那亜の過去【Part夙】
ノルデンショルド地下大迷宮第十三階層――玉座の間。
鬱蒼と生い茂った常闇の森は、大迷宮の最下層に位置している。地下なのに夜空が見える不可思議な空間の奥。かつて赤子のグリメルが暴走した際に那亜と共に引き籠もった粗末な小屋に、異世界邸の避難民たちは集まっていた。
本来、五層が破られた時の避難先は第十層になる予定だった。だが、無角童子のレベルではすぐに追いつかれてしまうと考え、そこからさらに最下層まで下りたのだった。
足止めしていたセシルやフランたちがどうなったのかは、わからない。いつの間にかアリスまで消えていた。住民たちの不安はもはや隠しようがないほど膨れ上がっている。
「まずいんじゃねえですか? 管理人たちが間に合わずに敵がここまで来ちまったら、自分たちは袋の鼠です」
悠希が恐怖で身震いするのを抑えるように自身を抱き締めた。考えたくはないが、管理人たちが倒された上で突破されたのだとしたら助けなど期待できない。
「大丈夫ですよ。いざとなれば、私が彼を止めます」
そんな悠希に那亜が安心させるような優しい口調で告げる。
「彼の目的は、私のようですから」
覚悟を決めた彼女の表情は、逆に悠希たちの心を不安にさせた。
「そんなのダメだよ那亜!」
「そうです! 那亜さんを差し出すような真似、できるわけねえです!」
堪らず叫んだこののと悠希に、他の住民たちもうんうんと頷く。那亜は異世界邸の母と呼べる存在だ。そんな彼女を犠牲にして生き永らえることなど、この場にいる誰も望んでなどいない。
と思っていたが――
「あのぅ、これは新参者のボクだから空気を読まず訊けると思うんですけど」
おずおずと控え目に挙手したのは、夢魔の青年――ソーニョ・ソンジュだった。
「ぶっちゃけ、あのおっかない鬼の目的があなたなのはわかってます。でも、どういう目的なのかがイマイチ見えないんですよねぇ。あなたは、あの鬼とどういう関係なのでしょうか?」
「……ッ」
眠気を誘うような声音で問いかけるソーニョに、那亜は酷く言い難そうに言葉を詰まらせた。その様子から只事ではなさそうだと悟るも、悠希をはじめ誰もが口を噤んで彼女の言葉を待つ。
やがて、那亜はどこか寂しさを滲ませた表情をしつつ口を開いた。
「私は、約四百八十年前に月波の地で生まれた鬼子母神像の付喪神です」
「四百八十年前!?」
予想外の歳月に悠希は思わず声に出して驚いてしまった。那亜が人間ではなく、人間以上に生きていることは知っていたが、流石に五世紀近く前からだとは思っていなかったのだ。
「それから数百年、私は瀧宮一族の乳母としての役目を与えられていました。百年前にある鬼に攫われるまでは……。この辺りまでは、先日白羽さんが管理人さんやアリスさんと話をしていたので、知っている方もいらっしゃるでしょう」
悠希やこののは初耳だったが、栞那は知っていたらしく神妙な顔をする。
「その攫った鬼が無角童子だった、ということか?」
「いいえ、違います。ですが、無関係だったわけではありません」
那亜は小さく首を横に振って否定した。
「ここからは先代の管理人さんも瀧宮の人たちも知らない話になります」
ごくり、と悠希は生唾を飲む。那亜の知られざる秘密が明らかにされる緊張感で体が強張ってしまう。でも耳だけは、彼女の言葉を聞き逃すまいと研ぎ澄まされていく。
「率直に言えば、私を攫った鬼は無角童子の父親でした」
始めにそう切り込んで、那亜は己の空白期間に起こったことを語り始める。
「生まれて間もない無角童子は、その膨大な妖力を制御できず、本来あったはずの一本角が粉々に砕かれていました。彼の母親は、彼を生むと同時に力の暴走に巻き込まれ命を落としています。私はその母親の代わりとして連れ去られたのです。幼子の傍だと力を増す私でも、彼のお世話をするのは命懸けでした」
「逃げようとは思わなかったんですか?」
「最初は思っていましたよ。ですが、自らの妖力に苦しむ赤子を見捨てるようなこと、私にはできませんでした。だから彼の力が安定するまでという約束で、お世話を引き受けることにしたのです」
那亜の性格をよく知っている悠希は納得せざるを得なかった。それがどんなに危険な存在だろうと、赤子である限り那亜は絶対に見捨てたりはしない。グリメルの時だってそうだった。
「成長するに連れて、彼は角がなくとも己の力を制御できるようになっていきました。元々その才覚があったのでしょう。私にもよく懐いてくれて……ふふふ、『立派な鬼になったら那亜をお嫁さんにする』と言ってくれたりして、とても可愛い子供でした」
