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異世界アパート『異世界邸』の日常  作者: カオスを愛する有志一同
管理人不在の異世界邸
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管理人代行【part夙】

 小鳥囀る爽やかな朝。

 もはや夏の残暑もなく、秋半ばの肌寒さすら感じ始めるその日。

 雲間から零れた穏やかな日差しがスポットライトのように照らし出した異世界邸は。

 浅くなり始める眠りを満喫している住民たちに向けて。


 いつものように、起床と避難を告げる爆音(デス・アラーム)を鳴り響かせた。


 だが、いつもと違う点が一つだけある。

 爆音の原因たる諍いを鎮める管理人が――二日前より、不在。

 故に、今日もまた少々過激な全焼全壊(モーニングコール)で一日が始まるのだった。


        ***


「毎日毎日……本当に飽きないのである」

 やはりいつものように壊滅的惨状が完璧に修繕された異世界邸の中庭で、ノルデンショルド地下大迷宮第一階層支配者(フロアマスター)こと〈鮮血の番狼〉――今はジョンと呼ばれているマンモス級チワワは『伏せ』の姿勢で溜息をついていた。

 管理人がいた時から続く恒例行事のようなものだが、最近は屋敷が消し飛ぶまで終わらないため非常に煩わしいのだ。避難しなければ命に関わるとはいえ、毎度毎度これでは安眠もできやしない。

 現に少しでも良識ある異世界邸住民は誰もが目の下に隈を拵え疲労困憊していた。

 そうでない住民は災禍の元凶または圧倒的な豪胆さを持ち合わせた者たちだけ。

「学習能力がないのである」

 否、学習する気がないとも言える。特に竜神とアンドロイドとジークルーネは思いっ切り暴れられるおかげか、ストレスもなく顔がつやっつやしているのだから。

「馬鹿なのではないか」

 チワワでもわかる『いけないこと』という認識が欠如しているとしか思えない。

 チワワに言われてはお終いである。

「吾輩はもっと静かな場所にいたいのである。せめてノルデンショルド地下大迷宮に帰りたいのである」

 とはいえ、ジョンが守護していた第一階層は今や天然温泉の施設と化している。風呂は嫌い……というかトラウマでしかないジョンがそこで過ごせるわけもない。

 あの頃はよかった。

 我が主君(マイ・ロード)と各階層支配者の仲間たちが迷宮を守護し、たまに挑みに来る戦士たちを返り討ちにしていた黄金時代。戻れることなら戻りたい。

 今や、仲間たちは消えてしまった。

 赤子の姿となって残された我が主君(マイ・ロード)と、ご飯をくれる我が聖母(マイ・マザー)だけが心の支え。この邸を守るに値する唯二無三の価値。

 住人だと思って目を瞑っていたが……いっそのこと、毎日破壊をもたらす元凶をこの牙で噛み千切ってくれようか。

 そうジョンが考え始めたその時だった。


 ゾワリ、と。


 身の毛が弥立つような凄まじい気配を感じた。

「なん……であるか?」

 どこか禍々しくも、しかし荒ぶってはいない魔力の気配。自分やアルバイトとして働いているメイドのレランジェのような魔族……いや、どちらかと言えば、全盛期の我が主君(マイ・ロード)『迷宮の魔王』や先日襲ってきた『白蟻の魔王』に近い魔力だ。

 すなわち、魔王が来る。

 それも、()()

「……まずいのである」

 無意識に震え始めた体に鞭を打ち、ジョンは鎖を引き千切って邸の屋根を飛び越え、玄関口に着地する。

 今は管理人がいない。戦える者も、ほとんどが先日の戦いでの負傷がまだ残っている。

「こんな時に襲撃されては、今度こそ終わりなのである」

 守らねばならない。

 門番を任された迷宮の守護獣として、我が主君(マイ・ロード)我が聖母(マイ・マザー)が暮らすこの邸を。

「次は、不覚は取らないのである」

 牙を剥く。低く唸る。

『白蟻の魔王』との戦いでは、幹部こそ住民と協力して倒したが、魔王本人相手では顎を軽く撫でられただけで恐怖に失神してしまった。

 あのように無様で情けない姿は我が主君(マイ・ロード)にも我が聖母(マイ・マザー)にも見せられない。

 たとえ敵わなくとも、〈鮮血の番狼〉の名に恥じぬ戦いをする。この命、尽きるまで。

「ッ!? 来たのである!?」

 一人は男。一人は女。

 異世界邸の門をくぐった男女は、どちらも少年少女と言える風貌だ。が、見た目が実力の参考にならないことはこの邸の連中を見ているだけでもよくわかる。

 男の方は、どこか管理人と似た雰囲気の冴えない顔をしている。

 女の方は、輝くような黄金の髪に小柄な背丈、悠希がよく着ている『学校』とかいうものの制服に似た服装の上から黒いマント、いやローブを羽織っている。

 どちらが危険か――は気配を抑えているせいか判然としない。

 だが、魔王である以上、どちらも危険だ。

「止まるのである!!」

 ジョンは気力を振り絞り、威厳を乗せた声音で両者を呼び止めた。

「吾輩はノルデンショルド地下大迷宮第一階層支配者(フロアマスター)――〈鮮血の番狼〉。両お方とも高貴なる魔王とお見受けするが、それより先へは足を踏み入れることを許さないのである!!」

