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異世界アパート『異世界邸』の日常  作者: カオスを愛する有志一同
管理人不在の異世界邸
68/169

世界喰みの迷宮【part 山】

 その日、異世界邸の事務仕事を片付けていた栞那は時計を見て「ん?」と首を傾げた。

 普段、朝食時間の営業が終わり、昼の仕込みを早々に終わらせて9時には管理人室にやって来る風鈴家の女将・那亜が、朝の10時を過ぎても管理人室に姿を現さないのだ。

 別に時間を指定しているわけではない。栞那も手が空いている時に管理人室に足を運ぶようにしているため、日によって来る時間が朝からだったり昼からだったりとバラバラだが、生活リズムがほぼ固定している那亜はきっちりと決まった時間に管理人室にやってきていた。

「珍しいな……何か急用でもできたか?」

 いや、それにしても生真面目な那亜のことだ。来られないなら一言断っていってもおかしくない。

「…………」

 一瞬だけ、脳裏を嫌な想像が奔った。しかしすぐにいやいやと首を振る。今朝朝食をもらいに行ったときは普通に元気であったし、そもそも那亜も戦う能力がないだけであって立派な人外である。早々滅多なことがあるとは思えない。

 とは言え、である。

「様子くらい見に行った方がいいか……」

 雑務はまだまだ山積みだが、幸いキリがいいところまでは終わらせた。気分転換がてら、風鈴家まで足を運ぶのもいいだろう。

 そう思い立ち、栞那はペンを置いて執務机から立ち上がって扉へと歩み寄りドアノブを引いた。


「……待っていたのであーる」


 巨大なチワワの顔面が視界を埋め尽くした。

「…………」

 一瞬思考が停止し、条件反射的にドアノブを押して扉を閉じた。が、「待つのであーる!?」と短い鼻先を押し当て、巨大チワワ――ジョンはそれを阻止する。

「……なんで、お前、中にいる」

 大して鍛えているわけでもない極々一般的な腕力をフルに活用し、扉を押し込める。しかし鼻の弾力で多少閉まる程度で、マンモス級のチワワの全力の踏ん張りに敵うはずがない。

「だから待つのであーる! それを説明するためにも、まずは出てきてほしいのである!」

「遊び相手なら那亜か神久夜……は、今日は見舞か……駄ルキリー辺りにでも頼め! あたしみたいな一般人は、ちょっとじゃれつかれたら即死なんだよ!」

「だから違うのである! いいから、吾輩に説明させるのである!」

 その後も開けろ閉めろの文字通りの押し問答は続いたが、最終的に栞那が折れて扉を開けた。

「で、何だ一体」

「まずは廊下に出てきてほしいのである」

「……?」

 ジョンは立ち上がり、出入り口をふさいでいた鼻先をどけて道を譲った。

 それに栞那は首を傾げる。

 確かにこの邸の廊下は広いが、それはあくまで一般的な建築物と比較した場合だ。ジョンのような巨大生物が立ち上がれるサイズはないし、そもそもジョンの体躯では内装を破壊しながら入らない限り屋内に侵入できない。

 だがそれにしては、部屋の前に陣取られるまでそのような破壊音は聞こえなかった。

 しかし、その疑問はすぐに解消された。

「なんじゃこりゃ!?」

 目の前の光景に、開いた口が塞がらない。

 見慣れた木製の深みのある色合いの廊下は綺麗さっぱり消滅し、代わりにジョンでさえ余裕で通れる石造りの寒々とした巨大な通路が出現していた。

「…………」

 脳裏を問題児(バカ)共の顔が順々に過っていく。

 犯人はいったい誰だと瞬時に考えたが、しかしこの邸の面子でこんな劇的ビフォーアフターを実現できる奴は思い浮かばない。強いて言うなら魔方陣の権威セシル・ラピッドだが、どうすればこんなことになるのか全く予想できない。

「ああ、今回の件に関しては、トカゲもポンコツも魔術師もマッドサイエンティストも駄ルキリーも、この前来たばかりの堕天使も無関係なのである」

「? 何故言い切れる」

「そう言えばお医者殿はちゃんと見たことはなかったのであるな」

 ジョンは深いため息とともに周囲を見渡す。

 青く不気味な炎が灯る無数の燭台が並ぶ廊下は、見る者の不安感と焦燥感を煽る。しかしジョンは、懐かしむようにくりっとした大きな目を細めた。

 と、その時。


 ガリガリガリ……

 チチ……ヂ、ヂヂヂ……

 タタタタ……


 人の不快感を直に刺激するような耳障りな音が、薄暗い通路の奥から聞こえてきた。

「な、なんだ?」

「お医者殿! 吾輩の腹の下に入るのである!」

「なに?」

「急ぐのである! そこなら幾分かは安全なはずである!」

 ジョンの切羽詰まった声音に、栞那慌ててジョンの腹の下に潜り込む。それを確認すると、ジョンはぐっと姿勢を低くして唸り声を喉の奥から響かせる。

 その瞬間、ジョンのまとう魔力がバチバチと音を立てて燃え上がった。ジョンの長くふわふわとした体毛が容赦なく焼かれ、あっという間に全身が火達磨と化す。

 赤々と燃えるその姿は、さながら鮮血を浴びた狼のようであった。

「……っ!?」

 栞那はぎょっと目を瞠る。しかし栞那がいる腹側だけは薄茶色のふわふわの犬毛のままで、炎の熱さも不思議とそれほど気にならなかった。

「お医者殿、絶対に腹の下から出てはいけないのである」

「あ、ああ……。なあ、教えてくれ。今この邸に何が起きている」

「…………」

 炎をまとうジョンは一瞬、答えるのを躊躇った。しかしすぐに、通路の奥に怪しく光る何対もの目が浮かび上がり、ようやく現実を受け止めて牙を剥いた。


「ここは間違いなく、ノルデンショルド地下大迷宮第三階層……恐らくは、我が主君(マイロード)の力が何らかの原因で暴走しているようである」



     * * *



 ノルデンショルド地下大迷宮第八階層。

 第三階層のじめっとした陰湿な空気と比べ、こちらは雰囲気ががらりと変わっていた。

 石造りの通路が複雑に入り組んでいる点では共通しているが、いたるところに巨大なパイプ這っており、突き出した断面からどこへと続くかも知れない奈落がいくつも存在していた。


「「にゃああああああああああああああああああああ!!??」」


 その複雑奇怪な通路に、二匹の猫の悲鳴が木霊した。

「なんなのなんなのなんなの!? もうわけ分かんないし!!」

「水矢にゃん口より足を動かすですにゃ!」

「動かしてるし!!」

 ガンガンガンと床のパイプを踏みつけながら、盛大に足音を響かせる赤いサイドテールのメイド服姿の少女――蘭水矢。そしてその横を、肉球のついて小さな手で器用に端末をいじりながら二足走行する猫のような生物――三毛が全力疾走する。

「もう何なの! ウチ真面目に仕事してただけー!!」

「真面目に仕事する人は廊下を画廊にしないですにゃ」

「廊下と画廊ってなんか語呂良いね!」

「誤魔化し方が雑にゃ!?」

 雑にもなろう。

 水矢は走る速度を緩めず、ちらりと背後を確認する。

 一見するとそこには何もいない。どこまでも続く通路に巨大なパイプが幾重にも折り重なって壁や床、天井を覆っているだけだ。

 だが確実にいる。

 パイプの接合部に何かがぶち当たるボンボンボンという破裂音を鳴り響かせながら、ソレは確実にこちらに迫ってきていた。

「「右!」」

 と、掛け声と同時に二匹が同時に右側に跳ぶ。

 瞬間、とあるパイプから鈍色の巨大な何かが飛び出し、一瞬前まで二人がいた位置に叩き付けられた。

「…………」

 床に張られていたパイプを力ずくで引き千切り、ごくりと丸呑みにした。

 鋼のような光沢のある鱗に血のように赤い瞳。世話しなく出し入れされる気味の悪い動きをする舌で周囲を探るその姿は、蛇そのものであった。

「…………」

 大蛇はするりとパイプの中に首を引っ込め、縦横無尽に張り巡らされたその中を破裂音を響かせながら這いずり回る。

「「うにゃああああああああああ!?」」

 狩りを楽しむように徐々に近づいてくる破裂音。それに堪らず、水矢と三毛は悲鳴を上げながら再び駆け出した。

「あ! 検索結果出ましたにゃ!」

「にゃ?」

 と、ずっと端末をいじっていた三毛が声を上げた。何事かとそちらを見ると、三毛が端末の画面水矢にも見えるように向けた。


もしかして→

【大地削ぐ蛇腹】

 出身世界:楽響世界ナグ・シエル(滅亡済み)

