幹部が、こんな一諜報員の隠れ家なんかにわざわざ足を運ぶ理由が想像できない。
「君の上司とは職種柄、色々と懇意にしもらっていてね。報告書を読ませてもらったよ」
「……っ!」
少女の顔が青ざめる。
この男の職種とは、言ってしまえば不穏分子、不安定要素の排除だ。あの街で接触禁忌一族の頭目と、その兄にして接触禁止生物指定されている危険人物と関わってしまって数日。あの街を訪れた本来の目的である魔王の所有する戦艦の残骸と、その際に発見した指名手配犯セシル・ラピッドとその隠れ家と一緒に直属の上司にのみ解読できる暗号形態でまとめ、しばらく消息を絶つと報告はした。そろそろ何かしらのアクションが返ってくる頃合いだと思っていたが、このタイミングでわざわざ向こうから接触してきたということは、つまりはそういうことになる。
トカゲの尻尾となる覚悟はできていた。
しかし、しかしあまりにも早すぎる――この男が早々に動き出すほど、急を要する事態となってしまったのか。
「って、あーあー、なんて顔してんの女の子が」
「……?」
男は苦笑を浮かべながら懐から取り出したハンカチで少女の目元を拭う。……これがパリッと糊のきいたおろしたてであれば絵になったろうが、残念ながらしわくちゃだった。
「おっさん最初に言ったっしょ。別に獲って食うつもりはないって」
「え……」
「安心しな。あの報告書の内容についちゃあ、君の上司と一緒に完全に握りつぶしておいたから。君は件の街に行っていないし、何も見ていないし誰にも会っていないことになっている」
「…………」
腰が抜け、足に力が入らなくなる。ずるずると床に腰が付き、それからようやく呼吸の仕方を思い出したかのように深い溜息が漏れた。
しかしそれも一瞬。弛緩した思考はすぐに張りつめられ、少女は男に向き直る。
「……対価は何なのです?」
「さすがは彼女の『奥の手』だ。話が早くて助かる」
「何が『奥の手』ですか。今はそこの木偶の坊に振り回されるポンコツ諜報員なのです」
「ああ、今は『そういう』キャラ設定なのかい?」
「……要件は」
すっと少女の視線が冷たくなり、対する男はおどけたように肩をすくませる。そして何でもないように、こう続けた。
「君は本日付で俺の直轄部隊に入ってもらうことになった。もちろん表向きは今まで通り諜報部所属で、そこの彼のお目付け役は続けてもらう」
「……懲罰部隊に? 私が? 言っては何ですが、私の戦闘力なんてたかが知れてるのです。事務屋がご入用なのでしたら、貴方の副官で十分なのです」
「いーや、そっちじゃない」
クククと、男は演技がかった笑みを浮かべる。
「まだ非公式で名前すらないんだが――とりあえず、『独立秘匿遊撃隊』と呼んでいる」
* * *
異世界邸――
「今日も今日とてよく飽きもせず……!」
管理人代行・白峰零児は懐から取り出した胃薬の瓶を逆さにし、掌の上に形成された錠剤の小山を一息に飲み干す。用量以上に飲んでも意味はないことは分かっているが、飲まないとやってられない。
「いつも大変だが今日は特にやばかったな……」
前菜――フランチェスカの実験失敗 ~居住区の爆破~
スープ――レランジェ特性ドジっ子メイド☆うっかり転んで頭上から王水
肉と魚料理――トカゲとポンコツの正面激突、駄ルキリーを添えて
サラダ――白蟻魔王と迷宮魔王の地盤沈下風
デザート――残念な堕天使のテーゼ
ドリンク――追加請求書と胃薬のシェイク
なんか、そんな感じのフルコースが成立しそうな勢いだった。いや、邸が半壊瓦解するのはいつものことだが今日は一段とハイペースだった。どうでもいいが、邸が半壊するたびに修復のため山を登り下りしているはずの黒光りマッチョは全く堪えているように見えない。どういう肉体構造をしているのだろう。
「ああ……思い出すとあの笑い声が脳内に……」
今日だけで何度聞いたかわからないあの無駄に明るい耳をつんざく笑い声。あの笑い声=邸の損壊という公式がすでに零児の中で成立してしまっているため、耳鳴りすら胃袋的に致命的だった。
「あ、だめだ。今日はもう休もう……」
耳鳴りが本格的に危険な領域に入り始めた。笑い声の脳内再生に加えキィンという響く音。そこにガンガンとリズミカルな音までなり始めた。
鼓膜を直接ノックするような眩暈に耐えつつ、ふらつく足を叱咤激励して仮眠室へと向かう。
が、どうもおかしい。
管理人室を出て玄関ホールに近付くごとに耳鳴りが大きくなる。
「なんだ、これ……本当にノックされてるような」
ガンガンガン!