 高々に告げると、少年少女は顔を見合わせた。

「なんだあのでけえチワワ……異獣か?」

「アハッ♪ 動物が喋ってる。面白いわね」

 慄いている様子は、ない。

 少年の方は少し戸惑っているようだが、少女の方は楽しそうにルビー色の瞳を輝かせていた。

「喋ってるってことは『人』なんだろうが……敵意剥き出しだぞ。あいつちゃんと説明してねえな」

 やれやれと肩を竦める少年は管理人がよくやるような疲れた表情をしていた。どうも魔王らしくないが、感じる魔力は本物だ。

 一魔族でしかないジョンに、どこまで対抗できるか。

「引き返さぬなら、少々手荒な真似をさせてもらうのである!」

 息を吸い込む。

 腹の中で熱量を膨張させる。

「消し炭になるのである!!」

 チワワブレス。

 灼熱が空を駆ける。魔力を乗せた地獄の業火とも呼べる火炎放射は侵入者を骨まで炙って黒焦げにするだろう。

 しかし――

「レージ、わたしがやる」

 トン、と地面を蹴って前に出た少女が、その華奢な腕を振るった。

 瞬間、ジョンの炎が黒く塗り潰された。

 いや、違う。少女が放った黒い炎がジョンの炎を飲み込み、蝕み、相殺するどころか威力を増して突き破ったのだ。

「黒い……炎であるか……?」

 ジョンの鼻先を黒き劫火がジュッと掠める。それだけでも死ぬほどの激痛と熱がジョンの体を駆け巡ったような錯覚を覚えた。

 ――くぅん。

 放心しかけたその隙に、少年が疾駆する。

 ハッと我に返ったジョンが爪を立てるよりも速く。

 少年はなにも持っていなかったはずの右手にどこからともなく取り出した刀を握り――ブォン!!

 視認すらできない速度で振り払った。

 ジョンの首の毛ギリギリのところまで。

 寸止め。しかも、峰打ちだった。

「……きゃいん」

 文字通り目の前に添えられた刀から圧倒的な魔力を感じる。これをまともにくらっていたら首が飛ぶ程度では済まなかったかもしれない。

 そう思うと、知ってしまうと、押さえ込んでいたはずの恐怖が一気に決壊した。

 意識が薄れ……

「ハッ! いかんのである! ダメなのである! また失神してはあの時と同じなのである!!」

 口を大きく開き、すぐ傍にいた少年へと齧りつく。少年はバックステップでそれをかわし、少女の隣へと並んだ。

「チッ、まだ大人しくならねえか」

「レージ、やっていい?」

「しょうがない。殺すなよ、リーゼ。もう少し脅すだけだ」

 少年が刀の切っ先を、少女が掌をジョンへと向ける。

 それぞれに底冷えするほどの魔力が収斂していく。

 ――ま、魔力砲である!?

 思い出すのは先日。竜神やジークルーネが成すすべなく飲み込まれた白き閃光。大地を削り、山を砕き、世界そのものに破壊の爪痕を残す魔王の一撃だ。

 高まる魔力。抗うことすら馬鹿馬鹿しく思える絶対的な力の圧が風となってジョンを打つ。

「あ、これ、吾輩死んだ……」

 撃ち放たれたのは――銀色に煌く無数の刀剣の奔流と、闇より黒き灼熱の炎。

 その両方が、ジョンの左右を紙一重で掠めて空へと消えて行った。

「わおぅーーーーーーーーーーーーーーーーーん!?」

 恐怖の断末魔が天を裂く。

 その後プッツリとジョンの意識も天へと旅立つように切れてしまったことは……まあ、語るまでもない。


       ***


 数分後。

 今し方の騒ぎ――というには些か危険すぎる轟音に『またか』と思って地下に避難していた悠希は、唐突に母親の栞那に呼ばれて管理人室へと向かっていた。

「あれ?」

 道中、悠希は違和感を覚えた。ここ二日間でちょっと数えたくなくなるくらい破壊と再生が繰り返された世界の縮図たる異世界邸が、原型を保っていたのだ。

 というか全く被害が出ていなかった。黒光りマッチョは今朝の修繕をして帰ったばかりだ。すぐに引き返してくれたとしてもここまで一瞬で元通りにはならない。

「どういうことです?」

 さっきの爆音やら轟音やら金属音やらついでにジョンの悲鳴やらはなんだったのか?

 その謎は全て管理人室で明らかになった。


「――というわけでして、こちらのゴミ虫様に管理人の代行を務めていただく安定です」


 管理人室には悠希を含めて六人。呼びつけた栞那は当然として、部屋の隅に那亜が立ち、どういうわけかアルバイトメイドのレランジェが無機質な口調で見知らぬ少年を紹介したのだ。

「管理人代行……?」

 そういえば、管理人が倒れた日に代わりを連れて来ると言っていた気がする。

 それがそこにいる少年だという。一見普通の男子高校生にしか見えないが、それを言うと貴文だって同じだ。寧ろその点も含めた雰囲気が似ていなくもない。

 玄関先でジョンが仰向けになって目を回している光景が窓から見える。栞那曰くジョンの方からいきなり攻撃を仕掛けたらしい。それを無傷、しかも邸へのダメージも皆無で鎮圧したとなれば……なるほど、物理的な実力は確かにあるのだろう。

 ――でもなんでゴミ虫様?

