永すぎた1日の果てに管理人は心安らぐ夢を見るか【part緋】
午後23時を知らせる置き時計の鐘の音がどこからともなく鳴り響き、異世界邸の住民に刻を知らせる。この時計の在処は貴文ですら知らない。 遙かな昔、異世界邸の建設当時からあった不思議な『時の音の鐘』として、今も住民達に親しまれている見えざる時報だ。
一日の労働にしては多すぎる管理人業も終わり、湯上がりの貴文は中庭の見えるテラスを歩いていた。無駄に長いテラス沿いに奥を見やると、つい先程『活力の風』に注文した超巨大サイズの飼育小屋キット(恐竜用)が届いていたらしく、こののと神久夜が尻尾をぶんぶん振りながら組立係に任命したらしい馬鹿二人を急かし立てている。
キラキラといい汗を流しながらせっせと組まれてゆくせいか、驚くほどみるみる出来上がってゆくその様に、貴文は何とも言えない気分になる。
「てめえらもう普段から仲良くしてろよ。ていうかアンドロイド。お前が垂れ流してんの汗だよな? オイルじゃねえよな?」
眺めている間に超速で組み上がった外壁に続き、今度は屋根はトタンか瓦かで議論を繰り広げ始めた伊藤母娘の決定を待つ間、ウィリアムが見計らったかのようにカートに煎れたてのお茶を乗せてどこからともなく現れる。
捻りハチマキを巻いた二人に混じり、お茶を酌み交わしながら執事服のジャケットを脱ぐ。どうやら早く終わるように手伝いに行ったらしい。
髪から滴る水を首にかけたタオルで拭き取りつつ廊下を折れて茶室へ入ると、栞奈と悠希の二人が窓越しに外の馬鹿騒ぎを見ながらケーキをつついていたところだった。
「やあ、これは管理人。お疲れ様」
「ホントお疲れさまですよ~管理人。ちょっと冷めちゃってますけど、良ければ紅茶一緒にいかがです?」
「ああ、ありがとう二人とも。じゃあ折角だし呼ばれようかな」
ガタリと椅子を引いて腰掛けたところへ、悠希がすぐ傍の食器棚からカップを取ってきて紅茶を注いでくれる。少し冷めてしまっていたから砂糖は入れず、一口を舌の上で転がすように飲み込む。口の中に広がる芳しい香りといつになく上機嫌な栞奈さんの様子からも、かなり高級な茶葉らしい事が窺えた。
「栞奈さん」
ゆっくりと香りを堪能しつつ、貴文は目の前に座る栞奈を何気なく見据える。
「あいつ、来てたんですか」
ひく、とフォークでケーキをつついていた悠希の手が薄く震える。
やっぱりか、と貴文は一つため息を吐き出す。
「あ、あの……その……」
「管理人」
咄嗟に弁明を試みようとしたのか少し慌てた様子で口を開いた悠希だったが、それを制す様に栞奈が言葉を被せて貴文の視線に応えた。
「良い茶葉だろう。これは」
薄くほんのりと紅を引いたような化粧気のない頬も、いつもよりほんの少し伸びた背筋も、伏せ目がちな瞳がほんの少し潤んでいるのも、別に普段となんら変わりはなかった。
だが、否定をしない栞奈の今の表情を、貴文は知らなかった。
娘と卓を囲んで紅茶を飲む、背筋の伸びた中西女医など、知る由もなかっただけだ。
「せ、先生?」
「夫からのな、贈られ物なんだよ」
別に普段と変わりなど無かった。
ただ、知らなかっただけだ。
こんなに嬉しそうな女の顔をした人と、中西栞奈という派遣医師が、同一人物たり得るのだということを知らなかっただけだ。
だから考えてみた。その理由の事を。
「そっすか。道理で嬉しそうな顔をしてたわけだ」
「はは、普段の私はどんな顔をしているのかな」