「って本当にノックだった!?」
馬鹿な、ありえん。
零児は信じられないものを見る目で微かに震える玄関の扉に視線を向ける。
「こんな時間に誰だ……? 自分の家にノックして入るやつはいないし……そもそもノックなんて単語を知ってるかどうか怪しい連中ばっかりだし……」
と、なると邸の外の人間しかないが、大工の黒光りマッチョはさっき帰ったばかりだし、基本的に非常事態でない限り自分から来ることはない。もう一人心当たりがあるとすれば、麓の街で雑貨屋を営んでいる誘薙(信じられないことに零児の上司の兄らしい。世も末である)だけだが、そっちもそっちで呼ばない限り絶対に来ないはずだ。
じゃあ一体誰なんだと零児は身構えながらゆっくりと扉に近付き、そっと覗き窓から外を窺う。
「あ……こんばんは、なのです。夜分遅くにすみません」
「え? あ、あれ!?」
そこに立つ、見覚えのある小柄な少女に零児は慌てて扉を開けた。
「えっと、アリスさん?」
「はいなのです。お久しぶり……ってほど、経ってないですかね」
そこにいたのはアリス・ユニ――数日前、異世界邸に事故で転移してきたという魔術師だ。最初は数日滞在してから帰国する予定だったのだが、呼び出しを食らったとかで酷く慌てた様子で数時間と経たずに去って行った記憶は新しい。
その時は零児のうっかりで頭上から水をぶちまけてしまった上に突然の転移で若干混乱していたようだが、今日もどことなく顔色が悪いように見える。
「とりあえず、中にどうぞ」
「ありがとうなのです」
魔術師らしいローブを脱ぎ、小さく笑うアリス。その毒気のない可愛らしい笑みに零児はちょっとドキッとして、ああそう言えば最近こんな「普通の女の子」と接した記憶ねえや、と胃が痛くなってきた。アリスは魔術師だけども。
「それで、どうしたんですか?」
アリスを管理人室に案内する。事務を肩代わりしてくれている栞那は作業がひと段落したらしく、今日はもう自室に帰っていた。
「まあ……何と言いますか」
コーヒーを入れてアリスに出し、話を促す。すると彼女は盛大に眼を泳がして良い淀む。
数秒の沈黙。居たたまれなくなって零児から話しかけようとした時、アリスは意を決したようにこう口にした。
「私……お仕事クビになったのです……」
「え……」
今度は零児が沈黙する番だった。
なんというか、どう返せばいいのか分からない。
一応アリスは零児より年下だ。しかし魔術機関とは言え組織に勤め、給金をもらって生活しているという点では零児よりも社会の先輩と言える。そんな彼女の口からこぼれた「お仕事クビになった」という言葉に、何と声をかけたらいいのか見当もつかない。
「私、実はこれでも結構チームでも重要なポジションについていたのです。それが実験の失敗で突然行方不明になって、そこから責任問題まで発展してしまい……あれやこれや言われているうちに、寮まで追い出されてしまい……」
アリスが事情を説明する。単語がその口から溢れるごとにどんどん目が死んでいくのが零児には見て取れた。正直重い。重すぎる。
「それで、これからどうしようか考えたところでここを思い出しまして……」
「う……はい……」
「ここ、今は管理人さんが体調不良で入院中なのですよね? それで、零児さんが代わりに入っていると」
「まあ、俺ができるのは荒事ばっかりで、事務は栞那さんと那亜さんにまかせっきりなわけだけども。……その事務も、那亜さんが休暇で回らなくなってきてるわけだけど……」
「……そうなのです?」
と、アリスが俯き気味だった顔を上げた。心なしか顔色もほんの少し良くなっている。
