降誕の魔女【part夙】
消し飛び、瓦解し、原形の面影すら残っていない異世界邸を無事だった住民たちは茫然とした様子で眺めていた。
無事だったと言えなくもない場所は……最強クラスの防御結界で守られている管理人室くらいだ。そこだけは異世界邸に関わる重要な資料などが保管されているため、多少維持コストが管理人の胃に響いたとしても守らなければならない。
「これはひでーですね……」
地下に避難していた悠希はなんとか被害を免れることができたが、もしあのまま四階の医務室に残っていたらと思うと背筋が凍る。
「いっつも酷くて半壊だけど、これ直るのかな?」
こののが不安そうに悠希の服の裾を摘まんだ。直すというより、ここまでキレイに消滅してしまうと『建て直す』になってしまうのではなかろうか。
「悠希、このの、ぼーっとしてないで手伝え! 重傷患者五名だ!」
栞那が切羽詰まった様子で呼びかけてきた。毎日三回は怪我人が運ばれてくる異世界邸医務室勤務の栞那であるが、今回は今まで見たことのない深刻な表情をしていた。
なぜなら――
「貴文!? しっかりするのじゃ貴文!?」
五体満足が不思議なくらいの状態で地べたに寝かされているのは、普段は怪我人を量産する側の異世界邸管理人――伊藤貴文だったからだ。奥さんの神久夜がその胸に抱き着くようにして泣いている光景は見るのも痛々しかった。
「えっ!? お父さん!?」
「ちょ、なんであの管理人がそんなにボロボロになってやがるんですか!?」
こののが蒼白して貴文に駆け寄る。驚きのあまり隠していた耳と尻尾が飛び出てしまっていた。
管理人があそこまでこっ酷くやられるなど、悠希は今まで想像すらできたことがない。いつだって最強で、どんな連中が異世界からやって来ても竹串を振るって制裁してきた。管理人がいれば大丈夫、そう問答無用で思わせてくれるのが伊藤貴文という存在だったはずだ。
理解が追いつかず唖然とする悠希に、さらに理解の及ばない状況を歩み寄ってきたセシルとフランチェスカが告げた。
「管理人だけじゃないぞ♪ トカゲとポンコツ、脳筋駄ルキリーにウィリアムさんまで意識不明の重体だよ☆」
「はい!?」
「ジョンちゃんは~?」
「アレは気絶してるだけ♪」
トカゲとポンコツはいつも管理人にぶっ飛ばされているイメージだが、アレはアレで相当にチートな連中だった。駄ルキリーことジークルーネは管理人レベルの戦闘能力。ウィリアムさんはよく知らないが、たぶん他三人と同じくらいは強いのだと思う。
魔王とはそれほどまでにヤバイ存在だったのか。
街も襲撃されていたようだが、大丈夫なのか心配である。
「くそっ、持ち合わせじゃ足りん。せめて医務室が無事だったらよかったのだが」
手当てをしていた栞那が毒づく。手で持てる限界の医療品を地下に持って行っていたのだが、死にかけの重傷者が五人もいてはとてもじゃないが足りるわけがない。
「足りないのなら、補充しますかぁ?」
声は風に乗って流れてきた。
「ちわーっす! 毎度お世話になっております。食料品から医薬品までなんでもござれ、雑貨屋『活力の風』でぇーす!」
ヒュオオッと旋風が舞い、そこに雑貨屋のエプロン姿の青年が姿を現した。
「誘薙さん……と」
否、青年だけではない。
「ははははは、こりゃまたかつてない具合にぶっ壊しちまったなぁ!」
「松千代さん!」
雑貨屋『活力の風』の店主――法界院誘薙と一緒に黒光りする筋肉が豪快に笑いながら降臨した。建築会社『瀧宮組』系列『寺湖田組』の若頭――畔井松千代である。
「よいしょ」
誘薙が悠希たちの前にゴトリと優しく木箱を落とす。中身は消毒液や包帯などの医薬品や食料が山積みされていた。