 悠希がわけもわからず訝しんでいると、少年は睨むようにレランジェを一瞥してから、どうにも不慣れな感じで口を開いた。

「えーと、俺は白峰零児(しらみねれいじ)です。正直今でも意味不明なんだが……とりあえず、ここの管理人が復帰するまでの短い間ですがよろしくお願いします」

 ぎこちなさはあるが、丁寧に頭を下げる少年――白峰零児。正直それだけで悠希は戦慄した。だってこの異世界邸に関わる人間でそれだけの常識があるなんて驚愕以外の何物でもない。

 適任者!

 たった二日間で荒み切って擦り減りそうだった悠希は己のメンタルが回復していくのを感じた。

 が、一つどうしても気になることがある。

「あの、そっちの子は?」

 零児の隣でふんぞり返っている、金髪の少女の存在だ。

「ああ、こっちは――」

「わたしはリーゼロッテ・ヴァレファールよ。ふふん、〝魔帝〟で最強だけど『リーゼ』って呼ぶことを許すわ」

「は、はあ」

 そうとしか悠希には言えなかった。可愛い娘だとは思うけどちょっと中二病が入っているのだろうか? 中学生くらいの年齢に見えるし……悠希も中学生だが。

「レランジェのマスター安定です」

「はあ、マスターですか。……え? マスター? どういうことですか?」

「そうよ。レランジェとレージはわたしの下僕なんだから」

「下僕!?」

 ちょっと整理してみよう。既に整理が必要なことに戸惑いを禁じ得ないが、整理しよう。

 レランジェが時々口にしていた『マスター』という存在がこの金髪少女で、こっちの少年も下僕で、だけど常識があって管理人代行でなんたーらかんたーら……自分でもどこに纏めて着地すればいいかわからなくなってきた悠希である。