「ああ。すぐにでも人手が欲しいんだが、今いる住人で真っ当に事務仕事できる人が栞那さん以外にいなくて――」
「でしたら!」
ぐいっとアリスが顔を近づける。その食いつきように零児は思わず背を剃らせた。
「私を、雇いませんか?」
「え!?」
「私、元々は事務屋なのです。こちらの言葉も仕事で使うので覚えましたし、即戦力になれると思うのです! というか職と家を下さい!」
「ちょ、まっ、落ち着いて! ここの仕事、たぶんアリスさんが思っている何百倍も過酷で――」
「話は聞かせてもらったぁ!!」
ばぁん! と盛大に音を立てて管理人室の扉が開け放たれた。
そこには、寝間着に白衣を羽織り、火のついていない煙草を口に咥えた栞那が仁王立ちしていた。
「あーあ……来ちゃった……」
「君の話は以前そこの代行から聞いている。わざわざ戻ってきてくれてありがとう! 部屋はどこでも好きなところを選んでいい。だが3階は定期的にフロアごと吹っ飛ぶからおすすめしない。必要なものがあれば何でも言ってくれ、その都度ウィリアムが揃える。明日からすぐに仕事に入ってもらう! 今日はもう遅い! 明日のために英気を養いたまえ! では!」
ばん! と再び盛大な音を立てて閉じられる扉。それを呆然と眺めながら、アリスは「は、はあ……」と頷くしかなかった。
「捲し立てるだけ捲し立てて帰っていったな……まあそれだけ栞那さんも限界だったんだろうな……」
「が、頑張るのです……」
小さく頷くアリスに、零児は執務机の引き出しを開けて中から板切れと凹凸のない金属棒を取り出した。
「? なんなのです?」
「表札と部屋の鍵。好きな部屋に表札をかけて、鍵穴にこの棒を差し込めばそこの鍵になる。原理は知らないけど」
「不思議な鍵なのです……」
「さっき栞那さんも言ってたけど、空き部屋ならどこ使ってもいいから。表札がかかってないのが空き部屋ね。ああ、それとさっきの人医者だから、体調が悪くなったら医務室かあの人に直接言えば診てくれる」
「わかったのです」
「それじゃあ、明日からよろしくな」
「はい。……あの」
「ん?」
アリスが深々とお辞儀をする。
「突然押しかけて、その日のうちに家と職までいただいて……本当に、ありがとうなのです」
「……まあ、幸運を祈るよ」
邸の実情は身をもって知っているだけに、心の底から歓迎できない零児だった。
* * *
「さて、潜入は出来たわけですが……」
渡された表札と鍵をローブのポケットに無造作に突っ込み、アリスは歩みを進める。
既に深夜といって差支えのない時間帯。異世界邸でも数少ない平穏な時間帯であることも幸いし、辺りに人気はない。アリスはあえて何の隠蔽工作もせず、フルオープンで探索魔術を発動させる。
「……いたのです」
分かってはいたが、実際にその存在を感知するとさすがに緊張する。
何せ相手は世界魔術師連盟史上最高額の賞金首だ。その曲者具合は資料を読んだだけでうんざりする。
「…………」
アリスは真っすぐに2階居住区画最奥部に位置する289号室を目指した。
歩みを勧めながら、アリスはいくつかの魔術を構築する。その一つ一つは大した効果も意味もない、連盟所属の魔術師にとっては初歩も初歩の魔術だ。だがこれから対する相手からすると、そこに込められたメッセージは無視できないものであるはずだった。
「…………」
289号室の扉は、派手な行動で散々連盟を小馬鹿にしてきた彼女にしては、何の装飾も施されていない殺風景な造りになっていた。しかしそこに仕掛けられた不可視の魔方陣は無数に折り重なっており、この部屋だけ世界最高峰の要塞と化していると言って過言ではなかった。
