酔いどれきたりて××を吐く 【part朝】
「それ」は精神だけの存在となった状態で、空とも海とも、あるいは宇宙とも異なる漆黒の空間を漂っていた。いや、墜ちていたといった方が正しいかもしれない。
事の発端はいつだったのか、「それ」は思い出す事ができない。「それ」がこの空間にいるのは永い時間だったような気もするし、つい先ほどの事だったのかもしれない。「それ」が持つ「時間」という概念さえ、この空間においては希薄なものだった。
「それ」はかつて<神>と呼ばれたものに反旗を翻し、志を同じくする仲間達と共に最後の決戦に臨んだ。しかし「それ」はその勝敗を見届ける事はできなかった。
死闘の最中、「それ」を強烈な白い閃光が包み、自分が必死に叫びながら仲間へと手を伸ばした時には全てが遠のいていき、やがて光の中へと溶けるように見えなくなった。
そして、「それ」は自分の中にあった力が急速に失われていくのを感じた。まるで積み重なっていた灰が風に吹き散らされ、消えていくかのように。
それでも「それ」は必死にもがき、仲間達の名を呼び続けた。しかし、声と伸ばした手はついにどこにも届く事はなかった。
その時、世界が逆転し、視界が闇に包まれた。
刹那、「それ」は猛烈な勢いで自分が落下しているのを感じ取った。どこへ墜ちていくのかはわからない。視界はただ漆黒に包まれている。そして、確かなのは自分がまだ存在しているという事。「それ」はその事実を確かなものとして受け入れる一方、どこか他人事のように見つめてもいた。
自分が存在していてもこの終わりの見えない空間にいる限り自分という存在は擦り減り、やがて完全に消滅してしまうだろう。
そう思うと、「それ」は急に安らかな気持ちになった。意識の目を閉じ、流れに身を任せる事にした。
その時、「それ」の脳裏に、ただ一つの後悔がよぎる。それは――
せめてもう一度だけ、美味いワインを飲みたかった。
次の瞬間、全身を殴りつけられたような衝撃が「それ」を襲った。「それ」が衝撃の原因を考えるよりも速く、闇の果てから強烈にして凄まじく濃い魔力の奔流が襲い掛かってきた。奔流をまともに受けた「それ」はその凄まじい勢いと膨大な魔力の量に抵抗する間もなく、溺れてしまう。
その時、「それ」に異変が起こった。それまで精神だけの存在だった「それ」を、膨大な魔力が満たしていく。失われていた力が急激に回復していくのを感じる。その魔力はどこかヴィンテージワインにも似た、濃厚でいてかつ味に深淵的なものを感じさせる深みがあり、「それ」を多幸感が満たしていく。
その喜びに反応するかのように、「それ」の精神を物質の殻が覆っていく。肉体と骨が作られ、筋肉が形成されていく。完成した肉体を、血液が急速に駆け巡り始める。
生成されたばかりの心臓が鼓動を激しく刻み、まるで早鐘のような響きを与える。作られた肺が活発に活動を始めるが、取り込まれた空気が肺に絡み付き、「それ」をかえって苦しめる。
生成された肉体が、精神体である「それ」をいよいよ肉体という器へ、自由を束縛する鎖となり、魂を捕らえる檻として完成していく頃、ついに闇に終わりが見えた。
終わりの見えなかった闇の彼方に、光点が現れたのだ。直後、耳を聾さんばかりの「世界」の騒音が「それ」の耳朶を打ちのめし、そのあまりの騒々しさに「それ」は声を限りに叫んだ。
刹那、光点は強烈な閃光となって「それ」を飲みこんでいった。
突然、「それ」は真っ暗な狭い箱のようなものの中にいる事に気付いた。意識が途切れたという感覚はなく、あの闇の空間を抜け、光に包まれたかと思いきやここにいたのだ。反射的に体を動かそうとするが上手く動かせない。作られた肉体と精神の同調がまだ不完全だからだろう。そこで「それ」は今自分が置かれている状況に気付いた。
自分は今、この暗くて狭い箱の中に押し込まれている。まるで胎児のような姿勢でこの箱の中にいる。
それと、この箱の中は何故か冷たい。凍りつくほどの温度ではない。まるで人間が食物を冷やしておく箱――名前はよく思い出せないが――それを思わせる冷たさだった。
