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異世界アパート『異世界邸』の日常  作者: カオスを愛する有志一同
魔王編
32/175

迷宮の魔王 【part山】

 異世界邸の地下に巨大なダンジョン――ノルデンショルド地下大迷宮が出現して数日。

 先日の珍客により第一階層こそ、そこの守護者が嘆き、涙する程度に大型改装されてしまったものの、第二階層以降は全くの未開拓。第一階層支配者(フロアマスター)及びダンジョンと魔術の専門家の話によれば、第二階層以降は踏み込まなければ無害である可能性が大きいのだが、自分たちの足元に強大な力を秘めた魔王とその部下たちが眠っていると落ち着かないという異世界邸管理人の判断により、早急にダンジョン攻略を進めることが決定した。

 ……まあその決定には、「どうせ放っておいたら勝手にじゃじゃ馬娘が暴走してダンジョンに突っ込んで被害がデカくなるから、その前に無難な大人だけで攻略してしまおう」という思惑の方が大きいのだが。


        ***


「はーい、じゃあ『比較的良識ある面々で構成されたダンジョン攻略パーティー』点呼取るぞー」

 ここ数日、仕事が終わらず延々徹夜を無限ループする悪夢に悩まされて目の下のクマがとれない異世界邸の管理人・貴文がエントランスホールにてやる気なく声を上げる。

「えー、まず、トラップ探知担当のバイトメイドのレランジェさーん」

「はい」

「そのトラップの解除担当、リック・ワーカーさーん」

「うぇーい」

「各階層を移動するための魔方陣の発動及び修復担当のセシル・ラピッドさーん」

「はーい♪」

「その護衛のミシェール・ミルキーウェイ……誰だコレ。あ、ミミの本名か。まあいいや、ミミさーん」

「…………(コクン)」

「あと別に良識はないけど、万一の時の盾役として招集したトカゲとポンコツー」

「「せめて名前で呼べや!?」」

「そして一応は屋敷の責任者である俺を含めた七名でお送りいたしまーす」

 いえーい♪ と、顔の左側以外入れ墨で埋め尽くされた改造白衣の魔術師セシルだけがテンション高く返事をし、あとは深い溜息を吐くか無言で頷くかギャアギャアと鬱陶しく吠え散らかしている。協調性のない奴らめ。


「待つのであーる!!」


 と、ドゴーンと何かを破壊する音と共に更に和を乱す闖入者の声がホールに木霊する。

「第一階層支配者(フロアマスター)の許可なくノルデンショルド地下大迷宮に踏み入ろうとは不届き千万! 進みたければ、吾輩を倒していくのであーる!」

 決して小さくはない玄関を破壊しながら、マンモスサイズの巨躯を誇るチワワが無理やりホールに乱入してきた。首輪に繋がれた鎖はどういうわけか途中から焼き切れている。玄関の修復と合わせてもっと強力な鎖を購入しなければと、貴文の胃が早くも痛み始めた。

「レランジェさん」

「ミミちゃん♪」

「「…………(コクン)」」

 メイド二人が無言で頷き、ジョンのどてっ腹に正拳突きを喰らわせる。「キャン!?」と悲痛な声をあげながらも、ジョンは爪を立てて床をゴリゴリと削りながら耐え忍ぶ。ああ、地味に胃が……。

「わ、吾輩は暴力になど屈しないのであーる!!」

 先日の調教により無暗やたらに火を噴いたり暴れたりできなくなったジョンは、戦闘メイド二人に牽制されながらもダンジョン入り口――この前来訪した貴文のご先祖様によって風呂屋の入り口のように改造された階段に全身を滑り込ませる。

「あ」

 と言う間もなく、入り口はその巨体に塞がれ、フカフカモフモフの犬尻だけが見えている状態となってしまった。

「吾輩は! 決して! 屈しないのであーる!!」

「邪魔です」

「…………」

 レランジェとミミがジョンの両後足を抱えて引きずり出そうと試みる。が、中で全力で踏ん張っているのかビクともしない。さらに竜神とアンドロイドも尻尾をつかんで引っ張ろうとしたが、逆に思いっきり横薙ぎにされて壊れた玄関の向こうまで吹っ飛ばされた。