「さあ。少なくとも俺の知ってる栞奈先生はそんな嬉しそうな顔して紅茶を嗜むような人じゃ無かったハズはずですから、余所者だか偽物だかが潜り込みやがったのかな、と疑ってみたまでなんですがね」
取っ手を持たずにカップの縁を持って啜る紅茶は、ほんの少しの甘みを含んでいた。良い香りと渋みに押し隠された、見え隠れする甘み。
「まあそう言われてみれば、派遣医にもたまにゃ暇をやらないといけねーかな、と思う程度には生きた顔してる気がしますね。今日の先生は」
「ほうほう。それは勿論有給休暇で、連休可能だと思っていいのかな?」
「平日になら連休は目を瞑りますよ。ただし有休云々は派遣元に問い合わせてくださいや」
「ふふ。食えない職場だ。まあ、お話は有り難く頂いておくよ」
最後にとっておいていた栗粒をフォークで刺し、優雅に口へ運びつつ栞奈が楽しげに妖艶な笑みを浮かべる。それを見ていた貴文は静かに片目を閉じ、何事か考えつつ残りの紅茶を一口に飲み込んだ。
「ふえ!? ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 平日に休み取られても自分には学校があるんですが!?」
「おう! まあな!」
「おうじゃねーですよ確信犯じゃねーですか!?」
「まあ、建前上も派遣医師がいなくなるわけにはいかないからな」
「先生まで!? ちょっと待ちやがれです!? まさか自分だけ置いて行かれるってんじゃねーでしょーねえ!?」
ガタンと勢いよく立ち上がって抗議の声を荒げた悠希を静かに見上げながら、静かに瞼を閉じた貴文が机についていた悠希の手にそっと手のひらを重ね、抑揚のない声で言った。
「タノムヨ」
「可愛く言ったって可愛くねーですしお断りですよチクショウ!?」
「とまあそういう訳だから、後のこたー任せた娘よ」
しゅた、といつになく素早い動きで立ち上がった栞奈は、悠希の制止も聞かずにさっさと部屋へ引き上げていった。
「ちょっと管理人、どーいう事ですかいきなり! ちゃんと説明し下さいよ!」
まさかの激務を急遽叩きつけられた悠希は、声を思い切り荒げて貴文に食ってかかった。が、それにはすぐに応じず、栞奈の姿が階段の上へ吸い込まれて消えるまで黙ってそれを見送っていた。
「……なあ悠希」
「ああ!? なんですか!?」
「古い……古い契約でな。異世界邸の住人は、普通の病院にかかることができない。違う世界の人間だ。構造から違うことも多いからな。だから大昔にまだ村の薬師だった中西の先祖と俺の先祖が密かに出会い、その時に結んだ口約束のおかげで俺達は今も生かされ、助けられているんだよ」
「……ハイ。その事は何度か聞きましたケド」
「だがな、今代は少し状況が特殊なんだ。異世界との境界が非常に緩く曖昧な線引きになってきている。お前の親父を異世界邸だけで占有するわけにはいかない。この世界の管理の司る者達も躍起になってはいるが、人の体で耐えられる負荷には限界がある。今の均衡がかなり危うくなっている中で、お前の親父はそのバックアップに第一線で体張ってるんだ」
「……ハイ」
「だからお前はここへ預けられたし、栞奈さんもあいつにゃ滅多に会えねえ。俺もたまには会わせてやりてえが、それができたら苦労はねえんだ」
「……分かってますよ、そンな事」
唇を尖らせてつんと横を向く悠希は、どこか目頭を潤ませ、どこか悲しそうに見えた。
父親を嫌いだ、と思ったのはいつからだったのか。父親を憎いと思うようにしたのはいつからだったのか。
ここに連れて来られた日、家に帰りたいとぐずついていた悠希は、少なくともそうではなかったのを貴文は昨日の事のように覚えている。
