実態のある架空請求【part紫】
徐々に深くなりゆく人気の無い街角で、二つの人影がほてほてと歩いていた。
「にしても、ほんっと何もねえな」
「だなあ……?」
どこにでもあるジーンズとTシャツを身に纏い、何となく緩い印象を与える少年と、体格の良い青年が首を傾げ合っている。
「あれだけうじゃうじゃ気持ち悪い白蟻の群がいたってのに、街が綺麗さっぱり何事もねえって普通なのか?」
「なわけねえし。……あーでも、疾が暴れまくった跡も綺麗に無かった事にしてくれてるっぽいぞ?」
「へえ、この街の術者って優秀なのか……まあ、2日前のあの騒ぎはやばかったもんな。あれで無事ってのがすげえわ」
「逃げるの賛成してくれた竜胆に超感謝。俺だったら軽く死ねる」
「いやあ、今回はな……別に鬼じゃなかったし、瑠依達が動く理由も」
「ほお」
竜胆、瑠依と呼び合っていた2人が、絶対零度の声音にぴたりと足を止める。2人が慌てふためいて振り返るより先、乾いた音が2度響いた。
——タンタンッ。
「いって!? ちょ、いきなりな……に、を」
「なん……身体が、痺れ……?」
背後から銃で撃たれながらも怪我1つない2人が、ゆっくりと膝を折る。嫌な予感に顔を引き攣らせつつ、迫る足音に顔を見合わせた。
「なあ……瑠依。俺すっげえやな予感すんだけど」
「奇遇だな竜胆、俺もだ。動けねえのがすげえ怖い」
「さて」
「「!?」」
びくうっと震えて同時に顔を上げた2人は、何でか不機嫌な相棒がイイ笑顔で拳を鳴らすのを見て蒼白になった。
「2日前の夜、てめえらが一体どこで何をしていたのか、ゆっくりと聞かせてもらおうか」
「…………一兆」
ゆっくりと額面を読み上げた『魔女』の顔色は、些か以上に悪い。
「一応聞くけど、計算ミスとか、桁違いとかはないんだよね?」
問いかけに、請求書をわざわざ自ら手渡しに来た瀧宮羽黒は肩をすくめた。
「気持ちはめっちゃわかるが、うちは計算関連は誤植の無いように徹底してるんで」
「だよねえ……」
はあ、と溜息をついたと同時、どさりと『魔女』の傍らで重い音が響いた。
「ああっ、当主!!」
「自室までお運びして」
使用人が悲鳴を上げる。おおよそその反応を予知していた『魔女』は、動じずに指示を与えた。慌てふためいて数人係で運び出すのを横目に、『魔女』はもう1度溜息をつく。
「おや、意外と冷静だな。俺だったら異世界に逃げ出すぜ?」
「アクロバティックな逃亡だね。……私は、この街の統括を任されている身だよ。災害発生時の復興に必要な経費の試算くらいしたことはある。間違いを期待はしても、想定外だったわけじゃない」
「当主殿は倒れたぞ?」
「もう年だからね」
適当に流しながらも、『魔女』は右手を忙しなく動かしていた。脳内の算盤を弾いて支払いの計算を行ってみるが、結果は出る前から分かっている。
「……うん。どう考えても全額は無理。私個人の資産を全部つぎ込んでも、外部委託料にギリギリ届くかどうかって所だよ」
「いや待て、その若さでその資産はすげえぞ」
「備えあれば憂いなしってね」
顔を引き攣らせる羽黒ににっこりと笑い返す。何の為に日々『知識屋』を運営していると思っているのだ。
「災害試算は国からの援助もコミで計算してたからなんとか回ったけど、これはなあ……良くも悪くも、君達が関わってるしね」
「引っかかる事言うねえ。俺たちゃ善良な建築業者よ?」
「よく言う。この街全ての建築物に瀧宮の術者の手が加わってる……その怖さが分からない私じゃない」
苦笑いを浮かべて見上げると、羽黒は飄々と嘯いた。
「そちらさんとの末永いお付き合いの印だよ」
「だから困ってるんじゃないか」
「で、国からの援助はどうなんだ? 街の建物軒並み崩壊なんざ、普通に災害級だろ」
しれっと話を戻す羽黒にじっとりとした視線を向けつつも、『魔女』はシニカルな笑みを口元に浮かべる。
「ちょうど今朝回答が来たよ。「異世界からの襲撃は国が対処する災害の定義にあてはまらない」だってさ。全く、逃げ道探しばっかり上手いんだから」
「おーおー、冷たいねえ。で、大人しく引き下がったん?」
「まさか。しばらく日本の魔術師は、魔術書魔導書の仕入れ値が上がるね」
「地味に嫌だね、そりゃあ」
にっこりと笑って答えとする。見捨てたからには勉強してやる義理も無かろう、文句なら国に言っていただく。
「さて、となるとあとはあの迷惑な邸に請求書を回すわけだけども……どんなに頑張っても8割減らせるかどうかだよねえ……2000億なんてどこから引っ張り出そう」