「こいつのことは気にしないでくれ。暇潰しでついて来ちゃっただけだから」

 混乱する悠希に零児が苦笑してそう言ってくれた。そうだ、重要なのはこの白峰零児という少年が管理人の代行をしてくれる一点だけである。悠希は面倒臭いことを放棄した。

「そっちの紹介は終わったみたいだから、こっちも軽く紹介しよう。私は中西栞那。まあ、見ての通り医者だ。で、これは私の娘の悠希」

「どうも」

 栞那の雑な紹介に悠希も軽く会釈した。続いて部屋の隅にいた那亜が穏やかな微笑みを浮かべる。

「私は那亜と申します。一階の奥にある『風鈴家』という食堂でおかみをしていますので、今度食べに来てくださいね」

 人の緊張を解すような優しい口調に、どこか固かった零児の表情も少しゆる――

「とまあ、この異世界邸でも比較的まともな常識を持った住人だけをここに呼んでいるわけだが」

「少なくね!? 住人何人いるんだよ!?」

「リックさんは?」

「アレは存在が非常識だろ」

「どういうこと!?」

「それを仰るなら私もそうですけどね」

「えっ!?」

 異世界邸に慣れてしまえば普通の会話だったが、まだなにも知らない零児にはツッコミどころしかなかったらしい。緩みかけていた表情がとっても複雑になっている。

「あー、とりあえずまずはうちの馬鹿犬が迷惑かけたことを謝る。すまんな」

「いや、それはまあしょうがないかと」

 どこか心当たりがあるように零児は指で頬を掻いた。なにか事情を抱えているようではあるが、そこを問い詰めるべきか否か迷っている間に栞那が先に問いかけた。

「だが、歓迎する前に一つだけ聞いてもいいか?」

「なんだ?」

 栞那は面接官のように執務机に両肘を置いて指を組み、目つきを鋭くして零児を見据える。

「なぜ、管理人代行を引き受けた? 話は聞いているのだろう? 頼んだこっちが言うのもなんだが、ここの管理人は正直身が持たない。というか、死ぬ」

 以前から管理人業務は大変だと住人全員が思ってはいた。しかし、いざやってみると作業を分担してすら『激務』なんて言葉が生易しく思えるほどの地獄だったのだ。

 なによりも、貴文がいなくてチョーシに乗りまくっている馬鹿どもの相手が死ねる。

「俺だって引き受けたくなかったけど、ちょっとやんごとなき理由が……期間も短そうだし」

「理由を聞いても?」

 零児は心なしか遠い目になって窓の外に視線をやった。その哀愁漂う雰囲気は、ただお金に困っているとかそんな俗物的な理由ではない気がした。

 ともすれば涙すら流れそうな横顔が、どことなく管理人にそっくりだ。

 そのまま数秒待ち、零児が覚悟したように言葉を紡ぐ。

「住んでた家が、吹っ飛んだ」

「採用! 君には管理人の素質がある!」

「待て!? 今の話でどうしてそうなった!?」

 間髪入れない、見事なツッコミである。

「胃薬はなにを使っている?」

「え? この監査局印の胃腸薬を」

「完璧だ」

「なにが!?」

 普通、愛用している胃薬の種類を聞かれて即答した上で懐から現物を取り出す常識人などいない。いるとすれば貴文のような常にストレスと戦い続けている英雄だけだ。

「じゃあ、さっそく君にやってもらう管理人業務についてだが」

「待って!? やるつもりではいるけどなんか納得できない!?」

「まずは他の住人に紹介しよう。今日は外出している奴もいるが、そいつらはまた後程だ。というわけで悠希、彼を案内してやれ」

「は!? なんで自分ですか!?」

「私と那亜は一昨日から分単位で積もった請求書等の書類整理だ。頼めるのはお前しかいない」

「いや、自分も学校があるんですけど!?」

「さっき風邪引いて休むって連絡しておいたから大丈夫だ」

「おい医者!?」

 

 ちゅどぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん!!


「なんだ今の爆発!?」

 会話を遮るように轟いた爆音に零児がビクゥと肩を震わせた。その横でリーゼロッテが「アハッ♪」と綺麗な赤い瞳を楽しそうにキラキラさせ始める。

「ほら、また馬鹿どもが暴れ始めたぞ。早く行って対処してもらえ」

「ぐぬぬ……」

「落ち着いてるなあんたら!?」

「これがこの異世界アパート――『異世界邸』の日常だからな。そのうち慣れるさ」

「嫌な日常だな!?」

 言うて俺もたいがい物騒な日常だけどな、と零児は小さく付け加えた。

「あーもう! わかりましたよ! 零児さんついてきてください!」

 もうどうにでもなれ。

 この状況では自分が諦めるしかないことを、悠希は嫌というほどよく知っているのだった。


        ***


 原因はコショウだった。

 ただ、瓶に詰められて食卓に置いてあるアレではない。その原材料となる、神久夜の家庭菜園で栽培されているコショウ科コショウ属のつる性植物――と同じ名前をした植物系モンスター的なナニカがクシャミを誘発する花粉を撒き散らしながら襲いかかってきたせいである。

 今日も朝早くから管理人の見舞いに外出した神久夜に代わって収穫を任されていた竜神が、その花粉を見事に吸い込み――

 やはり同じく収穫を命じられていたアンドロイドこと【TX‐001】の顔面に、噴射したのだ。炎を。

 そこから先はいつも通り。

 因縁をつけてきたポンコツに今度はガチもんのドラゴンブレスをぶちかまし、向こうも対空ミサイルを至近距離からぶっ放してきた。

 ブレスとミサイルが衝突して大爆発を起こす。衝撃は邸まで届いて菜園に面していた窓ガラスを一枚残らず叩き割った。

「このポンコツが! 今度という今度は決着をつけてやる!」

「望むところだトカゲ野郎! その自慢の鱗を全部砕いてくれる!」

 相変わらず生意気なガラクタだ、と竜神は内心で舌打ち。しかしすぐに本日二度目の体のうずきが早く戦いたいと燃料をくべ始める。

 竜神は翼を広げて空へと舞い上がった。それを追うようにして、アンドロイドも背中のジェットブースターを起動させて飛び上がる。

 そのまま高速飛行による空中戦へと持ち込む。両者が衝突する度に花火のような轟音と共に大気が激しく振動した。

 竜神がブレスを吐く。アンドロイドが避ける。邸が燃える。

 アンドロイドが腕からレーザー光線を放つ。竜神が腕で跳ね返す。邸が崩れる。

 いつもならここまで被害を出す前に管理人が邪魔をしてくるのだが、奴はざまあwwwなことに入院中だ。この二日間は竜神も本当に気持ちよく大暴れできた。ストレスフリーとはこのことである。

 その気持ちはアンドロイドも同じだろう。

「いいのかトカゲ野郎? また医者先生に怒られるぞ?」

 ちゅどん!

「こっちの台詞だポンコツ。てめえだって遠慮してねえだろ?」

 ちゅどん! ちゅどん!

「当然! なにやら管理人も医者先生も邸を壊すと怒るが、どうせすぐ直るではないか!」

「誰にも迷惑かけてねえのに怒られるとかマジ意味わかんねえ!」

 ちゅどん! ちゅどん! ちゅどん!