「どうすんだよ管理人」

「……もう何も考えたくない」

 出発前からこれである。

 貴文は早々に帰りたくなったが、かと言っていつまでもダンジョンを放置しておくつもりはない。邪魔だし。

「あらあら、大変」

 と、パタパタとサンダルを鳴らしながらホール奥の廊下から割烹着の女性が小走りでやってきた。

「那亜さん」

「管理人さん、ジョンちゃんどうしちゃったの?」

「! その声は、我が聖母(マイマザー)!!」

 ブンと大きく振られた尻尾をメイド二人が回避する。

聖母(マザー)からも一言くれてやってはくれまいか! この木っ端ども調子に乗りすぎであーる! 如何に吾輩が守護するべき第一階層が風呂などという忌わしき場になり果てたからと言って、ノルデンショルド地下大迷宮を好き勝手闊歩しても良い理由にはならないのであーる! あそこは我が主君(マイロード)と我が同胞たちの領域! 一歩たりとも侵させはしないのであーる!!」

「言ってることは立派なんだけどなあ……」

 尻しか見えてない。

「那亜さん、申し訳ないけどあの駄犬抑えててくれませんか? ブリーダーの洗脳が解けたのか、暴れる規模は小さくなったのに、ごく限られた連中の言う事しか聞かなくなったんですが」

「それは、あなたたちが無理やり従わせようとするからですよ」

 めっ、と那亜は人差し指を立て、貴文を叱る。

 あぁ……胃が安らぐ……!

「無理強いするだけじゃワンチャンは言う事を聞きません。ちゃんと褒めてあげないと」

「アレ犬じゃないと思うんですが」

 人並みの知能はあるし、火噴くし、何より巨大だし。

「まあ、でもずっとあのままっていうのは困りますよね」

「そうなんです。ダンジョンも放置はできないし」

「分かりました、何とかして見ますね」

 そう言うと、那亜はブンブンと尻尾を振り回しながら牽制するジョンへと近づいて行った。

「ジョンちゃん、ちょっといい?」

「聖母!」

「あのね、申し訳ないんだけど、私たちアパートの住民としては、あのダンジョンをいつまでも放置するっていうわけにはいかないのよ」

「なっ!? ななっ!?」

 何とかするって説得するんか。

 那亜が命令すればジョンは大人しく従うだろうにと、貴文は半ば呆れながらも、まあ彼女らしいかと溜息を吐いた。

「聖母! それはあんまりである! 聖母だけは吾輩の味方だと思っていたのに!!」

「私はジョンちゃんの味方よ? でも同時に、アパート全員の味方でもあるのよ」

「ぐ、ぐぬぬ……!」

「だからね、ジョンちゃん。お互いの妥協点を見つけましょう?」

「ぬ?」

「管理人さんたちに、私とジョンちゃんも付いて行ったらどうかしら?」

「はいっ!?」

 貴文は思わず息を呑む。

 あの何が眠ってるかも分からんダンジョンに那亜さんを連れていく!?