「押しつける比率が最初言ってたのより増えてね?」
羽黒の茶化しは無視して、『魔女』は額に手を当てた。矜恃にかけてこの取り立て屋の前では平然として見せているが、現状は普通に詰んでいる。
「最悪『巫』に頭下げるけど……ただでさえ冷戦気味の『中西』をこれ以上刺激したくないしなあ……」
「病院に睨まれるとか、お前さん達何したし」
「あははは……私にはどうしようもない負の遺産だよ……」
真っ当な羽黒のツッコミは、乾いた笑い声を漏らした『魔女』の返答で同情に変わった。
「あーまあなんだ。俺の口利きで、利子は限りなく0にしてやっから、な? 頑張れ」
「頑張ってどうにかなるもんでもないんだよなあ……」
堪えていた弱音が漏れ出たその時、『魔女』の袂から着信音が響いた。画面を覗き込んだ瞬間、『魔女』の顔が引き攣る。
「うわあ……相変わらず嫌なタイミング引き当てるなあ」
「知り合いか?」
「つい最近、この上空で巨大な戦艦を爆発させてくれやがった奴だよ」
「……おう、確かにあのクソガキはアンタにとっちゃそうなるわな」
やや引き気味の羽黒の相槌に、知らず口調が乱れていたことに気付く。1つ咳払いをして、『魔女』はスピーカホンで通話ボタンをタップした。
「……もしもし」
『良い報せと悪い報せがある』
開口一番名乗りもせず、なんだか愉しそうな声でそんな事を告げてきた電話相手の言葉に、『魔女』は顔を顰めた。
「そっちにとって良い報せと、こっちにとって悪い報せってこと?」
『随分疑い深くなったもんだなあ、『魔女』よ。だが阿呆なのには変わりねえな、俺に関わる報せをわざわざ教えてやる義理なんざねえだろ』
「……ああそう」
吐き捨てた『魔女』に、羽黒がどうどうと手振りだけで宥めてくる。深呼吸をして苛立ちを抑えていた『魔女』は、ふと気付いて口を開いた。
「なんだかそっち、取り込み中? 何でそんなタイミングで電話を?」
『あ? あー、やっぱ外の音も拾うかこれ』
平然と宣ったが、『魔女』の耳には鈍い音と悲鳴がはっきりと聞いて取れる。無言で羽黒に目を向けると、羽黒は苦笑いを浮かべて頷いた。そのまま電話口に語りかける。
「よお、クソガキ。先日は随分な目に遭わせてくれたってのに元気だな。若いねえ」
『なんだいたのか、瀧宮羽黒。2日も疲労引き摺るようになったらオッサンだぜ』
「手厳しいね。で、何で外の音を拾うんだ、つーか電話しながら何してんの?」
『魔女』の代わりに聞いてくれた羽黒の問いかけに、疾は平然と答えた。
『無線式のインカムだよ。片耳に引っかけるだけで音声も拾うっつーから試してんだが、集音性の良さが災いして周囲の音まで拾ってんだな』
「へえ、便利だな」
『まあ、それなりの運動でも外れねえしな』
「運動……」
小さく呟いた魔女の耳に、不意に悲鳴が鮮明に言葉を発した。
『聞こえてるんだったら! 誰でもいいから止めて!? この人犯罪者でsぎゃああ!?』
『黙ってろ馬鹿。——まあ余計な音声たまに拾うが気にすんな』
「いや、気にしねえ奴いるかよ。何してんだ」
『軽い運動。で、悪い報せと良い知らせ、どっちから聞く?』
「「…………」」
束の間、『魔女』は羽黒と無言で顔を見合わせた。放っておくのもどうかと思うが、関わりたくない。と、無言のまま意見が一致する。
「……じゃあ、悪い報せから聞いておこうかな」
『殊勝な心がけだな。——魔王による襲撃は、当然だが少なからず妖気を撒き散らした。なにせあの砲撃だしな』
「そう思うならちゃんと防いで欲しかったけどね」
『てめえで出来ねえ事にけち付けられるほどお偉い立場かよ』
鼻で笑われて、『魔女』はぐっと言葉に詰まる。宥めるように羽黒が会話に入った。
「ま、ノワールの防御魔術でダメなら、もう誰でも無理だろ」
『あー……魔法士の防御魔術は基本対物理に偏ってるからな。ノワールはそれでも対魔結界に詳しい方だが、今回は人的被害の阻止最優先に徹底的に対物理強度に魔力注いだみてえだ。それであの封印守りきったっつうから人間やめてるけどな』
『人間やめてるのはお前もじゃんかって痛い痛い痛い!?』
またも悲鳴が鮮明に聞こえたが、羽黒は当たり前のようにスルーした。『魔女』は一応気にしつつも、会話に意識を戻す。
「すまん、詳しいご託はわかんねーわ。とりま、人死に出すなって注文を守ってくれたってのは何となく分かったよ」
『アンタ脳筋かよ。まあ取り敢えずだ、ばらまかれた妖気と、防御の為とはいえ盛大に流れ乱した地脈。その2つがいい具合に絡み合ってな』
