血肉に飢えし迷宮の門番【part夙】
暗い暗い闇の奥深くで彼は眠っていた。
何十年、何百年、はたまた何千年という長い時をそこで過ごしていた。
身動き一つ取れず、死ぬことも許されず、意識だけは明瞭に時の流れを感じていた。
空腹が襲う。彼がこの状態で餓死するようなことはないが、それでも悠久とも言える時間が与えた飢餓は生物の欲求をそれ一色に染めてしまう以上に強烈だった。
――喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。喰いたい。
なんでもいい。
銅鑼をぶっ叩き続けるように唸り喚く胃袋に血肉を注ぎたい。鳥でも魚でも獣でも……人間でも、目の前に置かれたら彼は考えることを放棄して貪り尽くすだろう。
だが、そんなことにはならない。
彼と、彼の主人や仲間たちがこの地下迷宮ごと封印されてからというもの、一度たりとも蟻一匹すら侵入して来なかったからだ。
ノルデンショルド地下大迷宮第一階層支配者――〈鮮血の番狼〉と呼ばれし偉大なる魔族は、体は眠っているが、はっきりしている意識で今日も嘆息した。
その時だった。
「ダンジョンが見つかったから案内人捕まえてわくわくしながら探索しに来たけどさ、なぁーんにもなくてつまんない」
「ないならないでいいですよ。自分来たくなかったですし。金銀財宝なら歓迎ですけど、化け物とかは勘弁。出たらこののが責任持って倒しやがれです」
「とか言ってるけど悠希も内心ノリノリだったでしょ?」
「そんなことねーですよ!」
「ちょ、ちょ、二人ともオイラより先に進むなって言ったよね!?」
何十年、何百年、はたまた何千年ぶりの――人の声。
しかもとても美味そうな年若い少女の声だ。
なぜこんなところに? 一体どうやって?
いや、そんなことはどうでもいい。
腹の虫が暴徒と化す。ヨダレが止めどなく溢れてくる。あの声の主を骨も残さず喰らい尽くせと本能が命令する。
抗うつもりはない。だが動けない。封印は強力だ。彼のいる部屋へと続く巨大な扉を外から開かない限り自由はない。その扉も少女ごときに開けられるほど容易くはない。このままでは生殺しだ。
「あれ? なんかでっかい扉があるよ」
「勝手に触るな! まずオイラが調べるから!」
「うわぁ、どう見たってボス部屋じゃないですか。ここで引き返しましょうそうしましょう」
――帰るな。さあ開けろ。そして我輩の餌となれ。
開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろぉおおおおおおおおおおッ!!
「せーの」
ドガシャゴァオオオオオオオオオオオオオオオン!!
小さな掛け声からは想像できない轟音が響き、巨大な扉が粉砕しながら吹き飛んだ。開けろと念じはしたがまさかこんな豪快にぶっ壊すとは彼も流石に思わなかった。
「ぎゃあああああああああっ!? なんてことをするんだまだオイラが調べてないのに!?」
「真っ暗だね。悠希、ライトちょーだい」
「反省が欠片もない!?」
「もし化け物がいたら自分全力で逃げますから」
「化け物なら目の前に一匹ずっといるし、異世界邸にもいっぱいいるでしょ」
「それオイラのこと!? どう考えてもアンタの方が化け物っぽいことしてるけど!? あの管理人夫婦の娘だし!?」
「あーそれ言っちゃう? 私が一番気にしてること、言っちゃう? ごめんね、悠希。また患者が一人増えるかも」
「やめやがれです! ただでさえ学習能力のないお馬鹿コンビと歩く有毒ガス発生機のせいで毎日大変だってのに! ていうか今日自分の部屋吹き飛んでたらしいんですよ!?」
わいわいギャーギャーと楽しそうな話し声が近づいてくる。侵入者を感知した部屋が壁に均等な配置で並べられた松明に自動で黄昏色の炎を灯す。