「とりあえず、必要になりそうな物はだいたい持って来ましたよぅ。どうぞ使ってくださいな」
「ありがたいが、今は管理人がこの状態だ。支払いはできないぞ」
栞那が言うと、誘薙は貴文を一瞥して申し訳なさそうな顔をした。
「構いません。今回、僕ら『守護者』は直接手助けできなかったからねぇ。異世界邸の修繕費と治療費、その他諸々の補填費用はこちらで全額負担させていただきますよぅ」
それはなんとも管理人の胃に優しい申し出だった。そういうことならと、栞那が躊躇わず木箱から医薬品を掻っ攫っていく。悠希とこののも手伝わされた。
「おう、誘薙の大将! もう作業始めちまっていいか?」
「はい。やってください、松千代さん」
「先に金の話はしたくねぇんだが、軽く国家予算が飛ぶけどいいんですかい?」
「気にしないで進めてください。払うのは僕じゃなくて僕の優秀な妹ですからねぇ」
流石に一雑貨屋に国家予算規模の金額を支払うことはできないようだ。誘薙の妹については合う度に自慢されるのだが、話を聞く限りだとそのくらいポンと支払ってもなんら不思議はない。いろんな会社を経営していると聞いたが、具体的になにをやっているのかちょっと気になった悠希である。
「栞那さん。医者じゃない僕が言うのもなんだけど、治療なら地下の温泉を使うべきだと提案するよ」
営業モードじゃなくなった誘薙が敬語を取っ払って、応急処置を始めていた栞那に進言した。
「いや、アレはあまりよくない。確かに怪我人が地下の温泉に浸かれば傷は癒える。だがそれは細胞を無理やり活性化させているからだ。こいつらの体力を心配する必要はないだろうが、寿命を大きく削ることになってしまう」
「彼らに寿命の心配をする意味はないと思うけれど、流石にこの設備の整っていない場所だと応急処置もままならないんじゃないかい? 死ぬよ?」
「「――ッ!?」」
死ぬと聞いて、神久夜とこののがさらに顔を蒼褪めさせた。それを目にした栞那が、誘薙を睨み付ける。
「家族の目の前で無神経な言い方するな。――中西病院の医師を舐めるなよ。どんな状態でもどんな設備でも息さえあれば死の淵から引き摺り戻すってのがうちのコンセプトだ」
「それはご立派だけど、見栄を張れる状況なのかい?」
「現実と理想の違いくらい弁えてるに決まってるだろ。餅は餅屋だ、温泉に放り込むタイミングはあたしが決める」
「ふむ、そこはお医者様の判断に従うべきだろうねぇ」
誘薙がニコリと穏やかに微笑むのには目もくれず、栞那が再び治療に没頭し始めた。
「てか、なんで雑貨屋のあんたが地下に温泉があることを知ってやがるんですか? しかも効能まで」
母親を手伝いつつ悠希がジト目で問い詰めると――バッ! 物凄い勢いで誘薙はそっぽを向いた。なるほどなるほど……いつかオマワリサンを呼ぼう。
と――
「がはっ! がっ!」
「貴文! 気がついたのじゃ! よかったのじゃあぁ」
「お父さん、まだ起き上がっちゃダメ!」
意識を取り戻して噎せ返りながらも起き上がろうとする貴文を神久夜とこののが押さえつける。貴文は力のない目で周囲を見回すと――
「……全員、無事か?」
まず、異世界邸の住人たちの心配をした。
「うん。無事じゃない人もいるけど、誰も死んだりなんてしてないよ」
「そうか。……よく、やってくれたな、このの」
「えへへ」
頭を撫でられたこののは頬を僅かに染めて可愛らしい笑顔を見せた。親馬鹿な管理人にはそれだけで特効薬だろう。
「あれ?」
そこで悠希は気がついた。
こののが駆け回ってくれたおかげで異世界邸の住人は無事だ。悠希も栞那もこののもセシルもミミもフランチェスカもノッカーもリックも那亜も三毛も【TX-002】も勇者の二人も全員いる。メイドのシフトに入っていなかったレランジェや円美智子はいいとして――