何故自分がここにいるのかはわからない。だが今の状況は自分にとってよろしくないのは明らかだった。「それ」は決意すると思うように動かない身体を強引に、それも気合で動かし、そしてついに箱の一面を蹴り開ける事に成功した。
蹴り開けた勢いで「それ」は箱の外へと転がり出る。そして、霞んだ視界で辺りを見る。今自分がいるのは、どこか埃っぽさとカビの臭いを感じさせる古びた室内であり、周囲には埃をかぶった段ボールや棚、厚さが様々な本の山、他にも何に使用するかわからない奇妙な器具がある事から、今の自分は物置のような場所にいる事が窺い知れた。
その時、「それ」の本能が空間に微かに漂う「あるもの」の残滓をはっきりと感じ取った。
自分が必要とする糧が、そこにある。
喉の奥から蛇が発する威嚇音にも似た声が漏れる。本能が、形作られて間もない肉体を突き動かす。「それ」は体をくねらせ、蛇が這い進むかのように滑らかな動きで行動を開始した。
「それ」は本能に突き動かさせられるがまま、誰にも気取られる事なく迷路のような廊下を迷う事なく進み、地下部分へたどり着いた。
そして、目当ての場所へ通じる扉の前へたどり着くと、這いずった姿勢から飛びかかるような体当たりを扉へ見舞い、中へと侵入した。
目はまだ不明瞭であったが、「それ」の嗅覚は自分が求めてやまないものの匂いをはっきりと感じ取っていた。己の肉体が、細胞の一つ一つが、そして魂が、この薫りを喜んでいる。
その場所は薄暗くひんやりとしており、何か独特の雰囲気を醸し出している。室内に立ち並ぶは、大木の幹を思わせるような巨大なものから片手で持てるほど小さいものまであり、それでいてどれもが年代を感じさせる樽。そして木製棚には、薄く埃を被った、無数の瓶が並んでいる。
ワインセラー。
もしもこの場に酒好きな者がいたならば、この場所をそう表現しているだろう。
ただ、このワインセラーは大規模な図書館と見紛うほどの広さを誇っている。 常人ならばこの広さに圧倒されるばかりだが、「それ」にはこのワインセラーが宝の山、あるいは一面の花畑に見えていたに違いない。
そんな絶景を目にした「それ」は、飢えと渇きを全身から溢れさせ、肉食獣の如き雄叫びを上げ、手近にあった樽へと飛びかかった。
――――一体、どれくらいの時間が経ったのだろう。「それ」が我に返ると、周囲の惨状が目に飛び込んできた。 空になった大小様々な樽。そして床に転がる山のような空き瓶。部屋中に広がる何種類ものワインが入り交じった何とも言えない匂い。そして、自分の口内に広がる濃厚でいて、かつ芳醇なワインの味。
この惨状を見て、「それ」はようやく何があったのかを理解した。
確か自分はここから放たれている常人には感知できないほどの微かなワインの芳醇な香りを辿ってきた。そして、中に保存されていたワインを手近なものから浴びるように飲み始めた。
そこからの記憶はかなり曖昧だ。ただ、本能が求めるままにワインを片っ端から飲み干していった事はよく覚えている。
そこまで思い出した途端、「それ」を激しい倦怠感と、何かが体の内側から駆け上がってくる感覚が襲った。
頭痛がする。吐き気もだ。何て事だ。この自分が、気分が悪い? 立つ事が、できない?「それ」が自分を襲う異変に苦しんでいたその時、「それ」の側で空になった樽の山がバランスを崩して一斉に転がった。樽の山は幸い「それ」には当たらなかったものの、とてつもなく大きな音となってワインセラー内に響きわたった。
すると、どこかからドタドタという足音が聞こえ、パッと明かりが点いた。急に明かりが点いた事で、闇に慣れ切っていた目が対応できず、目の奥がチリチリする感覚に襲われる。どうやら天井からぶら下がっていたアンティーク調の照明が点いたらしい。
「何ですか何ですか!? まるで今の凄まじい物音はっ!? 泥棒!? 侵入者!? どっちにしろ誰にしろマジで勘弁しやがれですこんなクソ忙しい時に!」
声からして、声の主は若い女性――それも少女らしい事がわかる。
