邸と迷宮【part山】
山中にぽっかりと浮かび上がった荒野の中心に残された冷蔵庫。それを目にした貴文はがっくりと膝を折った。
守るべき邸が跡形もなく消え去った。
その光景に、共闘していた九朗左衛門と悪十郎、誘薙も何と声をかければよいか分からず呆然とする。
――ただ一人、馬帆だけはケタケタと愉快そうに嗤っている。
「おおー! 木っ端ミジンコとはこのことっしょ! マジやばたにえん、なんか冷蔵庫が残ってんのもシュールでウケるー。写真上げちゃお」
などとほざきながら風でスマホを浮かせて自撮りを始める。それを見てようやく沸々とマグマのような感情が沸き上がってきた貴文は、ぎゅうっと奥歯に力を込めて無言で竹串を投擲する。
しかし。
「ばーか」
「がはっ!?」
竹串は馬帆の周囲を渦巻いていた風に絡めとられ、逆に貴文に投げ返す。音速に届こうかという勢いで返ってきた竹串を受け止めることもできず、貴文は喉元に諸に喰らってしまい、地面に倒れ込む。
「ウチを狙うのは筋違いっしょ。八つ当たりもいいとこってゆーか、いい歳したオジサンが年頃のオンナノコに手ぇ出すとかマジ事案なんですけどー」
「誰の、せいで……! ぐふっ」
喉を抑えて起き上がろうとする貴文に、馬帆は頭上から風の塊を降らせて拘束する。
「さ、ここにはもう用はないかな? お次はぁ、麓でおいしーデザートタイムと行こうか♪」
「行かせると!」
「思ってんのか!」
くるりと麓の街へと向き直った馬帆に、九朗左衛門と悪十郎が殴りかかる。しかし馬帆が無造作に葉団扇を振るうと、轟音と共に残された木々をへし折りながら吹き飛ばされていった。
「マジ意味ぷー。魔王名乗ってるくせに完全に人についてんじゃねーよ。あんたらもあの街を壊そうとしてたくせにねー」
「それほどまでに、君が作ったソレが人魔のバランスを崩壊させるものだって理解していますかぁ?」
馬帆に向かって風の刃が無数に襲い掛かる。それをため息交じりに、多少の力を込めて馬帆は葉団扇で振り払った。
「それさー、誘薙っちが言っちゃう〜? そもそも人間側にあんなのがいなきゃ、ウチもここまでやる必要なかったわけ。てゆーか、ウチに手ぇだして終わるお話じゃもうないっしょ、それくらいわっかんないかなあ?」
「確かに、こうなってしまったのには僕にも責任がありますからねぇ。もちろん、君にも。一緒に対処してもらいますよぉ」
「あっはー☆ ……お断りだ」
轟ッ!!
瞬間、風と風が激しくぶつかり合う。
片や世界を守護する大精霊、片や神にも並ぶ力を有する大天狗。
力は完全に拮抗し、そして周囲を巻き込み天へと向かって大地そのものが吹き飛んだ。
「ぎゃわわわわんっ!?」
「こ、これは……!」
その風は遠くから成り行きを見守っていた者たちをも絡めとり、吹き飛ばす。
永遠に続くかとも思われた大嵐。しかしその暴風はある時ピタリと、止まった。
「ふっふーん、世界の守護者と言ってもこの程度かー」
風がやみ、はげ山同然となった山中に立っていたのは馬帆と、相変わらず瘴気を吐き出し続ける「瘴り神」のみ。
「とは言っても油断しないよん。どーせどっかに雲隠れしてコソコソ様子窺ってんでしょ。それならそれで全然問題ナッシン! この隙に麓に向かってレッツラゴーだぜ!」
調子よく笑いながら葉団扇の先を街の方へと向ける馬帆。とは言え、別に「瘴り神」を馬帆が制御しているわけではない。これは生命力の強い方に向かって突き進むだけの世界の不具合だ。
だから「瘴り神」は馬帆に言われるまでもなく――はげ山にただ一つ残された冷蔵庫に向かって飛び掛かった。
「は?」
わけも分からずポカンと口を半開きにする馬帆。
すでに生命力の塊のようだったあの異質な邸は「瘴り神」によって消滅した。跡地に残されたのが強固すぎる防御壁の張られた一室だけならばともかく、冷蔵庫というのはやや妙な話ではあるが、それでも「瘴り神」が喰いつくようなものではないはず。
しかし現実に、「瘴り神」は瘴気の波だけではなく、自身の手を伸ばして冷蔵庫に向かって走り出していた。
「一体何が――!?」
と、その時。
ぱっかーん!