「在麻先生と水矢ちゃんがいない……?」
* * *
異世界邸から十数キロメートル離れた山中の、木々の開けた草原となっている広場。
ズタボロに引き裂かれた純白だったドレスを引きずるようにして、『白蟻の魔王』フォルミーカ・ブランはあてどなく無様にも這い歩いていた。
「甘い……ですわ」
この世界の勇者が放った一撃は、高位の魔王であるフォルミーカをしてあわや消滅しかねないほど激烈だった。しかし、それで大人しく滅びてやるほどフォルミーカは諦めがよくない。あの一瞬で搾れるだけの魔力を防御へと回し、満身創痍のダメージ程度に抑え込んだのだ。
「勝ったつもりかもしれませんが、わたくしは……まだ生きていますわよ」
ただ、ここまでこっ酷くやられては魔力による治療も覚束ない。まずは体を休め、そして次こそはあの勇者をぶち殺して喰らってくれる。
「ああ、憎いですわ。わたくしをここまで追い詰めたあの男が、憎い」
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎イ憎イ憎イ憎イ憎イ憎イ憎イ憎イ憎イ憎イ憎イ憎イニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイニクイ!!
もはや魔女など後回しで構わない。これほどの屈辱を味わったのは初めてだ。必ずあの男を殺し、この世界を恐怖のどん底に叩き落としてからゆっくりと滅ぼしてやろう。
失った眷属も魔王が生きてさえいれば補充できる。蟻天将クラスを生み出すとなると時間がかかってしまうが、それも勇者さえ殺してしまえばどうということもない。
「必ず……ころ……」
やはりダメージが大きかったのか、視界が霞み、草に足を取られてフォルミーカは前のめりに転倒してしまった。
これもまた、屈辱。
歯を食い縛り、手元の雑草を思いっきり掴み千切る。
その時だった。
「はぁ、こりゃ驚いた。まさか管理人のあの馬鹿みたいな力をくらって生きてるたぁね」
何者かが、木々の陰から歩み出てきた。
「ん~、だけど流石に満身創痍。今なら悠希ちゃんでも倒せんじゃね?」
「にゃー、センセーそれはどーかなぁ? 体はボロボロでも魔王だよ? フツーの人間の悠希ちゃんだと魔法少女にでもならないと無理だと思う」
「悠希ちゃん魔法少女計画! マジカルナース☆ユーキちゃん! いいねそれ!」
「にゃはっ、楽しそう! イラストにするなら超絶美少女にしなきゃ!」
一人は中年の男。一人は十台半ばの少女。夜の山中とは思えない賑やかさを醸し出している二人は、目の前で倒れているフォルミーカなど気にもかけず意味不明な会話で盛り上がっている。
話題の中心は『ユーキちゃん』とかいう人物のはずなのに、その遣り取りを目の前でやられてはどうしても馬鹿にされている感が否めない。
――人間ごときが。
「目障りですわッ!!」
手を伸ばす。掌を翳す。これだけはいくら戦っても無尽蔵に有り余っている魔力を集中させる。
轟ッ!! と。
白の魔力砲が大地を呑み削りながら人間たちに襲いかかる。体は消耗しているが、威力は衰えていない。寧ろ制御が利かなくなって増大している。人間など肉の一片、血の一滴たりとも残らず蒸発するだろう。
だが――
「ミヤ」
「あいさー」
少女が男を庇うように前に出た。その手に握っている絵筆を構え、まるで絵具をつけるような所作で魔力砲を掬った。すると、魔力砲はぐにょんと歪み、弾け、本当の絵具にでもなったかのように『白』という色だけを草原にぶちまけた。
「……なん……ですの?」