「おお、火がついた」
「これやべーやつですよ絶対!?」
「一体どういう仕掛けに……オイラが調べるからアンタたちは動くなよ! そこを! 一歩も!」
ちみっこい毛玉が室内を忙しなく走り回る。アレはあまり美味しそうにないが……好キ嫌イハイケナイ。
封印は、既に解かれた。
あとは、目の前に置かれた餌を喰うだけ。
「こ、このの! なんかいかにもやばいのが出ますよって感じの魔法陣が部屋の中心に展開しやがったんですけど!? つかもうなんか出て来てやがるんですけど!?」
「下がってて悠希。ファーストステージのボスくらい私が……」
怯える人間の少女を庇うように前に立った狐耳少女が、彼を見上げて硬直する。両目を大きく見開き、全身をわなわなと震わせる。
彼の姿を見て恐怖に怯えたようだ。当然だろう。ノルデンショルド地下大迷宮が誇る偉大なる魔族が一柱――〈鮮血の番狼〉を目にして恐れ慄かない者などいない。抵抗されないのも面白くないが、とにかく今は腹ガ減ッタ。
「貴様らの血肉を寄越せぇえええええええええええッ!?」
咆哮し、彼はまず動けなくなった狐耳少女に喰らいつく。だが間一髪で人間の少女が狐耳少女の手を引いて回避した。
「このの!」
「無理……アレを、私は倒せない……」
「気持ちはわかるですが、倒さないと自分たちが美味しくいただかれますから!?」
「無理無理! 絶対無理!」
「あーもう! じゃあ逃げるしかねーですよ!」
「――ってオイラを置いて行くなぁあああああああああッ!?」
一目散に部屋から逃げていく三人を、彼は舌なめずりしながら追いかける。一度封印が解かれた以上、彼はもはや自由の身。部屋から出てあの三人を喰らった後は、もっと多くの血肉を求めて人里を襲う。
彼はそれが楽しみで楽しみで仕方がなかった。
***
午後十八時。既に異世界邸の狂った時間と外界の時間は同期している。
昼間にまたいろいろぶっ壊れた邸も修復されており、昏くなり始めた夕空の下、異世界邸は束の間の平和を享受していた。
そう、『束の間』の。
獣のような咆哮が響き渡り、邸の一部が床から崩壊したことで静寂は破られた。
一応無事だった玄関から外へ飛び出した悠希・このの・リックの三人はある程度離れたところで立ち止まり、そして振り返った。
今しがた飛び出てきた玄関が、さらに巨大な生物が突撃したことによって爆砕する。
粉塵巻き上がる中から現れたのは、マンモスほどもありそうな巨体を四本の短い脚で支える獣。全身を白みがかった茶色の毛で覆われ、鼻吻はやや詰まっており、頭部に対して大きな立ち耳が僅かに外側へ反っている。大きな黒い瞳はクリッと愛らしく、牙の並んだ口はちょろっと舌を出して小刻みに息をし、短めの尻尾をぶんぶんと振り回している姿は、サイズが小さければ誰もが思わず抱き締めてもふもふしたくなる魅力を放っていた。
ていうかチワワである。
サイズがマンモスなだけの、どこからどう見てもネコ目イヌ科イヌ属に分類される品種名『チワワ』である。
「悠希、もうダメ……私、アレ、もふりたい!」
「てめえの尻尾でももふってやがれです!」
自分自身がケモ耳尻尾のくせに、こののはもう完全にチワワに魅了されていた。悠希も確かに可愛いとは思っている。サイズがおかしくなければ。
「ひいいいっ!? せっかく描き直した地図がっ!?」
リックは木の陰に隠れて頭を抱えていた。異世界邸は破壊される度に構造が微妙に変わってしまうのだ。
「血肉だぁあああああッ!! 吾輩に血肉を食わせろぉおおおおおおおおおおおおおッ!!」
巨大チワワが目を血走らせて叫ぶ。よくよく見たら可愛くない。というか、このドラムを激しく叩くような音が聞こえるのは腹の虫だろうか?
