妖しの風【part山】
「ただいま戻ったのだ!」
空中に創造した巨大な門扉を開き、グリメルが第十三階層に揚々と足を踏み入れる。元々半裸のような格好だったことに加え、第十四階層(仮)での激闘により全身すすだらけのボロ雑巾状態。それでも、彼の無事を微塵も疑っていなかった異世界邸の住人たち、とりわけ那亜は温かく――
「この馬鹿!!」
「ふぎゃあっ!?」
――平手を、ぶちかました。
「一人でこんなになるまで戦って! 死んじゃったらどうするの!?」
「え、いや、アレは男と男の勝負で……」
「そんなものに何の価値があるの! グリメルちゃんが怪我でもしたらと思うと、私は気が気じゃなかったわよ!」
相手が魔王だとか、そもそも那亜よりも年上かもしれないとか、そんなことは些細なものだとどこかにブン投げたかのような、ごく普通の、親から子への叱責。そんなちんけな言葉に、しかしグリメルは針で縫い付けられたかのように俯いたまま動けなくなる。
「いい、グリメルちゃん。こんなことは二度としないと、私と約束できる?」
「で、でもあれは那亜たちのためでも……」
「約束、できるわよね?」
「わ、わかったのだ……」
那亜の異質な迫力に、グリメルもついに項垂れて小さく頷く。
それを見て、那亜は一回りほど大きく成長して背が伸びたグリメルの体を、ぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、私たちを守ってくれて」
「……っ! うん……! でももう、一人では戦わないのだ」
「ええ。ここは私たちのおうちよ。皆で守りましょう」
「ま、待て……!」
と、グリメルが出てきた門扉が再び開かれ、中から全身ぼろぼろの満身創痍の状態の無角童子が姿を現した。それにグリメルは「いい加減しつこいのだ!」と舌打ちしながら身構えるが、それと同時に無角童子はがっくりと膝から崩れ落ちた。
「ま……まだ終わっては……!!」
「呆れた子。そんな状態でもまだ折れずに立とうとしますか」
溜息を吐くと、那亜はカランコロンと雪駄を鳴らしながら無角童子に近寄る。そしてそっと手を伸ばし、無角童子の焼け焦げた髪をそっと撫でる。
「よく頑張りましたね。子供とは言え、魔王相手に善戦するとは」
「那亜……」
「私が鬼の里を離れてからも、血の滲むような努力と鍛錬を積み重ねてきたのでしょう。何年も、何十年も、何百年も、私を追いかけるためにその高みを目指した心意気は、正直、悪い気はしません」
「那亜!」
「ですがまあ、それはそれ」
髪を撫でていた白魚のような指先がすっと移動し、無角童子の耳の先を千切るように引っ張る。
「あだだだだだだだだだだっ!?」
「さっきも言いましたが、私の領域で私の子供に手を出そうとは不届き千万。出直しなさい」
「くぅっ……!」
ピンと那亜が無角童子の耳を弾くと、無角童子はまなじりにうっすらと涙をためて、がっくりと項垂れた。
「那亜にかかれば無角の鬼も形無し、まるで子供なのだ」
さっきまで自身と死闘を繰り広げていた相手の珍妙な姿に、グリメルは思わず苦笑を浮かべる。
場の空気が緩んだ――その時。
「我が君」
「ん? ……うげ」
背後からかかる声に振り向くと、第十階層支配者として勝手に居座っている変態羊が、恭しく跪き、こうべを垂れていた。何故かいつもの黒毛の羊頭は人化しているが、その粘着質で生理的に無理な気配は間違うはずがない。
「報告すべき事態に陥り、参上した」
「……貴様、殊勝な言動もできるのだな……え、ていうか報告?」
全盛期のグリメルも大概だったが、この変態羊も大概頭がおかしくなる力を秘めている。そんな彼女が「報告すべき事態」に陥るとは一体何事かと、グリメルは生唾を呑み込む。
「やつがれの階層に幽閉していた、そこな子鬼の片割れなのだが――外部からの干渉により、連れ去られたようである」
「は……?」
* * *
時は少し遡り。
「あばばばばばばばばばばっ♡」
「うくくくくくくくくくくっ!」
ノルデンショルド大迷宮の最下層で自分たちの主が死闘を繰り広げているとは露知らず、羊と烏のダブル変態は自ら電気椅子に四肢を固定し、全身を駆け巡る電流に声を上げていた。
もっともそれは悲鳴の類などではなく、片や頭部から出る液体全てを垂れ流しながら年頃の子女がしてはいけない顔をして快楽に浸る烏天狗。片や数万ボルトの電圧などこそばゆいだけと言わんばかりに笑いをこらえる変態羊。
時間が進むごとにさらに強さを増す電流。それに合わせるように二人の声は大きくなる。
苦痛を快楽に反転する烏天狗と、そもそも苦痛なんて感じるのか甚だ疑問な変態羊。二人の我慢比べは完全に拮抗――しているように見えて、終わりの瞬間はあっけなく訪れた。
ぼがん!!