眼前で起こった事象をフォルミーカは理解できなかった。
「いきなりぶっぱたぁご挨拶だね。久々に会ったってのにつれないじゃないの、しろあり姫」
「!」
しろあり姫。それはあのクソ魔女がフォルミーカを題材にした絵本のタイトルである。そして屈辱的な醜い姿だった頃の蔑称。思い出すだけで吐き気がする。
「……誰ですの? わたくしは、お前のような人間は知りませんわよ?」
地面に這い蹲ったまま睨み上げると、男はお道化たように肩を竦ませた。
「おや? 酷いねぇ。管理人との戦いで頭でもやられたかな? お前さんがこの世界にやってきた目的は俺じゃなかったっけ?」
「なっ!? まさか、いやでも、この気配は……」
「ああ、そうか。そういえばこんな姿になってたんだった。ちょっと待ってな」
そう言うと、男は懐から小瓶を取り出した。蓋を開け、中身の錠剤を一粒だけ掌に乗せて口へと放り込む。
瞬間、男の体が眩く発光した。
光の中でシルエットが頭一つ分……いや、二つ分は小さくなる。服装まで変化しているのか、だらしなくだぼっていたものからヒラヒラした影へと変わる。
やがて光が収まった時、そこに中年男の姿は影も形もなかった。
代わりに立っていたのは、フリルのついた黒いミニスカートを穿いた少女だった。小柄な輪郭に白い肌。青みがかった艶やかな黒髪は腰よりも長く伸び、うなじの辺りで二股の尻尾のように分岐している。
青紫色の瞳が妖しい光を宿してフォルミーカを映す。不敵に笑ったその顔は、フォルミーカの遠い昔の記憶と完全に一致した。
「おお、本当に戻れたぞ。効果は一時的とはいえ、フランチェスカの研究もたまには役に立つもんだ。ん~、やっぱいいね本当の体ってのは。俺があの糞ムカデにおっさん化の呪いを受けてからだから百五十年ぶりくらいか」
ぐぐっと伸びをするおっさんだった少女に、ミヤと呼ばれていた絵筆の少女が不思議そうに首を傾げた。
「にゃ? ムカデって?」
「ああ、そういえばミヤはあの時お使いに行ってもらってたから見てないのか。見ない方がいいぞ。ありゃ邪神の領域に踏み込んだ正真正銘の怪物だ。おいちゃんもちょっかい出したことちょこっと後悔したね」
自嘲気味に笑ってから、少女はなにかに気がついたようにハッとした。
「おっといかん、おっさん歴が長いもんだからつい。口調を戻さねえと」
少女はそう言うと目を瞑って首をほぐすように回し、口の前に握り拳をやって何度か咳払いをした。
その刹那――ゾクリとした悍ましさと空気の変化をフォルミーカは感じた。
「ではでは改めまして、ボクが〝魔王生み〟こと『降誕の魔女』アルマ・クレイだよ。こっちは使い魔の黒猫・ミヤ」
名前は知らなかった。使い魔も猫の姿なら見たことあったが、人間体はない。そんなことより、ずっとずっとずっと恨み辛み捜していた『降誕の魔女』が、まさかほぼ力を感じなかった人間の中年オヤジに化けていたことが驚愕である。
いや、話を聞いた限り魔女の意思で変化していたわけではないようだ。
呪いと言っていたが……彼女も過去のフォルミーカと似たような境遇に陥っていたということだろうか? だとすればいい気味である。ムカデとやらには感謝せねばなるまい。
「どうしたの? 呆けた面しちゃってさ。久々に会った感想とかないわけ? ボクが四十八万六千二百三十六番目に降誕させ、三百九十万二千八十三番目に返り討ちにあった魔王さん?」
「なっ!?」
「ん? なにに驚いたの? 降誕させた数? 返り討ちにあった数? 悪いけどボクが生み出した魔王全体で見ると数パーセントにしかならないよ」
この魔女は――アルマ・クレイは、一体いつからどれほどの世界を巡り、魔王を生み出し続けてきたのだろうか?
