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異世界アパート『異世界邸』の日常  作者: カオスを愛する有志一同
異世界邸へ、ようこそ
14/175

医務班の休息【part紫】

「ふう、ただいまーですよっと」

 マウンテンバイクで山を駆け上がり帰還した悠希は、独り言のように呟いてバイクを片付け、異世界邸の玄関をくぐる。

 色々アレコレ凄まじく面倒事の多い異世界邸でも、住めば都と言えなくもない。現に悠希は、帰ってきたという実感を覚える程度には馴染んでいた。



「あ、管理人。ただいま戻りました」

「ああ悠希、おかえり」

 自分の部屋に向かおうとした所で、ばったりと貴文に出会う。にこやかながらもなぜか少々落ち着きのない様子に、悠希の表情が胡乱なものになる。

「……何があったんですか、今度は」

「いや、いつも通りと言えばいつも通りなんだけどな」

「馬鹿コンビですか、それともマッドサイエンティストですか」

「後者だ」

 悠希は深々と溜息をついた。

「あの科学者、1日1回では飽き足らずまたやりやがったんですか……。で、今回の被害は?」

 諦め混じりで尋ねた悠希だったが、返ってきた返答には流石に目を剥くこととなる。

「いやあそれが……、水素爆発で両隣二部屋消滅して」

「あんの馬鹿サイエンティストくたばりやがれです!?」

 私物が! と悲鳴を上げて駆け込む悠希の背中に、「あ、それから悪いけど、俺今から神久夜とちょっくら出かけるなー」と伝言らしき言葉がかかった。



 部屋に飛び込んだ悠希は、飛びつくように箪笥を引き開け——朝と変わらぬ洋服やガスマスクその他に、ほっと溜息をつく。異世界邸の倒壊頻度は異常だが、その修繕はもはや再構成レベルで行われるのが唯一の救いだ。

「それにしても水素爆発で消し飛んでも元通りとは、流石ですねぇ……」

 ぼやっと呟き、悠希はさっさと普段着に着替えた。今は貴文ものんびりしているが、どうせ1時間もしないうちに誰かが暴れて建物が破壊され、怪我人が出るのだ。栞那に呼び出される前に自分から……と部屋を出た途端、横合いから軽い衝撃が腰にぶつかった。

「悠希ー! おかえりー!」

 ふさふさのしっぽをぶんぶんと振る狐耳少女が、輝かんばかりの笑顔で悠希に抱きついていた。心から嬉しそうな様子に、悠希も釣られて笑顔になる。

「このの、ただいまです」

「今日は学校どうだった? 何か面白い事あった?」

 悠希を軽く揺さぶるように尋ねてくるこののは、どうやら余程退屈していたようだ。普段よりもせっかちに質問攻めにしてくる友人の頭を、悠希はぽんぽんと撫でた。

「学校はいつも通りですよ。こののが好きそうな話も幾つか聞きましたけど」

「わ、聞きたい聞きたい! 聞かせて!」

 ぐいぐいとひっぱってせがむこののに、悠希は束の間考えてから頷く。

「じゃあ、今日はそっちの部屋でゆっくり話しましょうか。取り敢えず先生に許可貰いに行ってきますね」

 この様子を見る限り、寂しくもあったのだろう。耳と尻尾という秘密のせいでまともな友達の出来ていないこののと遊ぶ為に、唯一の友人と言って良い悠希が少しは時間を割いても、流石の栞那も文句は言わないだろう。

「あ、私も行く! 栞那に会いたい!」

「……はぁ、いいですけど」

 なぜか栞那を気に入っているこののが、悠希の手を握ってぐいぐいと引っ張って進む。

(……まあ、確かに外面は立派な女性医師ですがね。部屋じゃあ煙管ふかしまくりのぐうたら母親ですがね。しかもあの変態を夫に選ぶ物好きですがね。……何であの両親に産まれたんでしょうかね自分)

