忠犬ジョン育成計画【part山】
今日も今日とて破壊と再生からスタートした異世界邸の庭先――巨大な犬小屋の前にて、一人と一匹が対峙していた。
いや、対峙というには、一匹の方がやや劣勢であった。
「ジョンちゃん、どうしてもダメ?」
「ぬ、ぬぬぬぬぬぬぬぬぬ……!」
一匹の方、最近異世界邸の地下に出現したノルデンショルド地下大迷宮第一階層支配者〈鮮血の番狼〉こと、巨大チワワのジョンは尻尾を股の間に潜らせ、完全にビビりながら首輪から伸びるフェンリルも拘束できそうなぶっとい鎖を限界まで伸ばし相手から距離を取っている。
そしてその相手というのが、異世界邸唯一の良心にして食事処「風鈴家」を取り仕切る聖母こと、那亜である。
いつも通りややぽっちゃりな体を割烹着で包んでいる那亜は、珍しく困った表情を浮かべてジョンを諭すように声をかける。
「いい? ジョンちゃん。本当にこれはあなたにとってとっても大事なことなの。これをしないと、あなたをこのお屋敷で世話をすることはできなくなってしまうの。それは嫌でしょう?」
「ぐぬぬ……ま、我が聖母よ、確かに言いたいことは分かる。分かるのだが……!」
ジョンはビビりながらも、心から腹を向けて撫でることを許せる存在を相手に、しかし一歩も譲らぬ覚悟で宣言する。
「嫌なのであーる! 風呂と注射のコンボなど、絶対に嫌なのであーる!!」
「そんなワガママは聞けません!」
「吾輩はノルデンショルド地下大迷宮第一階層支配者〈鮮血の番狼〉! この世界の病などかかるはずもないのであーる!」
「もう、そんなこと言って、もし狂犬病にかかっちゃったら大変なのよ! 治すこともできないし、苦しみながら死んじゃうのよ。私嫌よ、ジョンちゃんが死んじゃうの」
「ぐ……し、しかし、吾輩も誇り高き魔族! 百歩譲って注射は耐えて見せよう。しかしその前に風呂などという悍ましいものに浸かるなど、如何に我が聖母の頼みと言えど、それだけはできないのであーる!」
「ジョンちゃん、ずっと地下にいて全身土埃だらけじゃない。それにここ数日は毎朝こののちゃんと散歩で山の中を駆け回っていたでしょう? ダニもついてて、とてもじゃないけどこれからいらっしゃるお医者様に見せられないくらいばっちいの」
「わ、吾輩はそんなにばっちくないのである! ちゃんと毛繕いもしてるのであーる!」
このような一人と一匹の押し問答は昨日から続いていた。
異世界邸の管理人の娘であるこののがジョンを飼育(?)する条件の一つとして、父親から出された条件の一つに「狂犬病の予防接種の代金は月々のお小遣いから差し引く」というものがあった。ジョンの正体を考えるとやや間抜けな条件だったのだが、飲んでしまった以上は守らねばならない。
さらにジョンが聖母と慕う那亜も行きがかり上ジョンの世話に協力することになり、彼女のコネで魔獣医の知識を持つ知人に連絡を取ったのが昨日のこと。今日の午後には異世界邸のその人物が来ることになっているのだが、当のジョン本人から想像以上の抵抗にあっていた。
「私が手ずからブラッシングしてあげるから」
「聖母からブラッシン……! い、いや! それでも吾輩は!」
「ワガママばっかり言ってると、しばらくの間ご飯をお徳用のカリカリにしちゃうわよ?」
「んぬわぁっ!? そ、それだけは……!!」
「じゃあお風呂に入ってくれるわよね?」
「あー、いや! その、風呂とは、今現在ノルデンショルド地下大迷宮第一階層を満たしている湯のことであるな……?」
「ええ、そうよ? ここの共同浴場は広いけど、ジョンちゃんが入るにはちょっと狭いからね。あそこなら伸び伸びとジョンちゃんをじっくり丹念に洗うことができるの」
「ぐぅ、無念! あそこは本来、吾輩が守るべき地! そこが湯で満たされる等という失態、我が主君に顔向けができないのである……これは戒めのため、吾輩はあえて雨風にこの身を晒し続けなければ――」
「お徳用カリカリ」
「んぬわあああああぁぁぁぁぁっ!? それだけはあああああぁぁぁぁぁ!?」
両者一歩も引かぬ押し問答。
神久夜とこののがいたら力ずくで元ノルデンショルド地下大迷宮第一階層の温泉フロアに連行することもできたのだが、あいにくと神久夜は裏の家庭菜園で作業中、こののは普通に学校に行ってしまってそもそも異世界邸にいない。
不毛な問答が続き、最終的に折れたのは――那亜だった。
「……はあ、分かりました」
「ぬ?」
「私がジョンちゃんをお風呂に入れるのは諦めましょう」
「お、おお……? 助かったのであーる……!」
隠していた尻尾をぶんぶんと振り回し、ほっと一息ついて風呂回避の喜びを露にするジョン。
しかし。
「ジョンちゃんにはちゃんとしたブリーダーが必要だという事が分かりました」
「……は?」
思考と共に尻尾が停止した。
今我が聖母は何と仰った?