フォルミーカだけが特別ではなかった。寧ろ、フォルミーカの存在を正確に覚えていた記憶力に驚嘆するべきかもしれない。
「作家ってイキモノはね。忘れたい黒歴史はあっても、本当に忘れてしまえる実績はないんだよ」
フォルミーカの心でも読んだのか、それとも作家としての観察眼か、アルマは懐かしいモノでも思い出すように夜空を見上げた。
それからついでに思い出したような気軽さでフォルミーカに告げる。
「あーそうそう、『呪怨の魔王』がボクのことを嗅ぎ回っていたのは知っていたけど、まさか君がやってくるなんてね。今回は街の異能者たちのことも見られたし、いい仕事をしてくれたと思うよ」
「わざと情報を渡した……? 全部、計算通りだったってことですの?」
「それこそまさかさ。ボクは因果を導いただけ。君が侵略した結果、この世界が滅びるならそれでもよかった」
言ってから、アルマは少し逡巡する。
「ああ、いや、流石にそれはちょっと困るかな。この世界でやりたいことはまだあるし」
「なにを企んでいますの?」
「『降誕の魔女』の企みはいつだって作品のため、強大な魔王を生み出すことさ」
不敵で残酷で冷酷で、なのにどこか無邪気な好奇心を孕ませた笑みを浮かべる魔女。
「君も片鱗を見たはずだ。ボクが目をつけた蕾がいつ胃痛で魔王を拗らせちゃうのか、それを見届けるまではこの世界に終わってもらっちゃ困る」
フォルミーカを撃退した勇者のことだ。なぜだかすぐにそう悟れた。
狂っている。
魔王をしてそう思わせる魔女に、フォルミーカはこれ以上の会話は無意味だと判断する。
「……なんでもいいですわ。わたくしがここにいて、あなたがそこにいる。だったらぶち殺して差し上げるまでですわ!」
「その体で? いいよいいよ。頑張ることは嫌いじゃない。あー、でも最近は努力系の作品ってウケが悪いんだよね」
魔女がなにを言っているのかさっぱりわからない。理解するつもりもない。
「本当は君が力尽きるまで見届けてあげたいけれど、ボクにも締切があってね。こちらも勝手に用事を終わらせるとしよう」
「用事ですの?」
隙を見て魔力砲を放とうと考えていたフォルミーカだったが、問い返したその一瞬で魔女に懐までの接近を許してしまった。
魔女が嗤う。
「ああ、君の――『しろあり姫』の物語を終わらせることさ」
ずぶり、と。
魔女の腕がフォルミーカの豊満な胸の中心を貫いた。
「あっ……」
痛みはなかった。物理的に貫かれたわけではないと理解するも、フォルミーカの体内を無遠慮に弄られているようで非常に気持ちの悪い。
「この……」
抵抗を試みるも、全身が麻痺したように動かない。
魔女が腕を抜く。
「君に植えつけていた魔王因子を返してもらったよ」
「?」
満足そうに言う魔女だが、そのなにかを掴み取ったらしい手にはなにも見えない。魔力はある。意識も命もある。なにかを奪われたような喪失感は今のところ特に感じない。
「……なにを言っていますの? わたくしは、なにも奪われていませんわよ?」
「奪ったのは『力』じゃないよ」
魔女は握っていた手を広げ、フォルミーカの目の前に差し出す。やはりそこにはなにも――いや、僅かに黒いオーラのような揺らぎが視認できた。
「魔王とはなにか? 莫大な魔力を持った絶対者? 違う。その魔力を完璧にコントロールする卓越者? 違う。はたまた世界の支配者か? 違う」