「龍脈ならうちの組が責任持って整えたぜ?」
『いや、多人数が地脈利用して術を扱ってたって事実が問題だ。一晩中地脈が乱れた気配は、地中を伝わってこの国中に広まった。しかも妖気は未だに浄化されきってねえ』
「げ」
「それ、は……」
嫌な予感に顔を引き攣らせる羽黒と『魔女』を余所に、疾は悲鳴を背景に陽気に言い切った。
『鬼狩りとしての正式な通達だ。今後しばらく、この地は砲撃で消し飛んだ分を埋める以上の勢いで血の気盛んな妖共が押し寄せるぜ。そのうちの何割が鬼に変容するだろうなあ?』
「…………」
「うわあ……」
今度こそ血の気を失った『魔女』を尻目に、羽黒も呻き声を上げた。
『ちなみに鬼狩りは鬼以外は業務外だ、街の治安は街の術者で守れよ』
「……今かなりの術者が負傷してるって分かってて、その台詞なのかな?」
『無様に怪我した阿呆共の気遣いなんざ、してやる義理ねえだろうが』
『鬼! 悪魔!』
『ってかそれは流石にってうお待てっ、魔術はよせ!?』
背後の悲鳴が的確に『魔女』の心情を語ってくれたが、その程度で引き下がってくれる相手でもない事は痛いほど理解している。頭痛がし始めたこめかみをおさえ、『魔女』は声を押し出した。
「とりあえず、情報くれてアリガトウ。何とか対応を考えてみる」
やや棒読みになってしまったものの、礼節を保った自分を心の中で自画自賛したとて、誰も『魔女』を責めまい。そんな脳内評価を下していると、疾の声が入った。
『さて、じゃあお待ちかねの良い報せに入ろうか』
「うん、そうだね……」
「頑張れ、いやマジで」
虚ろに答える『魔女』に小さくエールを送った羽黒は、続く意外な言葉に思わず画面を振り返った。
『1兆もの負債を背負った街の予算のアテ、見つけてやったぜ?』
「…………今度はどんな災厄を持ち込む気?」
『人聞きが悪いな、俺は手出しされなきゃ平和主義だ』
『どの口が!?』
なんだか電話口の悲鳴が場の代弁者のようになってきたが、『魔女』は努めて冷静な声を出した。
「詳しく聞こうか」
『今回の件だが、——俺はあくまでも『吉祥寺』との取引に従い、全指揮権を預かって術者共を動かし、騒動の収拾に手を貸してやったわけだ』
「収拾……?」
「ありゃどーみても引っ掻き回してたよな」
『戦艦1つ落としたってのに手厳しい評価だな。ま、その辺の価値観の差異はどうでもいいとしてだ。鬼が湧きかねねえ状況を前にして、鬼狩りは何をしていたのかねえ?』
「……あ」
思いも寄らなかった問いかけに、『魔女』が目を見張る。状況の把握できない羽黒は怪訝そうな表情を浮かべつつ、続く言葉を待った。
『本来この街は鬼狩りが常駐し、適宜見回り、鬼による被害を未然に防ぐべく対応する。つまり2日前の夜に妖気がばらまかれてから今までの間、知らん顔でいたってのは業務違反に当たるわけだ』
『うっそだろ!?』
『いやおかしいだろそれ、何も連絡なかったぞ!?』
『うるせえっての』
『いやあああ!?』
「……もしかして声、鬼狩りか? つまりクソガキの同業者?」
「私、あいつの同僚にだけはなりたくないなあ……」
顔も知らぬ犠牲者に同情の念を抱いた2人だったが、続く疾の言葉に表情を変えた。
『どさくさに紛れて楽しようとしたようだが、被害は尋常じゃねえ。大量に鬼が湧けば人死にも出る。慰謝料として復興費巻き上げるに十分な理由だろ』
「ッそれ本当!?」
「うお、すげえ食いつき」
『魔女』が大きく息を呑んだ。思わぬ資金源を提示されて目の色が変わる様子に羽黒がどん引きした視線が当てられたが、そんなもの構うものか。
『巻き上げる!? 局長からか!?』
『つうか身内を脅迫しようとか悪魔かお前!?』
『さて、さっきの質問に答えようか『魔女』。今俺が相手にしてるのは、持ち場の一大事にも関わらず、我が身可愛さにすたこら逃げ出した職務放棄の鬼狩りだ。少々話し合いをさせてもらってるわけなんだが、聞いての通り反省の色はねえ』
『はい!?』
『おいっ、それはいくら何でもっ』
驚愕と焦燥の声を無視して、疾は愉しげに続けた。
『ここで止めるなら『魔女』は、いや『吉祥寺』は鬼狩りに隔意はねえって事だなあ。そうなりゃ鬼狩り達の思う壺、このまましらばっくれるだろうな』
『ひっ!? いや俺らも命は惜しいけど! オフトゥンに帰りてえけど! その言い様はものすっごく納得いかない!?』
『つうかそれこそ局長判断だろ!? 俺らの一存じゃどうしようもねえよ!』
『ほお、俺が連絡入れた時にことごとく無視したのも局長判断か? お前ら局長の指示仰がず逃げたろ。てか黙ってろ』