そっとドアノブに手を伸ばす。すると扉は音もなく開かれた。
そのことにほっと息をつく。どうやらこちらの意図は伝わっているらしい。
「…………」
一度大きく深呼吸し、明かりのついていない部屋に入る。
バタン。
足を踏み入れた瞬間、背後で扉が閉じた。振り向くと、やけに冷たい瞳の褐色の肌を持つメイドが扉の前に控えていた。
魔術実験体№0707――確か、それが彼女に与えられた番号だったはず。廃棄寸前のところを彼女に拾われ、新たに人として名を与えられてからは、何と呼ばれていたのだったか。
「1868年7月23日発表、恐怖心をやわらげる魔術『怖いもの見たさ』」
と、部屋の奥から声が聞こえてきた。
「1899年3月18日発表、動悸を抑える魔術『豪胆』。1904年8月1日発表、空腹を紛らわす魔術『やつどき』。1922年11月9日発表、欲求を抑える魔術『他所は他所』。1923年1月30日発表、環境対応の魔術『避役』。1935年8月15日発表、隠密の魔術『Shadow』。1948年6月21日発表、自己を殺す魔術『ノンアイデンティティ』――そして1950年5月27日発表、複写の魔術『ドッペルゲンガー』。これが最後のお仕事だっけ♪ あっははー、チョー懐かしい☆ ぜーんぶ覚えてるよん♡」
ボウっと小さな明かりが灯る。目を凝らすと、部屋の主が卓上のランプに火を点けたらしかった。
「全部全部ぜーんぶ、このセシルちゃんが連盟にいた頃に片手間で魔方陣に作り替えた魔術だね♪ それもかなりマニアックなチョイス☆ まだ現役で使われてるとは流石に驚きだったけど、それをわざわざ制作者であるセシルちゃんに見せつけるなんて、さては君、セシルちゃんのファンだな? 照れちゃうぜ♡」
豪奢な装飾が施された椅子にふんぞり返って腰かける小柄な女性。フードを取り付けた改造白衣を羽織るその姿で最も目に付くのは、やはり右眼球を含む顔の左半分以外全てに施された魔術的な刺青だろう。
魔術師連盟元大幹部――魔法陣の権威セシル・ラピッド。
彼女は口調とは裏腹に全く笑っていない瞳をこちらに向ける。
「君、何日か前もこの邸に来てたよね? その直前に連盟ともつながりがある本屋さんと会ったからそこから漏れたのかと思ったけど、タイミング的に早すぎるから傍観してたけど、あの感じだと偶然引き当てたのかな♪ すっげー強運☆ 誇りに思いなよ♡」
「……それはそれは、ありがとうなのです」
「ま、ま♪ つもる話もあるだろう、掛けなよ☆」
セシルがそう口にすると、アリスの体が勝手に背後に倒れた。しかしそのまま転倒するということはなく、いつの間にか出現していた椅子にドスンと尻餅をつくように腰かけさせられた。
「…………」
試しに立ち上がろうとして見たが、足どころか指一本動かせない。自由が効くのは視界と口だけのようだ。
「あなたに伝言を持ってきました、セシル・ラピッドさん」
「伝言? 逮捕状の間違いじゃねーの♪」
「そちらの方がご希望でしたらいつでもご用意できますが」
「ちょーいらねー♪」
そう言って何が楽しいのか顔面の刺青を歪ませながらセシルはケタケタと笑う。
「それじゃ、ま、聞いておこうか♪ 言っとくけどセシルちゃん、これでも忙しい身だからくっだらない内容だったらぽちの餌にしちゃうぞ☆」
「だぁいじょうぶ。がっかりはさせないよ、セシルちゃん」
アリスの口調が変わった。