 何度も考えた虚しすぎる問いかけに小さく溜息を漏らし、悠希はこののに引っ張られるまま医務室へ向かう。



 やがて辿り着いた医務室の扉には、「面会中」の札がかかっていた。

「あれ、札かかってる。お客さん?」

「いや医務室だから患者さんですよ、このの。にしてもまーた誰か怪我しやがったんですか……」

 惚けた言葉にきっちりと訂正を入れ、悠希は溜息をつく。1つ首を横に振って続けた。

「とはいえ面会が終わるまで待つと時間がなくなっちまいますし、ちょっとお邪魔して——」

「栞那お邪魔しまーす!」

「堂々と!?」

 元気よく挨拶しつつ扉を引き開けた——バキッと嫌な音がした気がする、気のせいであってくれ——こののに驚愕した悠希は、しかしそのまま飛び込んでいったこののを見て、慌てて追いかけ中へ入った。

「栞那ー、お客さん誰ー?」

「いやだからこのの、ここに来るのは基本患者さん……で……」

 勘違いに再び訂正を入れかけていた悠希の言葉が、途切れた。大きく目を見開き硬直した悠希を真っ直ぐ見つめ、「お客さん」はにこやかに両手を広げた。

「やあ悠希。少し見ない間に大きくなったね。成長期だなあ」

 サワヤカに若々しく言い放った「お客さん」に、こののが驚いたように悠希を振り返る。

「悠希、このオジサンと知り合いなの?」

 平均的小学生であるこののから見れば、スラックスにシャツをラフに着こなした壮年男性は、「オジサン」以外の何者でもないのである。

「オジサンは勘弁して欲しいな。知り合いというか……」

 やや失礼な言葉にもサワヤカに応じた壮年男性の声を受け、止まりかけていた悠希の思考がエマージェンシーモードへと変換された。わなわなと全身を震わせ、悠希はくわっと口を開く。