「あふん!?」
「おぉ?」
背を預けていた椅子の背もたれが同時に大きな音を立てて爆発。二人は仲よく椅子に固定されたまま前方に椅子ごと吹っ飛び、顔面から床に打ち付けられる。
「うぬぅ、これは予想外。電気椅子の方が先にイかれてしまうとは」
自ら縛り上げた拘束を引き千切り、立ち上がる変態羊。「はーかゆかった」とばかりにえんじ色のジャージの下に手を突っ込みながら隣の吹っ飛んだ電気椅子に目をやる。
「烏天狗よ、すまなかったな。今一度より頑強な電気椅子を用意する故、しばし待て」
「…………」
「んん?」
返事もなければ、立ち上がるそぶりも見せない烏天狗。不審に思った変態羊はぐいと転がった電気椅子を持ち上げる。
「――あ、あヘェ……♡」
烏天狗は舌をだらりと伸ばし、白目を剥いたまま痙攣していた。
「……なんだ。既に限界に達していたのか。いや、よく考えれば理か。快楽も過ぎれば肉体には毒となる。電気椅子など何も感じぬやつがれとでは、そもそも勝負にすらなっていなかったとは」
しかしこれは目先の欲に考えなしに食いついた烏天狗が悪い。やつがれ悪くない、と変態羊は首を振る。
「まあそれはそれとして。それでは約束通り――ぱんつはやつがれがもらい受けよう!」
ニィッと耳元まで口角を持ち上げながら、指を気色悪くうねうね動かす変態羊。その指先が、烏天狗のスカートの裾に届く――その直前。
ひゅおっ
「む?」
一陣の風が吹き、烏天狗の姿が――目の前から消えた。
「なに……?」
それに変態羊は大きく瞬きをし、タラリと、冷や汗が額に浮かんだ。
部屋の片隅には風の残滓が漂っている。その匂いは、変態羊が今いるノルデンショルド地下大迷宮のものではなく、異世界邸が存在する外界のものだった。
「おい。おいおいおいおいおい? 冗談であろう? ここはノルデンショルド地下大迷宮第十階層――我が君の『閉ざされた世界』の深層部であるぞ!? ジョンの守護する第一階層とは話が違う! 入り口から力押しで迷宮を破壊しながら突き進むのとも訳が違うぞ! 第十階層に直接外部から干渉してあの小娘を攫っただと!?」
そんなことは不可能だ。
迷宮の主の許しがない限り、もしくは迷宮の管理権限を譲り受けている黒兎がいなければ、そんな道理は理に反する。
例外があるとすれば、変態羊――残虐の螺旋、もしくは誑惑の魔王エティスのような埒外の存在くらいだ。
「下界では何が起きているというのだ」
否、そんなことよりも、このことを伝えなければ。
エティスはグリメルの気配を辿り、自身の座標を迷宮の最深部へと移動させた。
* * *
同時刻――紅晴市南東部。
「いい加減、ウッザいですわ!!」
本日何度目かもわからない怒号を撒き散らし、白羽は太刀を振るう。斬るべきものを斬るその偉業の刃は、しかし今日この日に限っては何物をも断ち切ることができず、虚空に無常な風切音を響かせるだけだった。
「うなあああああっ! さっさとぶっ壊れてください!!」
しかしそれは相対する天真子も動揺だった。壊れないものを壊す「あべこべ」が、なんかよくわかんない感じにねじ曲がり、先程から壊すべきものが逆に修復され、街並みがみるみる綺麗に整えられていく。これはこれである種の破壊活動とも言えなくもないが、今はこんなことをしている場合ではない。苛立ちがどんどんと高まっていく。
元々好戦的な血筋に加えて、天性の短気さをもって生まれた瀧宮白羽。
これまで苦痛なもの、不快なものを「あべこべ」によって他者に押し付けてきた天真子。
ストレスに耐性がない者同士のぶつかり合いは、衝突から一時間余り経ってようやく――天秤が傾いた。
