第六十八話 処置 -キオク- 壱
昇降口にある段差の一段目、そこに座っている小さな影が一つ。黒猫姿の猫又がちょこんとタイルの上に座り、色が色だけに暗闇によく馴染む。
長く大変だった依頼は、形はどうであれ解決を迎え、疲弊しきった体が回復を求めて眠気を誘ってくる。
二本の犬歯を露にして猫又が大きな欠伸をしているところに、供助がやってきた。
「腕の傷はどうだ?」
「うむ。手当してもらって血も止まった。痛みも殆んど無いの」
「人の姿になってねぇところを見ると、妖力の方はまだ回復しねぇか」
「限界を超えて篝火を撃った反動だの。回復する速度も著しく落ちて、妖力の操作も上手く出来ん。今は人語を話すだけで精一杯だの」
「かなり無理をさせちまったからな……全快まではそれなりに時間が掛かるか」
「だが、祓い屋に邪魔をされたせいで篝火に妖力を使い切る前に止められた。お陰で、という言葉は使いたくないが、雀の涙ほどだが妖力が残っておる。全て使い切っておったら、こうして話す事も出来んかったろうの」
祓い屋が不巫怨口女を祓ってから二十分後。ようやく増援が到着し、その中にいた医療技術を持った払い屋に猫又は治療を受けた。猫又の右前脚に巻かれた白い包帯が、その跡である。
供助も結構な攻撃を受けてあちこちに傷を負ってはいるが、自前の打たれ強さのお陰で見た目よりも酷くはなかった。
それでも首や腕には多くの痣が残り、血が出ていた額や頬には大きめの絆創膏が貼られている。他人から見れば集団ミンチでもされたかのような痛々しい姿であった。
「そっちはどうであった?」
「あぁ、生徒と教師は全員無事だとよ。まだ眠っている状態だが生気が戻って顔色も良いし、目立った怪我も無かったそうだ」
「そうか、それは良かったの。あのような強大な妖に襲われて、誰一人として命を失わず無傷だったのは奇跡に近い」
「今でもムカッ腹は立つが……お前の篝火で不巫怨口女を倒せたか、ってぇと怪しいところだ。こっちも向こうもとっくに限界だった。七篠の乱入が無かったら正直、確率は半々ってところだった」
「祓い屋に邪魔をされ、横取りされたという結果になったが……それがむしろ救いだったかもしれん、か」
「結果には文句はねぇ。太一達も無事だし、生徒も死なずに済んだ。俺等が怪我してくたびれただけだからよ」
「だが、過程には文句ある、と。そう言いたげだの?」
「そりゃあな。犠牲無しに不巫怨口女を祓えたとは言え、あの野郎にされた事を許せるかっつったら、それは別問題だ」
「終わり良ければ全て良し、という言葉があるが……場合によるの。私も七篠の立ち回り方には怒りを覚える」
結果は良かったとしても、祓い屋がした行いは許せるものでない。二人は静かに怒りを見せた。
払い屋と祓い屋。お互いの立場を抜きにして、人として。今回の件で決して奴とは相入れる事は無いと、供助と猫又は確信した。
「で、私達はいつになったら帰っていいんだの? 色々あり過ぎて疲れが半端ない。早く家に帰って休みたいんだがの……」
「疲れてんのは分かるが、もう少し待ってくれ。今、委員長達が到着したウチの責任者と話をしてんだ」
「……あの三人はどうなる?」
「一般人が巻き添えを喰らった場合を考えて、ウチの組織には催眠で記憶を変えるのを専門としてるのがいる」
「催眠で記憶を……?」
「って言ってもそんな強力なヤツじゃねぇよ。今の生徒のように眠っている間に特殊なお香を嗅がせて、軽く催眠をして記憶を曖昧にするんだそうだ」
「ふむ……眠りが浅いレム睡眠の間に別の情報を刷り込む、といった感じかの。しかし、それでは目で見た記憶を変えるのは難しいと思うが」
「記憶改竄とまではいかねぇが、曖昧にさせて夢だったんだと錯覚させるぐれぇは出来る。幽霊だ妖怪だなんて、普通の奴にゃテレビや漫画の世界だからな」
「確かに。現実離れしたモノを見て、その記憶を朧げにされては夢だとしか思えなくなるか。一般常識から外れた存在も、こういう時は都合が良い方に働いてくれるの」
ふん、と。小さいく鼻を鳴らして。
猫又はお座りから伏せの状態になり、二本の尻尾をゆらりと遊ばせる。




