答えの返らない質問
悪意が当社比20割増しなので人によっては胸の悪くなる可能性があります。ハッピーエンドではありません。
3日ほど前に書きなさい、と言われて嫌々書いた文章は、自分で読み返してもまったく纏まりがないものだった。
暑い西日が差し込む終わりかけの夏の教室で、味も素っ気もない長細い机を挟んで向かい合う教師の顔もあまり芳しくない。
それはそうだ。
そこに並べ立てられている言葉を一言で言えば、それはどうしてという問いかけに収束される弾劾だからだ。
どうして私がこんな思いをしているのか、その根拠を示してほしいという。
唐突に教師から、皆との話し合いの場を持とうと言われたのは3日前。
私はその時、露骨に嫌そうな顔をしていたと思う。
まったくどうして今更そんなことをしようと思い立ったのか。
後に思い返してみれば色んな事情が……例えばその頃にいじめの問題が全国的にとり立たされるようになったとか、知らなかっただけで親が気付いて学校に相談しにいったとか……あったけれど、正直に言えば面倒と迷惑だとしか思えなかった。
周囲から罵詈雑言を浴びせかけられのけ者にされるようになったのがいつかという正確な記憶はない。
思い返してみれば私は1人でいることが多かったし、小学校から中学校に至ってもそれは変わらなかった。
その間、何度か大人の理由で『話し合い』という場が設けられたが、そこではお互いに上辺で悪かったと謝り合ってしばらく周囲は大人しくなるが、再び同じ日常に戻る……その繰り返しだった。
大人は想像力がかけている、とそのたびに私は強く思ったものだ。
今度は同学年の全員を集めてやるので、その時に話すことを纏めて書いて来てほしいと先生は言った。
そして原稿を推敲するから見せてくれと。
私に拒否権などというものはなかったし、嫌だと言ったところでうやむやに説得されて話し合いという名の茶番が開かれるのは止めようがないことも今までの経験からも分かっていた。
「気持ちは分かるが……これでは皆にうまく伝わらないと思う」
先生は言いづらそうにそう口に出した。
その言葉にぐぅっと喉の奥が言いようのない気持ち悪さに詰まる。
その時はよく分からなかったが、後で考えてみると……私は暴れだしたいほどの怒りがこみ上げていたのだと思う。
先生に何が分かっていたのだろう。
書きたくもないものを書かされて、自分がいじめられている人だと示されて、たくさんの人の……自分を蔑んできた人たちの目に一斉に晒される上に、読みたくもない推敲された文章をからくり人形のように読み上げる。
まるで見世物になるピエロだ。それがどんなに惨めで恥ずかしくて恐ろしいことかなんて、大人は、特に先生という職業の人はこれっぽっちも気付いていない。
「でも、私がみんなに、言いたいことは、これしか、ありません」
喉の奥の塊を無理やり胸に押し込んで押し出した声は掠れて震えていた。
最後の理性で罵り以外には、という言葉を省く。
「でもな……仲直りするには、ちゃんと気持ちが伝わるように話さないといけないと思う」
無理やり押し込んだ塊がさっきよりも強くなって押し寄せてくる。
叫んで暴れだしたい衝動を抑えるように自分の胸元と太ももの上の制服をぎゅうっと握り締めた。
全身が熱くてうまく言葉が見つからない。
目の前でペンを持って私の原稿を推敲し始めた先生の手を見下ろしながら、必死で頭の中から言葉を拾い上げる。
「仲直り、しなくちゃ、いけないんですか」
やっと押し出せた言葉に先生が虚を突かれたように私を見た。
「そりゃ……しなくちゃ、お前も不便だし辛いだろう?」
先生の言葉になんだか最後の糸が……希望とかそういう名前の糸が……ぷつんと切れた気がして逆に少し落ち着いた。
本当に大人は想像力がかけている、と改めて思う。
「私は、仲直りしなくても、構いません。どうして仲直りしなくちゃ、いけないんですか」
言ってから、何か違うと思って唇をかみ締めて少し考える。
「――私は、あの人たちと、仲良くしなくちゃ、いけないんですか」
言い直してから少しだけ喉と胸の奥の塊の圧力が弱まった気がした。
纏めてみればそういうことなのだ。
こういう話をした際に必ず言われるのが苛められる側にも問題があるということだが、それはよってたかって何人もから何年も罵詈雑言を浴びせかけられ、意地悪をされ独りぼっちになるように仕向けられなければならないほどのものなのだろうか。
笑いながら私を傷つけることを躊躇わない人たちからすればそうなのかもしれない。
自分でも私は周囲とは少し……あまり良くない意味で……変わっているらしいという自覚はある。
大勢の人と長時間一緒にいるのが苦痛でならない。
協調性はなく、発想も行動も突飛らしい。