「——どこから湧いて来やがりましたかこのクソ変態おやじ!!!」


「おやおや、相変わらずのようだねえ」

「ゆ、悠希ちゃん?」

 怒髪天を衝かんばかりの悠希の剣幕に、方や男性はのんびりと笑い、方やこののは目を真ん丸にした。

「……おい、悠希。流石に開口一番それは、久々に会う父親への態度じゃないだろ」

 男性の傍らで呆れ気味に窘めた栞那をつるっとスルーして、悠希は未だ目を丸くしている友人の手を掴んだ。

「行きますよこのの!」

「え、ええ? お父さんなんでしょ、良いの?」

「あんな変態なんざ知りません!」

「これはまた、嫌われたものだなあ」

 悠希むすめの罵倒にも動じずほけほけと笑う男性——悠希の父は、戸惑ったように悠希と男性の間で視線を往復させるこののに、にこりと笑った。

「初めまして、悠希のお友達かな。悠希の父親です、悠希がお世話になってます」

「えと、伊藤こののです。こちらこそ、悠希ちゃんにはお世話になってます」

 にこやかな挨拶に釣られたこののがぺこりと頭を下げる。それを見た悠希ががおうと吠えた。

「父親みてーな挨拶すんじゃねえですよ気持ち悪い! このの、コイツの外面に騙されちゃ駄目です、行きますよ! 変態がうつる!」

「いや、父親だろ」

「本当にねえ」

 両親のツッコミも華麗に無視して、悠希はこののを引っ張って歩き出した。

「おや悠希、お母さんのお手伝いじゃないのか?」

「誰がてめーと同じ空間にいるもんですか! 今日はこののと遊ぶんで手伝いませんからね先生! 1人できっちり働きやがれです!」

「あーはいはい、わーった遊んでこい。ッたく、反抗期が」

「んじゃー失礼します!」

 栞那の許可まではきっちりと聞き取って、悠希はこののと共に半ばダッシュでその場で離れた。



 しばらく全速力で走った悠希は、玄関ホールでようやく足を止める。ゼエゼエと肩を上下させる悠希に、息1つ乱していないこののが戸惑いがちに声をかけた。

「……悠希、そんなにお父さんと仲悪いの?」

 困惑しきりな友人に、悠希はゆらぁりと振り返る。びくっと肩を揺らしたこののに、悠希はおどろおどろしい声で言った。

「良いですかこのの、今後あの変態を見かけたら、回れ右で全力逃亡してください。アレは救いようのない変態ですから、関わっちゃ駄目です」

 悠希の言葉に、こののがへたりと耳と尻尾を垂れた。

「……お父さんだよ……? 私の両親も色々変だけど、そこまで言う……?」

「言うんです。外面だけなら品行方正、論文を書けば有名な雑誌載りまくりの世界クラス、その上人望まである病院長ですが、その実態は非力な実の娘を最低限の護身術だけさらっと教えて人外魔境に放り込み、中学生に医療行為させやがるろくでなし、いや人でなしなんです。例えどんなに友好的に笑ってても信じちゃ駄目ですよ、その笑顔の裏ではあれやこれや考えてる腹黒です」

