『魔女』のおまじない 【part 紫】
山ン本九朗左衛門は、ふと顔を上げ、眉を寄せた。
「九朗左衛門様、どうされましたキー?」
律儀に語尾を守りながら、配下の鬼が山ン本の異変に気付き声をかける。進軍は順調に進み、まもなく中央の山麓に辿り着くところだ。
行く手を阻む術者達は思ったよりもしぶとく、苦戦の結果、少なくない被害も出た。それでも大軍をもってして挑んだ百鬼夜行、この先を進むのにあり余る戦力が残っている。
だが、九朗左衛門はすっと片手を上げ、身振りで進軍を制した。行く先に見える、常緑樹が生い茂る山肌を真っ直ぐ睨み付けながら、重々しい声を出す。
「──何ものか」
「ふふ」
ずしりと重い誰何に答えたのは、軽やかな笑い声。
「こんばんは。山ン本九朗左衛門さん」
凛と響く声に、九朗左衛門は半ば恫喝するように問いかける。
「いかにも我は、山ン本九朗左衛門である。そなたは何ものだ? 我の敵となる気があるのなら、姿を見せろ」
正々堂々と対面する勇気も無い惰弱ものを、九朗左衛門は敵と認めない。
「おやおや。魔王らしからぬ勇猛さだね」
「当然だ。こそこそと卑怯な真似をせずとも、我は我の力だけで魔王たらん」
胸を張って断言し、九朗左衛門はそれで、と続けた。
「それで、そなたは我の敵たるか、否か。──疾く答えよ」
「……そうだね」
ざあっ、と風が木々の間を過ぎていく音が響く。突風に僅か顔を顰めた九朗左衛門は、瞬きの間に現れた女性に、鋭く目を細める。
「初めまして、かな。山ン本九朗左衛門さん。私は、『知識屋の魔女』。以降、お見お知り置きを」
にこり、と笑う女性は、Tシャツに細身のパンツ、黒のビジューを羽織った、一見どこにでもいそうな服装をしていた。
しかし、九朗左衛門は油断なく『魔女』を睨み付ける。
「何故『魔女』が我の道を塞ぐ?」
「ふふふっ」
九朗左衛門にとってその問いかけは当然のもの。魔に通ずる力を持つ彼女達は、どちらかというと『妖魔』──九朗左衛門達と同じ側に立つことが多いからだ。
だが、『魔女』はくすくすと笑い出す。山肌を背景にして、ころころと笑った。
「おかしなことを聞くなあ」
「何?」
「魔女の「気まぐれ」に、理由なんているかい?」
「……なるほど」
魔女の心は魔女の気分1つ。気まぐれだからこそ『魔女』と呼ばれるのだから、理由を聞いた九朗左衛門のほうがおかしいということになるか。
「ま、理由も十分、あるけどね」
「ほう。一応聞こうか」
どのみち自分達が蹴散らすのには変わりない。目の前の魔女は確かに強い魔力の気配がするが、自分達を1人でどうにか出来るほどの力は感じなかった。
だが、だからこそ問えば、『魔女』は口端を持ち上げた。
「──貴方が中央の山を、狙ったから」
「……」
「さて、最後にもう1度、自己紹介だ」
そう言って、『魔女』は己の胸に手を当てる。
「初めまして。私は──北の守護家、『吉祥寺』次期当主。この土地の封印を守るものだ」
──刹那。
「ぎゃあっ!?」
「ぐがああ!」
「ぎいいい!?」
九朗左右衛門の背後から、悲鳴が巻き起こった。
「何事だ──」
振り返り身構えた九朗左衛門は、己の目を疑う。
「……何?」
次々と首を切られ、全身を刻まれ、磨り潰されて消えていく配下達。為す術もなく断末魔を上げていく彼らを倒す敵の姿は──ない。
刃も、術も、魔術すら存在せず。ただただ、九朗左衛門の配下が滅されていく。
「ふふっ」
「貴様──?」
こぼれ落ちた笑い声に、九朗左衛門は振り返った。『魔女』を睨み付けようとして、硬直する。