 異世界邸半壊なう。

「待てトカゲ野郎! 誰にも迷惑かけてないだと?」

「ああ?」

 掌を突き出してアンドロイドが戦闘を中断させた。竜神は訝しげに表情を歪め、なにやらプルプルと震え始めたアンドロイドを睥睨する。

 と――

「どの口がほざくか! 俺に迷惑かけてんじゃねえかいつもいつもいつもよぉ!!」

 アンドロイドの全身のいたるところがパカリと開き、無数のミサイルが宙を踊った。

「はん! ちょっとクシャミが当たっただけで迷惑とかキレんなよカルシウム取ってんのかぁ?」

 対する竜神は翼を大きく広げ、ミサイルと同じ数だけの火球を生み出して射出した。

 一撃一撃が小都市程度なら簡単に壊滅させられる威力の衝突。

 それを上空で繰り広げられているのに、一瞬ではなく緩やかに崩壊していく邸の防御力こそ褒めるべきかもしれない。

 いつも他の住人が避難完了できているのはそのおかげだったりするのだが、竜神はもちろんアンドロイドもそんなことは気にしない。

 時には友であり、そして今は敵であるお互いを全力で潰す。

 それ以外のことは些細だ。気にかける必要すらないだろう。

「さあ決着を!」

「つけようか!」

 両者が最大出力の攻撃を放つため力を溜め始めたその時――


「いい加減にしやがれです!?」


 地上から届いた少女の怒鳴り声が水を差した。

「ああん?」

「なんだ?」

 下を見ると、ボーイッシュな女子中学生――中西悠希が腰に手をあててこちらを睨んでいた。あと見覚えのない男と女が一人ずつ。来客中で少しうるさかったのかもしれないが……この二日間、彼女がここまで強く怒鳴ってきたことはなかった。

「止めんじゃねえよ嬢ちゃん!」

「我らの戦いだ! 力なき者は下がっていろ!」

 竜神もアンドロイドも弱者相手に力を振るうほどクズではないが、聞く耳は持たない。悠希ごときが下からなにを言おうとも因縁の戦いを終わらせるつもりは毛ほどもなかった。

 そんなことは重々承知のはずの悠希は、隣にいる見知らぬ男を見た。

「零児さん、お願いします」

「あ、ああ」

 男がなんか戸惑っている様子で前に出る。上空に浮かんでいる竜神とアンドロイドを見上げ、躊躇いがちに大声を張り上げた。

「なあお前ら! なんで喧嘩してるのかは知らねえけど、それ以上やると邸が壊れ……いやもうだいぶぶっ壊れてるな。とにかく戦いはやめよう? な?」

「……」

「……」

 なにを言っているのだ、あの男は?

 竜神とアンドロイドは虚を突かれたような顔で互いを見合わせた。

 少なくとも悠希よりは力のある人間だということは感じる魔力からわかる。だがそれも()()()()()()だ。単騎で大国を脅かすことすらできる自分たちが相手をするには役不足もいいところ。

 失笑しか出なかった。

 今気づいたが、ジョンが玄関先で仰向けになって寝ている。そういえば先程一瞬だけ強い力を竜神は感じていたが、菜園で怪植物から逃げ回っていたこともあり気のせいだと思っていた。まあ、関係はないだろう。

 気を取り直し、竜神は大口を開いて体内の魔力を高熱に換える。

 それを見たアンドロイドも腕のレーザー兵器にエネルギーを再充填し始めた。

「うわっ!? あいつらやめる気ねえ!?」

「零児さん、あの馬鹿どもに説得なんて無意味です。問答無用で半殺しにしやがってください」

「いいの!?」

「ふぅん、あいつら燃やしていいならわたしがやる!」

 と、竜神たちの強さにビビっているのか二の足を踏む零児とかいう男に代わって、金髪紅眼の少女が楽しそうに口元を歪めて前に出た。

「リーゼロッテさん!? ちょ、近づいたら危ねえですよ!?」

 悠希が止めようとするも、それを零児が手で制した。

「リーゼ、本来は俺の仕事なんだけど」

「んー、じゃあちょっと遊んで叩き落すわ。レージ飛べないでしょ?」

「遊ぶって……えっ!?」

 驚きの声を上げる悠希。力を溜めていた竜神とアンドロイドも、地上からこちらを見上げる金髪少女――リーゼロッテの変化に目を丸くした。

 砂利が舞い、空気がピリピリするほどの膨大な魔力が高まっていく。

 リーゼロッテの頭部から二本の太い角が伸び、背中には一対の蝙蝠に似た翼が広がる。先端がトランプのスペードみたいな形となった尻尾まで生えたその姿は――

「悪魔……?」

「違うわ。〝魔帝〟で最強よ。さっきも言ったでしょ?」

 呆然とする悠希に幼くもどこか妖艶さを滲ませた笑みを向け、リーゼロッテは翼を羽ばたかせて飛翔した。

「アッハハハハハハハハハハハハッ♪」

 ジークルーネとは別種の狂気を感じさせる哄笑に竜神は背筋が凍った。どういうわけか先日戦った『白蟻の魔王』の姿が脳裏にちらつく。

 嫌でも理解する。

 アレは、無視できる相手ではない。

「一時休戦だポンコツ!?」

「承知! 目下の敵を彼の少女へとシフトする!」

 フルパワー寸前までチャージした竜神のブレスとアンドロイドのレーザーが地上へと降り注ぐ。それに真正面からスピードを落とさず突っ込んで来るリーゼロッテの両脇に、黒く揺らめく魔法陣が展開された。