 ほぼノンブレスで言い切った悠希に、こののは束の間ぽかんとしたあと、くすくすと笑い出した。今度は悠希がぽかんと目を見張る。

「このの?」

「なぁんだ。悠希、お父さん大好きなんだね」

「はあ!!???」

 あれほど言ったのに何を、と驚愕に目を剥いた悠希に、こののは天真爛漫な笑みを向けた。

「だって、悠希すっごいお父さんの事褒めてるよ? きちんと気にかけて貰ってるのも分かってるし。素直になれないんだ?」

「っ!」

 悠希が思い切り顔を引き攣らせる。それを見て笑顔を深めたこののに、悠希は喚いた。

「そっんなんじゃねーんです! アレは変態の腹黒なんですよっ、こののはお人好しすぎます! ホラ行きますよ!」

「悠希かわいー」

 楽しそうな茶々を全力で聞き流した悠希は、些か乱暴に階段に足を載せた。と、響く音が妙に軽くて、咄嗟に足を引く。

「……また罠ですかね」

「え? この辺はあんまり何も出来ないよ」

 そう言いながら覗き込んだこののが、悠希が足を置いた3段目に触れる。するっと、板が横にずれた。

「あれっ、動いた! おもしろーい!」

「うわあ、隠されたハンドルなんて怪しすぎますね……」

 好奇心剥き出しのこののに対して、悠希は胡乱げな声を上げた。勿論、この異世界邸で見つかるギミックなんぞ碌なものじゃない、という確信があるからである。

「このの、ここは何も見なかった事にして撤退しましょう」

「えぇ、どーして? 面白そうじゃん」

 本気で不思議そうなこののに、悠希は真顔できっぱりと告げた。

「自分はこののと違って自衛もままならないか弱い一般人ですから、危険なとこに首つっこむのは趣味じゃないんです」

「だいじょーぶだよー。悠希、お父さんに護身術習ったんでしょ?」

「習ったというか叩き込まれただけですし、アレはこういうのには」

「くーるくるー」

「ちょっと!?」

 悠希の反論も聞き流し、こののが楽しそうにハンドルを回す。階段の壁が音と共に後ろに下がり、人間一人が余裕で通れる通路がぽっかりと口を開けた。

「おー、ダンジョンみたい! 行ってみよー!」

「いやいやいや、こんないかにもやばそうなとこ、行っちゃ駄目ですよ!」

 躊躇わず飛び込んでいこうとしたこののを、悠希が必死で引き留める。こののが不満げな顔で悠希を見上げた。耳がぺたりと倒れ、つまんないよう、と訴えている。

「悠希がノリ悪いー。ダンジョンだよ? 金銀財宝ざっくざくだよ?」

「う……って、そんなので釣られませんからね!」

「えー。行こうよ、面白そうじゃん」

「だから自分は、」

「おい嬢ちゃん達、そこで何してる!」

 突然割って入ってきた声に、言い合っていた悠希とこののが同時に振り返る。見覚えのある小さな姿に、こののがぴんっと耳を立てた。

「やった、案内人確保!」

「へ」

「え」

 がっしと、外見に見合わない力強さで悠希と乱入者——貴文に異世界邸の地図作成を任されている冒険者のリックの腕を捕らえ、こののは満面の笑みで一気に駆けだした。

「いざ、ダンジョン探検ー!」

「「ええぇえええ!!??」」

 1人分の楽しそうな掛け声と2人分の悲鳴をドップラーに、3人は暗がりの先へと消えていった。



***



 勢いよく駆けだしていった娘を見送り、栞那は軽く溜息をついた。無性に煙管が恋しくなりながら、傍らでニコニコしている悠希の父親であり、栞那の夫である中西かけるを見やる。

「で、結局何がしたかったんだよ」

 栞那とて、所用で医務室を離れた僅かな時間で唐突に姿を現した夫には、一言くらい言ってやりたいのである。ここは栞那の城、患者でもないのに許可無く入られるのは少々不愉快だ。

 自然じっとりとした眼差しになる栞那だが、その程度で動じてくれる相手ではないのも分かっていた。現に翔は、わざとらしさを追求したのかと思えるほどオーバな仕草で両手を広げ、肩をすくめている。

「引っかかる聞き方だなあ。多忙を極めてる院長が、珍しく時間が出来たからって愛しい妻子の顔を見に来ても、何らおかしくないだろ?」

 サワヤカな笑顔で宣った翔に、栞那は目を細めた。

「半年ぶりの暇時間たあ、院長サマもお忙しいこった。これが貴文と神久夜が珍しく外出しているタイミングを狙い澄ましての出没じゃなきゃ、あたしももっと素直に労ったんだがな」

「仕方ないだろ、あの夫婦、俺を目の敵にしてるし。そういえば、さっきの子は2人の娘さん? 初めて見たけど、お母さん似だね」

 さらっと物騒な事実を言い流した翔に、栞那は呆れきって呟いた。

「戦闘系の異能も持ってないくせに、あの2人に目の敵にされるって異常だな。こののは悠希に懐いてるよ、悠希も可愛がってるし」

 まだ小学生だがと栞那が言い添えれば、翔はなるほどと頷いた。

「良い子そうだったもんねえ、お父さん似のきな臭さもあったけど。あれだけ懐いていれば、良い守りになりそうだ」

「……あのなあ、そういうトコが悠希に嫌われんだぞ?」

 あっさりと初対面の少女を見抜いた上で利用価値を論じた翔に、栞那が釘を刺す。翔はにこやかな表情のまま、オーバな仕草で首を横に振った。

「愛娘が心配で心配でたまらないだけなのに、当の本人の理解を得られないとは寂しいな。とはいえ、同じ空気も吸いたくないって言いながら栞那の許可聞くまでは待ってるんだから、可愛い反抗期だよねえ」

 上機嫌にさえ見える翔に、栞那はまた溜息をつく。

「はあ……。ま、確かに悠希も心の底から嫌悪してるわけじゃねーけど。父親への夢を打ち砕かれての現状だから、反抗期と言えば反抗期だが……この場合十中八九、翔が悪い」

「あははは、それは否定しないよ」

 きっぱり言い切った栞那に、翔は笑いながら同意した。潔すぎる——愛娘の反抗を気にかけてもいないかのような態度の彼に、思わず栞那は半目になった。栞那の冷え切った視線を受け流し、翔はにこやかに診察室の奥を指差す。