突然の変貌に、セシルも一瞬怪訝な表情を浮かべる。しかしすぐに合点がいったのか、「ああ……」と小さく頷いた。
「人格転写の魔術か♪ それも基礎理論はセシルちゃんだね☆ その無駄に高い完成度を見るに、あのクソくだらない研究、まだ続いてたんだ♡」
「いや、アレ、結構前に俺が凍結させといたよ。人格を別の肉体に移し替えてお手軽不老不死とか謳ってたからね。この子はその実験体の生き残りでね」
「ふーん、やるじゃん♪」
「かつての大幹部様にお褒めに与るとは光栄の至りだぁね」
「もーっと褒めてあげるから、いい加減名乗ったらどうかな♪」
「それはあなたの対応次第」
アリス――否、アリスが写し取った魔術師の男の人格は不適に笑う。
「おっさんややこしいお話し苦手でね、端的に言おうか。取引をしよう」
「内容は?」
「セシルちゃんがここに潜んでいるのを黙っておいてあげるから、俺の部隊に技術提供してくんない?」
「ダーメ♪」
即答だった。
セシルはケタケタ嗤う。
「人格転写の弱点って知ってるよね♪ ズバリ『転写元と被験者がリアルタイムでリンクできない』ことな☆ 今ここでセシルちゃんがこの子を消しちゃえば、君はこの邸との唯一のつながりを失うことになるわけだ――言葉は選べ。それは交渉ではなく脅しだ」
「……こいつは手厳しい」
男は苦笑を浮かべる。そしてすぐに表情を改め、セシルに向き直る。
「まあ別に言いふらす気はないから安心しておくれ。とりあえず、こちらの要求は君の魔術師としての技術だ。この部屋に無造作に転がっている時代を先取りしすぎて現状無用の長物となっている物ものも、言い値で引き取ってもいい」
「へえ、太っ腹ぁ♪ でもセシルちゃんも卸先に困ってるわけじゃないからなあ☆ この前の本屋さんもいい取引相手になってくれそうだし♡」
「ま、君の技術が無暗に流出しないようにするのもおっさんの目論見なわけだけど」
「おおっとぶっちゃけるね♪」
「裏表のない性格なもんで」
「よく言うぜ♪ ちなみにセシルちゃん、もう君が何者なのかはおおよそ特定できてるぜ☆ この狸親父♡」
「どうも僕テオフラストゥス・ド・ジュノーっていうんだ! よろしくね!」
「それ、逮捕された君のオトモダチだろ♪」
「あれ、もしかしてマジでばれちゃった?」
「ふふん♪ セシルちゃんに不可能はないのだ☆」
自信満々に笑うセシルに男は表情を引きつらせる。一度咳払いし調子を整え、再度セシルに向き直る。
「とにかく、君には俺の部隊専属の技術屋になってもらいたい。もちろん正式な配属でなくて構わない。金払いの良いスポンサーがついたと思えばいい」
この申し出に、異世界邸きっての守銭奴と名高いセシルは、しかし未だ渋い表情を崩さない。
「んー……確かにセシルちゃん、お金は欲しいけど、やっぱり君を贔屓にするメリットはないんだよなあ♪ 何より連盟は口煩いからできるならもう一緒にお仕事したくないし?」
「先達がどうだったかは知らないけど、俺はそんなことしないけどね」
「口では何とでも言えるしー?」
「んじゃ、更にもう一つ対価を追加しよう」
言うと、男は静かに目を閉じる。一体何をするつもりなのかとセシルが好奇心と不信感半々の視線を投げかけると、男の――アリスの纏う雰囲気が再び変わった。
「第一段第一列――」
「……!」
アリスの目の前に虚空から一冊の本が出現した。その本に、セシルは目を見開いて釘付けになる。
宙に浮いた本のページが開かれる。すると本の中から魔法陣のような幾何学模様が浮かび上がった。
