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異世界アパート『異世界邸』の日常  作者: カオスを愛する有志一同
魔王編
33/175

麓事情、異世界模様 【part紫】

 異世界邸がてんやわんやしていても、麓は平和である。

 毎日建物が倒壊する事もなく。

 毎日爆発音と共に近所迷惑な破壊をまき散らす馬鹿コンビもなく。

 人々がごく普通の日々を営む、ごく普通の街並みだ。

 何の力も持たぬ人々が、異能など夢物語だと笑い、平和に暮らす街。


 ——表向きは。


 生まれ持つ異能を隠して生きる人。

 街の思惑とは無関係に暮らす魔術師。

 人を喰らおうとする妖、人と共存する妖。

 そんな「異常」が密やかに、「普通」を装って暮らす街。それが、この街の正体だ。


 ——そんな特異な街が「平和」だったのは、街の異能者達を統べる『家』の存在がある。


 カミを祀る家。

 異界より現れる魔を祓う家。

 人を喰らう妖を祓う家。

 平和を破る異能者を制する家。


 4つの『家』が互いに協力し合い、地脈を整え、街の均衡を保つ。


 それ故に、この街は平和だった・・・







 街の中央部近くにある、大きな建物。

 街に住むあらゆる・・・・ものが1度は世話になるここは、「中西病院」と看板を背負っている。


 病院の救急外来は、今日も朝から嵐のような相様を呈していた。


「急患です! 交通事故外傷20代男性、腹痛を訴えています」

「ルート、レントゲン、エコー。CTも頼んで!」

「魔術の暴発で担ぎ込まれてきました、黄色い火傷が顔と腕に」

「魔術について詳しく訊く! 治療はそれから!」

「お年寄りがお餅を詰まらせたと孫が担ぎ込んできました。徒競走も真っ青なスピードで」

「孫は確保して説教、じいちゃんは挿管準備!」

「訓練中に怪我をしたと運び込まれて——」

「訓練の怪我は自己責任って言ってあるだろーが!」


 ……病院にしては些か、いやかなり風変わりな喧噪だが。


 何せ呻き声が獣っぽかったり、奇妙な爆発音が聞こえたりするのだ。病院と言うより怪しげな研究所のようだが、駆け回る白衣の人々は皆必死だ。

 更に、よくよく見ると「普通」の患者と「奇妙」な患者は受け入れる部屋が分けられている上、動線が全く交わらない。


 中西病院は、異能者と普通の人が知らず共存する街に必須の機関だ。異能者にも徒人にも平等に、医療を提供している。


 異能者には異能者の医療を、徒人には徒人の医療を。


 言うは易し行うは難しだ。死にかけの患者を目の前にして、救う手立てがあるのに「異能者じゃないから」と徒人の医療を施し、看取る事が出来るか。情に流されてしまうものに、この病院は務まらない。

 そして、そんな覚悟を負った医療者達を束ねる長は、患者の動線と診療内容をきっちりと分け、尚かつ医療者達の士気を高めて全力で働かせなければならない。


 ……何せ、圧倒的に人材が不足している。


 現代では、「異能」を受け入れる人からまず稀少だ。当然、異能者を受け入れる病院などそうないわけで、病院は常時千客万来。戦場の如き忙しさを誇る救急を駆けずり回ってくれる、異能による治療も普通の治療もこなす人……天文学的確率だろう。どう考えてもマンパワーの限界は見えている。

 それでもどうにか回す為に、ブラック企業も真っ青なレベルで駆けずり回らせ、かつブラックだと訴えさせないというのが、代々中西病院の院長に求められるスキルだ。


 ……現院長は若くしてその座に着いた後、あっという間に親しまれ尊敬され、院長の為ならと自ら働く部下達に囲まれた結果、実の娘に「外面腹黒!」と野次られたわけだが、それはさておき。