「という訳で、ご機嫌取りのお土産も買ってあるんだよね。悠希の大好きなレアチーズケーキ、冷蔵庫に入れておいたから後でどうぞ」

「……わざわざ『フロマージュ』に寄ってきたのか?」

 麓の街の小さな店舗で運営している人気の洋菓子屋『フロマージュ』は、中西病院から異世界邸に向かうのとは逆方向だ。車でも30分は余分に時間がかかる。『フロマージュ』名物のレアチーズケーキは確かに悠希の大好物だが、多忙を極める病院の院長が僅かに出来た隙間時間を割くには少々大きすぎるタイムロスだ。それが分かっている栞那は、少なからず驚いて翔を見上げた。

「ああ、勿論栞那の好きなモンブランも買ってあるよ」

「……そうじゃねえっての」

 さらりと付け加えられた答えにならない答えに、栞那はふいとそっぽを向く。直ぐに照れ隠しだと気付いたのだろう、翔が密やかに笑う声が聞こえた。

「そうそう、もし悠希が俺の買ったものは嫌って言いそうなら、栞那が買った事にしておいて。なんだっけ、風の精霊がやってる配送屋。あそこに注文したって言えば怪しまれないだろ」

 けれど、流石にこの言葉には栞那も眉を顰めた。ゆっくりと翔を振り返って睥睨する。

「それは挑発か? あたしが、嫌がってるとはいえ父親の好意も無碍にするような娘に育てる馬鹿に見えると言うなら、その挑戦受けて立つぞこの野郎」

 翔は大袈裟に首を横に振って、両手を肩の横に挙げる。

「ごめんごめん、そういうつもりじゃないさ。栞那のお陰で悠希は良い子に育ってるよ、それこそ俺の娘とは思えないくらい」

「バーカ」

 吐き捨てるように罵倒して、栞那は立ち上がった。翔の横をすり抜けて、診察室の奥のカルテ室に置かれた冷蔵庫へと向かう。

「有り難く貰っとくよ、悠希もな。で、何の用なんだ結局」

 栞那の追求に、今度こそ翔は返答を返した。

「いや、少しばかりきな臭い噂が耳に入ったんだ。ここにまでは被害は及ばないだろうけど、悠希は中学生だしね。少し警戒させてやって」

 軽い口調ながらも忠告し、それでも詳細を明かそうとしない翔を、栞那が肩越しに振り返る。

「言っておくがな、翔。こののは確かに両親のハイブリッドだが、それ故に学校に行けない日もある。今日がまさにそれだ。それに悠希は誰に似たのか、力はねー癖に人に守られる事をよしとしない、頑固者だ」

 初めて、翔の笑顔が揺らいだ。けれど直ぐに揺らぎの名残すら消し去り、さらりと返す。

「それはそれは、困り者だね。けど俺もこれ以上は知らないんだよねえ。中西病院は医療以外に関わらない、が暗黙のルールだから。患者さんがそれとなく知らせてくれる以外は詮索禁止なんだよ」

 栞那は様々な感情を込めて、夫を見返し言った。

「……あのめんどくせえルール、今となっては守る意味ねえだろ」

「あはは、駄目だよ。俺達に出来るのは、守る事だけだからさ」

 軽い笑い声と共に告げられた、言葉。しかしそこには、絶対に譲らぬ強い意思が見え隠れしていた。

 栞那はありとあらゆる感情を呑み込んで、溜息をつく。そう、この意思の根底に見えるものを嗅ぎつけたが故に、悠希は翔に噛み付くのだ。

(ま、父親に妻子よりもてめえの命よりも大事なものがある、なんて、中学生のガキにゃあわかんねーし、納得もできねえか)

 正直、悠希の反抗は物凄く真っ当なものである。それに関して庇う気はさらさら無い栞那は、けれどさりげなく翔に背を向けて告げる。

「なあ翔、あたしのモンブランと悠希のレアチーズケーキ以外に何か1つくらい買ったんだろ? コーヒー淹れろ」

 背後から少し驚いたような気配が伝わってきて、栞那は後ろに見えないようこっそりとガッツポーズを取った。この旦那様の不意を突いてペースを崩すのは、栞那の密かな挑戦であり楽しみである。

