侵略者と夢の守人【part紫】
上空で繰り広げられる規格外の魔法陣と神軍の攻防を見上げて、眞琴はグッと奥歯を噛み締めた。
「栞那さん……」
異世界邸にある『炉』と『卵』と『石』。それらが世界中の組織と神の軍勢に目をつけられてしまった。今はおそらくセシル=ラピッドの魔術によって神軍を食い止めているようだが、仮にも神の軍勢が人間如きにいつまでも足止めを喰らうとは思えない。
そして、それだけではない。
ちゅどおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉんっ!!
轟音と共に吹き上がる炎。空を舐めるように広がるのは、世界を焼き尽くしかねない龍の炎だ。
「龍の軍勢……」
突如異世界邸から空へと飛んでいったあれらは、考えられるのは羽黒から伝え聞いたティアマトの軍勢だろうか。なぜ暴れているのかは不明だが、もしかすると卵に訪れた危機を察知したのかもしれない。
なんにせよ、かのアパートが類に見ない危機に見舞われているのは事実だ。あの、医者という仕事だけに命を注いでいるような中西病院の院長が、現場の指揮統率をかなぐり捨てて異世界邸に向かっていったほどである。
「……あの人のことだから、無事に辿り着くだろうけど……避難できるかは……」
五分五分、否、かなり難しいだろう。それが分かった上でそれでもと向かった彼を止める気は眞琴にもなかった。
一度目を閉じて、深呼吸。紅晴の街を守る吉祥寺の次期当主、そして「魔女」へと意識を切り替えて踵を返した。
「──報告を」
襖を引き開けて魔女が声をかけると、待機していた家人がすぐに応じる。
「上空の神軍は現時点では街へ降りてくる様子はありません。しかし龍の軍勢の方はこちらへ向かおうとしているようです。今のところは食い止められていますが……」
「……このまま、というのは希望的観測が過ぎるね」
「そして、次期殿の仰っていた魔法士協会についても嘉上から報告が」
魔女が視線を向けると、家人は淡々と報告した。
「この世界にいる魔法士達に、協会のトップから緊急招集令が出たとのこと。他国で行われた魔法士幹部の拠点破壊に対する報復として、犯人と目される人物への攻撃命令です。……この街への派生被害も容認したようです」
「……。あの腐れ組織が」
魔女が顔を歪めて吐き捨てる。らしくもない不遜な言葉に家人が顔を強張らせるより先、表情も口調も戻した魔女が尋ねた。
「それで、魔法士の動向は?」
「現時点では、まだ──」
──背筋に汚泥を注ぎ込まれた。
そう錯覚してしまうほどの悍ましい気配に、魔女も家人も束の間息を止めていた。
「っ、今のは!」
思わず家人が声をあげたのと同時に、魔女の携帯が鳴る。画面に視線を向けた魔女は迷わず応じた。
『聞こえますか、吉祥寺次期殿』
まだ声変わりも終わっていない少年の声が、冷静に問いかける。魔女は小さく息を吐き出して返した。
「聞こえるよ。あちらの邸にはもう繋がらないけれど、街ならばまだ大丈夫みたいだね」
『そうですね。──次期殿。たった今、魔法士幹部が紅晴の街境に到着したと連絡を受けました。一般人の避難はもう間に合わないでしょう』
「……」
魔女は無言を持って返答とした。羽黒からの連絡を受けて、まさにその日の夜がこの様である。魔女も最速で各家に準備体制を整えるよう通達したが、一般人の避難のタイミングを決定する前に敵が来てしまった。
『今回はどうも、妖以外が敵になりそうです。龍はまだしも、魔法士や神軍に関しては、僕たち「門崎」は主力にはなれません』
門崎の領分は妖──人外との戦いだ。機械や人間相手は少々分が悪い。それはどちらかといえば、霍見や嘉上の領分である。
『ですから──吉祥寺次期当主、眞琴殿。今回僕は、一般人の安全確保に注力します』
「……いいのかい?」
電話の主は表向きは門崎次期当主としているが、実際は既に当主として実権を握っている。その若さ故に、そして先代当主が突然亡くなってしまったが故に、表では側近が立ってその事実を隠してきた。
そしてこの当主には、魔女とはまた違う裏の顔がある。むしろ魔女よりよほど責任が重く、よほど世界にとって重要な顔だ。
『条件は満たしました。決め手は魔法士幹部が街に手出しをしてきた事──先代である道化は、今の魔法士協会総帥と袂を分かちましたから』
「……成程ね」
小さく唇を吊り上げて、魔女は姿勢を正した。