 討伐難易度:-

 懸賞金:―

 備考:『迷宮の魔王』グリメル・D・トランキュリティ率いるノルデンショルド地下大迷宮第八階層支配者。五千年前に巫祝世界バッカニアにてグリメルと他階層支配者と共に封殺された。


「……にゃ?」

「にゃ? ではないですにゃ。たぶんアレ、那亜さんが世話してる赤ん坊姿の魔王の何かですにゃ」

「いや、そうじゃなくて」

 走る速度を落とさないまま、水矢は首を横に振る。

「今重要なのはあの蛇が何なのかじゃなく、どうやって逃げるかだし」

「…………」

「…………」

「……にゃあ」

「この駄猫!! こういう時に限ってとことん使えないし!」

「ただ逃げ回ってるだけの水矢にゃんに駄猫にゃんて言われたくないですにゃ!」

「ウチの能力じゃアレに何かできるわけじゃないだけだし!」

「やっぱり駄猫にゃ!」

「うるさいし! そっちこそ、悔しかったらこの状況を打開する情報を引っ張り出すし!」

「おうやってやるにゃ! ……出ましたにゃ!」

「早い!」

「あの蛇は第三階層支配者の〈侵略する群衆〉が大好き(食欲的な意味で)らしいにゃ! だから第三階層まで逃げれば注意がそちらに向くにゃ!」

「駄猫!!」

「にゃんと!?」

「第八から第三までどうやって行くし!? エレベーターがあるわけでもないし!」

「……にゃあ」

 その時、近くの壁に張り巡らされたパイプから、ポンポンポンとひときわ大きな破裂音が聞こえてきた。

「「にゃああああああああああああああああああああ!?」」

 再び響く二匹の猫の絶叫。それを楽しむように、〈大地削ぐ蛇腹〉は執拗にパイプの中を這いながら追いかけ続ける。



     * * *



 ノルデンショルド地下大迷宮第二階層。

 ただただ真っすぐに伸びる長大な通路のようなフロアを、ベーレンブルスの勇者アルメルと、ライトノベル作家呉井在麻は息を殺して慎重に歩いていた。

「…………」

「…………」

 二人は無言で、周囲に注意を配りながらゆっくりと歩を進める。

 音を立てないように細心の注意を払い、呼吸にも気を遣いながら冷や汗を浮かべながら通路を進む。

 と。


 カツン


「「……っ!」」

 古ぼけた石造りの床のひび割れて浮き上がった石畳に、アルメルの靴のつま先が小さく当たった。

 その瞬間、通路の奥の魔力の気配が爆発的に跳ね上がった。

「――岩よ!」

 アルメルは短く呪文詠唱し、懐から取り出した紙切れを壁に叩き付けた。

 紙を中心に瞬時に展開された魔法陣。陣の刻まれた石壁はボコッと音を立て、砂塵のように崩れて大きな窪みが生成される。

 その窪みは徐々に壁を侵食していき、装飾はないがしっかりとした造りの石造りの通路が生成された。

「くっ……」

 二人は新たに出現した通路に転がり込む。その瞬間、元々ある方の通路を巨大な何かが目で捉えられない速度で通過していった。


 どぉん……


 後方から何かが岩に衝突したような音が響く。在麻が注意しながらそっと覗くと、先程と比べると遥かにゆったりとした――それでも乗用車並みの速度で巨大な獣がこちらに走ってくるのが見えた。

「おっと」

 慌てて首を引っ込め、息を殺してそれが通過するのを待つ。

 石畳を音を立てて蹴り進む巨大な獣――一瞬だけ通路を横切った姿が、アルメルには鉄仮面を頭部に装着した猪のように見えた。

「……行きましょう」

「待って」

 猪が通過したのを確信し、アルメルは立ち上がって通路に戻ろうとする。しかしそれを床に腰かけた在麻が袖を引っ張って止める。

「流石におっちゃん限界。ちょっと休んでかない?」

「……あ、すみません。気が付かなくって」

「いーよいーよ。それにアルメルちゃんも疲れてるっしょ。あの猪、この直線の通路しか動けないみたいだし、ここならゆっくり休めるでしょ」

「はい……」

 在麻の言葉に、アルメルも腰を落とす。するとここまでの緊張感と普段の研究の寝不足からか、すぐにこくりこくりと船を漕ぎ始めた。

「…………」

 それを見て在麻は小さく笑い、羽織を脱いでそっと肩にかけてやった。

「……さて」

 在麻はニコリとした人好きのよさそうな笑みを引っ込め、冷徹な表情を浮かべる。

「ノルデンショルド地下大迷宮か……ボクは関わってない魔王の根城なわけだけど、こうなってたんだ」

 関わってはいないが、知識として把握はしている。恐らくあの猪は、第二階層支配者〈猛進の大牙〉――ノルデンショルド地下大迷宮最速の魔獣だったか。

「確かにあの質量の物体があの速度で突進して来たら厄介だね。長大な通路の終点で待機して、侵入者の音に反応して突撃してくる。しかも肉眼ではほぼ見えない奥から、防御が間に合わない速度でやって来るもんだから、初見殺しもいいところだよ。あのジョンちゃんを倒して次に進んだらコレとか、マジでクソゲー」

 けれど。

 今目の前でこっくりこっくりうたた寝をしている魔術師の少女は、とっさの判断で試作段階の術式を見事に使いこなして初見殺しを回避した。

「人間の魔術と魔女の魔法じゃ根本から違うし、比べるものじゃないけど、門外漢のボクから見てもまだまだ甘い。けれど肝が据わっている。流石は勇者だ」

 足りない技術を知恵と度胸で補って困難を乗り越えることができる人間は、世界広しと言えど実はそれほど多くない。

 そして強大な魔王に相対する登場人物(キャラクター)には、こういう子こそが相応しい。

「ボクが手を出せばあんな猪、一瞬で片付くけど……勇者の成長物語に水を差すほど野暮じゃあない。しっかり取材させてもらうから、今はお休み」

 そう言って、〝魔王生み〟「降誕の魔女」アルマ・クレイは静かに笑った。



     * * *



 ノルデンショルド地下大迷宮第五階層――闘技場。

「おおおおおらああああああああああっ!!」

「…………」

 炎の翼を羽ばたかせ、業火の拳を振りかざした半竜半人と、鉈と出刃包丁をナイフのように構えた褐色の肌と黒髪を持つメイド姿の美女が突撃する。

 一撃で周囲が爆ぜ散りかねないその攻撃を、相対する長身の男は真正面から受け止めた。

 竜人の拳を右手で、褐色メイドの刃物を左手と左足で防いだ瞬間、3人を中心にすさまじい衝撃波と突風が発生する。

 男は全身の筋肉を隆起させ、一切種も仕掛けもない純粋な腕力だけで二人を振り払い、吹き飛ばす。

「「……っ!」」

 闘技場の壁に叩き付けられ、息が詰まって一瞬だけ動きが止まる。石壁が崩れて二人が瓦礫に埋まるのを見た大男は、己の存在をアピールするように猛々しく咆哮した。


「おおぉおぉおおおぉぉぉおおおぉおぉおぉぉおぉおおぉおおおおおっ!!」


 男が纏うは、虎の毛皮をなめしたマントと、その頭部がそのまま仮面と一体になっている独特の民族衣装。毛皮以外何も身に着けていない上半身は地肌がむき出しで、いたるところに痛々しい生傷の痕が残っている。