その紋様は複雑奇怪。一目ではセシルの全身に彫りこまれている物との違いはないように見える。しかし見る者が見れば、それは根本の理論から全く異なっているということが見て取れる。
「――〝朧〟」
アリスの言葉に反応し、魔法陣は一度光を周囲に放ち、部屋の中を僅かに明るく照らした。その光に目を一瞬焼かれながらも、セシルは視線を逸らさない。
だが、それだけだった。
光はすぐに力を失い魔方陣ごと消え去り、部屋が静寂で包まれた。
「…………」
その間にもアリスの雰囲気が三度代わり、先程までの男の人格が浮かび上がって来た。
「……君が連盟を抜け出す時に破壊した、君自身のブラックボックスを修復するのに10年かかった。それをさらに開封し、解読するのに20年を費やした。そこで見つけた1分弱の映像記録――かなり劣化していたし、元々の画質が悪くて正直ギリギリだったけど、この子は見事被写体の人格を転写してみせた」
「……その、『魔導書』は……!」
「俺個人の協力者で、雑貨屋を営むヤクザみたいな男がいてね。彼がたまたま入手したこの本を、かなり無理言って譲ってもらったんだ。著者も執筆時期も出所も不明、用途まで未知。明らかに魔術的な何かが施されているのに誰も解析できない。あまりに不明なことが多すぎて異世界から流れ着いたんじゃないかって話が最有力説というお手上げ状態」
「…………」
「だけどこの本、この子が転写した映像記録に移っていた人物が使っていた技術を用いた時のみ、さっきやったみたいな魔術反応を起こす。現状、反応だけで発動はしないけどね。流石に映像からの間接的な転写だとこれが限界みたいだぁね」
「…………」
「くく、そんな物欲しそうな顔しなさんな。美人が台無しだよ?」
言うと、男はその本をセシルに差し出した。
「研究、進んでないんだろ? あげるよ」
「……おいおい、おいおいおいおい……マジかよアンタ……」
「君が生み出す物にはそれだけの価値がある。最初に言ったろう、これは取引だ。俺たちに技術を寄越せ、代わりに君の知的好奇心を満たしてやる」
「くく……かはは! あはははは! 最高かよアンタ!」
セシルは笑う。
この数十年でこれほど笑ったのは本当に久しぶりだった。
「いいぜぇ……乗ってやる♪」
言うと、セシルは毟り取るように本を掴んだ。
「ただし従属はしない♪ セシルちゃんがこの魔導書をどうしようが口出しはするな☆ 代わりにこの部屋の物は好きに持って行っていい♡」
「感謝するよ、セシル・ラピッド」
言うと、男は瞳を伏せる。そして次の瞬間には雰囲気が変わり、元の少女の空気に戻った。
「……それでは、私はこれで。しばらくはこちらでお勤めさせていただくことになりましたので、何かありましたらどうぞなのです」
「……正気かい、君?」
「代行もそんなこと言っていたのですが、少々大げさでは?」
「いや、君がいいならいいんだよ♪ ま、取引が成立した以上、こちらからの過干渉はしないよ☆ せいぜい死なない程度に頑張りたまえ♡」
言うと、セシルは小さく指を振る。するとアリスの四肢を拘束していた不可視の力が消え去った。立ち上がり、二度三度手足の調子を確かめていると、ずっと背後の扉の前で控えていたメイドが扉を開けた。
アリスは無言でその扉を潜り、振り向くことなく廊下を歩く。
背後からの扉が閉まる音と「よっしゃああああああああああふぉおおおおおおおおおおおおおおお!!」という雄叫びを背中に感じながら、しばらく進む。
と、ふらりと足がもつれる。
「うっ……くぅ……」
限界だった。
アリスは床に倒れ込み、動悸を抑え込もうと魔術を発動――しようとして、この魔術もあの女が開発したものだと思い出してすぐに取り消した。