冗談のように軽い音と共に冷蔵庫の扉が開け放たれた。
そして中から――黒く巨大な、禍々しい腕が伸びてきた。
「え、え!? なになにッ!?」
狼狽える馬帆を余所に、「瘴り神」の発する瘴気をものともせず、黒い腕は唯一残された部屋――異世界邸管理人室をその禍々しさからは想像もできないほど優しく、静かに抱きしめる。
そして。
メキ。
メキメキメキ。
メキメキメキメキメキメキ!!
耳を劈くような軋みを発しながら、邸が生えてきた。
「は、はあ???」
目と口をポカンと開け、馬帆は目の前で起きていることが理解できず、ただ茫然と眺めていた。
その間にも邸は巨大化を続け、あっという間に「瘴り神」に破壊される前の大きさにまで戻った。
否。
「ちょ……これ、止まらない……!?」
邸は元の風体にまで戻っても、成長が止まらない。
それどころか山全体を呑み込まんばかりに肥大化を続け、ついには「瘴り神」すらをも内側に取り込んだ。
「待って待って待って!? マジでなんなのこれ!? ちょーイミフってか、これ、まずい!!」
呆気に取られて「瘴り神」が邸に覆いつくされるのを眺めていた馬帆は、ようやく目の前にまで迫っていた脅威に気が付く。
邸は既に、馬帆に向かって壁を伸ばしていた。
「やば――!?」
しかし一歩遅く。
邸の壁は獲物を締め上げる大蛇の如く馬帆を取り囲み、内側へと呑み込んだ。
一瞬の静寂と漆黒。
次に馬帆の視界が開けた時、彼女は見覚えのある空間にいた。
噎せ返るような甘ったるい香の焚かれ、趣味の悪いごてごてとした装飾の施された紫色の暗幕が垂らされた石造りの部屋。
確か、天逆毎の転生体の片割れを攫う時に外界から介入した際に見た部屋だ。
その部屋の中央に、いた。
『ようこそ。鞍馬の天狗よ』
大きな巻き角に黒毛の羊頭の女。
蜂のようにくびれた腰があらわになる、呪術的な装飾品をじゃらじゃらとぶら下げて局部のみを隠すという異様な姿の、異形。
「……あっは♪ なるほどー、そう来ちゃったか〜……」
馬帆がわざわざ魔王の目を盗んで天狗風を吹かせてでも接触したくなかったソレが、馬帆を真っ直ぐ捉えていた。
『先ほどは随分と舐めた真似をしてくれたものだな。うぬは、決して敵に回してはならぬ存在の怒りを買ったのだ』
ぱきり、と羊頭の女の指が軋む。
『故に、やつがれがうぬと相対することとなった。さて遊んでやろう、小便臭い小娘よ』
あ、これ詰んだ。
馬帆の笑みが、軽く引き攣る。
「……、小娘に対してちょっぴり手加減とか〜……」
『半殺しまでは、許可されている』
にたりと、羊の口が耳元まで吊り上がった。
* * *
「……こ、ここは……」
貴文はゆっくりと上体を起こした。
記憶を辿る。
確か、「瘴り神」によって異世界邸が消滅し、それに激昂して元凶である天狗の少女に突っ込んで――返り討ちに遭った。そして不可視の風で押さえつけられている間に、気を失ったようだ。そこから先は覚えていない。
「そうだ、あの天狗……!」
「おお、目が覚めたか邸の監視者よ」
と、足元の方から渋いバリトンボイスが聞こえてきた。
声のする方に視線を向けると、マジシャン衣装の黒兎のぬいぐるみ――ラピがぴょんこぴょんこと跳ねながら近づいてきていた。
「貴公で最後か。目立つ外傷はないようであったが、無事で何よりである」
「あ、ああ……体は何ともないが……そうだ! 邸! 皆は!?」
「安心したまえ。全員無傷……とは言えぬが、貴公の妻子含め無事である」
異世界邸が消滅した時、ラピを含めた異世界邸の住人のほとんどは階下のノルデンショルド地下大迷宮に避難していた。無角童子を通してしまうという失態を演じてしまったが、今こうしてラピが自分を診ていたということは、少なくとも地下避難組は本当に無事だということだろう。
「だ、だけど邸が……俺が守るべき、みんなの帰る場所が……」
「瘴り神」によって消滅した異世界邸。これまでも全壊全焼は何度かあったが、完全なる消滅は初めてだった。復旧は絶望的だ。
「否。そちらについても、今のところは問題はない」
「え?」
「見たまえ」
ラピがステッキで先を指し示す。
