神力とは【part山】
とん。
水面に水鳥の羽が舞い落ちるような静かな足取りで廃ビルの一室に戻って来た白羽は、ぎょっと目を見開いた。
「え、こっわ」
思わず素の口調で驚嘆の声が零れる。
神の探知すら掻い潜る白羽の時間歪曲の只中にも関わらず、出立時はいなかったはずの黒髪の青年魔法士――ノワールの視線が白羽の姿を捉えるように向けられていた。
彼がこの場にいること自体は問題ない。羽黒の想定通りだ。
ノワールは少し前に羽黒に連れられた依頼で見知った相手であり、その時点で人間の枠組みから既に片足以上はみ出た存在だと認識していたが、流石にこれは偶然だと思いたい。もしくは白羽の気配がする方に視線を向けていただけだろう。現にその視線以外はヴァイスやムラヴェイと同様、時間が停止したように固定されている。
だがどちらにせよ、さっさとこの膠着状態は解除した方が良いだろう。
というかさっきまで飛竜の群れをバッタバッタとなぎ倒して沸き上がっていた血潮が、彼を目の前にして急激に冷めてしまった。
「お返ししますわ、羽黒お兄様」
無造作に肩に担いでいた身の丈二倍ほどもある漆黒の大太刀を、白い人外に後ろから抱き留められていた実兄の胸に突き刺す。
刃を水面に突き付けるように手応えはなく、切っ先からするりと熔け入るように肉体という鞘へと収まる。さらにそれに粘着質に纏わりつくように背後の人外から〝白〟が抜け落ち、夜空の如き黒へと変貌を見せた。
それらの全てを見届けた後、パキンと音を立てて寒戸が解除される。
同時に停止していた世界が動き出した。
「ただいま戻りましたわ」
白いワンピースの裾をちょんと摘まみ、各々に向けて優美に一礼する。
すると羽黒とノワールの間に立ち、彼の魔法士を警戒していたヴァイスとムラヴェイがハッと振り返った。
「白羽様」
「無事のご帰還、心よりお喜び申し上げますれば」
「…………」
魔王の眷属二体の本来の主でもない少女に対する恭しい態度に、ノワールは怪訝そうに渋面をさらに顰めた。
「これが人望というやつですわよ!」
「…………。そうか」
ふふん! と幼く薄い胸元に手を当てて精いっぱい張り出すと、何か言いたげだったノワールは面倒になったのか何も言い返すことはなかった。
「30秒87か」
背後の椅子からのそりと起き上がる気配がした。
振り返ると、羽黒が腕時計を弄りながら軽薄な笑みを浮かべていた。
「ややオーバーだな。足が出た分はお前の小遣いから引いとくぞ」
「そんなのボタンの押し加減の誤差じゃありませんの!?」
「今回30秒150万だから、0.87秒で4万3500円な」
「初等部のお小遣いには致命傷の金額!?」
「どうせ正月に方々からせしめるつもりだろうが」
キャンキャンと場違いなほど暢気なやり取りを繰り広げる瀧宮兄妹。それに対し、背後のソレから注意を背けることなくノワールは「おい」と胡乱気な声をかけた。
「瀧宮羽黒」
「よう、ノワール。死霊島ぶりだな、報告書はちゃんと出したか?」
「……貴様のせいで余計な書き物が増えた」
「はっはー。自分の意思で島ごとぶっ飛ばしたんだろ、自業自得」
「…………」
「それでお前さん、これからどうすんの? あっちに首突っ込むか? 止めゃしねえが」
クイと羽黒は顎で北方――紅晴市の方角を指す。しかしノワールはそちらには見向きもせず、ただじっと、羽黒の背後に視線を向ける。
「ソレの安全性が確認できたなら、さっさと帰る」
「御心配ナく――」
ゾクリ
生ある存在を畏縮させ、神経を逆撫でするような不快な音が羽黒の背後から響く。その声にノワールだけでなく、やり取りを見守っていたヴァイスとムラヴェイ、さらには白羽までもが各々の得物を構えてそちらに向けた。
ただ一人、羽黒だけは肩を竦めて苦笑していたが、それを見て「おっと」と彼女は口元に手を当てた。
