緩やかに動くものたち【part 紫】
「…………」
一連の事件は、当然ながら、この世界の管理者の役を任ぜられた青年も把握していた。
「いいのか、動かなくて」
背後からの問いかけに、青年──スブラン・ノワールは振り返らずに答える。
「逆にお尋ねしますが。──どう動けと言うのですか」
「……総帥としては、お前さん含めて、「デザストル」への反撃をあの幹部と共に行えと言いたいんだろうな」
「ええ、まあ、そのつもりでしょうね」
一度言葉を区切り、ノワールは椅子に座ったままくるりと体ごと問いかけの主──彼の師匠であるピエールへと向き合った。
「……で、マスター。あなたもそうすべきだと、本当にそう思いますか?」
「いや」
難しい顔をしながらも、ピエールもこれにははっきりと否定する。
「これであの幹部があやつだけを攻撃しておったのならまだしもだ。呪いを街中に広げておるのを加勢しろとは言わんよ」
「炙り出しのつもりでしょうか。すでに術者の被害は甚大、一般人は幸い避難したようですが。……あなたの後継者が思わぬ形で動きましたね」
「あの子も難しい立場だが、よく判断した。この場合は職権濫用で責めるつもりはないよ」
かつては夢の世界すらも管理していたピエールであったが、現在の管理者を見つけ出して譲ったのはつい最近のことだ。まだ力に不慣れだろうに、緊急事態で即座に使用を判断し実行した胆力は年不相応に大したものである。
「……だが、かといって街の側に立つのもな」
難しい顔でピエールが呟く。ノワールも無言で首肯した。
「管理者としての職務を考えれば、これだけの敵が襲撃している以上、手出ししても問題ないのですがね。……「保護対象外」ですか。総帥も相変わらずだ」
「全く困ったもんだ。とはいえ……実際に干渉を拒んでいるのに、手出しをするのも難しかろうな」
「基本的に柔軟な対応を行う魔女ですら、これに関しては頑なに拒絶してきますからね」
今回も連絡ひとつないのは、言下に「手出し無用」という意思があるからだろう。滅亡を前にしてなお、ノワールに頼ってこない愚直なまでの頑なさだ。迂闊に彼女の虎の尾を踏む気はない。
どちらについても面倒ごとの気配しかない状況に、ノワールの口から本音がこぼれ落ちる。
「……もうこの土地自体、俺と無関係ということにしたいのですが」
「馬鹿弟子が、そうはならんだろう」
律儀に拾われ、キッパリと言い切られてしまった。ついため息を漏らしたノワールは、目を細めて魔法士を見下ろす。
「……ところで」
「どうした?」
「あんな幹部もいたんですね」
二人の間に沈黙が落ちた。
「…………。おまえさん、幹部の定期会合はちゃんと参加しておるだろう。今更何を言ってるんだ」
「あの会合、サボる奴は少ないとしても、一度も発言しないままの幹部も多いですよ。俺も幹部にはほぼ興味ありませんし」
「馬鹿弟子が……」
「まあ、いずれにせよ……あの呪いは趣味じゃない」
そう呟いて、ノワールはもう一度ため息をつく。
「……何よりも、あいつと今敵対するのは全く利がないんですよ。例のエーゲ海の事件後にやらかしていた大暴れを思えば、正直しばらく関わりたくは──」
ふと、ノワールの言葉が途切れる。
「ノワール?」
「……。なるほど」
目を眇めたノワールは、頬杖をついて映し出されている紅晴の街並みを見下ろした。
「マスター」
「なんだ」
「先日俺があいつに渡した情報と、エーゲ海の事件で関わった組織の情報を覚えていますか」
「? ああ、依頼元の連盟が持つ、きな臭い関連施設を片っ端から潰したとかいう。……依頼元を攻撃しているのも相変わらず訳がわからないのだが」
「どうせあいつの情報を探り出そうとした報復とかそんなところでしょう、今更ですよ」
協会への敵対云々よりも、依頼主相手でも己の敵と見做したら迷わず牙を剥いてド派手に被害をもたらす傍迷惑こそが「デザストル」たる所以だと、ノワールは密かに信じている。
「まあ、それは置いておくとして。……理由がないんですよ」
「何がだ」
「総帥が連絡してきた時期に、あいつがあの地域にいる理由です」
とん、と指先で机を叩いて、ノワールは続けた。