「う、うぅ……」

 異世界邸においても有数のパワータイプの二人があっさりと吹っ飛ばされたのを闘技場の物陰からこっそりと見ていた小さな人影――ホビットの冒険家リックはこわばった表情で生唾を呑み込んだ。

「何なんだよあの虎男……あの二人が太刀打ちできないって、一体どうすりゃいいんだよ……」

 そして自分はなんでこんなところに飛ばされたんだと、もう何度目か分からない恨み言を吐き捨てる。

 リックはいつも通り異世界邸を探索していただけだった。それが突如視界が歪んだと思ったら、いつの間にか竜神とメイドのミミと一緒にこの闘技場に立っていた。

「どうやらたまたま近くにいたから一緒に飛ばされて来たみたいだけど……ここ、やっぱりあの地下迷宮の五階だよな……」

 以前、管理人を始め有志とパーティーを組んで探索したことがあったが、ここはその第五階層に酷似している。もちろんその時はあんな虎男はいなかったし、魔術師(セシル)の話から迷宮としての機能は停止していると結論が出たはずだった。

「クッソが!! てめえ今度こそぶっ飛ばす!!」

「…………」

 瓦礫の下から這い出てきた竜神とミミが再び虎男に向けて走り出す。それを虎男は口元を嬉々と歪めて迎え撃った。

 再開された格が違いすぎる肉弾戦に、力を持たないちっぽけなホビットはただただ溜息を吐く。

「早く終わらせてくれ……オイラ帰りたい……」



     * * *



 ノルデンショルド地下大迷宮第四階層。

「これは完全に『詰み』でございますなあ」

 モノクルの位置をくいっと指先で直しながら、ウィリアムは深い溜息を吐いた。

「詰み、ですか……」

 その隣に立つベーレンブルスの勇者・竜騎士カーラは渋い顔を浮かべる。

「ええ、詰みです。後にも先にもゆくことのできないこの状況、まさしく詰みです。まあ、死なないだけ良しとするべきですかな」

「……せめて武器があれば」

 目の前にそびえる苔生した巨大な石像を、せめてもの思いで力いっぱいに睨みつける。

 一見するとただの石像である。しかし寝そべった牝牛を模しているらしいその石像からは、時折鼻息が聞こえてくる――つまりは生きている。

「彼女の足元に魔方陣がございますが……アレがどこか別の階層へと続く魔方陣だとして、彼女をまずはどけねばなりません」

 しかし牛の石像をどけようにも巨大すぎて話にならないし、丸腰のカーラと投擲用ナイフしか持っていないウィリアムではどうしようもなかった。

 しかも試しにウィリアムがナイフを投げてみたところ、巨像は首を大きく振って角を二人へ向けて来た。幸いにして避けられたが、床を大きく穿ったその威力を見るに、下手に手を出すのも危険である。どうやら自分から攻撃はしてこないらしく、それ以降大人しくしているのがせめてもの救いか。

「……そう言えば、ウィリアムさんって次元渡りができるんでしょ?」

「おや、ご存知でしたか」

「管理人の奥さんに教えてもらった。迷宮の外か、他の階層にいるかもしれない人に助けを求めれないかな」

「ふむ……まあ、やってみましょう」

 言うと、ウィリアムは近くの瓦礫にできた影に近寄り、するりと潜り込んだ。予想外の気色悪い動きにカーラがギョッと見開いたところで、今度は自分の影からぬるりとウィリアムが顔を出した。

「ぎゃ!?」

「おお、これは驚かせてしまいましたな」

 影から這い出てきたウィリアムは低頭する。高鳴る心臓を押さえながら、カーラは溜息を吐く。

「どうだった?」

「ええ、はい。他階層の座標も、恐らくはそこにいるのであろう他の住人の方々の位置も分かりはするのですが、上手く繋がりません。恐らくは各階層が強固に固定されているのでしょう」

「ダメかー……じゃあこの上の階の人がダンジョン攻略して降りてくるのを待つしかないの?」

「それか、どなたかが迷宮の機能を停止させてくれるのを待つか、ですな。まあただ待つのも暇ですし、一杯お茶でもいかがですかな」

「はあ……ってどっから出したのそのティーセット!?」

「ほっほっほ、紳士に秘密は付き物でございますよ」



     * * *



 ノルデンショルド地下大迷宮第六階層――大図書館。

 フードを取り付けた改造白衣を羽織ったセシルは、右目に彫りこまれた魔方陣を起動させながら、手当たり次第に書架から古ぼけた本を引っ張り出して高速でページを捲る。

 どんなに分厚くても一冊に三十秒もかからない。内容を読み解く手間はかけない。今必要なのは内容と本その物に欠けられている魔術の記憶だ。右目の魔方陣を通して記憶すれば、帰ってからいくらでも写本できるのだから。

「それにしてもラッキーだぜ♪ この図書館を漁る前に管理人ってばダンジョン封印しちゃうんだもん☆」

 恐らくは赤子姿の魔王に何かが起きたために異世界邸が迷宮に呑み込まれたのだろうが、もう一度来れるとは嬉しい誤算だ。どうせ事態が解決してしまったら再封印されてしまうのだから、今のうちに一冊でも多く魔導書を記憶しておかなければ。

「…………」

 と、この図書館に来てから、初めてセシルの手が止まった。

 魔導書から顔を上げ、辺りを見渡す。すると、図書館の奥に小さな影が立っていた。

「……これはこれは♪」

 セシルは楽しげに笑う。

 それはマジシャンの衣装をまとった、タレ耳が愛らしい黒兎のぬいぐるみであった。手には玩具のようなステッキを持ち、ぴょこんぴょこんと跳ねながらこちらに近寄って来た。

「あなたが〈貪欲の黒兎〉かい? お邪魔しているよん♪ ここは素晴らしい図書館だね☆」

「…………」

「書斎の方も見せてもらったよ♪ あの手記の筆者と会えるなんて光栄だ☆ 是非とも一度お話しさせてもらいたかったんだが――」

 かつん、と黒兎は床をステッキで叩く。

 その瞬間、黒兎を中心に何十何百もの魔方陣が折り重なって展開した。

「……やっぱり、意思はないか♪ 〈貪欲の黒兎〉を模した、ただの防衛システムか☆ はーあ、つまんねーの♡」

 セシルは笑い、魔力を練る。すると黒兎が展開したものを凌ぐ規模の魔方陣がセシルの周囲に出現する。

「ただの人形に興味はねーんだよ♪ さっさと倒して、この迷宮解析して機能停止させて、最下層まで一直線だぜ☆」



     * * *



 ノルデンショルド地下大迷宮第七階層――娯楽室。

 救護用アンドロイドTX-002はおろおろしながら、目の前の椅子に腰かける小柄な老婆の様子を窺う。

「あの、ノッカーさん……?」

「…………」

 ドワーフの老婆ノッカーはTX-002の言葉に振り向きもせず、静かに目の前のテーブルを凝視する。

 テーブルはチェス盤のような白と黒のモザイク柄に彩られ、実際に駒が並べられている。しかし十二マス四方に区切られ、駒の数もチェスよりもずっと多く、三十三個あった。

「……5-6の騎兵を5-8へ。5-8の歩兵を捕虜に」

 年老いた鴉のようなしわがれ声で盤上に指示を出す。すると指定された駒がゆっくりと動き出し、敵方の駒が自陣の一角に転送されて来た。

『……5-10の弓兵。動かず、5-8の騎兵を討つ』

 地の底から轟くような唸り声がフロアに木霊する。発信源はテーブルを挟んでノッカーの向かい側――そこに、豊かな髭を蓄えたやせ細ったドラゴンが鎮座していた。

 ドラゴンの指示の通り、弓兵の駒が離れた位置の騎士の駒を破壊する。機動力のある騎兵の駒を歩兵の駒というあまりにも見合わない代償で失ったノッカーに、TX-002は再び声をかける。