「申し訳ありません、随分と久しぶりに味わった甘露な一時でしたもので。お聞き苦しい物が漏れ出てしまいました」
「…………」
「この通り、今度こそ、ご心配には及びませんよ」
一瞬前とは打って変わって耳障りの良いソプラノを漂わせる吸血鬼の成れの果て──白銀もみじに、ノワールは一層顔を顰める。しかしそれと同時にしっかりと首輪が嵌め込まれたことが確認できてしまい、言を覆すわけにもいかずに無言で踵を返した。
「あら、もう行かれるのですか。こうして直々の対面では初めましてですが」
「慣れ合うつもりは毛頭ない」
「そうですか」
ピリリとノワールの言葉に殺気が混ざる。もうこの場に用はない以上、一秒たりとも同じ空間にいたくないという意思が伝わる中、もみじはゆったりと穏やかな笑みを浮かべる。
「ノワールさん」
足下の転移の術式が成る直前、もみじがその黒い背中に声をかける。
「殺すイメージはできましたか?」
その言葉の直後。
──世界が、殺意に塗り替えられた。
白羽が、ムラヴェイが、ヴァイスが、無意識に息を止める。
まるで今にも心臓を貫かれるような、全身を塵も残さず消し飛ばされるような、そんな錯覚を振り払うこともできず、ただ冷や汗を流すことしかできない。
だが。そんな地獄のような空気の中、もみじは穏やかな笑みのまま身じろぎひとつしなかった。
「…………」
「ふふ。申し訳ありません、無粋でしたね」
その瞬間、無言を貫くように、あるいは退くように――転移によりノワールの姿が消えた。
時が凍てついたかのような沈黙がそのまま数瞬過ぎる。
それを打ち破ったのは、全身からどっと冷や汗を流して天を仰いだ白羽だった。
「ぶっはぁっ!?」
「「…………」」
続いて、ヴァイスとムラヴェイが肩で息をするように各々拳を解く。そして白羽は食いつくようにもみじへと詰め寄り、文句を吐き並べた。
「ちょっともみじ!? なんで最後の最後に一煽り挟んだんですの!? 大人しく帰ってくれるというのですから帰せばいいじゃありませんの!!」
「あらあら」
「寿命が縮んだというか、これ以上世界の脅威を生まないでくださいまし!?」
「うふふ、申し訳ありません」
ハンカチを取り出し、白羽の額に浮かんだ汗を優しく拭う。
「ですが必要なことでしたので」
「どこがですの!?」
なおも食い掛る白羽をぎゅっと抱き留めながら、もみじは小さく笑った。
「私という存在の一端を知ることで、彼の中の吸血鬼に対する嫌悪と猜疑心はより大きく、より深く塗り替わったことでしょう。であれば――今後どんな吸血鬼と出遭ったところで、何とかなりますからね」
* * *
一方、異世界邸上空――空中要塞〈太陽の翼〉亜型最上部のコンソール室は、赤い警報ランプと共に耳障りな警告音が鳴り響き続けていた。
世界に充満していた不快感が突如消失しただとか、そんなのはもはや二の次だ。
《観測外の勢力の検索。検索結果。イチゴ。標準世界に分布する多年草。学名Fragaria――否定。再度検索。検索結果。食用として広く供されるオランダイチゴ属の栽培種オランダイチゴ――否定。検索キーワードに『脅威』を追加。検索結果。イチゴは伸びた茎から容易に個体数を増やし、他の植物を駆逐することもあるため家庭菜園での直植えは避け――否定否定否定否定!!》
その中央にいた機械仕掛けの神はついに我慢ならずに目の前の半物質モニタを叩き割る。
だがしかしそれで事態が好転するわけでもない。
地上に突如として出現した赤い果実の巨人たちは種子を四方八方に連射し、次々に機械神兵を植物の芸術作品へと変貌させながら駆逐していく。さらにはそれだけには留まらず、空中要塞へと蔦先を伸ばし始めていた。
意味が分からないことに、視覚センサーから収集した情報から幾度も解析と検索をかけたが、どうしてもその答えは1つしか出てこないのだ。