「今さらチワワが喋る程度なら驚きはしませんが、これ早くなんとかしないといろいろまずい気がするですよ」
冷や汗を流して戦慄する悠希に、巨大チワワは牙を剥き出しにして地面を抉り取るような勢いで迫り来る。
「ひっ」
「おいでおいで~♪」
「おいでじゃねーですよ!?」
悲鳴を上げそうになった悠希だが、隣の恍惚とした顔で手招きするこののにツッコミを入れざるを得なかった。
そしてツッコミを入れている間に、巨大チワワの大口が悠希たちの頭に覆い被さる寸前まで近づいていた。
だが――
ドガッ!
唐突な真横からの衝撃にチワワの巨体が大きく吹っ飛ばされた。「きゃいんきゃいん!?」と可愛い悲鳴が上がり、喰われかけていた悠希ですら罪悪感とか良心の呵責とかその辺をチクチクと攻撃される気分になってしまう。
「無事か、嬢ちゃんたち」
「ここは我らに任せるがいい」
チワワを蹴り飛ばして悠希たちの前に立ったのは――背中から炎の翼を生やした竜神と、機械装甲を纏った戦闘用アンドロイドだった。
「あんな犬っころ、俺様にかかればぐべぱぁあっ!?」
「我が全機能を持って瞬時に駆逐してばべぶふぉあっ!?」
好戦的な笑みを浮かべてパシッと掌に拳を打ちつけたお馬鹿コンビだったが、まさかの背後からの強襲で弓反りになってぶっ飛んだ。
彼らを殴り飛ばしたこののがお怒りの様子で尻尾の毛をビビッと逆立てる。
「このウーパールーパーとスクラップがぁあッ!? よくも私のわんちゃんを蹴飛ばしたな!?」
「え、ウーパ……え?」
「スクラップ……」
頑丈にも起き上がった二人は、痛む背中を摩りながらなにを言われたのか理解できない様子。
「そのマヌケなミニマム脳味噌でも理解できるまでもふもふ愛護精神を叩き込んであげる!」
「ちょっと待ちやがれです、このの! 今はそんなことしてる場合じゃねーですよ!」
悠希は咄嗟にこののを後ろから抱き着いて羽交い絞めにした。こののがその気になれば悠希は糸くずのように振り払われるが、友達にそんなことはしないはず。たぶん。きっと。
「どいて悠希、あいつら殺せない」
「殺しちゃダメですから!?」
悠希という人間拘束具はやはりこののには有効なようだった。悠希がしがみついている間、彼女は動けない。今のうちにチワワをどうにかしやがれです、と目配せだけでお馬鹿コンビに伝える。
と――
「えへへ、いい感じに戦場が温まっていますね! 私も混ぜてください!」
異世界邸の屋根の上。そこに白銀のドレスアーマーを纏った蒼髪の少女が死神を思わせる大鎌を握って仁王立ちしていた。
「またややこしそうな奴が来やがりましたよ!?」
大鎌の少女――戦乙女・ジークルーネは興奮で頬を上気させならが屋根から飛び降り、チワワに向かって容赦なく刃を振るう。それに気づいたチワワは愛くるしい瞳でジークルーネに狙いをつけ、牙を剥いて飛びかかる。
「貴様も我輩の餌となれ!」
大鎌とチワワの爪が打ち合い、お互いに衝撃で弾かれる。
「えへっ♪」
幸せそうな笑顔を満面に咲かせたジークルーネは後ろに吹っ飛びながら大鎌をフリスビーのように投げる。犬の本能でも働いたのか、チワワは回転しながら飛んでくる大鎌に一瞬気を取られかけたが、すぐに横に飛んでかわした。ブーメランのように戻ってくる大鎌がチワワの頬を掠めて少しだけ毛を刈り取った。
「あの脳戦ぶち殺す!?」
「こののはいい加減落ち着きやがれです!?」
チワワが攻撃される度にこののは怒りのボルテージを上げており、もうそろそろ悠希だけでは抑えられない気がしてきた。
「よし、俺たちも鎌の姉ちゃんに続くぞ!」
「おうよ兄弟、我らの力を見せつけてくれよう!」
こののから受けたダメージから復帰したお馬鹿コンビも揃って戦いに加わるため駆け出した。あの二人はあんなに仲良かっただろうか?