「ノッカーさん! やっぱり、あたしが代わるッス! あたしの演算機能なら、百手先まで読むことが――」

「自陣の歩兵を3-7に」

「ノッカーさん! せめて、あたし意見も参考にするくらいは!」

 耳を貸さないノッカーに、TX-002が声を荒げる。するとようやくノッカーは煩わし気に振り返り、TX-002を睨みつける。

「……無粋な真似をするんじゃないよ、絡繰娘」

「で、でも……!」

「せっかくこの年寄ドラゴンがあたしの得意なゲームで相手してくれてるんだ。あたしが応えるのが筋ってもんだろう」

 くくく、とノッカーは皺だらけの顔を大きく歪めて笑みを浮かべた。

「まあ見てな。計算で片が付くほど、このゲームは単純じゃないのさ」



     * * *



 ノルデンショルド地下大迷宮第十一階層。

 死そのものを彷彿させる大鎌を担いだ駄ルキリーことジークルーネと、ワインレッドの長髪を靡かせ鞭のようにうねる蛇腹の剣を構えた呑欲の堕天使カベルネは、双方とも肩で息をしながら険しい表情を浮かべていた。

 どちらも身に着けているものはボロボロであった。特に鎧を着ていないカベルネは、致命傷こそ負ってはいないものの、泥酔している時以上に見るも無残な格好となっていた。

 先日の一悶着の際に異世界邸史上でも稀にみる大戦争を繰り広げてくれた神魔級の二人を相手にここまで追い詰めたのは


「うきっ?」


 一匹の、猿であった。

「きゃっきゃっきゃ!」

 フォルムとしては、チンパンジーに近い。しかしチンパンジーよりも顔つきは獣に近い。だが表情の読みにくいはずの獣の顔を最大限にゆがめ、猿は二人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。

 というか、尾のない尻を振りながら挑発ダンスを踊っている。

「「……っ!」」

 神魔二人は怒りの形相で各々得物を構え、猿に向けて突撃する。

 猿はその場から一歩も動かず、目の前にジークルーネの大鎌が迫っても笑い続けている。

「きゃきゃ!」

「……うっ!」

 と、カベルネの操る蛇腹の剣が不意にあからさまに不自然な動きをした。切っ先が猿に届く手前でジークルーネの大鎌に巻き付いた。

「も~、また~!?」

「ちょっと!」

 慌てて蛇腹の剣を解く。しかし思いのほかがっちり巻き付いてしまった切先はなかなか解けず、ジークルーネはバランスを崩す。

「うきっ!」

 それを猿は見逃さず、細腕を回転させるように大きく振りかぶった。

「うぐっ……」

 あまりにも適当な殴打。大した威力も速度もあるようには見えないその一撃を、ジークルーネはなぜか避けることができずにこめかみに食らってしまう。しかも当たり所が悪かったらしく一瞬視界が大きく歪んだ。

「ルーちゃん!」

 カベルネが慌てて間に入り、至近距離から蛇腹の剣を振る。

 しかし猿はこれを後ろに跳んだだけで容易に避けてしまった。

「う~……」

「ルーちゃん、大丈夫~?」

「むー……全然、楽しくない……」

 歪む視界を何とか堪え、鎌の柄を杖代わりに何とか立ち上がる。

 この猿と相対して大分経つ。もう楽しむための戦闘はとっくに終わり、ジークルーネも本気で猿を滅する心づもりでいる。

 しかし、かつて目で捉えられない蟻天将パイセを葬った「死の運命」の大鎌を、猿はいとも容易く避け続けている。

()()()()()()()()()()()……それがこんなに厄介だとはね~……」

「全くですよ」

 接近戦は掠りもしないし遠距離攻撃は途中で反れる。そのくせ、猿の攻撃はどんなにテキトーな一撃でもラッキーパンチ的に深く刺さってくる。

「あー……もう……!」

「うきゃきゃきゃ!」

 ぎりっと歯噛みするジークルーネ。再び踊り始めた猿を前にし、彼女はこの数百年で最大の苛つきを覚えていた。



     * * *



 ノルデンショルド地下大迷宮第九k――


「ふはははははははははははははははははあっ!!」


 両腕を砲台のように変形させたTX-001が、高笑いをしながら辺り一帯を焦土と化す勢いで砲撃し続けていた。

「はいはいは~い」

 その横でネグリジェに白衣を羽織っただけといういつもの姿のフランチェスカが、ポケットやら胸の谷間やらから次々と極大の弾丸を取り出してTX-001の砲台にリロードしていく。

「素晴らしい! 素晴らしいぞミス・フランチェスカ! 最高だ!」

「えへへ~。まだ試作段階だから試し撃ちしてみたかったんだよね~」

 この階層に一緒に飛ばされ、敵襲に遭った際に「新兵器の実験したいな~」などと「ちょっとお茶しない?」というノリで提案されたTX-001は最初猛反対した。

 何せ彼女は爆発とガス兵器を毎朝のように撒き散らす、ただ竜神と喧嘩をしているだけの自分など足元にも及ばないレベルの異世界邸きっての問題児である。そんな彼女の試作品を己の砲台に詰めるなど断固拒否すべき事案であったが、彼女が振りかけてきた香水の香りを嗅いでかラは、なぜ自分がアレほどまデニ反対してイタノか意味が分かラナくなッタ。彼女ノ新兵器に疑いの余地ナドナい、自分カラ試し撃ちヲサセテくれト懇願スベキナノニ。

 ……アレ?

 ともかく、実際にフランチェスカに渡された弾丸を使ってみたところ、これが大当たり。威力も弾速も、これまでTX-001が使用していたものより段違いだし、そのくせ反動はほとんど変わらないかむしろ小さいくらいだった。

 試作段階で量産できていないのが酷く残念だ。

「ふははははっ! さあミス・フランチェスカ!! どんどん次弾装填してくれ!!」

「うふふ~、任せて~………………………………………………………………………………理性をぶっ飛ばす薬品の臨床試験は順調。アンドロイドのような半機械化された状態でも効果あり、か。いい感じ」

「何か言ったか?」

「ううん、何も~」

「そうか! よし、次弾装填確認! ぶっ放す!!」

「ご~ご~」

 再び張り巡らされる弾幕。その標的となっている、天馬(ペガサス)一角獣(ユニコーン)のあいのこのような姿の、ノルデンショルド地下大迷宮で最も高貴なる魔獣〈天翔ける一角獣〉は、なす術もなく的にされ続けるのであった。



     * * *



 ノルデンショルド地下大迷宮第十階層――祭壇。

「……なんか上が騒がしい気がしますわ」

 次元が切り離されているはずなのに上からとんでもなくやかましい銃撃音が聞こえてくる気がする。心なしかパラパラと土埃も降ってきそうな雰囲気のため、白蟻の魔王フォルミーカは屋内でも日傘が手放せなかった。

「…………」

 とは言え上のことを気にしても仕方がない。フォルミーカはこのまたとないチャンスを逃さず、まずは目の前の何やら怪しげな儀式が行われていた痕跡のある木製のテーブルに手を伸ばした。