『ぎゃあああ!?』
絶叫が響き渡る。その容赦のなさは『魔女』も知っている為気の毒だとは思うが、
『で、どうする? 止めるか?』
「死なせない程度ならご自由に。正式に抗議させてもらうよ」
街の未来と天秤にかけたら、天秤の腕が折れる勢いで街に傾く。ここは同僚が災厄だった不運を呪っていただくとしよう。
大体鬼狩りなら戦闘をこなす側だ。災厄相手といえど反撃……はともかく、逃げるくらい出来るだろう。それを一方的にやられているのはやましい所があるとしか思えないわけで、『魔女』から見れば優先順位は決まっている。
「うーわ、最後の良心に見捨てられてやがる……」
羽黒の引き攣った呟き声は『魔女』にも疾にも相手にされず、軽やかに会話が弾む。
「それじゃあ、賠償の請求はお任せして良いんだね? 証人片手に交渉しに行くんだろ?」
『ま、そんなとこだな。額はこれからの交渉次第って所だが、それなりに期待していいと思うぜ。獲物付きの取引だしな』
「何しでかす気だクソガキ」
「よろしく。あぁ、余り交渉料ぼったくらないでね」
『今のあんたらから搾り取れるもんなんかねえだろ。さてと、クライアントもついたし、覚悟は良いな』
羽黒の言葉も無視した言葉の最後は、電話の向こうに向けられた言葉だったらしい。重く鈍い音が響いたと思うと、不穏な風の音が聞こえてくる。
『ひっ!? 待て待て待て、それは流石に死ねる死んじゃう!?』
『死なせねえよ、そういう契約だ。きっちり生かさず殺さず、局長の交渉材料として料理してやるから安心しろ』
『それのどこに安心要素が! いやあああマジで助けてくださいお願いします! 何でもしますから! どうかご勘弁を!?』
『ほお? 何でもする、ねえ。言質は取ったぜ——喜べ『魔女』、貴重な戦力が手に入ったぞ。それもタダで』
『はい!?』
『今回のヘマによってわらわら湧く妖の駆除を、毎晩毎夜やってくれるとよ。勤労奉仕精神に富んだ申し出だな』
「おや、それはありがたいな。うちも怪我人が多くて困ってたから」
『うっそだろさらなる労働追加!? 帰りたい!』
『何でもするってのは嘘か? 口先だけで逃げようたあイイ度胸だな』
『ぎゃあぁあ待って分かったやります!? やるからそれやめて!?』
『あーあ、俺まで巻き込まれるし……』
「すっげえやり取りだなおい。怖え怖え」
羽黒が心底どん引きしたような声を上げてはいるが、『魔女』には見えている。面白いものを観賞する顔で心にも無い事を言うもんじゃない。
『んじゃ、交渉の結果は後々な。そっちは元凶と交渉だろ、せいぜい頑張れよ』
「珍しいね、応援だなんて。何が狙いかな」
『契約がある以上、ここではした金ぼったくって潰すより、末永く金づるになって貰った方が良いに決まってんだろ』
「ああ……そう。まあいいよ、こっちにも利はあるから」
微妙な表情になりつつ、『魔女』が承諾する。それを受けて、疾が軽い口調で言った。
『じゃ、こっちもそろそろ本腰入れるから切るな』
『本腰!? 待って今まで片手間でこれ!? 殺す気かおま』
ブツッ、ツーツー。
悲鳴半ばで通話が終了した端末をしばし眺め、『魔女』は顔を上げた。似たような表情を浮かべている羽黒に、頷いてみせる。
「さて、請求に行こうか」
「潔く見捨てるね。うちのもんの報告によると、あの邸は結界で守られてるぞ? いきなり突撃して通してもらえんの?」
「その辺りはご心配なく」
にっこりと笑ってみせると、羽黒も釣られたように悪い笑みを浮かべた。
「『魔女』の異名は伊達じゃねえ、ってか。その度胸と心意気に免じてひとつ。——うちの憎たらしい妹二人のうち下の方、なかなかにぶっ飛んだ奴なんだが、如何せん実践不足が最大の弱点でな。うちの街でもそうしょっちゅう妖魔の類が湧くわけでもないし、修練場所に困っててね」
「おや、そうなの? それは確かに悩ましいね」
「いやはや、本当に頭が痛えのよ。下手な式じゃ相手にもならねえって文句言うじゃじゃ馬だ、妹思いの兄貴としては、骨のある戦いと経験を是非ともさせてやりたくてね」
「それは奇遇だね。うちも外部からの刺激が欲しいと思っていたんだ。これまで以上に危機感を抱いて訓練してもらいたくって」
「そりゃ違いねえ」
にこやかな笑顔を向けあい。
「とりあえず、週末だけでいいか? 夏休み終わっちまっててな」
「勿論だよ。歓迎させてもらおう」
固い握手と同時、ここに協力関係が築かれたのだった。
「じゃあ、友好の証に一仕事と行きますか」