とその時、チワワの両目がチカッと光った。
「――ッ!?」
ジークルーネが持ち前の直感で跳躍した次の瞬間、チワワの両目から怪光線が放射され走ってきた竜神とアンドロイドに直撃した。
「「目からビームぅううううううううう!?」」
爆発で吹っ飛び空の彼方で星になるお馬鹿コンビ。なんとなくこうなる気がしていた悠希は白けた目でお馬鹿コンビの軌跡を見詰めていた。
「目から光線だなんて楽しいことしてくれますね! 最高です! 下手な英雄と戦うより面白いですよ! えへへ、血が滾ってきました♪」
「おのれ、大人しく我輩の餌になれと言っているのである!」
駄ルキリーと巨大チワワの攻防が続く。それだけ聞くと凄まじく滑稽だが、いざ目の前で繰り広げられると堪ったものではない。
「貴様は焼いて喰ってやるのである!」
今度は口から炎を吐き出したチワワだったが、その頭にトン! と何者かが降り立った衝撃で口を閉じ暴発した。
「僭越ながら私もお手伝いさせていただきます、お嬢様」
執事服をピシッと着こなした老人――ウィリアムは、高齢とは思えない身のこなしで暴れるチワワをいなしてジークルーネの隣に着地した。
「邪魔ですよ、おじいちゃん」
「ほっほ、そう仰らずに。あとでお嬢様にとってとても有用な情報を教えて差し上げますので」
「有用な情報?」
「旦那様――貴文様と戦える方法でございます」
「むう、なら仕方ありませんね」
ジークルーネは面白くなさそうな不満顔を見せながらも、ウィリアムに説得されしぶしぶ共闘を認めたようだ。あの管理人と戦いたいとは命知らずな駄ルキリーですね、と悠希は呆れた。
「ビームとは卑怯な真似をしてくれたな犬っころ!?」
「星になった程度でやられる我らではない!!」
お馬鹿コンビがもう戻ってきた。相変わらず謎の頑丈さを見せる二人である。
これで四対一の構図になったが、チワワも負けていない。牙や爪を振るい、光線や炎を吐き出して互角以上に戦っている。
「なにこのカオス……」
悠希はもうわけがわからなくなっていた。
***
「誰だまた邸壊しやがった馬鹿野郎はコラァアアアアアアアア!!」
所用で異世界邸の外に出ていた伊藤貴文は、帰ってくるなりある意味いつも通りな惨状を目の当たりにしていつも通り怒鳴り散らした。
外で面接をして採用したばかりのアルバイトのメイドに荷物を預け、神久夜と共にドッカンドッカンやっている方へと急ぐ。
そして――
「チワワ!? でかっ!?」
「もふもふじゃ!?」
ウィリアム+駄ルキリー+馬鹿野郎ツインズを相手に奮闘している愛玩動物を見て思わず声を荒げた。横の神久夜はなぜか目をキラッキラ輝かせてチワワに魅入っている。
なぜあんなでかいチワワが……と思って辺りを見回すと、三階の窓からこちらを眺めているネグリジェ姿の女性を見つける。
「ミス・フランチェスカ! またあんたの仕業か!?」
「フミフミ君ひどい~、私知らないよ~」
「あんた以外に誰があんな生物兵器作るんだよ!?」
「だから違うって~」
貴文は十中八九彼女が犯人だと決めつけていた。神久夜もフランチェスカに向けてグッジョブと親指を立てている。なぜグッジョブ?