「……うげぇ……」

 テーブルの端を指で千切り、口に運ぶ。すると口いっぱいに凄まじいエグみが満ち溢れ、思わず整った眉を歪める。

 こんなに不味い木材は初めて食べた。しかし、あまりにも独特なその味わいから、この階層を形作る魔力の質はすぐに把握できた。

「さて」

 フォルミーカは周囲に誰もいないことを再確認し、魔力を練る。

 ぼこ、ぼこ、と辺りの床や壁、天井が脈打つ。フォルミーカが魔力を注ぐ度にうねりは次第に細かく、数を大きくしていった。

「お出でなさいな、わたくしの下僕たち」

 ぼこり。

 一度ひときわ大きく脈打ち、辺りから無数の小さな白蟻が溢れ出した。

 それをフォルミーカは操って一か所に寄せ集め、指をこねるように動かして無数の白蟻を一つにまとめていく。

 白蟻の塊は徐々に大きくなり、数分と経たずに人型へと形を変えていく。

「ふっ……」

 最後に命を吹き込むように人型に息をかけると、白蟻が仄かに光を発した。

「…………」

 その光が収まった時、床に一人の色白の女性が一糸纏わぬ姿で横たわっていた。

 フォルミーカはスカートが汚れるのを厭わず膝をつき、女性の首元を確認する。

「ああ……やはりダメですの」

 しかし、すぐに深い溜息を吐いて首を横に振る。

 女性の首には、色白の肌に酷く目立つ、醜い痣が首輪のようにぐるりと纏わりついていた。

「迷宮の魔力をベースに作っても、やはり眷属は眷属ですのね……」

 魔王の眷属は、魔王の分身のようなもの。フォルミーカにかけられた呪いもそっくりそのまま眷属へと引き継がれてしまった。これでは、あの魔女を告発することは未だ叶わないようだ。

「う……」

 と、眷属がゆっくりと瞼を開けた。それを見たフォルミーカは慈しむように髪を撫で、微笑みかける。

「おはよう、ヴァイス」

「う……あ、ああ! 姫様!?」

 自分が主の目の前で全裸で横たわっていることに半覚醒状態で気付いた眷属――蟻天将ヴァイスは慌てて身を起こし、その場で跪いた。

「このような格好で姫様のお目汚しを……申し訳ありませぬ!」

「気にしないでよろしいですわ。さ、お立ちなさいな」

「はっ、温情感謝いたします!」

 その堅苦しくも頼もしい言葉遣いが、今となっては懐かしい。

 しかしその懐かしさはまやかしにすぎない。長年彼女に付き従い、軍勢を指揮してきた蟻天将ヴァイスは死んだのだ。今目の前にいるのは、彼女を模して作り直した新たな眷属なのだから。

 それが何だか物悲しく感じるのは、フォルミーカに人の心が戻ったからか。

「ヴァイス、ついていらっしゃい」

「はっ!」

 フォルミーカが歩き出すと、ヴァイスは魔力を練り、かつての彼女が着ていたものと同じデザインの執事服を具現化させて身にまとった。

「とりあえず、この迷宮からの脱出を試みましょう。万が一あの『迷宮の魔王』が復活した結果がこれだとしたら非常に厄介ですわ」

「了解いたしました。白蟻たちにも掘り進めさせます」

「頼みましたわ」

 二人は祭壇を出て通路の奥へと進む。その後ろを、ボコボコと音を立てながら無数の白蟻が湧き出て石壁を齧り始めた。



     * * *



 白峰零児はどことも知れない闇の中を漂っていた。

 上も下も左右も分からないふかい、ふかい闇の中。

 この感覚は、未だ記憶に新しい。

 耳を澄ます。


 壊せ。

 壊せ壊せ。

 壊してしまえ。

 壊して壊して壊して。

 壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して。

 壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊して壊せ!


 ああ、やっぱりか。

 かつて己を苦しめた、耳障りな破壊を求める深淵より響く声。

 それが、今は不思議と酷く心地よい。

 この黒く生温い衝動に浸かっていると、全てがどうでもよくなってくる。


 壊せ壊せ。

 壊せ壊せ壊せ壊せ。

 壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ。


 骨の髄まで届くような甘美が響き。

 子守歌のように鼓膜を揺らすその衝動が徐々に染み渡っていく。


 壊せ壊せ。

 壊せ壊せ壊せ壊せ。

 壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ。


 脳髄にまで染み渡る黒い衝動が、壊せ壊せと口遊む。

 瞼を閉じると、その甘い声がより大きく――


 ぽっ


 ……?

 小さく炎が爆ぜるような音がした。

 目を開けると、闇の中だというのに鮮明に浮き上がる黒い炎が映った。

 白峰零児はその炎に手を伸ばす。

 何故だか、それは手放してはいけないような気がした。


 壊せ壊せ。

 壊せ壊せ壊せ壊せ。

 壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ。


 再び甘い声が聞こえてくる。

 だが、今はどうでもいい。

 目の前の黒い炎の方がよっぽど大事だ。


 壊せ壊せ。

 壊せ壊せ壊せ壊せ。

 壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ。


 伸ばした指先が炎に触れる。

 瞬間、炎は手の平の中に納まり姿を変える。

 それは、長く広い、炎のように波打つルビーレッドの刀身を持つ無骨な大剣。


 壊せ壊せ。

 壊せ壊せ壊せ壊せ!

 壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ!!


 上から降ってくる声の調子が早くなる。

 そこに先程までの甘い響きは全くなく、ただただ耳障りな騒音でしかなくなった。


 壊せ壊せ!

 壊せ壊せ壊せ壊せ!!

 壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ!!!


 黒炎纏う大剣を背負うように構え、頭上に視線を向ける。

 濁りきった闇の中、やけに目立つ白い影。


 壊せ壊せ!

 壊せ壊せ壊せ壊せ!!

 壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ!!!


 狂ったように嗤いながら旋回する白い鴉。

 白峰零児はそれに向け、黒き劫火を解き放った。



     * * *


「そもそもノルデンショルド地下大迷宮とは、我が主君が自ら作り上げた監獄なのである」

「監獄?」

 炎を纏うジョンの腹の下に潜り込みながら歩を進める栞那は、その言葉に首を傾げる。

「我が主君――『迷宮の魔王』グリメルは、元人間である。かつては若くして国一番の大工として名を馳せていたのであるが、ある時の大災害の年、我が主君の手掛けた小屋、家屋、宮殿、城壁に至るすべてが倒壊したのである」

「は? でもそれは……」

「もちろん、倒壊したのは我が主君の建造物だけではないのである。けれど確かに、我が主君以外の大工以外が手掛けた一部の建物は倒れずに残っていたのである」

「…………」

「まあ建築技術だけでなく、今思い出すと全体的に未発達な世界ではあったし、何よりも未曽有の大災害であったから、そういうこともあるのであろう。しかし宮殿が倒壊したのがまずかったのである。国は、否、世界は我が主君を吊るし上げたのである。宮に小細工し、王家を滅ぼした大罪人と断じたのである」

「……随分と、事情に詳しいな」

「当然である。吾輩はその頃より我が主君の飼い犬としてそばに仕えていたのである」

 当時を懐かしむようにジョンは目を細める。

「……その後の我が主君の姿は、あまり思い出したくないのである。あまりにも痛々しく、痛々しく……」

「何があった」

「……世界は、我が主君を非難し続けた。逃げるように移り住んだ森にまでわざわざ出向き、罵詈と石を投げつけたのである。今思うとなんと愚かなことであると思うよ。そんなことをしている暇があったらさっさと復興に尽力すべきなのである。……そして数年後に二度目の大災害が国を襲った時、ようやく人々が我が主君にちょっかいをかけている場合ではないと気がつくまで、礫は毎日降りかかったのである」

 ジョンの語る魔王の過去に、栞那はかける言葉を失う。

 未発達と言えど、ここまで思想の幼稚な世界があったのかとゾッとする。そして自分たちがどれほど豊かな世界に生きているのか改めて認識した。

「二度目の大災害の後、我が主君の住まう小屋に石が投げられることはなくなった。しかし、しかし遅すぎたのである……礫を浴びた期間があまりにも長すぎたのである。我が主君の心は完全に壊れ、ありもしない罵詈に耳を塞ぎ、降りかからない礫に怯え――小屋の周りを、板壁で覆ったのである」

 最初は本当に粗末なものだった。

 かつては国一と呼ばれた大工が拵えたとは思えない、風が吹けば倒れてしまう粗末な壁。それを全てに怯えるグリメルは、何度も何度も壁を直し、新たに作った。

 外界との隔たりを作るため、己を監獄に閉じ込めた。

「壁はどんどん分厚く、複雑な構造になっていったのである。材も木に石が混じるようになり、鋼も使われるようになっていったのである。複雑に入り組み、要塞のような様相になりつつあった監獄の内側には、迷い込んだ侵入者を排除するような罠も仕掛けられ――監獄が、否、迷宮が森を覆いつくした時には、もう取り返しのつかないことになっていたのである」