「……想像できねえです」
今の厳つい姿を見てしまっている悠希は頬を引き攣らせる。
「だとすれば、なぜ奴は那亜を狙っている? 凄まじい怨念を感じたが……それからなにがあったというんだ?」
「恨まれるのは、当然でしょうね」
栞那の問いに、那亜は微笑みを消して諦念と覚悟を孕んだ口調で告げる。
「私は、彼の父親をこの手で殺してしまったのですから」
「なっ!?」
那亜の口から彼女らしくない言葉を聞いて悠希は絶句した。
「彼の父親は、彼の力を利用して鬼の世界を牛耳るつもりだったのです。偶然それを知ってしまった私も殺されそうになり、子を守りたい一心で抵抗しました。そして気がついたら彼の父親を返り討ちにしていたのです。――彼の、目の前で」
ぞくり、とした悪寒が悠希の背筋を凍らせた。那亜が誰かを殺したなど、とてもじゃないがイメージできない。
「父親殺しをした私を見る彼の裏切られたような目は、今でも鮮明に覚えています。私にはもう『母』を名乗る資格はない。そう思って、なにも言わず逃げるように彼の前から姿を消しました。その時点で、攫われてから二十年余りが経っていました。彼の力はほとんど安定していたので、もう母がいなくとも大丈夫だろうと……」
那亜はそこで気持ちを落ち着かせるように呼吸を一つ挟んだ。
「瀧宮にも戻れませんでした。当時の精神状態で乳母の仕事はできそうになかったですし、戻れば全てを話さなくてはいけなくなります。そうなると彼は討伐の対象です。だから私はこのことを黙ったまま宛てもなく放浪し、先代管理人さんと出会って――あとは皆さんも知っての通り異世界邸で風鈴家を営むことになったわけです」
話が終わると、小屋の周囲はしんとした静寂に包まれた。別に那亜を恐怖の目で見ている者はいない。誰もが仕方なかったと理解している。ただ、あまりにも彼女の普段のイメージとそぐわないため戸惑っているだけだ。
そんな空気をぶち壊すように、ソーニョが顎に手をやった。
「なるほどなるほどぉ、つまりあなたは彼にとって父親の仇なわけですね」
「まさか那亜さんを差し出すなんて言いやがらねえですよね、ソーニョ?」
「言いませんよぅ。ボクにそんな決定権はないでしょう?」
慌てて手を振って否定するソーニョ。異世界邸の住人にはなったが、悠希は彼をまだ信用できていない。その気になれば夢魔の力でなにをしでかすかわかったものではないのだ。
「ちゃんと説明すれば、わかってくれないかな?」
「そうじゃな。無角が父と同じ思想じゃったら無意味じゃろうが……」
伊藤親子が難しそうに唸る。
「ていうか、神久夜さんが戦えばあいつに勝てんじゃねえですか?」
彼女の戦闘力はぶっちゃけ言うとバケモノ側だ。避難所にいるのは心強い反面、なぜいるのかちょっとわからない。
「勝てるかはわからんのう。万一勝てたとしても、無傷とはいかんじゃろうな。私やこののが傷つくと貴文が暴走してしまうのじゃ。あんな貴文、私はもう見たくないのじゃ」
「あぁ……」
暴走した貴文の危険度は理性のない魔王のようなもの。神久夜やこののが戦うことは逆にリスクが高すぎるのだ。
那亜が自分の胸に手をあてる。
「今回のことは私に責任があります。先程も言った通り、本当にどうしようもなくなった時はこの身を差し出すつもりです」
「那亜さん、ですからそれは」
「わかっています。その覚悟があるということだけ、皆さんも知っておいてほしいだけです」
優しく微笑む那亜に、悠希はそれ以上なにも言えなかった。
と――
「うっひゃー♪ まったくひっどい目にあったね☆」
「あんなに強いなんて想像以上だったよ~」
「……不覚でございます」
唐突に小屋の隣に設置された転移陣が輝き、無角童子の足止めをしていたはずの三人が出現した。
「セシル、フラン、ウィリアム、無事か!」
ボロボロの彼女たちを見て即座に栞那が駆け寄る。
「致命傷は避けてるよ~」
「セシルちゃんたち気づいたら十層に転移されてたんだ♪ 『迷宮の魔王』の仕業かな? そうじゃないなら、まあ、想像はつくけど☆」
ニマリと笑うセシルがなにを想像しているのか悠希にはわからないが、少なくとも悪い状況ではないことだけはその雰囲気から察せられた。
「アリス様と、グリメル様のお姿が見当たらないようでございますが?」
「え?」
周囲を見回して言うウィリアムに悠希はハッとする。アリスはたぶん十層で迷子にでもなっているのだろうが、グリメルは十三層に来た段階では一緒だったはずだ。
「グリメルちゃん……?」
途端、那亜が不安そうに眉を顰めた。