「ちょっと那亜さ――」

「まあまあ待ちたまえよ管理人君♪」

 割って入ろうとした貴文を、何が面白いのかニタニタと顔面の入れ墨を歪ませて笑いながらセシルが止める。

「慈悲深いけど、それ以上に思慮深い彼女が自分から動こうとしてるんだよん♪ 何か考えがあるんだろうね☆ もしくは、ダンジョンに気になることがあるとか♡」

「……那亜さんがダンジョンの何を気にするっていうんだ。セシル、あんた何か知ってんのか」

「さあね♪ セシルちゃんは可能性を示しただけだよん☆」

「…………」

 ケタケタと意地悪く笑うセシルに眉根を顰めながらも、貴文は仕方がなく引き下がる。

「ま、聖母もノルデンショルド地下大迷宮に入るというのか!?」

「ええ、そうよ」

「それは……い、いくら聖母の頼みでも……!」

「あら、他の方々と違って戦う力のない今の私の何を恐れるの?」

「ぬ……」

「それにジョンちゃんも一緒に来るのよ? それなら、事前にジョンちゃんに危ないところを教えてもらえるし、安心じゃない?」

「いや、そういうことではなく……!」

「あと、ジョンちゃんが『ここにだけは行ってほしくないなー』って思う所があったら、私が管理人さんたちを行かないよう説得してあげる」

「ぬぬぬ……!」

「私、こう見えてこの異世界邸は長いのよ? 大丈夫、絶対行ってほしくないところには行かせないから」

「ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ……!!」

 ジョンは唸りながら那亜の言葉に耳を傾ける。

 そして暫しの沈黙の後、ノソリとその巨体を風呂場の入り口からどかせた。

「……勘違いしないでほしいのであーる」

 ジョンが貴文の方を向き、牙を剥き出しにしながら睨みつける。

「我が聖母に免じて、貴様らを我らがノルデンショルド地下大迷宮に招き入れるのであーる。下では吾輩の指示に従ってもらうのであーる。さもなければ――」

 グルルと地獄から響くような音で喉を鳴らし、威嚇をするジョン。それに苦笑しながら、那亜は貴文の元へ戻ってきた。

「ごめんなさいね、管理人さん」

「……全くです。勝手に付いて来るなんて決めて」

「ふふ、でもジョンちゃんだけじゃなく、皆さんがいるから私も安心できるのよ」

「はあ……」

 そう言われると弱いんだよなあ……。

 本日既に何度目かもわからない溜息を吐き、貴文は覚悟を決める。

「今夜の夕飯、おかず一品増やしてください」

「お安い御用ですよ」


        ***


 風呂場の脱衣所へと続く扉の隣、関係者以外立ち入り禁止と書かれた巨大な鉄門扉の三重の鍵を開け、一行は中へと踏み入る。先頭はトラップ探知要員のレランジェとリック、それに続いて那亜を背中に乗せたジョン。その後ろに貴文、セシルと並び、ミミが殿という構成になっている。トカゲとポンコツ? ジョンに吹っ飛ばされたまま帰ってこなかった。

「おお、実際に入るのは初めてだが、こうなってたのか……」

 門を潜ると、先程までいた所とは別世界に放り込まれたかのような錯覚に陥った。正確に言えばこれは錯覚でも何でもなく、ダンジョン内の空気に含まれる魔力が地球のそれとは濃度も構成も異なるためなのだが。

 岩盤をくり抜き、石畳を敷いたような洞窟のような遺跡に、貴文は目を奪われた。何だかんだ言って、こういう遺跡的なものにロマンを感じないほど貴文もスレてはいない。

「このフロアにトラップがないのはオイラが確認済みだよ。だから真っすぐ次のフロアに繋がる魔方陣に移動しよう」

 リックが小走りで進み、それを追うように一行も進行する。

しばらく進むとちょっとした広さの空間に出た。その中央には仄かな光を発する魔方陣が描かれている。

「はいはーい♪ 次はセシルちゃんの出番だね☆ ささ、皆魔方陣の内側に入ってね♡」

「念のために言っておくけど、次のフロアはまだ出口の魔方陣の周辺しか探索してないから、下手に動かないでくれよ?」

「りょーかい」

 セシルの誘導に従い、リックの忠告に耳を傾けながら魔方陣に足を踏み入れる。それを確認すると、セシルは左手の甲に彫られた魔方陣の入れ墨に右手を添えた。

「キーワードはシンプルに♪ ――《転移(テレポート)》」

 フッと視界が歪む。

 しかし次の瞬間には元通りに……いや、目の前の光景が僅かに変わっていた。

 一見すると先程の魔方陣の部屋と変わりないが、部屋の石畳の配置や壁のひびなどが微妙に異なっている。

「…………」

「ん? どうしたジョン」

「な、何者であるか……この魔術師は……!」

 見れば、ジョンは顎が落ちそうなほどアングリと口を開いて惚けていた。

「あの魔方陣は、あんな簡略化した詠唱などでは発動しない作りになっていたはずであーる……! 我ら階層支配者の中でも最も魔術を得意としていた〈貪欲の黒兎〉によって作られた魔方陣が、こうも易々と……! ……うん?」