すると自分の姿を見つけたのか、声の主が小走りで駆け寄ってくる。
「……ちょっとあんた誰ですか!? 泥棒ですか侵入者ですか!? なんでこんなところで寝てやがるんですか? ……っていうかなんで素っ裸!? というか生きてやがるんですか!?」
すると、倒れていた「それ」は首だけを動かし、声の主を見る。
「う…………あ…………」
「それ」はまるで、声の主に何かを訴えかけるように口を開き、か細い声を漏らす。
「…………え…………」
「『え』? 何ですか? よく聞こえませんよ? 何か申し開きがあるならもう少しよく聞こえる声で言いやがれです!」
そう言って声の主は「それ」が何を言おうとしてるのかを聞き取ろうと、顔を「それ」の側へ近付ける。
すると、「それ」はゆっくりと顔を声の主の方へ向け、力を振り絞ってその腕を掴む。そして口をぱかりと開けると――
「えぶおえええええええぇ! お゛ううええええぇぇぇぇ! うぼろえええええええぇ! おろろろろろろろオルオルオルオルオルオルオルェアアアアッ!!」
何の前触れもなく「それ」の口から聞こえてきたのは、大音量の嫌ボイス。その音から少し遅れて、「それ」の口からナイアガラの滝を思わせる勢いで、盛大に吐瀉物が吐き出された。
口から洪水のような勢いで溢れ出る吐瀉物は、まるで様々な色の絵の具を適当に混ぜ合わせてバケツに盛り、それを盛大にぶちまけたかのようなおぞましい色をし、言葉では到底言い表せない悪臭を醸し出している。
そしてそれが飛び散り、滴る音は、聞く者全てが耳を塞ぎたくなるような不協和音のオーケストラといっても過言ではなかった。
「うわー! ゲ○吐きやがりました! 吐きやがりました! うわー! ……ってああああっ!? ゲ○が! カーペットを! 床を! あと自分の服を! 溶かしていやがるです!? んでもって臭い!? 鼻が痛いし目が痛い! 目が、目がぁ~~っ!? 何これ強酸!? というか吐きたいのは自分の方ですよこんちくしょおおおおおおっ!」
そして、絶望に打ちひしがれ、絶叫する少女の声を最後に、「それ」の意識は途絶えた。
「……大変だったな」
「ええもう自分の叫びを先生が聞いて飛んできてくれなかったら、今頃自分は大火傷してましたよ! ……つーわけで! 先生急患です! 十中八九酷く酔っ払っているみたいですが! あと自分に清潔な水と吐き気止めください!」
そんなこんなで、「それ」を発見した少女――さらさらの黒髪をベリーショートに切り、服装もTシャツにジーンズ(元々着ていた服が溶けていたせいで火傷の危険があったためその場で引っぺがして慌てて着替えさせた)と、どこからどう見ても少年といった出で立ちだが歴とした少女である――悠希は、「それ」が開口一番、盛大にぶちまけた吐瀉物による吐き気、目と鼻の痛みを必死に堪えながら「それ」を「先生」と呼ばれた三白眼の女性と共に医務室へ担ぎ込み、簡単に経緯を説明した。
「……なるほどな、大体わかった。……にしても最近、『外』からの訪問者が多いよなぁ」
悠希から事情を聞いた三白眼の女医――栞那は一人ごちながらベッドの上に横たわる「それ」の姿を見やった。
担ぎ込まれてきた時に全裸だったのは思わず目を疑ったが、凄まじい形相で急患だと訴える自分の娘に、彼女はすぐに医師としての顔になり、すぐに「それ」へ患者衣を着せ、簡単な診察と血液検査を行った。
結果、この異世界へ転移した事による肉体への凄まじい負担。それとアルコール中毒。
点滴による処置を行ったところ、容態はすぐに安定した。今はまだ肉体への負荷とアルコール中毒の影響で意識を失っているが、いずれ目を覚ますだろう。だが、彼女には別の懸念があった。
「……しかしこの患者、今まで診てきたのとは『何か』が違う」
思わず一人ごちる。今まで多くの患者――それも人間や人外に至るまでを診てきた彼女の経験がそう判断していた。栞那は改めて「それ」を見やる。
