呼名 後 ‐ヨビカタ コウ‐ 陸
「ようやく家に到着だ。早くあったけぇ布団に入りてぇ」
「怪我、大丈夫?」
「この程度の傷、寝て起きりゃ治る」
「いくらなんでも寝て起きて治る傷じゃないでしょ。何かあったら言ってね?」
「大丈夫だっつの。心配しすぎだ」
ようやっと和歌の家に着き、供助は腕を伸ばして背伸びする。
丸めていた背中が伸びて関節が小気味良く鳴り、息を大きく吸って吐き出す。
「じゃ、おやすみ。供助君」
「おう」
優しく微笑んで挨拶する和歌に対し、一言だけでぶっきらに返す供助。
こういう小さなやり取りだけで、その人の性格が出ている。良くも悪くも、供助はさっぱりとしている性分なのだ。
「猫又さんも、今日は助けて頂いてありがとうございました」
「そう畏まって礼を言わんでいい。私がやりたくてやった事だからの。まぁ、骨折り損の草臥れ儲けだったのには溜め息が出るがの」
猫又は尻尾を垂れ下げ、特大の溜め息。
あれだけ踏ん張って頑張って戦っても、最後の最後に全てを持って行かれて報酬は無し。
供助との約束であった寿司も当然無し。夢幻の如くなり。是非もない。
「じゃあ今度、私が何かお礼をします」
「要らねぇ要らねぇ。報酬が無かったのはこっちの失態と、割って入った商売敵のモラルが無かっただけの話だ。お前が気にする必要はねぇ」
「けど、二人はあんなに頑張ったのに何もないなんて……」
「こういう仕事にはこんな事は珍しくねぇんだ。それに、こいつは一度甘くすると調子に乗るからほっといていい。お前はさっさと家に入って寝ろ。俺と違って文化祭で忙しいんだからよ」
「うん、わかった。それじゃ供助君、また明日ね」
「おう、じゃあな」
さっきと同じくぶっきらな返し。けれども今度は、ほんの僅か、本当に小さく。
供助の口がほのかに緩んでいたのを、和歌だけは気付いていた。
「俺等も帰るか。長ぇ一夜だった」
「本当だの。疲れてヘトヘトだのぅ」
和歌が家に入っていくのを見送ってから、供助も隣の自宅へと帰っていく。
玄関で履いていた靴を脱ぐと妙な開放感があり、ひんやりと冷たい廊下が気持ちいい。
供助の頭から肩に乗り、床に飛び降りる猫又。家に着いた事による安堵と安心から、疲れと眠気が倍になって押し寄せてくる。
「ひとっ風呂いきてぇところだけど、傷に染みそうだし眠気が限界だ。明日の朝にシャワー浴びりゃいいか」
供助は覚束無い足取りで、廊下をよたよたと歩いて階段を目指す。
背中はいつもより丸く、疲れきっている様子が見て取れる。
「のう、供助」
「あんだ?」
「寝る前にの。その、色々とあって動き回り、妖気もほとんどスッカラカン。何を言いたいかと言うとな、つまりその、お腹が減ったんだがの……」
「はぁ、またかよ。お前ぇ、依頼を終えたあとはそればっかだな」
「しょうがないではないかっ! 妖気を使えば少しでも早く回復しようと腹が減るんだの!」
「我慢しろ……っては言えねぇか。今回は猫又にかなり助けられた。明日用に買っておいた弁当、一つ食っていい。足りなきゃ買い置きのカップ麺もな」
「おぉ! マジか! 今日の供助は太っ腹ではないか!」
予想外な返答に、尻尾を揺らして喜ぶ猫又。
弁当だけでなくカップ麺も食べていいという太っ腹ぶり。明日は雨でも降るんじゃないか疑ってしまう。
「確か残ってたのは幕の内と鮭弁と……あぁ、麻婆茄子丼だったの。どれにしようかのーぅ」
「俺ぁ明日も学校だからもう寝る。お前も食ったら寝ろよ」
「わかっておる! カップ麺は何にようかのう」
供助は首元に片手を当てて大きな欠伸をし、階段を上がって自室がある二階へと上がって行く。
対して猫又は嬉しい悩みを口にしながら喜び、リズムに乗るような歩き方で台所へ向かう。
「よし、麻婆茄子丼にしよう。やはり疲れた時はガッツリものだの。冷蔵庫から出してチンしてる間に、カップ麺のお湯を……」
しかし、ここで猫又に電流走る――――!
致命的な浅慮、圧倒的不手際、悪魔的油断……!
供助の太っ腹ぶりに喜び過ぎて、初歩的なミスを許してしまう。そう、猫又は今。
「……あれ、どうやって? 私、どうやってお湯を沸かせばいいんだの?」
――――人の姿に変化できない。人語を喋れるだけの、ただの黒猫なのである
冷蔵庫を開ける事はおろか、お湯を沸かす事も、箸を持つ事も。普段なら簡単に出来ていた事が、今では容易ではなくなっていた。
「供助、寝る前に手伝ってくれんか!? のう、供助っ! 供助ぇぇぇぇぇ!」
だが、二階から返事は無い。返ってくるのは静寂による小さな耳鳴りのみ。
疲れきっていた供助はもう布団の中。泥のように眠って、すでに意識は現実から離れていた。
異常に包まれた忌々しい一夜は去り、朝が来れば太陽の温かい光が街を照らす。明日は予定通り、石燕高等学校では文化祭が開催されるだろう。
しかし、大きな波乱を解決した後に小さな波乱が待っているのを、供助はまだ知る由もなかった。