 既にグリメルの心は、魔に堕ちきっていた。

 森の外にまで侵食を始めた迷宮に、幾度も討伐隊が派遣された。

 しかしそれらは悉く迷宮内で勝手に壊滅した。だがグリメルの心は休まらず、むしろ妄想の礫が現実の弓矢となったことで、さらに迷宮の浸食は活発化していった。そして外界に怯えたグリメルは地下深くにまで迷宮を広げ、その最奥部で膝を抱えてがたがたと震え続けた。

「その後は大した展開もないのである。魔王の迷宮は世界を完全に覆いつくし、それでも魔王は外に怯え続け、次元の壁を超えて迷宮を広げ始めた……ただそれだけの話である」

 ジョンの昔語りに、栞那は静かに耳を傾け続けた。そして一つ、気になった疑問をそのまま投げかけた。

「……お前は」

「うん?」

「お前は、いつから()()なったんだ?」

「ああ」

 ジョンは小さく頷いた。

「吾輩も昔のことであるからあまり明確には覚えてないのであるが、確か吾輩らが生まれ育った世界が、我が主君によって滅ぼされる少し前であったか。我が主君が全てに怯える中、吾輩だけはそばに居続けたのである。しかし当時は吾輩もただの愛玩犬である。寿命には勝てず、ぽっくりと逝ったのである」

「そうなのか?」

「それを酷く嘆いた我が主君が、吾輩の亡骸と魂を迷宮の一部として取り込み、この姿に復活させたのである」

「……巨大化させた意味は?」

「我が主君は生粋のモフリストであるからなあ……吾輩のもふもふを全身で堪能したかったのであろう」

「何でそこだけ人間臭いんだよ!?」

「当然であろう。我が主君は魔王であると同時に――全てに怯える弱虫で寂しがりやな人間であるのだから」

 と、ふいにジョンは思い出したように視線を巡らせた。

「? どうした?」

「いや、思い返すと、そう言えば吾輩がきっかけであったのだろうな、と」

 ジョンはぐるりと辺りを見渡す。それに倣って栞那も周囲に視線を向ける。

 相変わらず薄暗くじめっとした空気の悪い石造りの通路――その端に、紅蓮の炎を纏ったジョンが恐ろしいのか、怯えるように身を寄せ合う無数の鼠の姿があった。

 〈侵略する群衆〉――第三階層支配者にして、個にして軍の戦略家集団である。

「我が主君の魔王としての特性として、『人工物を取り込んで迷宮の一部とする』というものがあるのである。この〈侵略する群衆〉も、元々はとある世界で生み出された、鼠を媒介に感染する細菌兵器に、別の世界の軍師の知能を組み合わせたものである」

「最悪な兵器作ってんじゃねえよ」

「お医者殿、吾輩ら、これでも魔王軍」

 そう言えばそうだった。

「まあ元が鼠であるし、その軍師も史実では火計で殺されたようであるから、このように炎を極端に恐れるのであるがな」

「……なるほど」

 さっきから炎に包まれたジョンを遠巻きから眺めているだけなのはそういう理由だったか。

「我が主君は人工物であればなんでも取り込めるのである。細菌兵器のような目に見えずとも形のある物から知能そのものまで。記録や伝説、概念や神話といった曖昧な物でも、人によって生み出された物であれば可能なのである。そのきっかけが、吾輩という品種改良の末に生み出された愛玩犬を取り込んだからであるとすれば、何やらくすぐったい気分である」

「その気持ちは分からない」

「分からなくてもよいのである。ただ魔王とその眷属にも、そう言った繋がりは確かにあるというだけの話であるのだから。……さて昔話が長くなってしまったのである」

 ジョンはとある壁の前で足を止めた。すんすんと鼻を鳴らして壁の匂いを確かめると「うむ」と頷いた。

「なんだ? 何もないように見えるが」

「で、あろうな。ここに魔力を流し込むのである」

 言うと、ジョンはブウと口から小さく炎を吐き出した。

 赤い火花を弾かせながら壁を焦がす。すると炎は石壁の溝に沿って這うように燃え広がり、ゴゴゴと音を立て始めた。

「……!」

「これが各階層支配者にのみ使用が許可された、最下層の玉座の間への直通の転移魔方陣である。暴走していてもこの仕様は生きていて一安心である」

 石壁が襖を開けるように横に開く。

 その先の小部屋に、古ぼけた複雑な紋様が組み合わされた魔方陣が仄かに光り輝いていた。

「さあ、これで玉座の間まで一直線である。そこに恐らく、我が主君と我が聖母(マイマザー)がいるのである」

「ああ、だが行ってどうすればいいんだ?」

「まずはこうなった原因を突き止める必要があるのである。話はそれからである」

「言っておくが、あたしが見ても何も分からないし、何もできない――」


 ドォン!!


「「!?」」

 突如近くの天井が崩落し、大量の瓦礫が周囲に降り注いだ。栞那はジョンの腹の下にいたため直撃することはなかったが、何個か頭にぶつけたジョンは「あだぁっ!?」と悲鳴を上げていた。

「な、なんだ今度は!?」

 土埃の舞う視界をなんとか堪えながら目を細めて凝視する。

 瓦礫の山の天辺に、何か巨大なものがもがいている。

 いきなりのことでパニック状態に陥った〈侵略する群衆〉が辺りをちょろちょろを走り回る中、少しずつ土埃が晴れてその全貌が明らかになっていった。

「猪……?」

「あれは……〈猛進の大牙〉であるか?」

 瓦礫に頭から突っ込み、蹄のついた短い脚を懸命に動かして瓦礫から這い出ようと試みているジョン並に巨大な生き物。しかし頭部ががっちりと瓦礫に埋まっているらしく、ビクともしない。

 と、その時天井に開いた大穴から何かが降りて来た。

「さっすが勇者アルメルちゃ~ん! 通路を床に開けて落とし穴にするなんてナイス判断!」

「いえいえ、大先生のヒントがあったからですよー」

 大猪の横に降り立った二人の人影に、栞那は呼びかける。

「アルメル! 在麻先生!」

「あれ、栞那ちゃん。それになんか燃えてるけど……もしかしてジョンちゃん? 下の階にいたんだ」

「先生、ご無事ですか!」

「む! いかんのであーる!」

 と、ジョンが焦りの声を上げた。

「ぢ! ヂヂ!」

 パニック状態からいち早く回復した一匹の〈侵略する群衆〉が、ひときわ大きな鳴き声を上げた。その瞬間、辺りを走り回っていた無数の鼠がピタリと動きを止めた。

「まずい!」

「ヂヂヂヂヂ!」

 ジョンが炎を吐き、アルメルと在麻の周囲に炎の壁を作るのと、〈侵略する群衆〉一斉に動き出し始めたのはほぼ同時だった。


「きー! ぎー! ブギーっ!!」


 大猪の断末魔がフロア中に響き渡る。その悍ましい声に耳を塞ぎたくなる気持ちをグッとこらえ、栞那は檄を飛ばす。

「二人とも! 生きたまま食われたくなければ早くこっちにこい!」

「は、はい!」

「こっわ~……」

 ジョンの作った炎の壁を盾に駆け寄ってくるアルメルと在麻。二人が栞那に倣って腹の下に潜り込んだのを確認すると、ジョンは即座に魔方陣を起動させた。

「さあ! 行くのであーる!」

 ぐにゃりと歪む視界。

 その独特の感覚に耐えながら、三人と一匹は魔方陣へと姿を消した。



     * * *



 ノルデンショルド地下大迷宮第十二階層。

「壊セ壊セ壊セ壊セ壊セ!! ギャハハハハハッ!!」

 胴を真っ二つに裂かれ、黒炎に焼かれながらも嗤い続ける白鴉の喉元に向け、零児は紅い魔剣を振り下ろす。

「ギャハハハハハハハハハハハアアアアアアアアアア……!!」

 狂気を助長する耳障りな声は断末魔へと変わり、最後は灰も残さず黒炎に呑み込まれた。

 ふうと息をつき、魔剣を一度左手で触れて魔力に還元する。身軽になったところで周囲を観察すると、フロアの端の方から何かが光っているのが見えた。近寄ると、どうやら魔方陣であるらしかった。