薄暗くて気がつかなかったが、貴文は異世界邸管理人室に寝させられていたらしい。もう嫌と言うほど見慣れた書類が山積みになった執務机に、浅黒い肌の少年が腰掛けていた。
「え、グリメル……?」
それは異世界邸の良心、那亜が面倒を見ていた童姿の元迷宮の魔王だった。なんだか記憶よりも一回りほど大きくなっている気がするが、見間違うはずがない。
「え、ちょっと待て。なんでグリメルがそこに座ってるんだ」
あの席は――異世界邸管理人室の執務机は、文字通り、異世界邸の管理を任された者しか座れない。一時、栞那や管理人代行として来ていた白峰零児が座っていたこともあるが、あれは貴文が不在ゆえの緊急事態だったからだ。今こうして貴文が健在である以上、何人たりともその席には座れないはずなのだ。
「それについては緊急時故の事後承諾で申し訳ないが――現在、異世界邸の管理人は我が主君、グリメル・D・トランキュリティということになっている」
「……。…………。………………。はあ!!??」
ラピの言葉が理解できず、二度三度脳内で言葉を噛み砕き、咀嚼し、ようやっと呑み込んで、驚愕に絶叫した。
「は、え、ちょっ!? どういうことだ!? 何してくれてんだこのガキ!?」
「待たれよ、監視者よ」
寝かされていたソファーから立ち上がってグリメルに掴みかかろうとしたところを、ラピがステッキの先で小突く。すこーんと間抜けな音と共に腰から下の力が入らなくなり、再びソファーに転がされる。
「緊急事態だと申しているだろう。むしろ感謝してもらいたいものだ。消滅の危機にあった異世界邸を、我が主君がノルデンショルド地下大迷宮の一部として取り込み、それを救ったのだ」
「え……あ……」
そう言えば、白峰零児の残した報告書で呼んだ記憶がある。一度グリメルの力が暴走した際、異世界邸とノルデンショルド地下大迷宮が混ざり合ってしまってとんでもないことになったとあった。
その時の応用で、唯一残された管理人室を迷宮に取り込み、迷宮の一部として邸を復活させたというのだ。
「だがしかし、まことに妙な邸よ。我が主君の力が全盛期と比べ落ちているとは言え、この管理人室を取り込んだだけで、ああして全ての力を注力しなければ御せぬとは」
見れば、グリメルは椅子に深く腰掛けながら眉間に子供らしからぬ深い皺を刻み、瞑想するように目を閉じている。貴文とラピの会話も聞こえていないのか、ピクリとも微動だにしない。
「……邸が無事なのは、分かった。だが後で管理人権限返してもらうからな」
「それについては当然そのつもりだ」
「それで、『瘴り神』は? それにあの天狗も」
「天狗については変態羊に任せている。今頃地獄を見ているであろうよ」
「…………」
ほんの一筋だけ、天狗に対し憐みの情が湧いた。
「そして『瘴り神』については現在対処中だ。麓の街に降りて厄災を振りまかぬよう邸に取り込み、聖域にて封じている」
「は? 聖域?」
全く聞き覚えのない単語に、貴文は間抜け面で聞き返す。
「いまこの邸は迷宮の一部になってるんだろ? なんでそんな聖域なんて存在するんだ。元は魔王の迷宮だろ、なんていうか、あっちゃダメだろ」
「まあ、そうなのだが……これは完全に偶然というべきなのだが、存在したのだよ。それも、『瘴り神』の瘴気を完全に封じ込めるほどの聖域が」
ラピもまた頭痛がするとばかりに額に手を当てる。どうにも迷宮を管理していたラピにとっても予想外のことであったらしい。
「ノルデンショルド地下大迷宮は外部のものを取り込んだ際、迷宮にとって利となるよう多かれ少なかれ強化が掛けられる。元は知能のない鼠が軍略を用いて襲い掛かる階層支配者となるといった例のようにな」
「ん? ってことは、取り込んだ異世界邸が強化されたことでその聖域が生まれたってことか? え、でもそんな場所なんて……」
「あったろう。その場ではいかなる諍いも鎮められ、つい先刻は戦乙女の宴が催されたこともある、魔王を心優しき人の子に育て上げる聖母の居城が」
「……あ」
貴文もそこまで言われ、ようやく頭の中でカチッとピースが嵌った。
「異世界邸の食事処『風鈴家』――そこで彼の『瘴り神』は封じられている。貴公も起きられるのであればすぐに助太刀を頼む。今あの場では、人魔のあらゆる垣根を越えた戦いが行われているのだ」