「楽しそうだな『魔女』よ」
「私は私の出来る事をするだけだよ」
軽口を叩き合いながら、2人は肩を並べて歩きだした。
***
「無茶するなよ、管理人。まだまだ休んでた方が良いんだからな?」
「分かってますよ先生。けどこれ以上じっとしてると、俺の胃に悪いです」
事件から僅か2日後、貴文は栞那から床払いの許可を得ていた。呆れ顔の栞那に心配されたが、流石にこれ以上異世界邸を無法状態にしておくわけにもいかない。主に、貴文の胃の為に。
貴文の次くらいに破天荒な住人達に迷惑をかけられている栞那には、その気持ちが理解出来たらしい。腕を組んだまま器用に肩をすくめた。
「ま、一番暴れる連中は療養中だし、心配はいらないんじゃないか? そろそろ駄ルキリー辺りが復帰しそうだが」
「やめてくれ先生、患者の胃を苛めねえでください……」
「慣れたもんだろ、学生時代で」
「やめろあの時代は思い出したくない!?」
耳を塞いで栞那の言葉をブロックする。貴文が中学を出るまでの医務室は翔が担当していたのだが、もう酷かった。医務室の主が怪我人出したり、気まぐれに異世界邸吹っ飛ばしたり、その後しばらくトラップだらけの山の中で鬼ごっこさせられたり。
しかも本来入っちゃいけない街の人間まで招き入れていたんだから……
——プツッ。
「…………え?」
貴文がバッ! と顔を上げる。目を大きく見開いて硬直した貴文に、栞那が怪訝そうに声をかけた。
「おい管理人、どうした?」
「いや、まさか……でも……」
今の感触には覚えがある。一時期はいつ来やがるかと全神経を尖らせて探知してたから、それはまあ鮮明に覚えている。
先程感じたのは、結界を弄られた感触だ。
「っ、んなわけ……!」
まさかと思う。けどもしかして、という気にもなる。胃が早くもぎりぎり痛むのを感じながら、貴文は辺りを見回した。
「落ち着け俺、医務室に来てねえって事は、今向かってきてるはず……!」
「……おい、何があった。まさかまた襲撃か」
栞那の声が緊張を帯びる。確かに今襲撃されたら洒落にならない。
「いやそれは……すんません、ちょっと先に下ります!」
「あっおい!」
栞那の制止を振り切って、貴文は階段を駆け下りた。今許される限りの全力疾走で飛び出し、山を下りる方へと駆け出しかけた丁度その時、異世界邸に入ろうとする人影が目に入った。
「なっ、んなまさか……っ!?」
息を呑んで立ち尽くした貴文に、人影の方も気付いたらしい。真っ直ぐにこちらに歩いてくるのは——2人。
「お、第一住人発見か?」
「何その言い回し。こんにちは。異世界邸の住人かな?」
全身を黒一色で統一した背の高い男性と、ざっくりとしたニットセーターに細身のパンツを合わせた女性。急斜面の続く山を登ってきたのに、息1つ乱していない。
貴文の知らない人物だ。安堵と落胆と緊張のない交ぜになった複雑な心情で、貴文は2人を睨み据えた。
「……っ、あんたら、誰だ!」
威嚇するように投げ掛けた誰何に、女性の方がにっこりと笑って答える。
「私は『知識屋の魔女』。『吉祥寺』の代表として、このアパートの管理人と話をしに来たよ」
少々迷ったが、貴文は2人を応接間に通した。住人に2人の存在を——外の人間が入ってきたと知られるのはよろしくない。
「……それで。なんであんたらが、ここに入ってきたんですかね?」
神久夜が外していたので手ずから入れた茶を出しながら、警戒心も露わに尋ねる。『魔女』はにこやかに首を傾げた。
「うん? そりゃあ、このタイミングでお邪魔するとしたら、用件は1つだと思うけど」
「そうじゃねえってことは、言わずとも分かってるはずですがね?」
惚けようとする『魔女』と未だ名乗らない男性を、貴文は睨み据える。
「俺達は、街の術者達とは関わらねえ事になってる。だからこの邸の存在は旧家の当主しか知らねえし、街の人間が万が一にも迷い込まないよう結界が張ってある。『吉祥寺』の当主はもっと年上だったはずでしょう? 何でアンタが知ってる、そしてそっちの男は誰だ。何より、どうやって入ってきた」
答えによっては戦闘も辞さない。住人の安全を守るのは貴文の義務だ。
殺気を滲ませて尋ねたが、『魔女』も隣に座る男性も、動じる様子なく顔を見合わせた。
「うーん、沢山聞かれたけど何から答えるべきかな」
「まず俺の自己紹介からじゃね?」
「ああ、それもそうか」
にこりと笑って、『魔女』が男性に譲る。男性は軽薄な笑みを浮かべ、貴文の方を向いた。