 身内評価は変態だ腹黒だ人でなしだと最低の域に達している現院長中西翔は、病院では大層尊敬されている。が、それと同時にやや問題児でもある。


 なにせ、


「院長! 何してるんですか、書類仕事して下さい!」

「してるって、ホラそっちの部屋に全部片付けてあるよ。手が足りてないんだから、別に私がやったって問題無いだろ?」

「大ありです!? 何で若手でも出来る挿管やってんですか、アホですか!」

「いや、さっきオペ終わったし。今日は外来も無いし病棟の様子はもう見てきたし、良いじゃないかこのくらい」

「何で現場に天秤が傾きまくってるんですかトップ!」


 アホみたいにフットワークが軽いのだ。


「津々良事務長ー、固い事言わないで。実際問題、超人足りない、文句言うより人員増やしてください!」

「出来るならやってるわ無茶言うな!」

 まぁこの戦場の如き病院ではありがたがられているのだが、常識人つづらの胃袋には負担が大きいようだ。


「あーもー! 人が足りない! 出自は問わん、院長が指示出し程度まで引っ込んでくれる人材降ってこないかー!」

 錯乱したように叫ぶ津々良事務長に、動脈を探りつつ翔はにこやかに返す。

「あはは、私もそんな人材は欲しいけどね。最低5人は必要じゃないか?」

「ええいやかましい! 院長の仕事穴埋めするの確かに5人は必要だけど! 誰かひとりでそれくらいやってくれませんかね!?」

「わあ、事務長酷いねえ。それ明らかにこき使う前提じゃないか。大体、私が知る限りでもそんな事出来る奴なんて——」


「——あたしだけ、だな」


 楽しげな院長と事務長の漫才がぴたりと止まる。やりとりを「いつもの事」と聞き流していた医療従事者は、一斉に手を止めて振り返った。

「コラ手を止めるな! 死なせたいのか!」

 間髪入れぬ怒声に打たれたように、静まりかえりかけていた病院が喧噪を取り戻した。それを黙って眺めていた翔は、やれやれと溜息をつく。

が言うより反応早いなあ」

「翔は指示出しは上手くても、活を入れるのには向いてないからな」

 旦那から横取りするように動脈ラインの確保を済ませた栞那は、にやりと笑って見せた。それを受けて、翔がにっこりと笑い返す。

「栞那が適役過ぎるだけだろ。それにしても白衣で来てくれるだなんて、久々に働いていってくれるのかな?」

 さらりと戦力扱いしてくる翔に、栞那は不敵に笑って受けて立った。

「最近馬鹿コンビの処置ばっかで腕が鈍りそうだったからな、たまには全力で動き回るのも悪くない」

「それはそれは、心強い。じゃ、よろしくね」

 爽やかに笑った翔は迷わず身を引いて、全体に指示を下し始める。

(……今晩は久々にぶっ倒れるな)

 かつて中西病院で働いていた時代そのままのこき使いぶりを正確に予測した栞那は、しかしそれも懐かしいとばかりに口元に笑みを浮かべた。







 その日の15時。2人は白衣を着替え、並んで病院を後にしていた。

「あー……久々にここまで駆け回った」

 大きく伸びをする栞那の隣で、翔がにこやかなまま肩をすくめる。

「俺は久々にこんな時間に追い出されたなあ。というか、あの扱いは酷いと思わない?」

 たまには家庭サービスしてきなさい、と半ば押し出されるように追い出されたのを指して愚痴る翔を、栞那は鼻で笑った。

「翔の自己管理がなってないのが悪い。どう見ても休もうとしない院長の強制退場だろ。夜の急患でも動けるようにったって、院長が病院に寝泊まりしてたら部下はいたたまれないに決まってるだろうが」