 轟ッ!! と。

 魔法陣から射出されたドス黒い炎がブレスとレーザーを呑み込み、燃やし、喰らい尽くす。

 馬鹿な!? と驚愕している暇はなかった。

 自分自身も黒炎に包まれたリーゼロッテが、姿を消したのだ。

 そして竜神とアンドロイドの眼前に、唐突にぼわっと黒炎が立ち昇り――そこから出現した細枝のような手が万力のごとき握力で竜神とアンドロイドの顔面を鷲掴んだ。

「転移か!?」

「なんと!?」

 竜翼とジェットブースターの膂力など鼻で笑うように、リーゼロッテは二人に一切の抵抗も許さず互いの体をぶつけてから上空に投げ飛ばした。

「もっと抵抗しなさいよ。つまんない」

 黒炎の弾丸が追撃する。

 かわす余裕はない。それほどの速度。

 被弾。爆発。

 竜神の鱗やアンドロイドの装甲といった防御力など無視するような熱と痛みに意識が飛びそうになる。

「くそっ、なんなんだあの嬢ちゃんは!?」

「力を感じなかったのは抑えていたからか!?」

 となると、地上で悠希を庇いながら冷や汗を掻いている零児とかいう奴も――

「お前たち退屈だから、そろそろレージに交代するわ」

 声は頭上から。

 またも転移したらしいリーゼロッテが、悪魔的な笑みを浮かべて巨大な魔法陣を展開していた。

「ちょ」

「待っ」

 解放された黒炎が柱となり、まるで星に杭でも打ち込むかのように二人を呑み込んで地上へと叩き落とした。


        ***


「――はっ!? 思い出したのである!!」

 異世界邸の玄関口。

 カッ! と目を開いたジョンは仰向けになっている自分の体勢など気にせずに唾を飛ばす。

「あの炎、間違いないのである!」

 昔、まだノルデンショルド地下大迷宮が異世界でブイブイ言っていた頃、我が主君(マイ・ロード)が気紛れに教えてくれた『絶対に敵に回してはならない魔王』の内の一人。

「『黒き劫火の魔王』であ――」

 語尾までいいかけたその直後、空から隕石のごとく降ってきた黒炎の塊がジョンの腹にクリティカルヒットした。

「わぎゃあああああああああああああああああん!?」

 ビクン!! と体がくの字に跳ね曲がり――

 ……わう。

 ジョンの意識は再び深淵へと旅立つのだった。


        ***


「あの娘の方が馬鹿どもよりヤバイじゃねえですかぁあッ!?」

 大地を貫いた黒炎の柱と、そこから派生して雨霰と降り注ぐドス黒い火炎弾に悠希は堪らず絶叫した。思わず零児の胸倉を掴んでぐわんぐわんと前後に振り回す。

「お、落ち着け落ち着けって!? 大丈夫だから!?」

「どう見ても終末な光景なのに落ち着けるわけねえですよ!? どこが大丈夫だってほざきやがるんですか!?」

「ほら、落ち着いてよく見てみろ。()()()()()()()()()()?」

「……は?」

 言われ、悠希は零児の胸倉を掴んだまま改めて周囲を見回した。轟々と燃える黒炎の柱。隕石レベルで撒き散らされる火の粉。

 なのに、零児の言う通り、異世界邸どころかその辺の木々すら一本も燃えてなどいなかった。黒炎はなにかにぶつかると雪のように溶けて消えている。

「前までのリーゼだったらともかく、今はちゃんと黒炎をコントロールできるようになってるんだ」

「前? 今? 話が見えねえんですが?」

「要するに、この黒炎はリーゼが燃やしたいモノしか影響しない。ほれ、試しに触ってみればわかる」

 零児は降って来る黒炎を掌で受け止めると、悠希に差し出した。零児が触れても消えないことは疑問だったが、恐る恐る指でつついてみる。

「ホントだ。熱くねえです……」

 温かい、とすら感じない。

 まるで夢か幻のように、悠希の認識ではその炎が現実に存在しているのか曖昧になってしまった。

「確かこの前も麓の街を襲っていた白蟻だけを一掃したらしいぞ。俺はその場にいなかったから、直接見たわけじゃねえけど」

「あっ」

 そういえば、栞那から麓の状況を聞いた時にそんな話があった気がする。父親からの情報ということで半分ほど聞き流していたのだが……。

 そうこう戸惑っている間に黒炎の柱が霧散する。後にはプスプスと焦げ臭い煙を全身から噴いている龍神とアンドロイドが仲良く並んで倒れていた。あんな状態でも息はあるようだ。リーゼロッテが加減したのか、それともあの二人が頑丈なのか。