「──吉祥寺次期当主より、門崎当主殿へ通達。紅晴の一般人を外敵から守り、指一本触れさせないで」
『お任せください。……結界を最低限維持する余力はありますが、イレギュラーな事態が起きた場合は対処しきれない場合があります。そちらはお願いします』
「分かった」
『すぐに取り掛かります。すみませんが、5分だけください』
それ以上の無駄口は叩かずに電話は切れた。
**
「怖いなあ……」
震え声と共に、黒い靄──呪いがドロリと広がる。
「怖いなあ、恐ろしいなあ……神様が襲撃するだなんて、この街に何があったんだろう……怖いなあ……」
呪いが広がるたび、男の周囲で悲鳴が上がる。
「ひっ、なんだこれ──」
「やめっ──」
「なんで俺たちまで──」
「おやめくださ──」
しかし全ての悲鳴は呪いに飲み込まれ、さらに呪いが広がっていく。
「怖い怖い……この街は元々怖い街だもんなあ……でも怖いなあ……」
呪いの源である男は、悲鳴には目をくれることもなく独り言を続けた。
──<恐怖の略奪者>。
彼が魔法士幹部たる所以は、その呪いの拡散範囲だ。
周囲のものは無機物も有機物も──物も魔物も人も、全てが呪いに取り込まれ、呪いそのものになり更に広がっていく。
恐怖の対象が固定されない限り、彼の側に近づいてはならない──その教えを忘れた魔法士と、彼に不信を抱き近づいた術師が飲み込まれる。
際限なく飲み込み、広がる呪いが街に侵入りこみ、一番近い家屋を飲み込みかけた、まさにその時。
「怖いよ──ぅ?」
独り言がぷつりと止んだ。骸骨に皮を貼り付けたような不健康な顔がノロノロと持ち上がり、水色の瞳がギョロリと動く。
目の前に広がるのは、まるで何も変わらない風景。変哲のない日本の住宅街。西の上空ではこの世の終わりの如き光景が広がっているが、こちらは平和そのものだ。
異変を察知して外に飛び出してくる住民さえも、いない。
「……?」
首を傾げた魔法士の足元から、呪いが広がる。住居に黒い靄が張り付き、あっという間に覆い尽くした。
だが、──飲み込めたのは、住居のみだった。
「……ヒヒヒ」
魔法士の口から笑いが漏れる。口元を引き攣らせるような笑みを浮かべながら、手を翳す。
「逃がしたねぇ……怖いよなあ……でも僕の方がもっと怖いよう」
明確に、「逃がされた」相手を呪いに飲み込んでしまおうと、初めて本人の意図を持って魔力を注ぐ。
「だってそうでもなければ、とても僕は、あの魔石を手に入れて、あのお方に並び立てないのだから──」
どこまでも自分本位な理由で、街の一般人を呪いに飲み込もうとした。
したのに。
「……ひ、ひひっ」
男が笑う。
「ああ、やっぱり──この街は、怖いなあ」
男の魔法は、誰も飲み込むことなく、ただ街の住宅だけを侵していた。
***
「──悪いけど」
決して触れることの出来ない世界から、その様子を眺めている少年がいた。
「これについては、あなたにだって譲らない」
相貌を蒼く輝かせ、少年は静かに微笑んだ。
少年が静かに首を巡らせる。神殿造りの廊下が遥か彼方まで広がっていくその空間には、あちこちに横たわり穏やかに眠る人々の姿があった。
「あなたたちの襲撃が夜で助かったよ。ほとんどの人が眠っている時間だったから、そのまま「夢」経由で夢殿に渡ってもらうだけで済んだ。夜中も働いてる方達も、眠気をこらえて頑張っているから眠りへの誘導が早かった」
おかげで5分かからずに済み、一般人は確実に安全な世界──夢の中という、一種の異世界へと隔離出来た。これで少なくとも、一般人の命に関わる危険はないと見ていい。
一部にはこういった概念的な空間への出入りや介入を可能とする者──夢の世界に限っては、彼らを「夢見」と呼ぶ──もいる。その才能があるものや、ごく一部の概念魔法に手を届かせたものであれば、無理矢理に押し入ることは可能だ──本来ならば。
「僕がこの場の管理者だ。僕がここにいる限り、貴方に介入する手段は存在しない」
少年の役名は、「夢宮」──あらゆる夢を管理し、世界との境界を守る管理者にして番人。
世界の狭間を管理する者から夢の管轄だけを委譲された少年は、不敵な台詞をただの事実として口にして、少しだけ苦笑した。
──世界が滅びてしまうほどの被害を被れば、余波で巻き込まれかねないけれど。
そんな不吉な予想を言霊にするほど、夢殿の管理者は愚かではない。ひたすらに静かで穏やかな夢の世界を守るべく、己の力を振るい続ける。