セシルと対峙していたのは、アリスが複数所持する転写した人格の一人だが、言葉選びや精神構造を寸分違いなく再現しているだけにすぎない。精神的悲嘆や肉体的疲労は全部アリスの物であるため、相手によっては過負荷以上の何物でもない。
しかもアリスが現状メインで使っているこの人格は、外部からの刺激に若干弱い。その分ギリギリのところでしぶとく、我慢強さだけは一級品であるため今まで使ってきたが、この仕事から解放されたら切り替えることも視野に入れなければならない。
「あれ? あれれ? あー!」
「……?」
年端もいかない少女特有の甲高い声が聞こえてきて、アリスはゆっくりと顔を上げ――後悔した。そこにいたのは爪先から髪の先まで白一色の幼女。
アリスがこんな任務を押し付けられた原因の一人でもある、瀧宮白羽だった。
「アリスちゃん! アリスちゃんですわよね!!」
「ああ、はい……そうなのです。えっと、確か……」
「白羽は白羽ですわ!」
悲しいことに存じております。とは、流石に言えなかった。
「ああ、そうです。白羽さん。お久しぶりなのです」
「はい! 先日は急に帰られてしまって、寂しかったですわ!」
その原因はあなたとあなたのお兄さんですよ。とは、流石に言えなかった。
「実は白羽、今週末だけこの邸にお世話になっていますの!」
「そう言えば、そんなことを言っていたのです。今日がその日なのです?」
「はい!」
返事は元気があってよろしいがバッドタイミングすぎる。とは、流石に(以下略)。
「アリスちゃんはどうしたんですの? お仕事があったから帰られたのでは?」
「あー……まあ、そうだったんですが……その、今度からここで働くことになったのです」
「……!!」
そのものすっごい嬉しそうな顔は何だ。とは、(以下略)。
「で! で! でしたら! アリスちゃん、白羽と一緒の部屋にしませんこと!?」
「は?」
「白羽、週末しかここにいませんし、そもそも白羽にはここの部屋は広すぎますの。でもアリスちゃんと一緒ならちょうどいいと思いますの! ね、ね! いいですわよね!」
「え、でも――」
「そうと決まったらお部屋にGO! ですわ! 白羽も今日の夜から本格的にお仕事開始でしたの! たくさん運動して疲れたので一緒におねんねしましょう!」
なにが「なので」なんだ放してくれ! とは流石に言えなかったが物凄く声に出したかった。
白羽はその細腕のどこにそんな力があるのか、小柄とは言え成人女性のアリスを軽々と頭上に抱えて走り出す。
「ちょ、白羽さん! 私はまだ何も――」
「それに羽黒お兄様も仰ってましたの! アリスちゃん、羽黒お兄様のお友達とお知り合いなのでしょう? その方から羽黒お兄様を通して『助けてあげて欲しい』って頼まれていますの!」
「……!」
あの狸親父……!
アリスは人格のストックから即刻あの男を削除することを決めた。
「というわけで何か困ったことがありましたら白羽に仰ってください! 白羽がなーんでも助けてあげますからね!」
「……ああ……はい……なのです……」
現状に既に困っている、と言いたくなったが、アリスの現時点での人格はグッとこらえてしまった。
ここでの生活が代行やセシルが言う通り、前途多難なものとなることをはっきりと未来視してしまったが、この我慢強い人格は何も言い返せず受け入れてしまった。
やはりこれが終わったら切り替えよう。そう心に誓ったが、それがどの人格の決意なのかはアリス自身にも分からなかった。