呪い×呪い【Part夙】
魔法士――〈恐怖の略奪者〉の転移魔法陣が、突如として赤紫色に塗り潰された。
「ん? なんだあ、これは……?」
異変に気づいた魔法士は咄嗟に魔法陣上から飛び退く。瞬間、赤紫色の光が強烈な輝きを放った。
なにかが出てくる。間違えて悪魔のような存在を召喚してしまったのだろうか? 一瞬そう考えてすぐに思い直す。そんな初歩的なミスをする魔法士など低位にすらいない。
何者かに乗っ取られた。
魔法士幹部である〈恐怖の略奪者〉が展開した魔法陣を。
「……嫌だなあ、怖いなあ……僕の魔法陣を呪いごと乗っ取っちゃうなんて、一体どんな恐ろしいバケモノなのかなあ?」
早く魔石の少女を捕らえたメリーの下へ行きたいところだが、それを許すような相手だとは思えない。
魔法陣から禍々しい魔力が爆発する。
「ヒャホホホ! ごきげんよう、君がこの街を覆う呪いの主で間違いないか?」
それは、赤い道化の服を纏った男だった。
転移魔法陣が砕け散る。その上空に足を組んで浮遊する男は、目深にかぶったシルクハットで顔は見えない。というより、顔のある部分が深淵のごとき闇となっている。これはそういう存在だ。
当たり前だが人間ではない。あのスブラン・ノワールと比較できそうなほど膨大で禍々しく強大な魔力を持つ存在を表す言葉は、一つしか知らない。
「怖いなあ怖いなあ……『魔王』……それも君主クラスが僕になんの用があるというんだ?」
際限なく膨れ上がる〝恐怖〟に呪いを込める。それだけで足下の道路や周囲の建物は濁った紫色に変色して瓦解していく。だというのに、目の前の魔王はケロリとしていた。
「ヒャホホ、名乗り遅れてすまない。私は『呪怨の魔王』グロル・ハーメルン。〝呪い〟の概念魔王として君に興味が湧いたのだ」
「なるほど、存在そのものが呪い。僕の呪いに影響されないわけだ。嫌だなあ、恐ろしいなあ……できれば帰ってほしいなあ」
紛れもない本音である。こんなものを相手にする予定などなかった。せっかく空の魔石を確保したというのに、とんだ邪魔が入ったものだ。
「どうかね? 一つ茶でも飲みながら呪い談義でも。いい茶葉を仕入れていてね」
「魔王の出すお茶だって? ひい、怖いよう怖いよう。どんな呪いが混入されているかわかったものじゃないよう……見ての通り、僕は忙しいんだ。別の機会にしてくれないかなあ?」
「ヒャホホ! 私が空気を読むような存在に見えるか?」
「全く見えないねえ」
正直、呪いの魔王の話に興味がないと言えば嘘になる。奴の何気ない言動一つ一つすら〈恐怖の略奪者〉を持ってしても頬が引き攣る呪いの塊だ。会話をしてそれを解析してみたい欲求は抗い難い。
だが、そんなことよりも恐怖が勝った。
「本当に……本当に怖いから……消えてくれないかなあ!」
震える声で叫ぶ。瞬間、黒い靄が泥となってグロル・ハーメルンに覆いかかった。優雅にティーカップを啜っていたグロルは抵抗する素振りも見せず泥に呑み込まれてしまう。
「ひひひ、〝呪い〟の概念は恐ろしいけど、だからこそ呑み込んでしまえば全部僕のものになる! 対話なんて必要な――ぃ?」
大仰に腕を広げて不気味に笑う魔法士だったが、すぐ傍に奴の被っていたシルクハットが落ちていることに気がついた。
そのシルクハットから赤黒い血のような液体が噴射し、一瞬で魔王グロル・ハーメルンの姿を形作る。
「ヒャホホヒャホホ、これは〝恐怖〟に由来する類の呪いだな。恐怖の源は君自身だから、たとえ相手がどんなに恐れ慄かない強者だろうと、機械人形のような無機物だろうと、見境なく呪える。ヒャホホ! 確かに恐ろしい!」
グロルは黒い泥を指先で掬うと、ペロリと自分の口に――たぶん口――に入れた。普通の人間がそんなことをやったら即死である。
「怖いよう恐ろしいよう……全然効いてないなんて嫌すぎるよう……」
呪いと呪いのぶつかり合いは単純に強い方が勝つ。〝呪い〟の概念より強い呪いなど存在すれば非常に恐ろしいが、この街の影響を受けている今なら全くできないわけでもなさそうだ。そう思うだけで自分が怖い。
「さっきも言った通り、私は君とお茶をしに来ただけだ。争うつもりは全く微塵もこれっぽっちすらなかったのだが……ふむ、呪法戦での会話をご所望か?」
「嘘をつくなあ! あのタイミングで現れたということは、僕を『邸』に行かせないためだろう? ひひい、魔王と繋がりのある『邸』なんて怖いよう」
繋がりがあるどころか魔王が複数体住んでいる邸なわけだが、せいぜい強くても公爵クラスだと聞いていた。それ以上の存在が出張ってくるなど想定外である。
「ヒャホホ! 素晴らしい観察眼だ! 確かにそういった理由も一割程度はあったことを認めよう!」
「残り九割は?」
「だから言っているではないか。私は呪い談義がしたい! なにせこの私と呪いについて語り合える者など全次元でも数えるほどしかいないのだから!」
「狂っているねえ。怖いなあ。魔王怖いなあ……」
こんな戦場のど真ん中で自身の愉悦のために降臨するような狂人に、これ以上関わってなどいられない。
対話に応じればどこへ連れていかれるかわかったものではない。交戦も論外。隙を見て予定通り邸へと転移するしかないだろう。
「まあ、どうやら平和的にお喋りできるのもここまでのようだ。少々乱暴な観客がご到着したのでね」
グロルが明後日の方向を見やる。そこには機械神軍の人形たちがこちらへ向かって押し寄せていた。
それだけではない。街の建物を薙ぎ倒しながら、巨大な竜――三対六つの巻き毛をした毛深い蛇も迫っている。
「嫌だなあ、怖いなあ。機械と竜に見つかっちゃったなあ」
口では恐怖を詠いつつ、乱戦は寧ろ好都合だと笑みを浮かべる魔法士だった。