「挨拶が遅れた。俺は瀧宮羽黒、『WING』のオーナーだ。2日前の騒動で、こちらの『魔女』さんに少々手を貸した縁で同行させてもらってる」
「お世話になったし、今回の件に深く関わってるからね。当然だよ」
「騒動……」
貴文は思わず苦い顔をした。『魔女』という名乗りで予感はしていたが、やっぱりそういう事らしい。
「それで、私が知ってる理由? 『知識屋』の店主としてそのくらいは当然、と答えておこうか」
「『知識屋』とやらが何かは知りませんが、本気で言ってます?」
「勿論。うちは魔術書、魔導書を扱っている縁で、異世界からのお客様もお迎えしているからね」
辻褄は合っている。異世界邸の存在を知る異世界人がそういるとも思えないが、ありえなくはない。一瞬沈黙した貴文は、それでもと食い下がった。
「で、結界は? 明らかに何かしましたよね。どっちの仕業です?」
「私だよ」
「いやはや、見事な手際に感服したぜ」
「あはは、それは光栄だね」
羽黒の楽しげな合いの手に、魔女はにっこりと笑った。チェシャ猫を思わせる笑みに何となく嫌な予感を覚えたが、貴文は食い下がる。
「何をしでかしたんですかねえ?」
「おや、それは貴方の方が詳しいんじゃないのかな?」
「……は?」
まさかの問い返しに、一瞬頭が真っ白になる。その隙をつくように、『魔女』は爆弾を投下した。
「私は貴方の友達に、妹のように可愛がられていたんだ。色々と教えてもらってね、結界の書きかえ技術についてもさらっと」
「あんっっっの野郎!?」
椅子を蹴って貴文が叫んだ。『魔女』が小さく吹き出す。
「あははっ、言ってた通りの反応だなあ。弄り甲斐があるって本当だ」
「なんつー事吹き込んでやがる!?」
「他にもいろいろ聞いたけど、知りたい?」
「ふ ざ け ん な !」
身体の不調も忘れて貴文が絶叫した。くすくすと笑い出した『魔女』に、貴文はギリギリと奥歯を鳴らす。
「畜生、なんって置き土産をしやがった……あんの馬鹿野郎が、次顔見せたらぜってえぶん殴る」
「それは無理じゃないかなあ」
「ええい知ってるよ!」
やけくそのように叫び返すと、『魔女』は声を上げて笑い出した。羽黒も愉快げな表情で肩を揺らしている。たつみやだかなんだか知らないが、随分とふてぶてしい……
……。
「たつみや?」
「ん? あんたんとこも寺湖田の叔父貴に世話んなってるだろ?」
うん、思い出した。確かに貴文は、やたらめったら煩い黒マッチョの言葉をくっきりと思い出した。
『これからも建築会社瀧宮組をご贔屓に! ははははは!』
道理で聞き覚えがあると思ったと、貴文はズルズルと机に懐く。
「ま、俺はとっくに破門になっちゃいるがね」
「おや、そうだったんだ」
頭の方から暢気な声がなんか言っていたが、貴文はそれは興味が無い。というか関わりたくない。キリキリと薬を求めだした胃を宥めつつ、貴文は気を取り直して顔を上げ、蹴倒した椅子を起こして座った。
「はあ……もういいや。用件だけ話してさっさと帰ってください」
「冷たいなあ。まあ、ここの事情も知ってるけど」
シニカルに笑うと、『魔女』は軽やかに爆弾を落としてきた。
「ご存知だと思うけど、ここが魔王に襲撃された時、麓も襲撃を受けたんだ。それも『魔女』を探しているとかで、『吉祥寺』の本丸が襲われたし。全くの人違いで襲われるなんて、迷惑この上ないよ」
「『知識屋の魔女』様にゃあ気の毒な話だよな」
「本当に。私は真っ当な商売しかしてない善意の一般人なのに。誰だか知らないけど、魔王に恨みなんか作っちゃうなんて怖いよね」
「…………」
「物凄い沢山の白蟻で襲われたものだから、被害も尋常じゃないんだ。寺湖田さんと、ここにいる『最悪の黒』さんが助力してくれなければ、今頃どうなっていたことやら」
「街の建物吹っ飛んだもんなあ。寺湖田の叔父貴の技術が無ければ、大騒ぎだっただろうな」
「それ以前に避難に協力してもらわなければ、一般人に被害が出ていたね」
予め打ち合わせでもして来たのかと疑うテンポの良さでぽんぽんと会話を続けていく2人。言外の圧力を感じながら、貴文は恐る恐る口を開いた。
「あのお……そりゃあ大変ですけどね、俺達はそっちには関わりませんよ?」
「おや、そう?」
「そりゃそうでしょう、山を下りねえってのが決まりなんですし」
「ふうん。じゃあどうして、異世界からのお客様が麓まで下りて来ちゃったのかな?」
「ぐ……いやそれは」
いつの間にかポンコツが返り討ちにされていたと言うのは、些か言い訳じみている。
「こちらに影響を及ぼさないよう食い止めるのは、貴方の仕事だよね?」