「……ま、今更驚かねえけどな」

 異世界邸の住民共が各専門分野においてはぶっ飛んだ才能を持っていることは周知の事実だ。

「それじゃあ探索を始めようか。レランジェさん、頼んだよ」

「は――」

 い、と返事をする間もなく。

「……なんだ、これは!? どういうことであーる!?」

「え、ちょっと!?」

 那亜を背中に乗せたまま、ジョンが急に走り出した。

 あまりにも一瞬の出来事に、貴文はおろか、その場の誰もが瞬時に対応できなかった。

「なんだ、あいつ!?」

「急に何かに驚かれたようですが、何があったかはレランジェには理解不安定です」

 先程のジョンは、毛皮で覆われた魔獣に対し使う言葉ではないが、それは血相を変えて、という表現がしっくりするほどの動揺が籠った声音だった。

「とにかく追おう。駄犬はともかく、那亜さんが危ない!」

「そ、そうだな!」

「ミミちゃーん♪ 抱っこヨロシクー☆」

「…………(コクン)」

 ジョンのフワフワとした犬尻は、既に魔方陣の部屋から伸びる通路の遥か先まで行ってしまった。その後を追うべく、一行は全速力で駆けだした。


        ***


 ノルデンショルド地下大迷宮は十二の階層と最奥部の玉座の間で構成され、十二階までは各階層の深奥に鎮座する階層支配者フロアマスターと呼ばれる強大な力を持つ魔獣によって守護されている。