まず第一に、背がかなり高い。一八〇センチはある。体型は背に見合ったかのようにほっそりとしているが、出るところは出ているという、メリハリのついたスタイルだ。「それ」――いや、彼女の髪は腰に届くほど非常に長く、色は鮮烈なワインレッドで、医務室の明かりに照らされて艶やかに煌めいていた。
きっと、彼女の体型に見合った服を着せて女性ファッション誌に投稿するとすぐに話題をかっさらうだろう。栞那はそんな事を考えていた。
「しかし……」
栞那が一番疑問に感じていたのが、彼女の右目である。
本来眼球が収まっているべきその場所には何もない――比喩ではなく、何もないのだ。
診察のため栞那がライトで右目を照らしてみたところ、まるで底なしの穴を覗いているかのようにライトの光が反射される事はなかった。まるで右目がブラックホールであるかのように。
それに加えて血液検査の結果を確認したところ、栞那は思わず目を疑った。白血球や赤血球をはじめ、血液中の成分数値が人間とは思えない数値を示したのだ。かといってそれが危険数値というわけではなく、むしろ超がつくほど健康といっていいほどだった。ただ、血中アルコール度数が常人とはかけ離れた数値であった事を除いて。
そして、奇妙な事ではあるが、彼女の纏う雰囲気が異質だという事を栞那は感じ取っていた。言うならば、神聖とは対極の位置にあるようで、それでいてどこか神聖さも感じさせるような、まるで光と闇が絶妙に混ざり合っている――混沌といってもいいような雰囲気を彼女は纏っていた。ついでに言うとワインの匂いも。
彼女は一体、何者なのだろうか。本当に、人間なのだろうか? できれば早い内に彼女自身の口から聞きたいところだが……。
栞那がベッドの上で眠る女性について考えを巡らせていたその時、医務室のドアを開けてネグリジェ姿の美女――異世界邸が誇るマッドサイエンティスト・フランチェスカが入ってきた。
「栞那ちゃ~ん、また新入りさんが来たって話を小耳に挟んだんで見に来ちゃいました~」
「あーフラン、ちょうどいいところに。ちょっとこの酔っ払いを正気にして起こす薬をよこせ。多少害があっても死にはしないだろ」
「いいよ~、じゃあこれとかどうかな~? さっきたまたまできた二日酔い用の劇薬~」
「お、サンキュ」
そう言うと栞那はフランと呼んだ女性から蛍光色の薬剤が入った小瓶を受け取る。そして蓋を開けて注射器へ薬剤を移すと流れるような動作で患者の腕へ注射器を押し当て、薬剤を注射した。
「何の躊躇いもなくマッドサイエンティストの薬を人体実験しやがりましたよこの親!?」
彼女の傍らで清潔な水で目を洗い、吐き気止めを飲んで一息ついた悠希が絶叫するが、栞那は何て事ない顔で、フランは薬剤の効果がどのように出るか楽しみで仕方がないという科学者の顔で患者を見つめている。その時――
「おっほぉぉぉぉ~~~~~~っ!?」
素っ頓狂な奇声を上げて、患者が目を開き、バネ仕掛けの人形のように身を起こした。
「おお、流石フラン。効果は抜群だ」
「いやこれどう見てもヤバいやつじゃないですかね!?」
「ふんふん、これ、もう少し調整すればふつーに使えるね~」
「あんたもあんたで劇物作ってんじゃねーですよ!?」
三者三様の反応をよそに、赤髪の女性はきょろきょろと辺りを見渡している。すると、栞那が声をかけた。
「おはよう、ミス・ワインレッド。いや、今はこんばんはといった方が正しいかな? ああ、ミス・ワインレッドっていうのは一応の呼び名だ。その鮮やかなワインレッドの髪から名付けた。気分はどうだい?」
「はぁ~……どーにかだいじょぶです~……」
いまいち理解できていないのか、患者――ミス・ワインレッドは首を傾げながら半ばぼーっとした返事を返す。
「さて、早速だが。お前さん、これが何本に見える?」
そう言って栞那は人差し指を立ててみせる。
「いち~……」
「これは?」
指が一本増える。
「に~……」
「じゃあこれは?」
さらに指が増える。
「……дa」
ミス・ワインレッドは右腕をぐっと伸ばしていとも無邪気に答えた。
「どこぞのプロレスラーみたいなノリで返しましたよ!? それもロシア語で!」