「あの鴉が消えたことで抑圧が解かれたって感じか?」

 残念ながら魔術の類は全く分からないため憶測でしか見れない。しかし鴉を倒して変化が起きたのはこの魔方陣のみであるため、やはりどうしてもこれに触れなければならないらしい。

「一体次はどこに飛ばされるやら……」

 念のためにいつでも戦えるよう心づもりをし、思い切って魔方陣へと飛び込んだ。

 視界が歪む。

 しかしそれは一瞬。

 一度軽く瞳を伏せ、再び目を開けると――目の前に炎を纏った巨大な狼がいた。

「おわああああああああああっ!?」

「わううううううううううん!?」

 向こうも向こうで予想外の邂逅であったらしく、お互い後ろに跳んで距離をとった。咄嗟に日本刀を生成して切っ先を狼へと向ける。しかし向こうの方が一瞬早く正気に戻ったらしく、慌てて弁明を口にした。

「ま、待つのであーる!? 千の剣の魔王! 吾輩である!」

「え? あ、ああ!? お前、巨大チワワの!?」

 狼――ではなく、ジョンは纏っていた炎を消し、元の姿に戻る。それを合図に安全が確認されたと認識されたのか、ジョンの後ろから三人の人影が顔を覗かせた。

「代行じゃないか」

「栞那さん!」

「あの、ご無事ですか?」

「やっほー、おっちゃんもいるよん」

「アルメル、それに大先生も。無事みたいで何よりだ……他の連中とは会ったか?」

「残念ながら合流できたのはあたしらだけだ。まあ、あたしと在麻先生以外はそう簡単にくたばるような連中じゃないし、大丈夫だとは思うが」

「そーそ、心配ないって」

 豪胆に笑みを浮かべる栞那と在麻。確かに零児がこの邸に通うようになって大分経ち、(特に問題児対応の)仕事を通して住民のことはある程度把握できた。心配するだけ疲れるだけだ。

 と、ジョンが短い鼻をすんすんと鳴らして零児の匂いを嗅ぐ。

「千の剣の魔王よ……もしや〈不死の白鴉〉と戦ったのであるか?」

「不死……? ああ、確かに白い鴉とはやりあったけど」

「……よく無事であったな。彼奴の嗤い声は狂気を助長し、破滅に追い込むのである。加えて、彼奴自身も並の攻撃では死なぬ肉体を持っているのである」

「そうなのか? 確かに嗤い声を聞いちまってちょっと危なかったけどさ」

「仮にも魔王の一撃が、並の攻撃なわけないだろう。代行、後でどんな感じだったか取材させてちょーだい♪」

「あんま思い出したくねえんだけど……」

 そう言わずに、と詰め寄る在麻を何とか振りほどき、零児は改めて周囲を確認する。

 そこは夜のように暗い森の中だった。地下にいたはずなのに見上げると薄暗い空が木々の間から僅かに覗いている。

「どこなんだ、ここは」

「ここはノルデンショルド地下大迷宮第十三階層――我が主君が鎮座なさる、通称玉座の間である。……または、かつての呼び名を『ノルデンショルドの森』と」

「玉座の間? こんな森が!?」

 零児は驚いて辺りを見渡す。

 鬱蒼とした木々に伸び放題の下草が非常に歩きにくい。しかも植物以外の生き物の気配は全くなく、虫の声一つ聞こえない。

 魔王が玉座を構える場所には到底見えなかった。

「…………」

 と、栞那は顎に手を当て考え込み、ジョンを見上げた。

「なあ、もしかしてこの森、さっきの話で……」

「……こっちである」

 栞那の疑問には直接答えず、ジョンは歩き出す。アルメルが足元が見えるように光の球を呼び出し、周囲に漂わせながらその後に続いた。

 森は深く、ジョンが先頭を歩いて藪をかき分けてくれたがそれでも歩きにくい。しかし意外にもジョンはすぐに足を止め、横に体をずらして正面のそれを四人に見せた。

「小屋、か?」

 在麻が首を傾げる。

 森の中にぽつんと立つ小さな小屋。しかしそれを小屋と呼び、建物の範疇と数えるにはあまりにも粗末な様相であった。

「……吾輩の体では、もうあの家には入れないのである。千の剣の魔王よ、我が主君と我が聖母のことを頼むのである」

「あ、ああ」

 曖昧に頷き、零児は小屋の扉に手をかける。今にも崩れ落ちそうなそれを新調に開き、三人を率いて中に入った。

 ツンと、土とカビのにおいが混じった独特の臭気が鼻を刺す。

 森よりもさらに暗い小屋の中を目を凝らして観察する。

 家具はほとんどない。申し訳程度に枝を編んで作ったらしき簡素なベッドと小さなテーブルが床に直接置かれているだけだ。

 そのベッドの上に、ぼんやりとした人影が腰かけていた。

「! あれは……」

「那亜!」

 栞那が呼びかける。しかし割烹着姿で赤子を抱える那亜は反応を見せない。よく見ると、焦点の合っていない目をいっぱいに見開き、止めどなく涙を流していた。

「ちょっと、アレなんかまずいんじゃないかい?」

 あまりにも異様な形相に、在麻も表情を引きつらせる。

「我が主君の力が暴走して、感情が我が聖母に流れ込んでいるようである! 離せば正気に戻るはずである!」

「それ、私たちも触れたらまずいのではないですか!?」

「徒人であれば、我が主君の感情に呑み込まれる恐れがあるのであるが……」

「……なら、俺が行く」

 仮にも同じ魔王である零児であれば、迷宮の魔王の負の感情の奔流にも耐えられるかもしれない。

 小屋の外から覗き込んでくるジョンの視線を背中に受けながら、零児は「よし!」と意を決して頷いた。

「…………」

 一歩一歩床を踏み締め、那亜に近寄る。涙を流し続けるその姿に足が竦みそうになるのを必死で堪え、零児は腕の中の赤子に手を伸ばした。

 その時。


『触るな』


「……っ!?」

 普段の優しい那亜と同じとは思えない悍ましい声が、彼女の口から発せられた。

 それと同時に不可視の力で体を引っ張られ、零児だけでなく他の三人も小屋の外へと締め出されてしまった。

「きゃっ!?」

「ったあ!」

「ぐえっ」

「ぶ、無事であるか……?」

 短い悲鳴と共に目の前に積み上げられた四人を、ジョンは心配そうに覗き込む。その間にも小屋の扉はバタンと音を立てて閉じられた。慌てて零児が立ち上がり、こじ開けようとするもすぐに崩れそうな見た目のくせに貝の口のように強固に閉ざされていた。

「鍵、じゃねえよな。結界か?」

「私が解除してみます」

 アルメルが扉に近寄り、回路を調べ始める。しかしすぐに手が止まってしまう。扉はアルメルの見たこともない力でびっちりと封がされており、とてもではないか解除できそうにない。

「ご、ごめんなさい……」

「気にすんなって」

 しかしではどうするかと頭を捻じる。が、いいアイディアは全く浮かばない。


「そりゃ、こうなった原因の一人が近寄って来たら那亜さんも拒絶せざるを得ないだろうぜ♪」


「え?」

 と、振り返ったその瞬間。


 ドゴン!