私からすれば常に1人にされ、集団行動では汚物のように扱われ、年端も行かない頃から家の外では自分で考えて行動しなければならなかった人間が、どうやって協調性や周囲と合う価値観を持ち合わせるのだろうかと思うのだが、それが嫌だというのならしょうがない。
出来るだけ関わらないように、どうしても必要なことだけやり取りできればいい。
だが顔を合わせただけで罵られる覚えなどない。
「先生は、会えばいつも自分を馬鹿にする人と、仲良くしたいんですか」
先生が痛いところを突かれたように顔をしかめる。
私がいつも大人の想像力が足りないと思うのは、そういうことだ。
許し合ってハッピーエンドという結末を望んでいるとしか思っていないようにいつも周囲の大人は動く。
どうしてそう考えるのか私にはわからない。
「何年も苦しめられた人にでも、謝られたら、快く許さないと、いけないんですか」
ゆっくりとみっともないくらいぽつりぽつりと……けれど脳みそを焼ききれるほど回転させて言葉を紡ぐ。
例えばこれが殺人者と被害者の家族であったなら、実際の刑罰は別として殺人者を許すか許さないか決めるのは被害者の家族であるはずだ。
けれどこれがいじめという問題に置き換わった瞬間に、いじめられっこがいじめっこを許すかどうかという選択肢は、いとも当たり前かのように簡単にいじめられっこから取り上げられる。
いじめられっこはいじめっこに謝られたら、絶対に許さなくてはならないと当然のように求められる。
反省をしているのだから。
あなたにも悪いところがあったのだから。
仲良くしないとやっていけないのだから。
そうして私は何度も『話し合い』という私の感情の処刑場に上らされた。
たった一言の謝罪で相手には何の咎もなく、私の今までの全ての不利益は切り捨てさせられ、恨むことも怒ることも許されない。
結論として『話し合い』は私のために行われるのではない。
私を害した人のために行われるもので、『話し合い』をすると言い私に皆と仲良くしなさいと求める先生は私の擁護者や弁護人ではなく、私を害した人の擁護者で弁護人なのだ。
「私は、あの人たちと、仲良くできるとは思いません。先生は、どうしてあの人たちと私が、仲良く出来ると、思うんですか。あの人たちも、私と仲良くしたいとは、思っていないはずです」
「そんなことはないだろう」
ようやっとそう言い返した先生を感情の昂ぶりで涙に歪む視界に映して思い切り眉をしかめる。
「なぜ、そう思う……違う、えぇと……何を信じて、そう言うんですか」
そう、私はこれっぽっちもあの人たちを信じていないし、どうにかしてくれるだなんて期待していないのだ。
言葉にするたびに先生と私の間の剥離がむき出しになっていく気がする。
心無い謝罪に裏切られ続けている私に、自分には害がない相手だから最終的には私にも害がない人間だろうから信じろと、自分が信じている相手を信じろを強要する。
「あの人たちが、今まで私に、信じる価値のあるものを、示してくれたことは、ありません」
今まで私だって『話し合い』という処刑場に上ることで、状況が改善するかもしれないという期待をまったく抱かなかったわけではない。
でも信じて裏切られる苦しみを何度も繰り返せばどんな馬鹿だって期待なんてしなくなる。
「あの人たちが、私に謝ったとしても、それは悪いと思っているからじゃなくて、自分のしたことを、なかったことにしたいからだと思います。話し合いなんてしても、同じです」
「今度は……違うかもしれないじゃないか」
腫れ物に触るように私を伺いながらそう言った先生の顔は苦々しげで、その表情だけで今まで多少なりとも頼りにしていた先生が大嫌いになっていく。
「どっちでも、いいです。でも私は、あの人たちと、出来るだけ、関わり合いたく、ないです」
好きではないが罵られたり不当に不利益を押し付けられたりしない限りはあの人たちのことなどどうでもいい。
もはや先生たちがあの人たちを罰してくれるかもしれないという期待もしていない。
もしあの人たちに望むとしたら放っておいてほしい、それだけだ。
どうにかして私とあの人たちを纏め上げて、何もなかったことにしたい先生の希望に沿うことは出来ない。
どうせあの人たちも謝っても謝らなくても、自分がしたことなど数年後には綺麗さっぱり忘れ去って、自分は悪いことなどしたことがないという顔をして生きていくのだろう。
「先生、答えて下さい。私は、あの人たちと、仲良くしなくちゃいけないんですか。どうしてあの人たちを許さなきゃいけないんですか」
いじめは犯罪です。
学校には学校の都合がありますので、いじめられっこの心情よりも学校全体の都合を優先しがちになります。
いじめられっこがいじめっこをどうしても許せないと思うのならば、学校や大人の都合でさらに傷つけられる前に裁判所に向かいましょう。