斜め上の回答に悠希が素っ頓狂な声を上げる。一方栞那はおかしくて仕方がないという様子で大笑いし始めた。ひとしきり笑った後、栞那はミス・ワインレッドを見た。
「いや、失敬。いやはや、まさかプロレスラーの口上とロシア語をかけたジョークで返してくれるとは完全にしてやられたよ。じゃあ次の質問。――自分の名前、言えるかい?」
これは相手の名前を聞くと同時に、記憶障害が残っていないかどうかを確かめる簡単な問診でもある。すると、ミス・ワインレッドは何かを考え込むかのように唸り始めた。
「大丈夫か? もしかして、思い出せないとか?」
栞那が尋ねる。するとミス・ワインレッドは思い出したかのように「あ~」と声を上げた。
「……そうですそうです~、思い出しました~。わたしの名前は、カベルネ・ソーヴィニヨンです~」
その医務室は沈黙に包まれた。ややあって、フランが思い出したかのように言った。
「確かそれって、世界でポピュラーなワイン用のブドウの品種名だよねー。ブドウと同じ名前って、変わってるな~」
「……いかにも今思いついたような名前なんですがそれは……」
悠希が訝しげにミス・ワインレッド改めカベルネ・ソーヴィニヨンを見つめる。一方のカベルネは視線など意に介していないかのように、にへらとどこか締まらない笑みを悠希に返してみせた。
「カベルネ、ね。あいわかった。どうせここには色々と訳ありの連中がごろごろしているんだ。その名前が仮に偽名だったとしても、あたしらは特にどうこう言ったりはしないさ」
すると、カベルネは深々と頭を下げた。
「ミス・カンナ、お気遣いグラッツェ(ありがとう)です~。ところで~……」
そこでカベルネは一旦言葉を切り、尋ねた。
「……ここ、どこですかぁ~?」
それから栞那はここが異世界邸という場所である事、カベルネの他にも様々な異世界からやってきた住人が住んでいるという事を説明した。
「……まあ、今はこんな感じだな。本来なら管理人も紹介したいとこなんだが、今管理人が色々あって入院していてな。代理として若いのに管理人代行を任せているんだ」「……なるほどですねぇ~、だいたいわかりました~」
ひとしきり説明を聞いたカベルネは数度頷いた。頷きはしたものの、どこまで理解してくれたのかまではわからないが。
その時。
ぐぅ~~~~。
カベルネの腹の虫が盛大に鳴いた。
「「「…………」」」
同時に、栞那、悠希、フランの視線が一斉にカベルネへ集中する。
「にえ~……おなか空きましたぁ~……」
カベルネは奇妙な呻き声を上げ、空腹を訴える。それを見た栞那は苦笑し、声をかけた。
「幸い、胃腸に問題はなかった。むしろ健康そのものだな。お腹が空いたなら何か食べるか? 簡単なものでよければ作れるぞ? 悠希が」
「自分に丸投げですかっ!」
背中越しに親指で示された悠希が吠える。
「あたしより悠希の方が料理できるんだからその方がいいだろ。で? どうする? 何か食いたい物はあるか?」
するとカベルネは左目だけの瞳を輝かせ、言い切った。
「パスタを所望します! あとワイン!」
「は? ワイン? 馬鹿、却下だ却下。ンなもん飲んでるくらいなら生理食塩水でも飲んでろ」
普段の生活態度は劣悪だが、本分は医者。突然の飲酒要求に栞那は眉をひそめながら即座に却下した。するとカベルネは滝のような勢いで涙を流しながら懇願した。
「お願いじます! わだじ、ワインがないとどーにもならないんでず! 後生でずからお願いじまず!」
「ああもうわかったわかった! 飲ませてやるから泣きつくな! ただし! 一応は病み上がりなんだから量はあたしが厳しく見るぞ!」
ただならぬカベルネの様子に気圧された栞那はたじろぎながら許可を出してしまった。
「よしせっかくだ、あたしらも付き合うか。そうだ、この際悠希も一杯やるか?」
「未成年に飲酒勧めるなですこの素行不良医師!」
「冗談だよ、本気にするなって。そういえば、ワインあったっけか。フラン、知らないか?」