 小屋が派手な爆音とともに吹き飛んだ。

「んなあああああっ!?」

「…………」

 ジョンが絶叫し、栞那もあまりのことに開いた口が塞がらない。アルメルは吹き飛んだ小屋の跡地と声の主をおろおろと視線を行ったり来たりさせた。

「手荒な方法で悪いけど、さっさと終わらせるよん♪ 在麻センセー的には心温まるハートフルな展開の方が良かったかな☆」

「……ま、今回は仕方ないんじゃないかな。このままだとこの世界諸共迷宮に呑まれかねないし」

「ご理解いただき感謝だぜぃ♪」

 にたりと顔面の刺青を歪ませ、魔術師セシル・ラピッドはパラパラと手にした()()()のページを捲った。

「そんじゃウサギさん♪ フォローよろしくー☆」

「…………」

 セシルの呼びかけに、改造白衣のフードから黒兎のぬいぐるみが顔を出す。そしておもちゃのようなステッキを軽く振ると、セシルの周囲におびただしい魔方陣が浮かび上がった。

「こ、こんな複雑な陣を一瞬で……!?」

 常軌を逸した膨大な量の魔術の同時起動に、アルメルが言葉を失う。その横で、ジョンもまたあんぐりと口を開いて呆然としていた。

「しょ、正気であるか……!? 確かにノルデンショルド地下大迷宮の維持管理は実質〈貪欲の黒兎〉に一任されていたであるが、それを使い魔として使役して、自身を迷宮の主として上書きしたのであるか!?」

「いしし♪ まあそんなところ☆ 流石に負担がデカすぎて30秒も持たないけどね♡」

 けれど。

「けれど、30秒もあれば十分なんだな♪」

 セシルは足早に、吹っ飛んだ小屋のベッドの上で赤子を抱く那亜に近寄った。

 不可視の力は働かない。

 当然である――グリメルを守る心の壁は、さっきセシルが吹き飛ばした。

「……那亜さんはこの子を人間として育てたかったみたいだけど、さすがにこの環境じゃあもう無理だよ」

 セシルはいつになく真面目な、優しげな声で話しかける。

「でも大丈夫……ちゃんと、人の心は育ってる。今回はちょっとイレギュラーだっただけだよね」

 思い起こすのは数日前。白蟻の魔王フォルミーカが異世界邸に攻めてきたあの夜だ。

 白蟻の雑兵に取り囲まれ、あわや餌食となりかけていたセシルたちを救ったのは赤子を抱いた那亜――否、那亜に抱かれた魔王グリメルであった。

 那亜が出てきたあの頑強な扉――あんなものを一瞬で作り上げることができる者は異世界邸にはいなかったはずだ。だとすれば、セシルたちも知らない未知の力の持ち主がやってことだろうと予想ができ、心当たりがあるのはグリメルしかいない。

「あの時はありがとうね♪ お礼といっては何だけど、今度遊び相手にお姉ちゃんたちを紹介してあげよう☆ ちょっとお転婆さんだけど、大丈夫、もう寂しい思いはさせないから♡」

 そっとセシルは赤子の髪を撫でる。そして静かに、赤子の魂に魔術を施した。



     * * *



「今回の件の原因は君ら三人と、前に代行クンが連れてきた金髪の女の子だよん♪」

「「えー」」

「…………」

 不平不満を隠そうともしないフォルミーカとカベルネに、一緒に正座させられた零児は頭を抱える。

 場所は、すっかり元の姿に戻った異世界邸管理人室。普段はセシルをしょっ引いて説教をする側の零児が逆に説教されるという構図に、頭が痛くなってくる。

「えーじゃねえよ♪ 魔力がすっからかんってだけでしっかり魔王因子も魔王の異能も残ってる赤ん坊の横で、魔王が魔力ばら撒きながらどったんばったん大騒ぎしやがって☆ 影響が出ないわけねーだろ♡」

 つまりはそう言うことである。

 本来、那亜がゆっくりと時間をかけて魔王因子を薄れさせ、真っ当とはいかないまでも人間として育てるつもりだったその横で、短期間のうちにフォルミーカはじめ魔王級四人が暴れ回ったことが、グリメル暴走の原因であった。

 魔王の魔力をたっぷりと浴び続けたグリメルのか弱い魂に、赤子姿のグリメルでは制御しきれないボリュームの魔王の魔力が蓄積された。その結果としてノルデンショルド地下大迷宮が突如発生してしまったのだ。

 しかも「世界を侵食する迷宮」というノルデンショルド地下大迷宮と「成長し続ける邸」という異世界邸は恐ろしいほどに相性が良かった。もしあのままグリメルの制御が効かない状態で放置されていたと思うと、零児は背が冷たくなるのを感じた。

「(この人間、黙って聞いていたら姫様に対しなんという口の利き方を……!)」

「(こらヴァイス! 出てきちゃダメでしょう!)」

「……?」

 セシルの前で同じく正座させられていたフォルミーカが慌てた様子で小さく床を叩く。なんだかフォルミーカの足元が微かに軋んだような気がして零児は首を傾げたが、文句を垂れ流し続けるカベルネに説教を続けるセシルが特に何も反応を示さなかったので、勘違いかと視線を戻した。

「私は魔王じゃないよ~」

「似たようなもんだ馬鹿♪ むしろ堕天使なんて埒外の魔力が暴走の起爆剤になった可能性すらあるわ☆」

「ぶ~ぶ~」

 口を尖らせるカベルネ。しかしセシルの後ろに控えていた栞那が「ん?」と手にしたワインセラーの鍵をチラつかせた。それを目にしたカベルネは「へへ~」と即座に低頭した。

 本来あの鍵は那亜が持っている物である。しかし彼女は今、この邸にいない。

 魔王の暴走に至近距離で巻き込まれたためか、命に別状はなかったが、目を覚ましてすぐ体調を崩して倒れたのだった。

「申し訳ありません……少しの間、養生してまいります。すぐに戻るとは思いますが……あの子のこと、よろしくお願いしますね」

 そう言って、こちらが申し訳なくなるくらい頭を下げながら、騒ぎを聞きつけて邸の点検に来た畔井松千代に連れられて下山していった。今頃は生まれ故郷だという街――確か月波市といったか――の温泉街で湯治に専念しているはずである。

 零児の心の潤滑剤が一つ減り、今から胃が痛くなってきたのは気のせいではないはずだ。

「……別にいいじゃありませんの。この邸が迷宮になろうが今更ですわ」

「程度を弁えろっつっとろーが♪」

「それに関してはお前が言うな」

 低頭し続けるカベルネの横で全く反省の色を見せないフォルミーカの説教を始めるセシル。さらにそれに対し小言を吐き頭を小突く栞那を尻目に、零児はそっと背伸びをして窓の外を窺う。


 中庭では二人の少女と、黒兎のぬいぐるみを抱きかかえた五歳くらいの少年が巨大なチワワの尻尾にじゃれ付いて遊んでいた。


 セシルがグリメルに施した魔術とは、肉体と魂を成長させて制御可能な魔力量を増やすというものだった。元々魔力を失って赤子の姿に縮んだため、逆に成長させるのはそれほど難しいことではなかったらしい。しかし予想外なことも一つだけあり、

「今後もこの邸で過ごすことも考えて、今蓄積されてる魔力量を倍以上多く見積もって術式組んだんだけど……魂の方はともかく、肉体の方は全然成長しねえ♪ 一体最盛期はどんな魔王だったんだろうね☆ マジおっかねえ♡」

 とのことだった。

 確かに、今もあの見た目で中にはに巨大な城の形をした滑り台を生やしたが、子供姿であの力とは恐ろしい。もし全盛期の姿で敵対したらと思うと勝てるかどうかかなり怪し――って何だあの城!?

「ちょ、行ってくる!」

「え? あー、了解した」

「何アレすっごーい♪」

「あら、小ぶりですがなかなかいいお城ではありませんの」

「かっこいいね~」

「暢気に言っとる場合か! あんな調子で邸の方も弄られたら修繕費いくら飛ぶか分からん!!」

 零児は管理人室を飛び出し、中庭に急ぐ。

 悪戯が過ぎる悪ガキを叱ってやるのも、管理人の業務の一つである。



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