しかし、真実は彼女の方だった。
「管理人! 管理人!」
木の陰から助かったという表情でホビットのリックが駆け寄ってきた。
「フランチェスカは悪くない。悪いのはオイラだ。こののと悠希を強く止めずにダンジョンに入れちまったせいで、あんな恐ろしい魔獣を目覚めさせちまった!」
「恐ろしい魔獣……」
貴文にはちょっとサイズが恐竜なだけのチワワにしか見えない。だがホビットの彼からしたら恐ろしく映るのだろう。顔は青ざめて体が震えている。
それでも事情はしっかり伝わった。あのチワワはダンジョンから湧いて出た魔獣で、こののと悠希がやんちゃして連れてきた、と。
……胃が痛い。
「あ、父さん帰ってきてる!」
とそこに、当のこののがどういうわけか後ろからしがみついた悠希を引きずりながら歩み寄ってきた。
「このの、変なモノ拾ってきちゃダメだろ」
「私、あのわんちゃん飼いたい。ねえ、いいでしょ?」
「ダメだ。元の場所に戻してきなさい」
「ちゃんと世話するからぁ。餌もあげるし散歩も行くし」
「どうせ三日経ったら俺の仕事になるんだから飼いません。これ以上仕事を増やさないでくれ」
「いいじゃんケチ!」
「どうしてここで子犬を拾ってきた子供と親の普通の家庭的な会話が成立してやがるのか自分にはわかんねーです!?」
なんか疲れ切った様子の悠希はこののから離れてぐったりと座り込んでいた。それは置いといて聞き分けのない娘を諭さねばなるまい。
「だいたいウチは一応アパートだぞ。ペットは禁止……」
言いかけて貴文はこののを、神久夜を、ホビットを、向こうでチワワと戯れている竜神を見る。
「……にする意味は今さらないか」
「だよね!」
「だがよく見ろ! あんな凶暴な犬を飼うなんて迷惑……」
言いかけて貴文は四階のマッドサイエンティストと向こうでチワワと戯れている戦乙女と竜神と人造人間を見る。
「……をかける奴らは既に胃が痛くなるほどいたな」
「だよね!」
困った。否定する要素がない。こと迷惑に関してはちゃんと躾ければ止める側として役立ってくれるかもしれない。
――あれ?
――犬を飼うのも、いいんじゃないかな?
貴文の心は揺れていた。それはもう仕事で役立つと思えばグラッグラのゆっさゆさだった。
それでも身の危険には逸早く気づく。
「管理人危ないッ!?」
リックが悲鳴を上げると同時に貴文は動いていた。どこからともなく竹串を抜き放ち、迫り来る二条の光線を打ち弾く。
「ちょ、あのチワワなんかビーム撃ってきたぞ!?」
「か、カッコイイのじゃ」
「だよね! 母さんわかってるぅ」
「そこの二人いろいろ感覚おかしくなってやがりませんか!?」
なんとか叫ぶ元気の残っていたらしい悠希に貴文は全面的に同意したい。
「やっぱりダメだ。あんな危険生物飼うわけにはいかない!」
「待つのじゃ貴文!」
「待って父さん!」
がっし。がっし。
貴文の両腕に妻と娘がしがみついてきた。二人とも見た目からは想像できない腕力で貴文を動けなくしている。
「放せ二人とも!」
「父さんが行ったら冗談抜きであの子殺しちゃう!?」
「貴文よく聞くのじゃ! もふもふは正義! もふもふは正義!」
よく聞いても意味がわからない。二回言われても大事さがわからない。正義とはケモ耳ケモ尻尾のことであって、百パーセントの獣は当て嵌まらないはず……。
「あらあら、大変そうですね、管理人さん」
貴文が困り果てていると、邸の玄関があった場所からゆったりとした声がかけられた。
「え? 那亜さん?」
振り向けば割烹着姿の女性――『風鈴家』の那亜がいつもの優しい笑顔を浮かべていた。
戦闘はできないはずの彼女がどうしてここに?