「で、アレはどうすればいいんだ?」

「え? あ、えーと、ちょっと待ってください。マニュアルによると」

「マニュアルあるんだ……」

 悠希は栞那から持たされていた管理人業務マニュアルを取り出してページを捲る。

「『縛りつけて一番汚いトイレにしばらく放置』って書いてやがりますね」

「なにそのマニュアル!? 酷くね!?」

 愕然とする零児だったが、そこまでしても馬鹿どもは学習しないのだ。もはや悠希は別段酷いなどと思っていない。

 とそこに、空からリーゼロッテが舞い降りてきた。着地と同時に角やら翼やらがフッと消え、元の可愛らしい少女の姿に戻る。

「あれ? 終わっちゃった?」

 リーゼロッテは動かない竜神とアンドロイドを見てつまらなそうに唇を尖らせた。

「むぅ、レージが戦ってるとこ見たかったのに……」

 そんな問題児的不満を呈するリーゼロッテに悠希が一歩引いた、その時だった。


「それでしたら、次は私のお相手をしていただけませんか?」


「――ッ!?」

 どこからともなく響いた少女の声と共に、耳を劈くような金属音と衝撃が駆け抜けた。

「えへへ♪ 流石ですね! 貴文様に負けず劣らない強者の香りです!」

「な、なんだあんたは!?」

 白銀のドレスアーマーに身を包んだ少女が流れるような蒼い髪を靡かせながら大鎌を振り下ろしていたのだ。そしてそれを、零児がいつの間にか握っていた日本刀で受け止めている。

「ルーネさん!? またややこしい時にややこしい人が!?」

 零児もさっきまで日本刀など持っていなかったはずだが、一体どこから出したのかという疑問よりも状況の面倒臭さに悠希は悲鳴を上げるのだった。

「私はジークルーネと申します。英雄の魂を神界へと導くことをお仕事にしている戦乙女です。今は異世界邸に住まわせていただいて、貴文様の魂を狙っているのですがどうも上手くいかないんですよ」

「白峰零児。言っておくが、俺は英雄なんかじゃないぞ?」

 互いに名乗り合うと、ジークルーネは燃えるような赤い瞳に愉悦の光を宿した。

「はい♪ あなたは基本的に人間のようですが、少し……いえ、ちょっと看過できないレベルで『魔』が混ざっているご様子。惜しいですが、英雄の魂とは言えませんね」

「だったら、こうやって戦う意味はないんじゃないか?」

 どうにか説得して厄介事を回避しようとする零児であるが、彼はまだまだ異世界邸のことをよく知らない。


()()()()()()()()()()♪」


 説得が通じる相手ばかりならば、そもそも管理人は胃をやられてなどいないのだ。

「ちょい!? なんでだよ!?」

「趣味です♪ えへへ♪」

「ふざけんな!?」

 振り回される大鎌を零児は日本刀で必死に捌く。あのジークルーネとまともに戦り合えているだけでも充二分に管理人としての戦闘能力は保証できるだろう。

「さあさあさあ零児様! 本気を出してください! あなたを見ていると私の戦乙女としての野蛮な部分が疼くのです! ガッツリじっくりそして激しく全力全開で戦い合いましょう! 七日七晩は刃を交えましょう! えへへ♪ えへへへへ♪」

「こいつグレアムと違って関わっちゃダメなタイプの戦闘民族(へんたい)だ!?」

「アハハ! レージ押されてるぅ。反撃すればいいのに」

「リーゼはちょっと黙っててね!?」

 ブーメランのようにぶん投げられた大鎌を零児は左手にも日本刀を生み出して防御する。弾かれた大鎌をジークルーネは空中でキャッチし、そのまま落下の勢いを載せて叩きつけた。

 零児は左右の日本刀をクロスさせて受け止める。それから視線だけを悠希に向けた。

「なあ! あんた! えっと、悠希だっけ!? そのマニュアルにこういう場合の対処法とかなんか書いてないのか!? こいつも半殺しでトイレか!?」

 もしそうだったら嫌だな、と零児の顔には書いてあった。お馬鹿でヘンタイでも一応女性であるルーネに手を上げるのは抵抗があるのだろう。貴文も最初はそんな感じだった。

 悠希はマニュアルのページを繰る。

「えーとですね、ルーネさんは『勝っても負けてもヤバイことになるから戦うべからず。逃げろ。超逃げろ。とにかく逃げろ』って書いてやがりますね」

「ダッシュ!?」

「逃がしませんよ零児様!」

 聞くや否や迷わず逃走を選択した零児をジークルーネが追いかける。零児が日本刀を後ろに向けて翳すと、無数の刀剣が彼の周囲に出現して一斉掃射された。

「えへっ♪」

 反撃を受けて幸せそうに笑うジークルーネが対処している間に、零児はマニュアル通りとにかく逃げることにしたようだ。

 だが――


 ちゅどぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん!!


 邸の三階の壁が吹き飛んで零児の頭上へと落ちてきた。

「ほわっ!? なっ!? 邸がいきなり爆発した!?」

 神がかった超反応でガラス片を回避した零児が上を見上げる。窓枠が壁ごと消失したその一室から、もくもくと赤紫色の煙が立ち上っていた。悠希は思わずガスマスクを探しそうになる。

「あ~、もしかして噂に聞く管理人の代行さん~? ご苦労様ぁ~」

 吹き飛んだ壁の穴からネグリジェ姿の女性がひょこりと顔を出した。言うまでもない、フランチェスカだ。

「なんかすごい毒々しい煙出てるけどあんたなにやらかした!?」

「また実験失敗しちゃって~」

「あ、零児さん、その時のマニュアルは周辺住民の避難と部屋の後片付けです。あとできれば毒の中和も必要ですね」

「そのマニュアルこんなことも想定してんの!?」

 

 ちゅどぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん!!