そこに、『魔女』はいなかった。
「どこを見ているのかな? そこに私はいないよ」
「ふんっ!」
耳元で声が囁かれ、九朗左衛門は振り返らずに得物を振るった。が、刃は何も触れずに空振る。
「残念、外れ」
ザシュ! と音が響き、またも配下が崩れ落ちていく。捉えられない敵の一方的な惨殺に、さしもの九朗左衛門も首筋に冷や汗が流れた。
「さて、『魔女』の呪いは、楽しんで貰えたかな」
「貴様……」
「この街を蹂躙してくれる、なんて気炎を上げるくらいだから、どんな強敵なのかと思ったんだけど……この程度なんだね」
くすり、と笑い声がどこからともなく響き。
「──私達、守護の家が出て行くまでもなかったかな? それじゃあね、魔王の末裔さん」
その言葉と共に、九朗左衛門の視界が吹き飛ぶ。
「ぁ──」
己の胴体がどうと倒れるのを、見て。
「──かぁっ!!」
裂帛の気合いが、空気を切り裂いた。
──九朗左衛門の視界が、霧を晴らしたように明るく切り替わる。
「ギィ……」
「グァ……」
辺り一帯に転がる、九朗左衛門の配下達。一様に首や胴体に赤い線が刻まれ、息絶えたように動かないか、苦しげな呻き声を上げている。
血の1滴も流れない惨状に目を眇め、九朗左衛門は無言で右手の得物を振るう。
斬!
何もないはずの空間を撫でた刃は、1冊の『書』を断ち切った。
途端に、縛り付けるような不気味な気配が完全に消え去る。
「……!?」
「何だ!?」
「一体何が……!?」
配下達が動揺の声を上げた。面食らったような表情で辺りを見回す鬼達は、先程までの赤い線が消えている。
だが直ぐに声を上げなかった鬼達は、赤い線から血を吹き出して事切れた。その数たるや、九朗左衛門が率いた軍勢のうち100は下らない。
「九朗左衛門様、何事ですか!」
めまぐるしく変化した状況を前に、語尾すら忘れて配下が尋ねる。九朗左衛門は、落ち着いた声で答えた。
「どうやら、まんまと幻惑に惑わされたようだな。書物に込められた「呪」の仕業だろう」
九朗左衛門に切り裂かれ、地面に落ちている1冊の書を睨み据え、しかし九朗左衛門は大笑した。
「くくく……かかかか! いいぞ! これでこそ我等もはるばる百鬼夜行の行軍をした甲斐があるというものだ!」
一方的にやられるばかりの人間を嬲っても面白くない。魔王たるもの、血湧き肉躍る戦いの末、絶望を与えなければ。
「しかし──なるほど。我も少々考えが浅かったな」
「な、何がですか?」
怯えた声を出す配下達を一瞥し、九朗左衛門は体ごと彼らへと向き直った。
「聞けい! 山ン本の名の下に集まった悪鬼ども! 我等はこれより、北へと転進する!」
「き、北ですか!?」
「うむ。そしてお前ら、語尾を忘れているぞ!」
「キー!」
「キー! 九朗左衛門様、伺ってもよろしいですかキー!?」
「許す」
「何故中央ではなく、北へ行くのですかキー!?」
「筋を通せと、そういうことのようだからな」
真っ二つになった「書」を目に、九朗左衛門は息を吐きだした。
「魔女」がわざわざ幻覚を見せた一番の目的は、挑発。この程度の幻覚に惑わされる敵が、自分達守護の家を無視して神域を犯すなと、我等を倒して本元へ進めと、言葉にならぬメッセージを伝えるためだったのだ。
「招待状を受けとったのならば、応じねばならぬ。我等は人間の敵だ」
相手が宣戦布告を突き付け返してきたのならば。正々堂々受けとって叩き潰す。それが、山ン本九朗左衛門の矜恃だ。
「行くぞ、ものども! 我等が山ン本ここにありと知らしめよ!」