 第一階層支配者――〈鮮血の番狼〉

 第二階層支配者――〈猛進の大牙〉

 第三階層支配者――〈侵略する群衆〉

 第四階層支配者――〈不動の巨角〉

 第五階層支配者――〈苛烈なる猛虎〉

 第六階層支配者――〈貪欲の黒兎〉

 第七階層支配者――〈飛翔する逆鱗〉

 第八階層支配者――〈大地削ぐ蛇腹〉

 第九階層支配者――〈天駆ける一角獣〉

 第十階層支配者――〈残虐なる螺旋〉

 第十一階層支配者――〈絶望の猿猴〉

 第十二階層支配者――〈不死の白鴉〉


 そして第十三階層、通称玉座の間に鎮座する『迷宮の魔王』


 階層支配者はその存在一つ一つが災害にすら匹敵する力を秘めており、主君(ロード)と崇める迷宮の魔王に絶対の忠誠を誓っている。

 主君に攻めろと言えば地上の全てを破壊しつくし、護れと言われれば己の命を投げ打ってでも盾となる。

 それが階層支配者の存在理由であり、意義である。

 故に、各階層支配者が無断で己の守護する階層を離れるという事は――ありえない。


 だと、言うのに。


「何故……何故だ……!?」

「ちょ、ちょっとジョンちゃん!? 落ち着いて!!」

 ジョン――否、〈鮮血の番狼〉は狼狽していた。

 主君が()()()に侵略の歩を始めて幾年月。第一階層支配者として来る者来る者全てを焼き尽くし、喰らい尽くし、蹂躙し尽くしてきた。


〈鮮血の番狼〉は他の階層支配者と比べると、突出した何かがあるわけではなかった。


〈猛進の大牙〉のような速さもなく。

〈侵略する群衆〉のような戦術もなく。

〈不動の巨角〉のような堅さもなく。

〈苛烈なる猛虎〉のような膂力もなく。

〈貪欲の黒兎〉のような魔力もなく。

〈飛翔する逆鱗〉のような知恵もなく。

〈大地削ぐ蛇腹〉のような執拗さもなく。

〈天駆ける一角獣〉のような血統もなく。

〈残虐なる螺旋〉のような悪意もなく。

〈絶望の猿猴〉のような幸運もなく。

〈不死の白鴉〉のような狂気もなかった。


 しかし主君はそんな彼を第一階層支配者に置き、門番としての役目を与えた。

 また他の階層支配者もそれを是とし、彼に絶対の信頼を寄せた。

 それ故に、〈鮮血の番狼〉の主君に対する忠誠と同輩に対する信義は揺るぎないものとなった。

 だからこそ。

「何故……何故……!? 何故〈猛進の大牙〉の気配がないのだ!?」

〈鮮血の番狼〉の嗅覚に、聴覚に、かの大猪の姿をした同胞の存在が感じられなかった。

 ありえない。

 ありえない。

 ありえない。

 階層支配者が持ち場を離れるなど、ありえない。

「どこだ!? どこにいるのだ!?」

「ちょ、ちょっと落ち着いて!? きゃあっ!?」

 背から何か聞こえてくるが構うものか。

〈鮮血の番狼〉は後脚だけで立ち上がり、背についているものを振り下ろしながら前脚を大きく掲げる。それを勢いよく振り下ろし、迷宮の床を破壊する。

 周辺が丸ごと沈下したが、構うものか。どうせ〈飛翔する逆鱗〉の術式によって数日のうちに修復される。

「〈侵略する群衆〉! おい! 〈侵略する群衆〉よ!」

 階下に飛び降り、遠吠えを響かせる。

 階層支配者の中で唯一、一個体ではなく群れによる戦術に秀でていたため階層支配者に抜擢された溝鼠の姿をした魔獣たちに檄を飛ばす。

「〈猛進の大牙〉の姿が見えない! 貴様ら、何か知って――」

 その時、はたと気づく。

〈侵略する群衆〉特有の、存在するだけで発せられる異臭も、耳障りな雑音のような鳴き声も、第三階層のどこにもなかった。

「――!!」

〈鮮血の番狼〉は声にならない呻き声をあげ、次々と床を破壊して階下に移る。

「ふ……〈不動の巨角〉よ……!!」

 第四階層にも、何もいない。

「〈苛烈なる猛虎〉……!」

 第五階層にも、何もいない。

「ど、ん……〈貪欲の黒兎〉……!!」

 第六階層にも――何もいなかった。

「ぐ……うぅ……! 何故だ! 何故、階層支配者が……誰もおらぬのだ……!」

〈鮮血の番狼〉は呻き、再び前脚を掲げて床の破壊を試みる。

 認めたくなかった。

 何があったかは知らないが、このまま次の階層に行ってもそこの主がいるとは思えなかった。だがそれを認めるのは、〈鮮血の番狼〉にはできなかった。

 今まで信頼してきた同胞たちが、自分の知らぬ間に姿を消していたなど、あってはならないことだった。

 では、最奥部は?

「……!」

 その考えに辿り着いた時、〈鮮血の番狼〉の前脚から力が抜けた。

 トンッと前脚が床を力なく叩く。

「う……うぅ……!」

 もし。

 万が一。

 玉座の間におわすはずの主君までもが、姿を消していたら?

「吾輩は……それを、認めることができるのか……?」

 受け入れることができるのか?

 そのようなこと、

「吾輩には……とても……!!」


 ――ぅぁ?


「……!? 誰であーる!?」

 初めて、自分以外の生あるものの気配を感じた。

 何でもいい。

 この状況を。

〈鮮血の番狼〉が愛したノルデンショルド地下大迷宮の今を知る者であれば、何でもいい!

「はぁ、はぁ……!」

 息を切らしながら駆けて行った先は、かつては〈貪欲の黒兎〉がその名に違わず、貪り食うように魔導書を読みふけっていた書斎であった。

〈鮮血の番狼〉は巨体故に頭だけを書斎に突っ込み、中を窺う。

「この魔力は……!」

 フッと懐かしい魔力を感じた。

 だがそれはとても脆弱で、吹けば消えてしまいそうなほど弱々しいものだった。

「ま、我が主君……?」

 何故、このような浅い階層に主君の魔力が?

 いや、そもそも何故〈貪欲の黒兎〉の書斎から?

 狭い入口に目一杯首を突っ込んで視線を巡らせる。そして主君のものらしき魔力は、書斎の一番奥の籠から発せられていることに気付いた。

「我が主君? そこに、おられるのか……?」

「……うー……」

 籠から赤子が愚図るような声が聞こえてきた。

 何故このような場所に赤子がいるのか疑問に思ったが、その声にこもる微量な魔力は、間違いなく主君のそれであった。

「我が主君!」

「……ぅ……? うぅ……!」

「嗚呼! 主君! 我が主君よ! 吾輩である! 貴方様より〈鮮血の番狼〉の名を授かったノルデンショルド地下大迷宮第一階層支配者であーる! どうか! 我が前に御身を!!」