「って言ってる間にまたかよ!?」

 今度は別の部屋が爆音を上げて吹き飛んだ。そこからぬっと巨人の腕のようなものが生えている。腕に握られているのは、顔の左半分以外に魔術的な刺青をした改造白衣の女性だった。無論、セシルである。

「ごっめーん♪ 魔導書の解析ミスってなんか変なの召喚されちゃった☆ 助けてくれると嬉しいな♡」

「嬉しいな、じゃねえよ自分でなんとかできねえの!?」

 初対面なのに口悪くツッコミを入れる零児にはもう余裕などなさそうだった。

「零児様! 逃げずに戦ってくださいよ!」

「ジョーキョー!? 状況見ろよぉおおおおおおおおッ!?」

 悲鳴を上げてジークルーネから逃走しつつ、フランチェスカに避難するよう声をかけ、セシルが召喚した謎の腕に立ち向かう零児。

「アッハハハハハハ♪ レージってば最ッ高♪」

 それを眺める彼の連れのリーゼロッテは、お腹を抱えて爆笑していた。


        ***


「……な、なんとか、乗り切った」

 時既に夕刻。管理人室の床にぶっ倒れた零児を、栞那が書類との格闘による疲労を滲ませた溜息をつきつつ見下ろした。

「やはり馬鹿どもの担当がいると違うな。邸が半壊で済んだなど奇跡だ」

 感覚が麻痺していることは自覚している。倒れながら「あれで奇跡!?」と絶句している零児の方がまだ正常だ。ちなみにリーゼロッテはなんかもう邪魔だからレランジェに連れて帰ってもらったらしい。

 今、管理人室には彼と栞那の二人だけだ。

「死ぬだろう? それに加えて私と那亜が二人がかりでまだ処理仕切れていない書類をあの管理人は毎日相手してるんだ」

「……バケモノかよ」

「バケモノだな」

 そんなバケモノでも疲労とストレスが溜まればやがて爆発して入院してしまう。役割を分担しているから()()()()()で済んでいるが、これを一人でやろうとすれば例え栞那にチート能力があったとしても二日と持たないだろう。

「嫌になったか?」

 やめたければ止めはしない。栞那としてはそうなってほしくないが、医者としても人間としてもこんな『黒って全然黒くないよね☆』って笑って言える地獄を本来無関係な者に無理強いはしたくないのだ。

 だが、零児は床に胡坐で座り頭の後ろを掻いた。

「いや、これは確かに、いい修行になるよ。どうりであのドS天女と鬼教官が笑顔で薦めてきたわけだ」

「修行? それが管理人業務を引き受けた本当の理由か?」

「住む家がなくなったのも本当だ。ただ、それは今までもどうにかなってきたな。俺は俺の力をもっと上手く扱えるようになって……もっと強くなって、あいつに追いつかなきゃいけない」

 どこか黄昏た雰囲気でそう語る零児も、いろいろと事情を抱えているのだろう。

「詳しくは聞かん。これからも管理人代行を務めてくれるのならそれでいい」

 ドライにそう告げると、零児も苦笑で返した。

「住人には一通り会ったか?」

「そうだな。とりわけヤバイのが竜神とアンドロイドと戦乙女。次にマッドサイエンティストと魔術師の女か」

「うむ、それがわかっていれば充分だ」

「あとなんか作家を名乗るおっさんがやたら絡んできたんだけど」

「ああ、アレはテキトーに相手していれば無害だ」

 管理人代行などという美味しい展開をあの大先生が見逃すはずもない。しばらくは付きまとわれるだろう。気の毒に。

 すると管理人室の扉がノックされた。

「お疲れ様です、零児さん。お食事はいかがですか?」

 人々を癒すような優しい微笑みを浮かべて入ってきた那亜が、湯気の立ち上る椀や皿を載せたお盆を零児に差し出した。

 山盛りによそったほくほくの白米にアサリの味噌汁。玉葱とニンニクと一緒に炒められた厚切り牛カルビには風鈴家特性のタレがかけられ、千切りにされたキャベツと一緒に皿に盛られている。食欲のそそる芳ばしい匂いに栞那も思わず口の中が湿ってきた。

「おお、美味そう!」

「スタミナがつくように、焼肉定食です」

「ありがとうございます! いただきます!」

 零児が行儀悪くも床で食べ始めるが、机に移動する時間も惜しいと思う気持ちはよくわかる。タレのかかった牛カルビを白米と共に掻き込み、零児は疲労が吹っ飛んだような笑顔になって「うんめえぇえッ!?」と叫んだ。

 こんな飯テロは卑怯だ。

「那亜、私の分は?」

「風鈴家にいらしてくだされば」

 仕事は夜になってもまだまだ続く。

 医者としての仕事も、書類整理の仕事も。

 そして当然、零児も再び働くこととなるだろう。

「しょうがない。私もエネルギー摂取だ」

 空腹を覚えた腹の虫が暴れ始めたので、栞那は仕事を一旦中断して早足で風鈴家へと向かうのだった。



 そして、これは余談だが――

 ジョンはまだ玄関先で気絶していた。

 


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