『キー!』
九朗左衛門率いる山ン本が、中央から北へと転進した。
***
「上手くいったようだね」
満足げに笑った『魔女』は、踵を返し軽やかに歩き出す。
「流石は魔王級、私の幻惑で実体に傷が付くほど迂闊ではないか。……神ン野じゃなく山ン本で良かったよ。招待状を真正面から受けとってくれた」
歌うように言葉を紡いで、『魔女』は不敵な笑みを浮かべる。正しくメッセージを受けとった相手に、流れるように言葉を紡いだ。
「さあ、始めようか。この街最大の百鬼夜行──生き延びる資格があるのか、見極めよう」
***
「なあ、聞いたか?」
「え? 何をだ?」
本陣待機組の術者達。彼らは選りすぐりの精鋭達であり、周囲を警戒しつつもほどよい緊張を維持するだけの精神力も持ち合わせている。緊張を解す雑談の価値を知っているがゆえに、1人が振った話題に乗った。
「なんかさ、北東から来てる大軍なんだけどよ」
「鬼門反転したっつーのに陽気をざかざか切り裂いて、中央の山めがけて突撃かましてるってあれだろ?」
「それそれ。正面から迎え撃つ勢で、負傷して一旦引っ込んできた奴に聞いた話なんだけどな」
「おう」
「何か知らんけど、やたらめったら語尾に『キー』って付けてるもんだから、どうにも気が抜けるとかなんとか」
「は?」
「何!?」
呆気に取られた反応に交えて、何人かが妙に熱い相槌を打つ。
「しかも……人間サイズの鬼は揃いも揃って、全身黒タイツらしい」
「え、なんか変態っぽ」
「完璧か!?」
「……え?」
一部のテレビに疎い若者を置き去りに、場は異様な熱気に包まれた。
「なんだそれ盛り上がるしかないぞ!」
「いや待て、相手が人間の流儀に従うなら、俺達も従うべきでは……!?」
「はっ!? その通りじゃないか!?」
「え、なにそれ」
「ということはだ! 我々もベルトとヘルメットを装備していけば……!」
「最高の応戦だ……!」
盛り上がりに盛り上がる術者達に、ついて行けないごく一部の術者が引け腰ながらも声を上げる。
「ちょっと待てお前ら、一体何をそんなに……ひっ!?」
しかし、その言葉はうっかり気付いてしまった笑顔に掻き消えた。
「──随分、楽しそうだね? 遊んでるのかい?」
さあっと音が聞こえる勢いで、場に沈黙が訪れる。ぎしぎしと、武芸者にあるまじきぎこちない動きで振り返った術者達は、そこにうつくしい笑みを見た。
「こんな街の一大事に、待機ばかりで気が落ち着かなくて逸る君達に、朗報だ」
瑠璃色の着物を纏い、優雅な足取りで玄関から外へと歩み出る、たった1人の女性に、大の男共が揃ってびくりと肩を跳ね上げる。
「──これから、君達が随分とご執心の山ン本率いる百鬼軍が、当家を襲撃する」
そして、落とされた爆弾に、誰もが顔色をなくした。
「我等『吉祥寺』は現在、紅晴の守護の要だ。その本陣を攻め込まれ陥落すれば、ただでさえ不安定なこの街の守りは、一気に崩れ去る」
軽やかに当然の事実を口にして、それを招いた『魔女』は艶然と微笑む。
「分かるね?」
──下らない事で盛り上がっている暇があったら、死ぬ気で防衛戦に備えろ。
「幸い、上空から襲撃を仕掛けてきた妖の軍勢は、南西に向かったしね。あちらは我々が手出しをしなくても、何とかなるだろう」
だから、とチェシャ猫のように笑う『魔女』は、一息空けて続けた。
「思う存分、働いてもらおうじゃないか。君達の活躍、楽しみにしているよ」
『はっ!』
副音声付きの激励に、一同は全身に冷や汗をかきながら声を揃えた。