「……え。誰に聞いたのそれ」

 目を見張る夫に、栞那は冷めた目を向けた。

「顔出す前に院長室見に行った。せめて酒瓶は隠しておけ。つーか家帰れ」

「あはは……いちいち帰るの、どうにも面倒でさ」

 ややばつが悪そうに笑う翔に溜息をついて、栞那は遠隔で開けられた車の助手席に乗り込んだ。

「取り敢えず、戻ったらまず珈琲淹れろ。この間中座した分までな」

「あー、覚えてたんだ。というか、珈琲豆切らしたっきりな気がする……」

 運転席に乗り込んだ翔が小さく呟いたのをきっちりと聞き取った栞那は、眉を顰めた。

 翔は別に怠惰でもずぼらでもなく家事もこなせるが、自分の事になると些か無頓着だ。いつから病院に寝泊まりしてるのか知らないが、買い出しすら疎かになっているらしい。

 顰め面のまま、栞那は重々しく言った。

「行き先変更。まずは諸々の買い出しだ馬鹿」

「りょーかい」

 軽やかに返事をして、翔が滑るように車を発進させた。







「それで? どういう風の吹き回しかな」

 中西家、リビング。栞那の注文通り豆から珈琲を淹れた翔が、ソファに座った栞那に手渡しつつ切り出す。

「特別な用事がない限り山から下りない。最初に約束しただろ」

「ああ。覚えてる」

 珈琲を受けとり頷いた栞那に、翔はにこりと笑って首を傾げた。

「下りてこないように、顔出したんだけどなあ?」

「知ってる。だが、そうも言ってられなくてな」


 栞那はそう言って、ダンジョンの話をする。栞那の隣に座って聞いていた翔は、小さく息をついた。


「揺らぎが酷いな……魔王まで来たのか」

「ま、無理も無いだろ。あの病院の混乱ぶりを見ればな」

 珈琲を啜った栞那は、翔が僅かに苦い顔になるのを見逃さなかった。

「やっぱり分かる?」

「ハイケアの患者数が明らかに多いし、看護師達の疲労が顕著だ。休ませてやれよ、なんて言わないさ。休ませられないんだろ」

「……そう。だから俺が出張ってるんだけどね」

 肩をすくめた翔は、よくよく見ると目の下がやや黒ずんでいる。それに気付いた栞那は目を眇める。

「そこまでなっても、原因を問い合わせないんだな」

「俺が必要なのは、患者が増える時期や起こりうる事故の情報。その理由まではいらないし、知っちゃいけないからね」

「……「中西」のルールだったな。異能に関わらず、異能を治癒する。ただ治せと言わんばかりなのが腹立つ」

 吐き捨てた栞那に、翔は苦笑した。

「一般人を巻き込まないという、彼等なりの矜恃でもあるからねえ。というか、その辺りは栞那の方が詳しいじゃないか」

「それはもう。何せ、今起こってる諸々の半分くらいは連中のせいだと、昨日聞いてきたばっかりだ」

「栞那」

 翔がふと声を真剣なものに変える。警告じみたそれに、栞那はにっと笑ってみせた。

「翔は本日強制店じまい、あたしも現在有休中。家で寛いでる以上、あたしも翔も今はただの一個人だ。だろ?」

 珈琲カップを掲げた栞那に、翔は困ったように笑う。

「……わざわざ部下に根回ししたの?」

「利害の一致って奴だな。院長に過労死されたら困るって諸手を挙げて歓迎されたぜ、部下に恵まれたもんだ」

「否定しないよ……本当に、栞那は抜け目がないねえ」


 1つ息をついて、翔は表情を変えた。常日頃浮かべるサワヤカなものではなく、彼本来の腹黒い笑みで栞那に尋ねる。


「じゃあ聞かせてもらおうか、玖上くがみ栞那さん。街の平穏を保つのが生業の連中は、一体何をしているんだい?」


 敢えて旧性で呼ぶ翔に、栞那も意地悪い笑みで応える。