追いつめるではないにしろ、悠希にも分かって貰わざるを得ない。
余程の事がない限り、翔が自分の戦場を離れて妻子の面を見にひょこひょこやって来る筈が無い。
後悔は先に立たない。その状況を知った今、栞奈に暇を出さずにはいられなかったのだ。あの嬉しそうな栞奈さんの顔が悲しみに潰れた様を、何も知らされず学校から帰ってきた悠希が見てしまった、なんていうオチだけは御免だ。
肩をぽんと軽く叩き、悠希の頭をそっと撫でる。
すぐに嫌そうに首を避けた悠希に、貴文は優しく笑いかけた。
「あと栞奈さん有休溜めまくってたしさー、あれ払い戻すとなると高いんだわ」
「そっちが本音ですかこんちくしょー!?」
「確かミス・フランチェスカも一応医師免許持ってたと思うし、まあ多分なんとかなるよ大丈夫だってきっと」
「なんですかその確証の無さに満ちたフワッと感は!?」
「どこの世界でもそうだが、事前に確信を得ることはあっても確証を得ることだけはねーから気にすんな。平等なのは不平等だけな。コレ全世界共通事項」
「格言めいた迷言なんて聞いてねーんですよ!?」
「ちなみにバイト代は出すぞ」
「……ッ!!」
「勿論使用人のアルバイトと同じだけ出す。時給1万だ」
「うーわ物凄くブラック感」
「でもいつもやってる事と内容は同じだ」
「今までのブラックが浮き彫りになりやがりました」
「さあ、時給ありきでやるか、いつも通りにやるか」
「やらないという選択肢は」
「さあ。それは栞奈さんに聞いてくれ。ちなみに分かってると思うが悠希が手当をしようがしまいが、重軽傷者は毎分刻みで出るけどな」
「鬼!?」
「ジャナイヨ」
「断るという選択肢は!?」
「タノムヨ」
「会話をしやがれです!?」
ぎゃいぎゃいと抗議の声を上げる悠希とじゃれながら、みるみるうちに完成した犬小屋におおはしゃぎの表を見やる。
栞奈さんもスーツケースに支度をしながらそれを眺めているんだろう。神久夜とこののはあの超巨大なチワワの尻尾にしがみつきながら幸せそうにしているが、その脇でそれを見守る龍神とアンドロイド、ウィリアムの表情はどこか浮かない。
きっとどこか上の階の窓から、ノッカーさんも静かな目で見下ろしているはずだ。
責任を感じたのか、午後からリックの姿は見えない。ミス・フランチェスカの姿もない事から、恐らく一緒にいるんだろう。
三角形に切ったスイカを銀の盆乗せて運んできてくれた那亜さんが、甘えた喉を鳴らしてすり寄っていったチワワを撫でてやりながら、その手元に影のある瞳を落とす。
皆、分かっている。
その胸中を晒さないだけだ。
この世界間の境界の象徴たる異世界邸の直下に、未知の世界の口が開いた。世界間の干渉を受けやすいこの町の秘密を医療から支えている大切な機関の長である旧友が、妻と子に会いに忍んで来た場所へ、その直後に敵意を露わにした異世界の生き物が暴れ出たのは、果たして偶然なのか。
金一封でなんとか釣った悠希を寝室へ送り出した後、パンパンと手を叩いて近所迷惑な連中に解散を促した貴文は、さっさと寝るようにテラスの入り口から呼びかける。
すれ違う際に明日の諸連絡を伝えつつ、ウィリアムに事前に決めてあった番号を書いたメモをこっそりと手渡す。
今後、もしかしたら必要になるかもしれない布石を打っておく必要がある。労いの酒を一本ずつ龍神とアンドロイドにも渡しながら、珍しく素直に受け取った二人にも同じ物を手渡す。
既に月は天頂を越えていた。