にっこりとチェシャ猫のような笑顔を振りまきながら、『魔女』は容赦なく続ける。
「私達にも矜恃はある。襲撃から街を守り抜くのに『最悪の黒』さん含め、沢山の人の手を借り、沢山の被害を出しながらも阻止したのは当たり前の事だと思っているよ。それが役目だもの」
「じゃあ——」
「けど、出た被害に関しては、私達だけの責任じゃないよね」
貴文の反論を封じ、『魔女』が迫る。
「私達が一番被害を請求したいのは、勿論その『魔女』だ。けど、ここの住人である以上、それが誰かは明かせないんだよね。そのルールは尊重するけど——その分、被害の請求も責任者に回るのが筋だと思わない?」
「いやいや、待ってください!」
物凄ーくマズい流れに、貴文は泡を食って声を上げた。対して『魔女』は、おかしそうな視線を向けてくる。
「おや、知らぬ存ぜぬかな? 私達は街を守る為の存在で、貴方達はこの邸を守る為の存在。住人を守る以上は住人の後始末をするのも当然だと思うけど? 私達だって、街の後片付けは責任持って行ったよ」
「ぬぐ……」
「そっちも後始末大変だっただろうけど、こっちは街単位だ。怪我人3桁も出てしまって、酷い人不足でね」
手を頬に当て、『魔女』は溜息をついた。その姿はなかなかに可憐だが、溜息に続いて吐き出される口撃はさながらガドリング砲。
「お陰様で妖気をばらまかれて、封印も霊力注ぎ直さなければならないし。この騒ぎに引き寄せられて妖達も活性化しているし。人手不足と大幅な出費で、もう首も回らないほどの緊急事態なんだよね……」
「そ、それは大変ですけど……」
「勿論、貴方達から人手を借りるわけには行かないのは分かってるよ。でもほら、こっちも元凶への不満は募ってるし。ある程度納得させないと、若い術者が暴走するかもしれないだろ?」
だから、と『魔女』はにっこりと笑った。
「せめてとばっちりで酷い目に遭った私達の負担、少しばかり受け持ってもらえるよね?」
疑問系をとってはいたが、おもっくそ脅迫だった。貴文の顔が引き攣る。
「……ち、ちなみにどのくらい?」
「8割」
「はい!?」
「やだなあ、本来なら折半だろ? 人件費含めればそんなもんだよ」
「……6割」
「8割」
「6割5分……」
「8割」
「ここはちったあ値下げするトコじゃねーですかね!?」
「ネサゲ? なんだそれは、異世界の言葉か?」
「私も聞き覚えないな」
「なわけあるか!? 地球の日本語だよ分かってて言うな!?」
「小耳に挟んだ異世界邸の昔話、する?」
「やめてください!?」
「お、それ俺聞きてえ」
「いいよ? あのね」
「やめろ!?」
途中から羽黒まで割って入ってきて、何かもう酷い。異世界邸で日々鍛えられている貴文のツッコミが追いつかないとか、何この2人怖い。
ぜえはあと肩で息をする貴文にチェシャ猫のような笑顔を披露し、『魔女』が何事か言いかけた時——
「管理人さん、どうかしました? 凄い大声が聞こえてきましたけど」
異世界邸の良心、那亜さんが入ってきた。赤子は丁度寝ていたのか、腕には抱えていない。
「あっすんません那亜さん、ちょいと客人で」
慌てて引き返すように促しかけた貴文の耳は、奇跡的に「げ」という小さな呻き声をキャッチした。
「客人? ……あら」
那亜さんは視線を巡らせ、羽黒で目を止めた。今まで軽薄で不遜な態度を崩さなかった羽黒が、微妙に視線を泳がせる。
「大きくなりましたね、坊ちゃま」
「……あー……那亜さん、なんでここに?」
「おや、知り合い?」
意外そうに『魔女』が目を見張ったので、こちらは面識が無いらしい。貴文も驚きだ。
「あー……まあ、そのなんだ」
「こちらにお世話になる以前には、坊ちゃまのお世話をさせていただいていたのですよ」
はぐらかそうと言葉を探す羽黒を尻目に、那亜がおっとりと暴露した。面白いものを見つけたような表情で『魔女』が羽黒を一瞥する。
「なるほどね。彼の乳母さんって事か。流石は鬼子母神」
「あら、一目で気付かれてしまいましたか」
「そりゃあ特徴も一致するし」
苦笑気味に頷いて、『魔女』は小首を傾げた。
「申し訳ないけど、今ちょっと話し合いの途中なんだよね」
「あら、そうですか。では折角だから同席させてもらっても良いですか?」
「え゛」
羽黒が呻いた。どうも一気に引け腰な様子を見れば、その申し出は貴文にはありがたく、『魔女』には嬉しくないはずなのだが。
「どうぞ。こっちは2人だしね」
何故かあっさりと了承した。しかも楽しそうだ。