「何を置いても勢力争い、だ。今や4家の当主達は顔を合わせると諍うそうだ。あたしの実家みたいな分家まで巻き込まれてるらしい」

「相変わらず愚かだねえ。彼等はいつまで連携を学ばないのかな、かなり痛い目に合ってるくせにさ」

 さらりと毒を吐いた翔に、何となく楽しくなってきた栞那がにいと笑う。

「痛い目に遭わせた側がよく言う」

「隙をつくのは定石だろ?」

 翔がにっこり嘯いた。翔や友人達が連携して複数の『家』を翻弄した逸話は、未だに語り草となる程の混乱を招いた事件として、栞那もよく知っている。


「後、『門崎』だが……少し前に、当主が亡くなられたらしい」

「……それは大変だろうね。確か次期も亡くなられて、お孫さんは……」

 眉を顰めて記憶を探る翔に、栞那も頷いた。

「悠希と同じくらいだ。周囲が懸命にバックアップしてるらしいが……妖を狩る一族が不安定だと、やっぱり一気に被害が増える」


 街に跋扈する異形を、彼等は妖と呼ぶ。ほとんどは闇に紛れて静かに生きているが、一部血の味を覚えた妖が人を襲うのだ。

 それを祓う一族が、『門崎』。その家の瓦解は、1つの亀裂となる。


「それで怪我人の搬送が増えてるのか。それにしても……他家の危機でも協力し合う事すら出来ないんだねえ」

 笑顔でさらりと吐かれた皮肉に、栞那もシニカルな笑みを浮かべ同意する。

「己の領分を守れてないと責めるわりに、自分の領分も怪しい様に見えるがな。馬鹿もここまで来るといっそ哀れだ」

「あーあ……風精霊が苦労するよ。本当にどうしようもない役立たずだ」


 笑みを浮かべたまま毒を吐く2人。悠希が見たら「母親を洗脳するんじゃねーですよ変態!」とでも叫びそうな光景だ。


 ……実際は洗脳どころかこの2人、「触れるな危険」と結婚当時は恐れられたのだが。狭い世界で育つ悠希は、幸か不幸か未だ知らない。


「にしても……結構しっかり調べたのに把握しきれないんだが。4つの『家』に守護獣、世界精霊に管理者。なんでこんなに厳戒体制なんだ、この街?」

 栞那が面倒そうにぼやくと、翔は曖昧な表情で首を傾げた。

「俺は異能持ちじゃないから、あんま聞いてないなあ……地脈が豊かとか、土地神がどうとか? 元々異世界との数少ない接点だからか、異能が多いんだよねえ。精霊もよく分からないし、管理者っていうのは初めて聞いた」

 ぼんやりとした説明に、栞那もお手上げだとカップをテーブルに置いた。

「異世界邸がある時点でわけわかんねー街だと思ってたが、予想以上だな。精霊は世界の柱、だったか? ……あのシスコンが世界精霊と言われてもな」


 改めて便利屋を営む風精霊を思い描いたが、あの軽い青年が世界の柱と言われても栞那は全くしっくり来ない。


「はは、彼も捉え所無いよね」

 翔に頷き返し、栞那は更に続けた。

「管理者は、何か勝手に余所の世界から来て、特異点だからとかで口出ししてきたとか。母がぼやいてたぞ? しかも今の担当がガキらしい」

「異能者って見た目の年齢当てにならないからねえ。前に診た事あるよ、びっくりするくらい若作りの魔術師。あそこまで行くと気味が悪い」

 肩をすくめて、翔も珈琲を飲み干した。


「ま、取り敢えず、人間側の対応が間に合ってないのが原因な訳だな」

「ああ。何とか地脈は保ってるが大気中の魔力が不安定で、そのせいでいろいろ困った事が起こりやすいらしい」


 土地の魔力の流れである地脈を死守している限り天変地異で街が沈む事はないが、大気中の魔力が不安定だと妖が血気盛んになったり、大雨が即洪水土砂崩れに繋がる、くらいならありうる。