めいめいに向かった自室で、異世界邸の夜は更ける。各部屋の電気の消し忘れやガスの元栓をチェックした後、貴文が戻ってきた管理人室の寝室で、神久夜は布団の上にちょこんと正座をして貴文を待っていた。
「栞奈には休みを出してきたのじゃな」
「ああ。それと、あの三人には『ロッカー』の鍵番号を渡しておいた」
「そうか」
「一応の処置だけどな。あんな地下迷宮への入り口が開いちまったら、あいつらを預かった身としては最低限の護身をさせなきゃならねえ。頭が痛えよ神久夜ぁ」
「うむうむ。よしよしなのじゃ」
小さな手のひらで頭を撫でる神久夜にされるままになっている貴文の背中は、不思議と小さく見えた。
あの異様な戦闘力と手腕でロクデナシ連中を抑え込む絶対の管理人とは思えない程、か細いその首や肩や、筋張った身体中に刻まれた傷跡の痛々しさを知っている神久夜の前では、こと更にそれが浮き彫りになるようだった。
力なく垂れていた腕をゆるく持ち上げて、貴文はそっと神久夜の頬に手を当てる。柔らかな、本当にまだ高校生なのではとすら思わせる柔和な微笑みを浮かべ、彼は神久夜を抱き起こして一緒に掛け布団をかぶった。
「のう貴文や」
「ん、なんだ神久夜?」
「あの犬の名前じゃがな、こののがジョンがいいと言っておったぞ。なんでものんじょん……何とか言う例の地下世界からやってきたかららしくての。明日も餌をやりに行きたいと言っておったから、朝早く起こされるかもしれんの」
「まじかよ……でも仕方ないな。生き物を飼うには飼い主がしっかりしなきゃ駄目だとこののに言ったばかりだしなあ」
「ふふ。私の旦那様は本当に胃痛の種が尽きんのう」
「まったくだ。おかげで奥さんにはめっぽう弱いときた」
「私はいっこうに構わんのじゃがな」
くしゃり、と神久夜の耳のあたりの髪の毛を撫でる。細く柔らかく、太陽の気配のするにおいが薄く届き、不意に瞼が重くなったのを感じる。
「明日からは平常運転に加えて地下の迷宮世界の調査だ。あのチワワ……ジョンクラスのケモノがウジャウジャいるんだとしたら、オーディンのじじいに相談して駄ルキリーをリックの護衛につけないとな」
「そうじゃな」
「『風鈴家』に張ってる結界も強化しないと駄目だな……『活力の風』に護符の依頼を……」
「そうじゃな。しなきゃいけないのう」
「それと……悠希の補佐の人材を補填して……」
「そうじゃな。私もツテを当たってみようの」
「明日は……こののを学校にも……行かせて……」
「そうじゃな」
神久夜はしっかりと頷きながら、相槌を打つたびに言葉が切れ切れになってゆく貴文をまっすぐに見つめていた。暗くした寝室の中で光る神久夜の瞳孔は、遂に電池が切れたようにぷつりと意識を途絶えさせた貴文の寝顔へしばらく注がれていた。
「そうじゃな」
暗闇の中で、愛おしさを含んだ神久夜の声が異世界邸一階の虚空へ放たれて吸い込まれていった。
「今日も疲れたじゃろう。おやすみなさいなのじゃ。貴文」
コツンと額を当て、落ち着いてきた寝息を確かめてからその胸の中へもそもそともぐり込み、神久夜も目を瞑った。
どこからともなく鳴り出した鐘の音が、午前0時を知らせる。
滲み出した意識のどこかで、あたたかな気配に落ち着いたのか、貴文の体の緊張が解けたのが神久夜分かったような気がした。
あてがわれた各部屋の扉を、今日は蹴破る音がしない。
束の間の休息の至福を、静寂が裏付ける。
永い永い異世界邸の一日がやっと終わる。
夢のない眠りの中で、貴文は久々に眠ったような気がした夢を、見たような気がした。