「連盟に関係する組織を中心的に狙っていたために、確かにこの世界での暴走が主体でしたが──フランスにある組織の破壊は、総帥の通達が来る1週間前にやらかしていた。ニュースを見た記憶があるので間違いありません」
「……まさか、狂言だと?」
「マスター。あいつの「仕事」についても説明したはずです。──あの日は、新月です」
「!」
「記録を確認する必要はありますが。朔月の日は基本、あいつは鬼狩りとして動きます。活動拠点は日本。転移魔術があるとはいえ、幹部の拠点を仕事の片手間で潰せるとは流石に思えません」
「……そうだな」
それに、とノワールは内心だけで思う。これまで関わってきたあの男は、鬼狩りとしての任務と、本人が「趣味」と宣う研究所襲撃にはきっちり線を引いて別物とみなしている節がある。同時進行での活動は基本ないと思っていいはずだ。
「となると。……なおさら今回の件は、俺は手出し無用です」
「うむ、儂も同意見だ」
幹部が暴走したのか、それとも総帥の命令かは不明だが──どちらに偏ってもどちらかと敵対しうる厄介ごとに、ノワールが首を突っ込む理由もない。
そう判断したノワールは、再び傍観の姿勢に入った。
***
「着いた……!」
リックが小声で叫ぶ。ドラクルとウィリアムも警戒は怠らないまま、安堵の息を漏らす。
彼らの視線の先、境界線を引いたように不自然に整地されている。その境目すぐ側に待つのは巨大なワゴン車と、そのワゴン車にも負けないほどの巨躯だった。
「おお、無事で何より──」
やかましいほどの声を響かせようとする畔井松千代の口を素早く塞ぎ、ウィリアムは好々爺然とした笑みを浮かべた。
「お迎えは貴方様でしたか。ありがとうございます。……未だ油断ならぬ状況ですので、お静かに」
「おお、そりゃ失敬!」
小声のままやかましい声を出すという無駄に器用な真似をした松千代に微苦笑しながら、ウィリアムは栞那を抱えるノッカーへと視線を向けた。
「では、身重な方から優先で参りましょうか。我々は殿を務めますので、先発は──」
「大丈夫ですぜ! 一般人の避難も済んでたので、ちょいと工夫した特別製の車で来ましたからね!」
そう言って松千代が大きくスライドドアを開く。やけに勢いよく開いた扉の向こう、ノッカーが迷わず乗り込み──その姿が見えなくなった。
「えっ?」
「さ、悠希様とこのの様も」
違和感に声を出した悠希は、ずっと手を繋いだままだったこののと共に促される。恐る恐るステップに足をかけて、飛び込んできた光景に目を見開いた。
「え……バス?」
「うわあ、広いねえ!」
中は外見とは全くそぐわぬ広さだった。一つ一つの椅子も大きく、ゆったりと座れる仕様になっている。それがずらりと並び、前後に長く続いていた。
ファンタジーな光景に目を丸くしつつ、悠希はこののに窓側を譲り、隣同士で座った。座る間際、視界の端ではノッカーはのしのしと一番奥の席まで進み、栞那をそっと下ろしていた。
少しホッとした悠希は、このの越しに窓の向こうを見やる。人気のない麓街は真っ暗だ。
「暗いねー」
「街の方でも何かあったみたいですからね」
栞那越しにチラリと聞いただけだが、どうやらそうらしい。その状況で自分たちがどこに逃げるのか、それは大人達が考えているのだろう。その大人達が悠希達に続いて乗り込んでくるのを見て、悠希は息をついて椅子の背もたれにもたれかかった。
こののがいる手前、なるべく冷静を装っていた悠希だったが、一応の安全地帯まで辿り着いたせいで、少し気が抜けつつある。
いや。
それだけではなく。
「ねえ悠希」
「はい?」
「さっきの、悠希のお父さんだよね?」
「──」
「かっこよかったね」
にこりと笑うこののに、何を言っていいのか分からずに唇を噛む。こういう時に限って、中に入ってきた大人達も何も言わない。
「……別に」
ぷいと横を向いて、口の中で呟く。
「今更、何なんですか」
「悠希?」
聞こえなかったこののが聞き返すも、悠希は何も言わない。微妙な沈黙が落ちかけたその時、殿を務めていたドラクルとウィリアムが乗り込んできた。これで全員だが、車は発進しない。
「悠希様」