「ああ、クソが!! あのド阿呆、次会ったら絶対なますにしてやる!!」
この場の地脈に多大なる悪影響を及ぼしている諸悪の元凶に対し、ブンと無意味に太刀を振るった。
もちろん遠く離れた場所でギャーギャー喚いている馬鹿にそんな斬撃は届くことはない。
しかしその間抜けが意図せず遠く離れた白羽たちを苦しめていると同じように、白羽の斬撃もまた意図せず、あるものを斬った。
「……っ!? これは……!!」
ソレを斬った瀧宮白羽よりも先に気付いたのは、天真子の取り巻きの鬼たちに拳を振るっていたムラヴェイだった。
彼女はその感覚を、身をもって体感していた。
かつて主君と共にこの街に攻め入った時の拠点、空中要塞〈グランドアント〉に侵入してきた男、白羽の実兄の瀧宮羽黒。フォルミーカに〈グランドアント〉の全指揮権を与えられたことにより付与された「要塞内であればどこにでも存在しうる」という能力を、あの男は空間の支配権を上書きすることで封じてきた。
原理はそれと同じなのだろう。
空間を斬り抜き、自分がその空間の主となる。
羽黒は〈グランドアント〉内から自身の周囲の空間を斬り抜いたが、白羽は紅晴市という土地から、天真子との戦場を斬り抜いたのだった。
地脈が絶たれ、ジャミングと不具合が綺麗さっぱり取り除かれる。
もちろんその現象は偶然の産物であるし、世界に悪名轟く瀧宮羽黒と、齢十にも満たない白羽とでは事象の完成度も違う。
故に斬り抜かれた空間は一秒と経たずに元に戻った。
「――あは♪」
しかし、それで十分。
世に「寒戸」と呼ばれる、時間歪曲型の神隠し――それを人為的に発現させることができる瀧宮白羽にとって、一秒とは悠久に等しいほどの時間である。
「がっ!?」
「ぐふっ……!」
一秒。
瞬きの間に、白羽は天真子率いる百鬼夜行を一刀のもとに斬り捨てる。
天真子も、ムラヴェイも、街の術者の少女も、時間を超越した白羽の動きを追うことができずに立ち尽くす。
ただ一人――終始、白羽の観察だけに全ての力を注いでいた、ヴァイスを除いて。
「見極めさせていただきました、白羽様」
斬り抜かれた空間が元に戻る寸前。
右腕を、刺々しい刃の生えた蟲の脚に変形させたヴァイスが、天真子に肉薄する。
「や――」
天真子は息を呑む。元々荒事などとは無縁な、ごく普通の女子高生生活を送っていた、どこにでもありふれた少女でしかない。ヴァイスの動きに反応できるはずもなく、蟲の刃が自分の体に喰い込んでいくのを妙に長く感じる時間の中見つめるしかない。
いつもなら、「あべこべ」によってその痛みを他者に押し付けることでのうのうと生き続けるところだ。
しかし、今は周囲に押し付ける都合のいいモノは存在しない。
ザン!
ヴァイスの腕が天真子の体をすり抜ける。
斬るべきものを斬る異能――瀧宮白羽の剣戟を完璧に模倣したヴァイスにより、天真子の意識が斬り落とされた。
「お見事ですわ、ヴァイスさん」
「恐縮でございます、白羽様」
脱力しぐったりとする天真子を抱えるヴァイスの元に白羽が駆け寄る。ムラヴェイも、周囲の様子をぐるりと見渡し、自分たち以外誰も残っていないと確認すると二人の元へ駆け寄った。
「終わった……のか」
術者の少女もまた、ふうと一つ息を吐き、刀を鞘に納める。ここの戦場は完結したとはいえ、他の場所では今でも数多の鬼が術者たちの命を散らさんと暴れている。呼吸が整い次第、指示を仰いですぐに移動しなければ、と意識を「次」へと向けた。
その時。
「――あっは♪ 二人目みーっけ」
何の脈絡もなく、何の気配もなく、そんな嘲笑が降ってきた。