腰を下ろした那亜に、貴文は簡潔に事情を説明する。首を傾げて聞いていた那亜は、やがて1つ頷いた。
「そういう事でしたか。……『魔女』さん、1つお尋ねしたいのですが」
「なんなりと」
「その負担というのは、どういうお金なのですか?」
「破壊された街の復興費と、防衛戦で協力してもらった人々への対価だね。彼等がいなければ……まあ、もっと酷い事になっていたとは思うよ」
何故か途中で『魔女』の表情が微妙なものになり、羽黒が苦笑したのが気になりはしたものの、説明は嘘じゃなさそうだ。となれば、流石に貴文も良心が痛む。
というか誰なんだ、魔王が探してた『魔女』って。そいつの首根っこひっつかんで2,3発ぶん殴った上でこの責任を丸投げしたい。
貴文がぶつぶつと怨念を口から漏らしている間に那亜は状況を整理し追えたらしい。にこりと笑った。
「なるほど、ありがとうございます。——坊ちゃま?」
「お、おう?」
「私、昔教えて差し上げましたよね。恩は売りつけるものではありませんよ、と」
「…………」
羽黒の頬が引き攣る。
「勿論無償奉仕も善し悪しですけれど。今回の場合はいわば天災、ならば「困った時は助け合い」の精神を発揮すべき所ではありませんか?」
「いや、まあな……」
「坊ちゃま?」
「ぐ……」
飄々と貴文を追い詰めていた羽黒がすっかりたじたじになっているのに、貴文は何となく同情した。こう……あれだ、幼少時代の弱みを握られた仲間意識。つい最近、魔王を養うよう説得された貴文にはめっちゃ分かる、あれは辛い。
しばらく押し黙っていた羽黒だったが、やがて渋い顔で反論する。
「那亜さん、話は分かる。分かるんだが、流石に今回は金が動きすぎた。ボランティアにするにゃあ、流石に懐が痛すぎるんだよ。街のパワーバランスと、叔父貴への面子のこともある」
「あら、そうですか」
にこりと那亜が笑う。が、途端に空気が冷ややかになった。
貴文の背中を、いやーな汗が流れる。多分羽黒も同じなのだろう、頬を引き攣らせた。
「な、那亜さん……?」
「そうねえ……あれは、坊ちゃんが3歳の頃だったかしら。お屋敷で私がちょっと用事で目を離した時——」
「だぁああああ!?」
羽黒が椅子を蹴って絶叫した。ちょっと前に似たような事をした覚えのある貴文は、そっと視線を逸らす。
「那亜さん! それは反則だ!」
「あらそうですか? では5歳の時——」
「やめろ!?」
「おや、私は聞いてみたいな」
にこにこと物凄く楽しそうな『魔女』の弱み、ちょっと誰か握ってくれないだろうか。男共は切実にそう思った。
「なあ『魔女』さんや、あんた誰の味方だコラ」
「私はこの街の味方だよ?」
「……だな」
さくっと切り返されて、羽黒が項垂れた。がしがしと髪を掻きむしり、溜息混じりに吐き捨てる。
「那亜さんに免じて特別割引だ。端数の金額引いとけ」
「端数……あ、これか。『最悪の黒』さんの侠気に感謝だね」
「あんたまさか分かっててやっちゃいねえよな……」
苦い顔でぼやき——その気持ちも分かる、と若干トラウマを植え付けられつつある貴文は小さく頷いた——、羽黒はまた溜息をつく。くすくすと笑う『魔女』は肯定も否定もせず、貴文に中身を見せないまま帳面にさらさらと手を加えた。
「じゃ、これで良いんだね?」
「おう」
「それじゃあ、管理人さんも、8割払ってくれるよね?」
にこやかに振り返った『魔女』の目が、顔を上げた羽黒の目が、事ここに至ってごねないよな? と語っていた。それはもうまざまざと語っていた。
「…………はい」
手札の無い上に病み上がりで、予想外の方向から旧友の不意打ちを食らった貴文は、反論の気力も削がれて頷いた。頷いて、しまった。
『魔女』が出会ってからこちら、会心の笑みを浮かべる。
「交渉成立。というわけで、これが総額。8割振り込み、よろしくね♪」
「うえぇ……」
「じゃあ、ゆっくり確認できるよう、私達は失礼するよ」
そう言って出て行った魔女と羽黒を見送った貴文は、きりきりと痛む胃を撫でさすりながら手渡された請求書に視線を落とす。
「見たくねえ……物凄く見たくねえ……」
「管理人さん、大丈夫ですか?」
ああ、さっきまでちょっと怖かったけど……那亜さんは本当に癒しだなあ。
現実逃避気味に癒されつつ、貴文は意を決して請求書を開いた。やけに分厚い明細書を順に追っていった貴文が、最後の総額のページを開き——
「なんっ…………じゃあこりゃあぁああああ!?」
足取りも軽やかに立ち去る魔女達の背中に、貴文の絶叫が突き刺さった。