「ぁ……あああああああああああぁぁぁぁぁっ!?」

 と、籠から耳を劈くような悲鳴が聞こえてきた。

 それは紛れもなく赤子の泣き声であり――その魔力は間違いなく〈鮮血の番狼〉が探し求めていた主君のものであったため、その矛盾に〈鮮血の番狼〉理解が及ばなかった。

「主君!? どうしたのであーる!? そのように喚くだけでは、吾輩は、吾輩は……!」


「ジョンちゃん、伏せ」


「……っ!?」

 唐突に身体が勝手に動いた。

 四肢を放り、地に腹と顎を密着させる姿勢のまま、微動だに出来なくなった。

「全く、びっくりしちゃったわよ。急に走り出すし、振り落とされちゃうし」

「……!?」

 ひょいと〈鮮血の番狼〉の頭上を飛び越え、何者かが書斎へと降り立った。

 それは艶やかな黒髪をなびかせ、割烹着の上からでもメリハリのある体つきが見て取れる、妙齢の美女であった。

「ああ、こういう事だったのね……。ここ最近、どうにも胸が張ると思ったら」

「き、貴様は……?」

「あら、酷いじゃないジョンちゃん」

 籠の中で未だに泣きわめ続ける赤子のような主君を抱きかかえ、彼女は振り返る。

「私よ、私」

「マ――」

 そう言って慣れた手つきで赤子を抱えながら微笑むその姿は、聖母そのものであった。


我が聖母(マイマザー)……!」


        ***


「ご報告します。」

 異世界邸管理人室で、貴文は報告を受けていた。

「異世界邸の地下ダンジョン――ノルデンショルド地下大迷宮第六階層にて発見された赤ん坊は、レランジェ様と三毛様のデータベース、及びノルデンショルド地下大迷宮第一階層支配者〈鮮血の番狼〉の証言から、この世界の時間軸では約五千年前に滅ぼされたとされる『迷宮の魔王』ことグリメル・D・トランキュリティとみて間違いないようです。」

 妙に句読点がハッキリした喋り方だな、と報告を聞きながら貴文は割とどうでもいいことを考える。そうでもしないと、胃に穴が開くどころか胃酸が溢れて食道や腸まで爛れそうだ。

「レランジェ様の話によると、グリメルは侵攻の際にダンジョンを作り、それを徐々に広げることで物理的に世界を奪う、いわば巣を広げるタイプの魔王だったようです。また第六階層支配者〈貪欲の黒兎〉が残したと思われる手記によると、グリメルは五千年前に最後に侵攻した世界、通称バッカニアにて彼が制作したノルデンショルド地下大迷宮ごと封殺されているようです。どうやら数千年かけてダンジョンを縮小していき、中に住まう魔物を衰弱死される結界が用いられたようです。しかも内側からこじ開けるには不可能な構造であったとのこと。」

「じゃあ何か? あのダンジョンが異世界邸うちの地下に転移してきたのは――」

「お察しの通りです。ダンジョンが封殺し終わり、無力化されたために結界が解けたためとみて間違いないかと。」

「待て、いくつか矛盾点がある」

「ご指摘をどうぞ。」

「ダンジョンが封殺し終わったなら、なんでグリメルは生きていた? アレを生きていると表現するのは妙な気分だが……ジョン――〈鮮血の番狼〉が生きていた説明がつかない」

「これはセシル様の推測ですが、まず第一に、結界の主目的が『魔王の封殺』であったためと考えられます。それ故に、浅い階層にいた〈鮮血の番狼〉は何とか生き延びた、という可能性。加えて〈鮮血の番狼〉は門番の任を担っていたうえ、外敵を悉く返り討ち、もしくは喰らっています。第二階層以降の支配者と比べて、生き残るための魔力を多く貯蓄できていたのだと考えられます。」

「じゃあグリメルが……その、魔力をほとんど失い、搾りかすみたいな赤ん坊の姿になっても生き延びていた理由は? 生き延びているんだから、封殺は完了してないよな?」

「それは〈貪欲の黒兎〉の最期の足掻きであったと考えられます。彼の階層支配者は魔術に長けていたらしく、魔力を失い、搾りかすとなった赤ん坊の姿の魔王を、結界を張った揺り籠に匿い、封殺の結界を欺いたようです。口で言うのは簡単ですが、セシル様も目を剥くほどの高等魔術で守られていたらしいです。」

「……あの守銭奴が自分の分野で目を剥くとか、一回見て見たかったな」

 残念極まりない。

「他にご指摘があれば、お答えします。」

「あー、あと一つ。なんでジョンはダンジョンごと封殺するような結界に気付かなかったんだ? 下ではその黒兎とやらがてんやわんやしながらグリメルを匿ってたんだろ? 普通気付くだろ」

「手記によると、どうやら〈貪欲の黒兎〉が意図的に秘匿していたらしいですね。〈鮮血の番狼〉は全階層支配者の中でも、突出した忠誠心と仲間意識の持ち主であったため、無暗に主君や自分たちの危機を告げれば錯乱に陥ると考えたらしいです。また、グリメルや自分たちが『封殺』された後も生き残る可能性が最も高い彼に、その後のグリメルを託そうという心積もりだったとか。そのため下手に動揺を与えるよりも、何も知らせぬまま、門番に徹してもらおうという考えだったのでしょう。それが是か非かは兎も角。」