「那亜さん、ここは危ないですよ。ミス・フランチェスカの部屋か管理人室に避難していてください」
「大丈夫ですよ。だって管理人さんがいますから」
なんて嬉しいことを言ってくれるのだこの人は。声を聞くだけ胃のダメージが徐々に癒されていく気がする。
はあああ、と癒しパワーを受けて溜息をつく貴文に一つ会釈すると、那亜は悠希とこののを交互に見やった。
「悠希ちゃん、こののちゃん、ちょっと手伝ってくれる?」
***
彼は驚愕していた。
長年の運動不足と飢えが祟っているのもあるだろう。
だが四人がかりとはいえ、まさか地上にここまで自分と渡り合える存在がいたとは……。
しかも見た限り四人とも全力を出しているとは思えない。一番ひ弱そうな爺さんは縦横無尽に動き回っているにもかかわらず息一つ乱していないし、ドレスアーマーを着た大鎌の少女は戦い自体を楽しんでいる節がある。竜人族の戦士と思われるトカゲ男も、全身武装の機械人間もまだ切り札を隠し持っていそうだ。
ノルデンショルド地下大迷宮第一階層支配者――〈鮮血の番狼〉。
地下迷宮が封印される以前を思い出す。挑み続ける腕に覚えのある冒険者を食い千切っては投げ食い千切っては投げ、数十人単位で攻めてきた軍勢を地獄の炎で焼き尽くした。第一階層にして、かつて一度たりとも破られたことのない実績は彼がいたからこそだ。
そんな魔族としての矜持に賭けても、こんなふざけた連中に後れを取るわけにはいかない。そんなことになれば忠誠を誓いし『迷宮の魔王』――我が主君に顔向けできなくなる。
それはともかく――
腹が減った。
「喰わせろぉおおおおおおおおおおッ!? 血肉喰わせろよおおおおおおおおおおおおッ!?」
もうなんでもいい。
ちょこまか動いて捕まえにくい獲物は余計に腹が減るだけである。ならば向こうの、こちらの様子を眺めているだけの連中を喰らってくれる。
彼はその場で大回転し、群がってきた四人を弾き飛ばす。それから地面を蹴り、一回で何十メートルも跳躍する。
「えへっ、どこに行くのですか? まだまだ私は遊び足りませんよ」
「貴様、吾輩の速度に……」
驚くべきことに弾いたはずの大鎌の少女が追従してきた。振るわれた大鎌を牙で受け止め、そのまま咥えて少女ごと放り投げる。
そして今の一瞬で追いついてきたトカゲ男と機械人間を前脚で薙ぎ払い、執事服の爺さんを炎で牽制する。
ぶっちゃけこいつらと戦う意味はない。機械人間は喰えないし、トカゲ男も骨と皮と鱗ばっかりな気がして不味そうだし、爺さんとか喰える部分あるの? というレベル。
唯一、大鎌の少女だけは瑞々しくて美味そうだが……ドレスアーマーが邪魔だ。
その点、最初に追いかけていた少女たちは鎧も着てなく肉も柔らかそうだった。やっぱりまずはあの少女たちから……と考えて見回すも、その獲物の姿は影も形もない。
逃げられた?
その時間は充分にあった。だが匂いは覚えている。それを辿れば世界の裏側だろうと追い詰めて……。
くんくん。
くんくんくん。
くんくんくんくん!