 ふっと、翔から漂う空気が和んだ。

「……はいはい、働き者の奥様の為に淹れさせて貰いますよ」

「はん、最前線でガチ働きしてる院長がよく言う」

 鼻で笑いつつ、翔が素直にお湯を沸かし始めたのを横目で確認した栞那は今度こそ冷蔵庫に手を伸ばす。好物の入っているだろうケーキの箱を期待して、勢いよく扉を開けた。


 栞那が手を伸ばそうとした先には、てかてかした鱗が全身を覆った爬虫類くさいナニカが栞那をじっと見上げていた。

 龍である。1人用冷蔵庫にすっぽり入るサイズではあるが、龍である。


「……は、」

 流石に不意を突かれて硬直した栞那に、龍がくわっと口を開いた。牙を剥いた口から、小さく炎が漏れる。伸ばしかけたまま中途半端な位置に浮く栞那の手にカプっと噛み付こうとしたまさにその時、横合いから伸びた手が無造作に龍の顎を捕らえた。そのまま力尽くで口を閉じさせる。

「懐かしいなあ、この異次元に繋がった冷蔵庫」

 平然とそう言って、翔はぽいと龍を冷蔵庫——を介して繋がった異世界空間——の奥に放り投げた。ぱたんとドアを閉め、しばし待つ。

「それにしても、人がケーキ入れてから取り出すまでの短い時間で、わざわざここの冷蔵庫に接続しなくたって良いのにねえ」

 せっかく買ってきたのに、と然程残念そうでもない声で締めくくった翔は、たった今モンスターを追い払ったとは思えない平常運転で、改めて扉を開けて覗き込む。


 扉の向こうは、森にでも繋がっていそうな草原が広がっていた。


「あー……やっぱこれ、しばらく戻らないな」

「……そういや、密閉空間に1度繋がるとその中身は綺麗さっぱり消え去るって、前に神久夜が言ってたな」

 ようやく声を取り返した栞那がそう相槌を打つと、翔は苦笑してズボンのポケットに手を入れた。取り出した財布からお札を取り出す。

「精霊に頼めば夜には間に合うだろ。俺は流石に戻らないとどやされるから、悠希と栞那でごゆっくりどうぞ」

 そう言って栞那の手にお札を押しつけ、翔はふらりと歩き出した。その背中に、何となく栞那は声をかける。

「行くのか?」

 いくつもの意味を込めた問いかけは、何気ない返答で全て答えられた。

「そりゃあ、あの病院が俺の仕事場だからね。管理人夫妻に見つかって騒ぎになる前に俺は退散するよ、またそのうちな」

 彼の意思を正しく理解し、その上で容認している栞那は、そう言われれば見送るしかない。心の中で諦めの溜息を漏らして、栞那はせめてと出て行こうとする翔に告げた。

「次はもーちょい早く顔出せよ。事前に連絡くれれば、あたしも管理人は上手く誤魔化しておいてやるからさ」

 翔が振り返った。少し困ったような顔で微笑って、呟く。

「栞那は本当に、俺に甘いねえ」

「当たり前だろ。あたしは翔の妻なんだからよ」

 にっと、栞那は不敵に笑った。それを見た翔が、珍しくつくりものでない自然な笑みを返す。

「それは何とも、心強い」

「だろ」

 胸を張った栞那に小さく笑って、翔はひらりと手を振った。

「じゃ、そんな奥さんのおねだりには応えないとな。また近いうちに」

「おう、そん時は悠希もふん縛っとく」

「それは盛大に喚きそうだねえ」

 本人が聞いたら喚くどころではないだろう台詞を吐いた栞那に戯けて言い返し、翔は医務室を出て行った。


 やたら静かになったように感じる医務室で、栞那はぽつりと呟いた。

「……那亜んトコで珈琲でも貰うか」

 折角の旦那様の珈琲を飲み損ねた栞那は、癒しを求めて風鈴家へと束の間の休息を取りに向かったのだった。



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