 兎だけに。と、彼女は余計な一言を添えて報告を締めくくった。

 はあ、と貴文は今日一番の溜息を吐き、椅子の背もたれによりかかった。

「……報告ありがとう。下がっていいよ――ミミ」

「失礼しました。」

 恭しく頭を下げ、黒髪に褐色の肌を持つエキゾチックな雰囲気の長身のゴスロリメイドは管理人室を後にした。

「……あいつ、あんなに流暢に喋れるんだな」

 いつもセシルの背後に控えてムッツリと黙りこくっているため極端に無口な性格なのかと思ったら、仕事であればちゃんと喋るらしい。しかもジョークまで添えて。

「しかし……どうしたものか」

 ミミの報告を聞き、現状を把握したところで管理人としての仕事は終わったわけではない。

 何よりもまず、ノルデンショルド地下大迷宮の空間的凍結だ。

 いくら〈鮮血の番狼〉が浅い階層にいて、魔力の貯蓄量が多かったゆえに生き延びたからと言って、他の階層支配者の封殺が完了しているとは限らない。今回の簡易調査では第二から第六までの階層支配者の姿を確認することはなかったが、それ以降の階層支配者は生き残っている可能性は考慮すべきだろう。

 そのため、ノルデンショルド地下大迷宮の第二階層以下を異世界邸のある座標から切り離す必要がある。これはまあ、専門家(セシル)に金の臭いをチラつかせればやってくれるはずだ。

 もう一つ、やたらとダンジョン攻略にテンションを上げている愛娘・こののだが……こればかりは、父親である自分が自ら説得せねばなるまい。あのダンジョンは最初からなかった、いいね? で済むはずはないため、長期戦が予想される。今から胃が痛い。

 そしてもう一つ。


「まさか那亜さんが復活するとは完全に予想外……」


 奇人変人だらけの集合住宅で食事処を営む、唯一の良心・那亜。

 その正体は、長年崇められてきた鬼子母神像に蓄積された「祈り」が概念化した付喪神の一種――いわば、母性の権化である。

 こののが成長し、異世界邸から赤ん坊がいなくなって力が衰え、ややぽっちゃりとした中年女性の姿を取っていた彼女が、赤ん坊と化した魔王・グリメルに触発され、若さと妖怪としての力を完全に取り戻してしまった。

 いや、それ自体は別に大変なことではないのだが、その那亜が「この子は私が責任を以て育てます」などと言い出したことの方が問題なのだ。

 魔力を失い、赤ん坊の姿となった魔王の搾りかすとは言え、魔王は魔王である。

 そんな不安定要素を異世界邸に一秒たりとも置いておきたくないのだが、那亜が頑として首を縦に振らないのだ。

「私は母性の妖怪よ? それなのに、目の前にいる赤子を捨てろだなんて、そんなことを言う子に育てた覚えはないわよ、()()()()

 ……もう遥か昔のこととは言え、一時は彼女の乳を吸って育った身としては、逆らえるわけがないのである。

「それに、私が乳を与えて育てる以上、魔王の破壊衝動とは無縁の、ごく普通の子に育つわ。多少は魔王だったころの異能は残るかもしれないけど、それは貴文くんも同じでしょう?」

「吾輩からもお願いするのであーる。管理人殿」

 そう言って、柄にもなく恭しく頭を下げた巨大チワワのことを思い出す。

「吾輩にとって、我が主君こそが全て。世界征服の悲願が潰えることは心苦しいが、それでも我が主君の命には代えられないのであーる。これまでの非礼は詫びる。故に、どうか、どうか我が主君を置いてはもらえないだろうか」

 当事者たちにそこまで言われて、それでも駄目と突っぱねる度量は、貴文にはなかった。

 何だかんだ言って非道になり切れねえなあ、と貴文は自分のことながら呆れて苦笑をこぼした。

「それにしても……ジョンが完全に異世界邸に服従して、那亜さんまで復活した。新しい住民と従業員も、一部を除いて妙に腕っぷしが強いのばっかりだし……なーんか屋敷全体の戦闘力が上がってるような……」

 何か厄介なことが起こる前触れじゃないだろうな、と。

 貴文はこれまでの経験から、早くも冷汗が止まらなかった。


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