最後に乗り込んだウィリアムが悠希に声をかけた。顔を上げると、ウィリアムは優しく微笑んで言う。
「今、畔井様が追っ手の確認に行っております。可能ならば全員の撤収を一度で行いたいとのことで」
言外の意図まで理解し、悠希は口をもごりと動かした。
「……そうですか」
結局それだけを言った悠希に、ウィリアムは大人の顔で言う。
「彼の方は昔から貴文ぼっちゃまと「鬼ごっこ」をして遊んでおりましたが、技量は劣らず寧ろ冴えておりますな。私も見習わねば」
「……え、ウィリアムさんが見習うって何なの……?」
こののが思わずと言った様子で呟く。悠希も気にはなったが、微かに聞こえてきた呻き声に気がそれた。
「う……」
「先生!」
腰を上げて後方へ首を伸ばすと、目を覚ましたらしい栞那が周囲を見回してる。
「あっもう効果が切れましたか……お医者先生、お薬強いなぁ……」
「……おいそこの夢魔、どういうことだ」
耳ざとく聞きつけた栞那が首を巡らせてソーニョを睨みつける。首をすくめながらもソーニョはへらりと笑う。
「怒らないでくださいよう、状況が待ったなしだったんですから」
何かを言いかけた栞那だったが、結局飲み込んで息を吐き出した。
「……はあ。この馬鹿でかいバスは眞琴の差金だろう、よくこんなでかいのを持ち出せたな」
「外に出るとこれ普通の車ですよう」
「……そうか」
微妙な顔になった栞那がドアに目を向けたちょうどその時、ドアがスライドして人が入ってきた。栞那が驚き声をあげる。
「翔!?」
「やあ」
にこりと笑った翔は、それだけを言って乗り込んできた。その身に纏う白衣はあちこちに木枝や葉がつき、一部ほつれてはいるが大きな裂けはない。車内の異様な様子にも動じずに最後部へと足を進め、無言で隣を譲ったノッカーに会釈をして腰を下ろす。
「なんで翔が──」
「はいはい、ちょっと失礼」
詰め寄ろうとする栞那の言葉を置き去りに、翔が栞那の瞼に触れる。瞼を観察し、脈を取り、ひとしきりの診察を流れるように行なった翔が、くしゃりと笑う。
「栞那も、悠希も、……無事で良かった」
安堵が強く滲み出る言葉に、悠希の肩が跳ねる。
「……そうじゃないだろう。病院はどうした」
栞那の声が低くなる。翔の小さな笑い声と、自嘲混じりの声が悠希の耳に届いた。
「どうしたんだろうねえ」
「翔!」
「栞那。──君たちまで、俺を置いていくのか?」
「っ……」
栞那が小さく息を飲んだ。その声に滲み出る異質さに、悠希は振り返ることも出来ない。
「……気づいたら走ってたよ。今更、本当に今更なんだけどね……でも」
「もういい」
遮って、栞那はため息をついた。
「……分かったから、もういい。あとでゆっくり聞いてやる」
「……うん」
『出発しやすね! ははははは!』
空気を読んだのか読めていないのか微妙なタイミングで畔井の声が響き、車が動き出した。
***
「ひひひ……ひひ、見つけたぁ」
上擦った声が、笑う。
「サリー、メリー。……石が見つかったよう。今まで気配も感じなかったのにね……怖い怖い」
『どうしますか、ご主人様?』
「どうしようかな……ひひひ、どうしようか。ねえ、ねえ、どうしようか……!」
『……ご主人様?』
普段よりさらにタガが外れたように笑う魔法士に、サリーが訝しげな声を出す。
「ねえサリー、メリー。この街は本当に素晴らしいね……僕の呪いが、どんどん広がっていくよ……嗚呼、あゝ、素晴らしいねぇ……!」
紅晴の恩恵。
あらゆる存在に与えられるそれを存分に飲み込んで呪いとした魔法士は、その恩恵に心を飲み込まれ始めていた。
「そしてすごいよねえ……あの山、さらに恩恵が強いねえ……欲しいなあ……」
神の気配を濃密に漂わせる戦場を眺めて、魔法士はうっとりと呟く。力に魅入られたまま、魔法士はふと口元を笑みの形に引き攣らせる。
「サリー、メリー。ひひ……いいこと思いついちゃったぁ。ちょっと手伝ってもらうヨォ」
『御意』
声を揃えて応じるサリーとメリーに、魔法士は命じた。
「この街の怖い怖い力を、──僕の呪いに全て飲み込んでしまおうね」
***
深く深く、誰も意識しない深さで。
それは、微睡みの中で、微かに聞こえる喧騒を聞いていた。