「ハッハッハッじゅるり……わん!」
唐突に匂ってきたとても芳ばしい香りに彼は立ち止まり、言葉も忘れてその発生源を探す。
彼自身が体当たりで破壊した建物の入口からだ。
そこから、見ただけで涎が溢れて止まらなくなりそうな肉料理の山が大きな台車に乗って運ばれて来ている。
彼の方へと。
台車を押している恰幅のいい女性が優しく微笑む。
「ふふ、お腹が減っているだけなんですよね? どうぞ、たんと召し上がれ」
彼はポカンとして料理と女性の間で視線を泳がせる。女性の後ろに付き従う形で立っているこれから追い詰めて喰おうとしていた少女二人はもう眼中にない。
「よ、よいのであるか?」
「待てはしませんよ」
その瞬間、彼の理性は吹き飛んだ。
今の今まで追い求めていた生の血肉には目も向けず、台車に乗った数々の料理を無我夢中で咀嚼する。
全て平らげるまで数秒とかからなかった。
なんたる美味!
これほどの餌を彼は今まで喰ったことがあるだろうか? いや、ない。
「おかわりもありますよ」
お か わ り も あ り ま す よ!
この世界にはそんな素晴らしい言葉が存在するのか!
「お腹いっぱいになったら、もう暴れませんね?」
この神をも唸らせそうな至高の料理を作ったと思しき女性に柔らかい言葉と優しい笑顔を向けられ――
「……聖母」
感極まった彼は、そう呟いてその場に伏せた。
そして――ころん。
女性にお腹を見せつけるように仰向けに転がった。
「うおおおっ!? あの暴れ犬が服従のポーズを!?」
「那亜殿、一体その料理になにを仕込んだのだ!?」
「えっ!? もう戦い終わりですか!? そんなぁ……」
「これはこれは、まさか那亜様が手懐けられるとは」
彼と戦っていた四人が向こうで驚愕している。だがなんと言われようが構わなかった。外野の声などどうでもよかった。
魔族の矜持? なにそれ喰えないし。
「我が聖母よ。吾輩はあなたに忠誠を誓うのである」
「軽っ!? このわん公、実はチョロかったですよ!?」
愕然とする人間の少女は無視。我が聖母はちょっと困った風に「あらあら」と頬に手をあてていた。
「我が聖母、どうか吾輩の腹を撫でていただきたいのである」
「え? もふっていいの? わーい、もふもふ♪」
「もふもふなのじゃー♪」
狐耳少女と、いつの間にか増えたもう一匹の狐耳が今まで我慢していたものを解放するように飛びついてきた。
「ぐるるるる! がうっ!?」
彼は吠え、身を捩って狐耳少女ズを振り払った。
「汚らわしい手で触るでない愚民が! 吾輩はノルデンショルド地下大迷宮第一階層支配者――〈鮮血の番狼〉! 吾輩のお腹を撫でていいのは今や封印されし我が主君と、そこにいる我が聖母だけである!」
仰向けのまま断言する。
「我が聖母に免じて貴様らを襲うことはやめたが、慣れ合う気などないのである! というか我が聖母からいただいたとても美味なる餌の後に、貴様らのような生ゴミは喰えたものではないのであーる! 見るのも不快ぞ。とっとと吾輩の前から消え失せるがいい!」
瞬間、周囲が一気に静まり返った。
竹串を持った人間の男は呆れたように額に手をあて、人間の少女は「うわぁ、このチワワ死ぬほど可愛くねーですよ……」とげんなりしている。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!
気のせいか、彼の犬耳に地鳴りのような音が聞こえた。
「生ゴミ……この私を生ゴミだと? これはちょっと躾けが必要そうじゃのう」
「母さん、それ私も手伝う。誰がこれからの飼い主かちゃんとわからせないとね☆」
見ると、狐耳少女ズがドス黒いオーラを纏って目を怪しく光らせていた。周囲の者たちが、我が聖母ですらそそくさと退散を始める。
「え? ちょ、ま……」
動物的直感が告げる。
これ死んだ、と。
「わおぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん!?」