 怪我人担当としてそれくらいは知る翔が、大袈裟なほどに顔を顰めた。

「迷惑だなあ。魔力が不安定な理由は分かったの? 異世界邸に物騒な来客が多い要因でもあるんだろ」

 その問いかけに、栞那は夫がかなり状況を気にしている事を察した。この天邪鬼は一切口にしないが、身を守る術を持たない悠希が心配なのだろう。

「異界の揺らぎが酷くなってるらしい。『吉祥寺』と『霍見』が必死になって支えてる割に不安定で、それが異世界との境界も曖昧にしているんだと」

「……異界担当の2つの家が動いても不安定? 何故?」

「そこまでは分からん。どうも異界と頻繁に接触してる奴がいるらしいが」


 この街を裏張りするように存在する異界は、この街の妖を除くあらゆるオカルトの元凶だ。まともな人が触れれば気が狂うという曰く付きである。


「何その馬鹿?」

 よって呆れ気味に呟く翔に、しかつめらしく返した。

「世の中命知らずの酔狂は案外いるって事だろ。この街は変わり者が多いしな、目の前にいるように」

「そうだね、俺の目の前にもいるよ」

 にこやかに白々しく嘯く翔に、栞那は顔を顰めた。

「腹黒さでは天下一品の翔には言われたくない。……ああ、腹黒で思い出した。守護獣が動いたらしいぞ」


 守護獣は、『家』に加護を与えて土地の守りに協力する。当主と契約する事で加護を与えるのだが、今代はどこの家も契約出来ていない。この場合、守護獣は人間に目もくれないというのは有名な話だ。翔も知っていたらしく、意外そうな顔になった。


「契約交わしてないのに? 珍しい」

「しかも、『家』と関係ない異能者に全員従ってるらしいぜ」

 翔が目を見開いた。自分が聞いた時の驚きそのままの反応を見られて、栞那は思わずにやっと笑う。

「母が腹黒がどーの根性悪がどーのとぼやいてたのが気になるが、確かな情報だ。その異能者が動けば大分変わるだろうさ、それまで踏ん張りどころだ。最悪の事態になる前には世界精霊か管理者が動くだろ、とも言ってたが」

「……余所者たにん任せは碌な事にならないっていうのが、口癖なんだけどね」

「…………」


 翔が懐かしむような表情でぽつりと漏らした言葉に、栞那は無言を持って返した。『意志』が守られていない現状を誰よりも憂いているのは彼だと、栞那は知っている。


「……ま、あたしが調べられたのはこんなもんだ。異世界邸側としては、「どうしようもないから頑張れ!」と丸投げされた気分だが」

「あはは、貴文の叫ぶ姿が目に浮かぶよ」

 笑いを漏らした翔が、ふと視線を外に向ける。そっと、囁いた。


「これから、少し危ないかもな。……俺は、何も出来ないけど。気を付けて」


 その言葉にむっとして、栞那は翔の両肩に手を置いてぐいと押す。

「栞那?」

 少し驚いたように、けれど栞那をしっかり支えながら名を呼ぶ夫を、栞那は睨み付けた。

「翔が他人事の様に言うな。あたしや悠希の周りには管理人や戦える住人がいる。だからこそ、あたし達をあの場に置いてるんだろうが」


 街が不安定になる最初の切欠・・・・・が起こった時。翔が真っ先に決断したのが、まだ幼かった悠希と栞那を、友人である貴文に預ける事だった。栞那に相談しないどころか辞表1枚で行かせた翔に、それでも栞那が従っているのは、翔の負担にならないためだ。


「異世界邸に貴重な医務班を、管理人は絶対に見捨てない。それを利用して身を守るから、翔は仕事と自衛に全力を向けろ。それが、引き受けた条件だ」

「…………」

「異世界邸は確かにトラブルだらけで命懸けだ。なのにこの街よりマシと判断した、その当時より今は遥かに物騒だ。病院長なんて狙われやすい立場で……心配するのはあたしの方だ、馬鹿野郎」

 最後の言葉は、思いのまま掠れた。それを受けて、翔は曖昧に微笑む。

「……俺は、大丈夫だよ。それに、栞那達がいない方が良い」


 失礼極まりない言葉に、栞那は今度こそ翔をソファに押し倒した。力の差を補う為に体術を用いたが、この程度でこいつは怪我しないので問題無い。


「ちょ、栞那」

「うるさい馬鹿、理由は知ってても聞きたくない言葉だぞ、それは。大体、自炊もせず酒かっくらってるくせに何が大丈夫だ。少しはこっちの身にもなれ」


 守る者がいない方が身軽に動けるというのは分からなくはないが、全力で自分に無頓着な様子を見せられては、不安にならない方がおかしい。そんな思いで睨み付けると、翔は軽やかに笑った。