掌に乗ったオーラが、次第にドス黒さと大きさを増していく。
「力や支配に正義や悪はない。魔王とは、残虐で暴虐で悪虐で淫虐で苛虐で凌虐で非道な心の在り様。負の概念や想念を凝縮して固めたような――『世界の敵』」
ぐっと再び掌を握り締めた魔女。そしてもう一度開くと、そこには黒糖の飴玉のような球体が転がっていた。
「そんな他者を傷つけ、奪い、辱めることに快楽さえ覚える心を失ったらどうなると思う? ゼロから魔王だった存在なら消滅。でも君みたいな元は普通の人間なら……ほーら、そろそろ君が今まで行ってきた所業を省み始める頃だよ」
「……ッ!?」
言われ、フォルミーカはようやく自分の異変に気がついた。
「そんな……」
奪われたのではない。
戻ってきたのだ。
可哀想だと思う心。悲しいと感じる心。罪悪感に罪責感。かつて人間だった頃には当り前のように持ち合わせ、魔王になってから一切感じなくなった――良心。
数え切れないほどの世界を襲い、殺し、壊し、滅ぼしてきた記憶が雪崩のような勢いでフラッシュバックする。
「あ、あぁああぁああぁ……わたくしは……あぁああぁああぁあぁああぁああぁあぁああぁああぁあぁああぁああぁあぁああぁああぁあぁああぁああぁあぁああぁああぁあぁああぁああぁあぁああぁああぁあぁああぁああぁッッッ!?」
割れるように痛む頭を抱え、込み上げてくる吐き気に蹲る。
酷いことをした。
死んでも償い切れない悪事――という表現が可愛く見えるほどの非道を働いた。
「しろあり姫は己の過ちに気づき、自らその命を絶ちましたとさ。う~ん、バッドエンドをハッピーエンド調に書くことがボクの本来の作風だけど、この締め方はちょっとイマイチ」
枯れるほど溢れた涙でくしゃくしゃなった『優しいお姫様』を見る魔女は、どうもしっくりこないといったように腕を組んで首を捻った。
「うわぁ、こっちのセンセーの性格やっぱ最悪だー」
「アハハ、そういう意味ではボクも魔王かな」
ドン引きするミヤにアルマはカラコロと笑う。
「まだ……終われませんわ」
嗚咽し、フォルミーカは残った力を振り絞って立ち上がった。
「おや? 凄いね。昔はドがつくほどのお人好しだった君がこの苦渋に堪えられるなんて」
瞠目するアルマをキッと睨み、フォルミーカは憎しみを込めに込めた笑みを浮かべた。
「ええ、今すぐにでも死にたいですわ。でも、ただでは死んでやりませんの。せめてもの償いに、諸悪の根源を道連れにしてくれますわ!!」
「諸悪の根源だなんて酷いや。力を望んだのは君だよ? まあ、しょうがない。ならこうしよう」
パチン!
アルマが指を鳴らすと、周囲にぶち撒けられていた白い絵の具がぼんやりと発光し、蠢き始めた。
「魔女の魔法!?」
フォルミーカが痛む体に鞭打って飛び退こうとするよりも早く、蠢く絵具は彼女を取り囲む魔法陣を描いて輝きを強くした。
「魔に堕ちたしろあり姫は、正義の魔法使いによって倒されました」
白い絵の具が立ち上るエネルギーへと変質する。
いや、そうではない。これも、戻ったのだ。
「きゃあぁああぁああぁあぁああぁああぁあぁああぁああぁあぁああぁああぁッッッ!?」
フォルミーカが最初に放った、魔力砲へと。
「めでたしめでたし♪」
空虚となった草原の一部に満足そうに微笑むと、アルマは踵を返してミヤと共に異世界邸への帰路につくのだった。
最後に降ってきた、米粒ほどの大きさもない一匹の白蟻には気づかずに――。