つまりは、イチゴである。
小山のような体躯から腕と拳を振り下ろし、そこから無数の蔦を繁茂させて締め上げ、圧倒的な火力と物量で粛清を加える側だったはずの機械神軍を逆に機能停止に追い込む――赤く爽やかな甘い香りを漂わせる巨人。
ソレらを機械仕掛けの神の演算機構と分析システムは「イチゴ」としか認識できず、それに対する一般的な家庭菜園での防除法しか提示されない。
視覚情報と検索結果、迫る脅威の崩壊したバランスに、存在しないはずの感覚「眩暈」を覚えた。
流石に上空数百メートルの位置で浮遊している空中要塞へ直ちに影響を及ぼすものではないが、その様相は天空巨人の棲み処へと繋がる豆の木を彷彿とさせて不愉快である。生るのは豆ではなく果実だが。
《否定。イチゴの可食部は果実ではなく花托部分であり、果実は表面の粒状の――検索履歴削除!!》
パリンと音を立て、もう一枚のモニタが破壊される。
ともかく、地上からじわじわと伸びる無数の蔦はそう遠くないうちに空中要塞まで達するだろう。そうなれば地上の機械神兵たちと同様に蔦に取り込まれ、最悪地上へと墜落してしまう。
それはそれで周辺大陸まで被害が及ぶ大災害が発生するだろうが、神位を頂く存在の居城が食用植物の蔦に取り込まれて墜ちるなど、無様この上ない。情報の神など腹を抱えて笑いながら備忘録に書き記すに違いない。
《対処方法を模索。検索結果。除草剤の散布。親株の除去。野焼きによる焼却処分。検索機能強制停止!!》
存在概念の修復状況が芳しくないせいか、さっきから停止させたはずの機能が再起動を繰り返している。無駄なポップアップや感情表現にリソースが奪われているのか、リカバリー率が75%手前で延々とグルっていた。
《……否》
ふと、機械仕掛けの神の口腔を模した音響機器から音が零れる。
あらゆるパフォーマンスを妨害してくる各種不具合だったが、全く使えないわけではないようだ。
《〈天の火〉装填進捗確認――18.4%。装填作業一時中断。燼滅規模の再設定。当初範囲半径2000kmより0.0005㎞へ縮小。火力指数及び貫通力2,944G%へ凝縮成功。標的――異界渡りの〝炉〟》
何ということはない、燃やしてしまえばいいのだ。
神々の金属だろうと締上げ取り込む蔦と言えど所詮は植物。チャージ率は当初想定の2割以下ではあったが、面ではなく一点への火力に絞り込んだ〈天の火〉の前では文字通り木の葉一枚分の障害にすらならない。
最初からこうすべきだった。
神託と神罰に固執しすぎて元々の目的を見失うところであった。
そもそもの機械仕掛けの神の目的は〝炉〟の破壊以外ないのだ。
《――発射》
そう言って指令を下した機械仕掛けの神の口元は存在概念の歪んだ影響か、大きく吊り上がっていた。
* * *
神力とは何か。
文字通り神々の繰る不可視にして絶対的な力と称す者もいれば、神が有する魔力を御大層にそう呼んでいるだけだと蔑む者もいる。
事実、神々によってその様相や理屈は異なり、司る神の数だけ法則が存在する。
機械仕掛けの神の司る概念や事象は〝歯車〟や〝秩序〟、そして文字通り〝機械〟である。
つまりは機械仕掛けの神の神力とは――限りなく高純度な電気エネルギーであった。
空中要塞〈太陽の翼〉亜型の主砲から発射された僅か一抱えばかりの細さに凝縮された〈天の火〉は光の速度さえも超越。
空間を削除させながら軌道上の蔦を焼き払い、さらには幾重にも張られた異世界邸を覆う魔術的結界を穿ち、表情を強張らせる暇さえ与えず迷宮の魔王らの横を素通りし、多少威力を殺されながら――〝炉〟へと到達した。
高純度の莫大な電気エネルギーが、その起動に膨大な電力を必要とする〝炉〟に。
暴力的に叩き込まれた主砲の一撃に、表面を蒸発させながらも〝炉〟はそれでも辛うじて原形を留め――ゴウン、と、大きな唸り声を上げた。