「医者のくせに、未だに煙管吸ってる栞那に言われたくないなあ」

「茶化すな、心配してる時くらい」

「……そうだな」


 困った顔をした翔は、一瞬だけ弱った色を覗かせて。その後いつも通りの笑みを見せ、小さく囁いた。

「少し、頑張ってみるよ。……笑われるのは嫌だしな」

 付け足された言葉に、栞那はニッコリ笑って見せる。

「おう、盛大に指差して爆笑してやる。今なら管理人とフランも付いてくるぞ」

「フラン……ミス・フランチェスカか。懐かしいなあ。あいつ等に笑われるのは勘弁だ」


 笑い声を上げて、翔は栞那の腕を掴んだ。そのまま外されそうになったので、敢えて上体を倒してみる。


 完全に押し倒された形となった翔は、しかしその程度では動揺も見せずにこりと笑った。

「そろそろ下りない? そりゃ栞那は軽いけど」

「世辞で誤魔化されると思うなよ。折角の有休に旦那と2人きりだ、悠希の弟妹でも作るか?」

「いやいや、年考え……ごめん俺が悪かった」


 失礼極まりない夫の弱点を狙い定める栞那の視線を察したのか、やや青醒めた顔で翔が謝る。それを受けて、栞那は顔を近づけた。


「今時13歳差の弟妹なんて珍しくもない。……土産持参で帰って来た妻を甘やかしても、罰は当たらないと思うぞ」

 目の前で妖艶に囁いた栞那に、翔は微苦笑を浮かべる。

「本当に、栞那って……馬鹿だよな。良い女なのに、勿体ない」

「阿呆。女ってのはな、最愛の相手にはとびきりの良い女になるもんなんだ」

「……これは、1本取られたな」


 翔が降参とばかりに腕の力を抜いた。栞那は負けを認めた旦那にとっておきの笑みを見せ、距離を0にする、その直前。



 Trrr…



 鳴り響く着信音に、半ば条件反射で身をのけてしまった栞那は、翔の胸ポケットから取り出された携帯を睨んだ。

「おや、悠希だ……やあ悠希。珍しいね、悠希から電話なんて。もしかして寂」


『アホ言ってねーで先生送りやがれ急患ですよごるあ!!』


 スピーカーにしてもいないのに明瞭に響く怒声の後、電話は荒々しく切れる。


「……だってさ。引っ張りだこだねえ、先生」

 苦笑混じりにそう言った翔を黙殺し、栞那は押し倒したまま自分の携帯を取りだした。3コールで出た相手に、端的に告げる。

「中西だ。多分買い出しのせいで急患多発。あたしは明日まで休暇だから、取り敢えず任せた」

「え、」

『はーい了解です、センセ。どうぞ旦那様とごゆっくり〜』


 返事と共に切れた電話を弄り、続いて悠希の番号を選ぶ。


『センセ仕事です、さっさと戻っ』

「代理見つかったから送った。あと1日は休むから頑張れ」

『裏切り者!?』


 絶叫が聞こえたが、無視して切った。ついでに翔の電話も取り上げ、共に電源も切ってその辺に放り捨てる。


「ちょっとそれは、流石にどうなんだい?」

 眉を下げて苦情を言う翔に、済ました顔で言い返した。

「悠希も代理を了承した以上、責任がある。翔の部下から代理選出したし、フランもいるし、買い出しの結果怪我した馬鹿どもくらいどーにでもなるさ」

「あのねえ……」

「もうすぐ買い出しの時期だってのに了承した甘さを恨むが良いさ。素直は結構だが、折角の頭の良さを使えてないからな、悠希は。少し鍛えないと」

 涼しい顔で言い切った栞那に、翔は呆れ顔になった。

「スパルタにも程がないかい?」

「翔が甘いんだよ。あたし達の育ち方思い出して見ろ、そろそろ自衛くらい覚えさせる時期だよ」

「いや俺は全く参考にならないし……」

「あの程度で潰れるようなヤワな育て方はしていない」


 聞く耳を持たない妻に、翔は溜息をついた。


「……降参。ああもう、他の人みたいに上手くいかないなあ……」

 彼にとって最上級の褒め言葉に、栞那は上機嫌に笑った。

「そりゃ光栄だ。それに……翔の側にいるべきなのは、こーやって思い通りにならない存在だろ」


 それ以上の言葉はいらぬと、栞那は問答無用で翔の口を塞いだ。






 