「ん~、ワインならとっておきがあるよ~。前にウィリアムさんから誕生日プレゼントにもらったのがね~。ちょっと持ってくるね~」
「おう頼む……待てフラン、せめてこれ羽織っていけ。今の時期、そんな格好でワインセラーは寒いだろう」
そう言って栞那はフランに近くにあった薄手の上着を放り投げる。上着を受け取ったフランはそれを羽織ると医務室を軽やかな足取りで出て行った。
しばらくして。
悠希は大皿に山と盛られたスパゲッティトマトソースを抱えて戻ってきた。
「おおお~、美味しそうですねぇ~♪」
カベルネは目を輝かせ、ベッドから勢いよく身を起こす。
「あり合わせで作ったものだから、あなたのお腹のご希望に添えるかわからないですがね」
ふうと軽い溜息をつき、悠希は大皿をテーブルの上に置いた。
そのパスタはトマトソースベースで、合挽き肉、みじん切りにされたタマネギとベーコンが散りばめられている。そして、目を引いたのがあちこちに盛られたミートボールの存在だ。
「へえ、どこかの怪盗とガンマンが食べていたスパゲッティじゃないか。なかなか洒落てるな」
「ちょっと物足りない気がしたから冷凍のミートボールを入れたんです。もちろん、ミートボールのソースと味がかち合わないようソース自体もちゃんと調整しましたよ」
感心する栞那に悠希は自信ありという様子で答える。
「お待たせ~。とりあえずてきとーに一本持ってきたよ~」
ちょうど、フランが手にしたワインの瓶を掲げながら戻ってきた。手にしたワインの瓶を見た栞那が訝しげな声を上げる。
「ん? 随分年代物なようだが、それ大丈夫か?」
「大丈夫だと思うよ~? 何せテーブルワインから古代のワインまであるっていうし~」
「にょわああああああああっ!?」
突然、カベルネが目を見開いて絶叫した。
「どうしたんだカベルネ、念願のワインだぞ?」
「そ、そうじゃないんですよ栞那さん。そのワイン、幻とまで言われていたワイン……『冥府三巨頭』と呼ばれている魔界産のワインですよ……!」
指を震わせながら瓶に貼られたラベルを示すカベルネ。それにつられて一同がワインのラベルを見ると、「バロック・ボルドー」と書かれていた。
「……このワイン、すごいの~?」
フランが首を傾げながらカベルネに尋ねる。
「すごいなんてものじゃないですよフランさん……魔界では言わずと知れたワイン好きである魔神の一人の名を冠した逸品で、一口で冒涜的、かつ蠱惑的なまでの味わいが五臓六腑に染み渡ると聞きます~。私も噂は聞いていましたが、実物を目にするのは初めてです~!」
鼻息荒くし、左目を輝かせながら説明するカベルネ。それを聞いた栞那とフランは自分の口の中に唾液が集まるのをはっきりと感じた。
「はいはい、冷めない内にちゃちゃっと食べちゃってください。他に食い意地張った連中に嗅ぎつけられたら面倒です」
一連のやりとりを見ていた悠希が呆れたような溜息をつきつつ促す。そう言っている間にも悠希は皿にスパゲッティを取り分けていく。もちろん自分の分も含めて。
パスタが全員に行き渡り、ワイングラスにワインが注がれたところで、栞那がワイングラスを掲げる。
「……では、僭越ながら私が乾杯の音頭を取らせてもらうよ。患者の回復と、新しい来訪者。カベルネ・ソーヴィニヨンに、乾杯」
「「「「乾杯!」」」」
三つのワイングラスと、悠希の持つソーダの入ったグラスが打ち合わされ、ささやかなパーティが始まった。
「それでは、早速テイスティングです~♪」
カベルネが新しいおもちゃを買ってもらった子供のように目を輝かせてグラスを軽く掲げてスワリングした後、満足そうに頷いた。
「ああ、本当ならこのワインの凄さを語りたいですが、流石に尺の都合もあるので今回は早速味あわさせていただきます~♪」
カベルネは目を閉じ、ワインを口に含んだ。口の中で舌を転がし、未知なる味を確かめる。そして――
「ゥンまああ~~~~いっ! ですぅ~っ!」
「わあっ!?」
突如大声で喜びを叫んだカベルネに普段は冷静な栞那も思わずグラスを手放しそうになってしまった。フランと悠希も呆然としている。