「お風呂が嫌いなワンチャンも多いから万一のためにお声がけしたのだけれど、正解だったかしらね」
「は? は……?」
ジョンの野生の勘がビンビンに告げる。
なんか、ヤバい。
「時間も時間だし、もうそろそろかしら」
ヤバい。
ヤバいヤバい。
何かヤバいのがこの屋敷に近付いてきている……!
「はっ……!?」
麓から異世界邸へと通じる山道を駆け上ってくる気配がジョンの五感を刺激する。巨大な四つ足の獣が駆ける音と、自分と同族のようでやや異質な臭い。ついでに人間と正体不明の存在の臭いが一つずつ。
「く、くる……!」
ごくりと息をのむ。
どんどん足音と匂いは近付いてきて、ついには目で見える距離まで接近してきた。
アレは……巨大な狼?
「よう、那亜。久しぶりだな」
「はぁい。お久しぃ」
栗毛に白いブチが特徴的な巨狼の背に、二人の人影が跨っていた。
一人は和装に長い髪を一つに縛った長身の男で、もう一人は小柄で童顔だが体つきは妙に色っぽい女だった。
那亜は巨狼の背から降りた二人に深々と頭を下げる。
「お久しゅうございます、坊ちゃま。白沢さん」
「かはは! もう坊ちゃまなんて呼ばれる歳でもねえよ。オレも今年でもう二十七だ。おっさんに片足突っ込んでるぜ」
「那亜ちゃんも変わりないようで安心だねぇ」
この地上に出てより意味不明の存在とは多く関わってきた。
見かけによらず凄まじい力を秘めている者の存在も身を以て知った。しかしジョンは、この二人から感じる底知れぬ何かを測れずにいた。
特に女の方――那亜が白沢と呼んだ彼女からは、関わってはいけない何かを感じる。
「白沢さん、わざわざご足労いただいて恐縮なんですが、申し訳ありません。この通りジョンちゃん、まだお風呂がまだでして……」
「うん、知ってるわぁ。この子、お風呂嫌いなんでしょぉ? お注射する上では特に問題ないしぃ、私は別に構わないけどぉ?」
パアッとジョンの表情が明るくなる。
どうやらこの白沢というらしい童顔の女性が、今日のジョンの注射を担当することになっているらしいが、その本人からOKが出た。
「でもお風呂嫌いはなるべく早く克服した方がいいかしらねぇ。これだけ大きいとノミダニもたくさんつきそうだしぃ、そうなると病気を媒介しちゃうから大変だしぃ」
「……………………」
希望は一転、絶望へと変貌を遂げた。
「那亜様。お久しゅうございます」
「あら、疾風さんまでいらしてくれるとは思いませんでした。あとでお茶をご一緒いたしませんか?」
「ふふ、楽しみにしています」
と、二人が乗ってきた巨狼が一瞬のうちに白い振り袖姿の女性へと変貌を遂げた。それを見たジョンは、風呂と注射のことが一瞬で頭から抜け落ち、一魔獣としてスッと目を細めて牙を口元から覗かせた。
「おい、そこの雌」
「……? 疾風のことですか?」
振袖の女性――疾風は、訝しげにジョンを見つめ返す。
「見たところ、吾輩と近しい一族であると見た。しかし何故そのような貧弱な人間の成りをとるか! 一族の誇りはないのか!」
口元から炎を溢れさせながら詰問する。
しかし相対する疾風はというと、臆することなく冷たい視線をジョンに投げ返した。
「なるほど。那亜様が昌太郎様にお声がけした理由が分かりました。これは調教し甲斐のありそうな犬ですね」
「貴様、吾輩を犬などと愚弄するか……! その心意気だけは褒めてやるのであーる! 後悔は吾輩の腹の中でたっぷりとするがよい!」
牙を剥き、疾風を飲み込もうと大口を開ける。
それを特に感慨もなさげに見つめる疾風の背後から、「かはは」と嫌味ったらしい笑い声が聞こえてきた。
そして。
「……んなっ!?」
ジョンの意志とは関係なく体が勝手に動き、足の裏と尻を地面につけた姿勢――いわゆる「お座り」の状態で全身に重圧がかかり、全く身動きが取れなくなった。