 翌日、異世界邸午後20時。

「まったく、1人だけ楽しんで……自分大変だったんですからね」

「代理優秀だったろ。買い出し忘れるたあ油断したなー娘よ」

「ええいちったあ申し訳なさそーにしやがれです!」


 夫との時間を存分に満喫した栞那は、ふて腐れて噛み付いてくる悠希をあしらいながら、共に管理人の待つ医務室へ向かっていた。


「ああ、伝言伝えておいたぜ」

 そう言うと、悠希は肩をびくっとさせた。

「……なんて?」

 結局は気になって聞いてしまう可愛い娘に、にんまりと笑って答える。

「あの程度いつでも喜んで、だと。嬉しそうだったしまた来るんじゃないか、良かったなー」


「「良くねえ(ですよ)!?」」


 悠希と綺麗に被った悲鳴に、栞那は顔を愛娘から扉の方へと向けた。

「やあ管理人。報告も色々あるが、まずは帰還の挨拶だ。良い有休だったぜ、感謝してる」

「そりゃー良かったですが、翔が来るのはお断りですからね! ちゃんと止めて下さいよセンセ!」

「いや、止めないだろ普通。止めて止まる性格でもないし」

「知ってるけど!」

 ぎゃあと喚く貴文を笑っていなし、栞那は悠希の背を押した。

「おら悠希、こののと遊んでこい。大人は大人で話があるんでな」

「あからさまに弾きやがりますね」

「父親も関わってる話だが、そうか聞きたいのか」

「このの! トランプしましょう!」


 ころっと態度の変わる悠希に声も無く笑うと、栞那は医務室の椅子に腰を下ろした。


「案の定うちの石頭は情勢だけを見て警告してきてたが、実家で色々聞いてきたぜ」

「そりゃ助かります。俺も聞けないが、センセはそもそも『家』の一員だから抜け道も知ってる」

 貴文に頭を下げられ、栞那は肩をすくめる。

「あたしは分家の端くれだから、一員って程じゃないさ。母に普通に聞いてきたから抜け道使う必要も無かったしな」

「普通に答えてくれる先生の母さん懐広いな……」


 呆れ顔で呟く貴文をスルーし、栞那は翔に話したほぼそのままを報告した。最後まで聞き届けると、貴文は机に突っ伏す。


「……あぁぁああんの馬鹿ども、ただでさえトラブルだらけのうちにしわ寄せ持ってくるんじゃねぇええ……」

「頑張れ管理人。せいぜい怪我人の治療と応援くらいはさせてもらう」


 夫以外の大の男を労ってやる気など欠片もないが、この苦労人を応援する程度の慈愛は持つ栞那である。自分の分のついでに珈琲でも淹れて労ってやろうと、立ち上がって奥のコンロへ向かった。


「あ、悪い管理人。そこに置いた箱、冷蔵庫に入れてくれないか」

「いいですよ。手土産ですか?」

 ケーキ箱を持ち上げた貴文に問われ、栞那は振り返らず頷いた。

「翔からだよ、悠希にってな。ついでに、貴文にも袖の下だとか言いつつ、家族3人分プリンの土産だ。寝る前にでも食え」

「……何だろう、あいつからってだけで凄まじく買収された感」

「お前ら仲良いな……」

「断じてありえません!!」


 揃って素直に「お礼」が出来ずに収賄のような発言をしてる点を指した栞那の言葉を、貴文が物凄い勢いで否定した。その辺りが尚更な、と心の中で呟いた栞那は、続いて貴文が上げた怪訝な声に振り返った。


「あれ? 何か変なもの入ってますよ?」

「ん?」

 淹れた珈琲をひとまず机に置き、栞那は冷蔵庫の前で膝を付く貴文へと歩み寄った。

「……また異世界に繋がったのか?」

「みたいですね、中身綺麗にない癖に食べられないものが置かれてるんで」

「はた迷惑な……で、何が置かれてたんだ?」

「これですよ」


 そう言った貴文が、栞那に掲げて見せたのは——。


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