「突然叫ぶな! たった一口だろう!?」
カベルネを窘め、栞那もワインを口に含む。一瞬遅れてフランもワインを口に含んだ。二人もカベルネと同じように口の中で舌を転がし、未知なる味を確かめる。そして――
「「ゥンまああ~~~~いっ!」」
「天丼ですかっ!」
同時に歓喜の叫びを上げた栞那とフランに、悠希が怒鳴る。
「い、いや、悠希。このワイン、ヤバいぞ……今までに飲んだワインがグレープジュースだったのかと思うくらい、このワイン、とてつもなく深く、それでいて濃厚、さらに蠱惑的なものすら感じさせる味わいなんだ。だがそれでいて味同士がぶつかり合う事なく、むしろ互いが互いを引き立て合っている、絶妙な味のハーモニーがだな……」
「でしょ~? 『冥府三巨頭』の名は伊達じゃないって事ですよ~」
「はぁ~うぅ~……こんなに素晴らしいワインが世の中にあったなんて……世界って広いんだねぇ~……」
「わーかったわかりました! ワインの感想はあとで聞いてあげない事もないですから、あんた達はさっさとパスタ食って寝やがれです! 特にカベルネさん! あんた一応病人なんだから食うもの食ったらガッツリ寝ろです!」
「は~い」
気の抜けた返事を返し、カベルネはパスタをフォークに巻き付け、口へ運んだ。
「ンマイですぅぅうぅぅッーーーーッ!! この味、癖になるっていうか、いったん味わうと引きずり込まれるウマさっていうか、例えると豆まきの節分の時に年齢の数だけ豆を食べようとしてふと気付いてみたら一袋食べてたって感じですかぁ~!?」
「叫ぶんじゃねーですよこんな時間に! あと何ですかその感想! 美味いって言ってくれてる事はありがたいですが!」
「どーだ、ウチの娘の料理は美味いだろ」
叫ぶ悠希をしれっとスルーしつつ栞那がニッと笑って言う。
「ふぇりふゃふれふ~」 おそらく「デリシャスです~」と言ったのだろう。カベルネは口一杯にパスタを頬張りつつ、片手でサムズアップしながら答えた。
それからしばらくして、カベルネを始め、医務室の面々はパスタを綺麗に平らげ、ワインもほぼ飲み干した後それぞれの部屋へと戻っていった。
「……ぁ~、久々に上等なワインを味わえた。もう一本!」
「まだ飲むのか!? 却下だ!?」
「あ゛ど一本!? あ゛ど一本だげぇえええええええええっ!?」
「ええいわかったよ最後だぞ!?」
アルコール臭い溜息を医務室の空間に吐き出しつつ、栞那は疲れたように溜息を吐いた。
「……はぁ、また奇妙な来訪者が増えたが、これからどうなるかねえ」
「美味しそうな匂いと妙な気配を辿って来てみれば! なんだか強そうな人(?)がいるじゃありませんか!」
その時、医務室の扉が勢いよく開かれ、蒼髪の戦乙女が玩具を見つけた子供のような笑顔を咲かせて飛び込んできた。
その馬鹿は次のワインボトルを開けたばかりのカベルネをまっすぐ見詰め――
「光と闇が混ざり合った魂――今までに見た事ありません! えへへ、これは是非その強さを見極めさせてもらわないといけませんね!」
「どちら様~?」
「私は戦乙女ジークルーネです。いざ、尋常に勝負!」
「ちょい待て駄ルキリー!?」
栞那の静止も耳に入らず、問答無用で飛びかかった。
パリン!
勢いのまま押し倒した拍子にカベルネの持っていたワインボトルが手から離れ、盛大な音を立てて床に中身をまき散らしてしまった。
「あ、床を汚してしまって申し訳ありません、栞那様」
「……いや、それはもうこの際いいんだが」
栞那は青い顔をしてジークルーネが組み敷いているカベルネを指差した。
「……よくも」
カベルネが一音発する度、地鳴りのような音をジークルーネと栞那は幻聴した。その体に負の黒いオーラが満ちていくのを幻視した。
「よくも!」
カッ!
とカベルネの暗黒の右眼が見開かれる。近くに落ちていた空のワインボトルを拾い上げ、叫ぶ。
「よくも私のワインをぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!?」