――同時刻、異世界邸家庭菜園
「ぎゃふん!?」
「??? どうした姐さん、急にすっ転んで」
「い、いや、急に腰が抜けての……って、何じゃこれ全く立てんのじゃが!?」
――同時刻、異世界邸麓の小学校
「きゃっ!?」
「伊藤さん? どうしました?」
「あ、ごめんなさい先生。急に椅子が倒れて……あれ、身動きが……?」
「ふんぬぬぬぬ……!」
牙を剥き出しにしながら踏ん張り、何とか少しでも動こうとするも、ジョンの体はまるで他人の物であるかのように微動だにしない。それどころか、動こうと踏ん張るたびに、お座りの姿勢にどんどん固定されていく感覚すらある。
「無駄ですよ」
と、疾風の冷徹な声が聞こえてきた。
唯一自由に動く眼球だけを巡らせて彼女の方を見ると、何故か彼女もまた恭しく、しかし優美に膝を地面につき――お座りしていた。
「昌太郎様の言霊による鎮圧術は歴代随一。本気を出せば、その効果範囲は半径十キロにも及びます。そして対象はイヌ科の全て――イヌ科に属する全ての存在は例外なく、昌太郎様の元に跪くのです!!」
「その格好で何言ってんだお前は」
口元を歪めながら、懐から出した煙草に火をつける和装の男――昌太郎。パチンとライターの蓋を閉じながら紫煙を吐き出すと、身動きが取れないジョンに近付いていく。
「まあ、そういうわけでな。『風林家』で長年料理人指導してた那亜に頼まれたとあっちゃあ、一肌脱がんわけにいかんからな。犬神遣いと言霊遣いのノウハウの全てを使って、お前さんを調教してやんよ」
「んなっ……!?」
「お前さんの意志とは関係なく、誰彼構わずお手と言われりゃ右前脚を、おかわりと言われりゃ左前脚を差し出し、伏せと言われりゃ地に伏して、投げた物を反射的に持ってくるようになり、許可が出るまで飯も我慢して、しかもそれを快感とするような立派な忠犬にしてやるよ。もちろん、風呂にだって尻尾振って自分から入るようになる」
「んなあああああっ!?」
これかあ!!
これがさっきからビンビンに感じていた嫌な予感の正体は!!
ジョンは焦ってこの場から逃げ出そうとするも、時すでに遅し。不可視の重圧によるお座りの拘束は既に筋繊維一本動かすことも困難なほど強まっており、逃亡は頑強な首輪と鎖の存在を差し引いても不可能だった。
「聖母! 我が聖母! 助けてほしいのであーる! この下賤な人間の魔手から、吾輩を! どうか!」
「ごめんなさい、ジョンちゃん……これもあなたのためなのよ」
「聖母あああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!??」
「じゃあ昌太郎ちゃんがジョンちゃんを調教してお風呂に入れてる間にぃ、私たちはお茶しましょうかぁ。疾風ちゃんもいらっしゃーい」
「はい。……あ、昌太郎様、動いてよろしいですか?」
「おう、行ってこい行ってこい」
「いやだああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! 聖母あああああ!! ご慈悲をおおおおおぉぉぉぉぉっ!!」
「よし、まずはリーダーウォークからだ。そしてそのまま風呂へGOだ」
「いやああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!??」
ジョンの絶叫が、昼下がりの異世界邸の庭先に響き渡った。
数時間後、女性陣がお茶会を終えた頃には、ジョンは風呂上がりで全身ふわっふわの見違えるような毛並みと、何を言われても「はい、分かりました」と虚ろな瞳で応える見事な忠犬となっていた。
しかし白沢が施したゴン太注射で一瞬にして我に返り、脊髄反射的に命令に応える程度のトラウマを胸に、しばらく犬小屋から出てこなくなったのは、まあ、余談である。




