切掛 ‐アコガレタユメ‐ 弐
『ひ、っい……!』
幽霊が動き、今まで見えていなかった体半分を現すと。少女は血の気が下がり、恐怖から顔は真っ青になる。
露になった幽霊の顔半分は、それは悲惨なものだった。皮が剥がれ、眼球が垂れ落ち、頭蓋は割れて脳が溢れている。左半身もずたずたで、肉も皮も骨もぐちゃぐちゃ。
小学生の子供には衝撃が強すぎる姿。スプラッター映画でグロテスクに慣れた人でも口を抑えてしまう成れの果て。
『い、いや……来ないで……』
ゆっくりと近付いてくる男の幽霊。
少女は大声を上げたくても声は出ず、怖さのあまり体は動かない。掠れた小さな声で拒否するだけで精一杯だった。
そして、もう目前。距離だと五メートルも無い。アレが体に触れたら、助からない。少女は直感でそう思った。
頭の中でお母さんとお父さんの姿が|過《》よぎった、その時。後方に腕を引っ張られて、尻餅を突いた。
『どっかいけ! こっちにきても、おまえはいきかえらないぞっ!』
驚きと戸惑い。一瞬、男の幽霊に何かされたと思ったが、そうじゃない事はすぐに解った。
地面に座り込んだ少女の前に、一人の少年が立っていたから。隣に住む、同い年の友達が。
『あっちいけ! おまえはもうしんだんだ!』
少年は幽霊の前に立ち、怖気もせずに言い放った。
幽霊にとっても少年の行動は予想外だったらしく、一度動きを止めて睨み付ける。
少女には少年がいつもより力強く見えて、さっきまで体を縛っていた恐怖が弱まった気がした。
何か見えない壁が出来て、恐怖という強風から守ってくれているような。不思議と気持ちも落ち着いて、体も動くようになっていた。
『だめだ、ぼくじゃなんもできない……』
しかし、少年はすぐに苦虫を噛み潰したように顔を顰める。自分にはどうにも出来ないと諦めと悔しさから奥歯を噛み締めて。
幽霊は再び歪んだ笑みを浮かばせ、ひき肉状態となった左半身を引き摺りながら接近してくる。
『たって! はやくにげるよ!』
『う、うんっ!』
少年は少女へと振り返り、腕を掴んで叫んだ。
体が自由になった少女は返事と共に立ち上がり、幽霊に背を向けて一気に走り出す。
歩き慣れた道路。見慣れた景色。住み慣れた街。家まであと少しの筈なのに、酷く遠く感じる。
走っても走っても家が見ない。いくら和らいでも恐怖心は消えず、後ろから追ってくる悍ましい気配に冷や汗が頬を伝う。
『はっ、はっ、はっ! おとこのひと、まだついてくる……!』
『うしろをみないではしって!』
少女に話す時にちらりと後ろを見ると、幽霊は先程までのゆっくりな動きから一転。素早く体を左右に揺らし、気持ち悪い動作で追ってきていた。
――――ぞる、ぞるぞるぞる。
肉をアスファルトで擦りおろし、肉片を散らかせながら追ってくるその様は異常で異様。少女は改めて男が人が人外のモノであると思い知った。
距離は段々と詰められ、このままではいずれ追い付かれてしまう。だが、少年と少女の家にはまだ着かない。
ペース配分など考えず、ただがむしゃらに走る。走って、逃げて、幽霊から離れようと。
『わっ!?』
『きゃっ!』
丁字路を左折した所で。少年は何かにぶつかって地面に転んでしまう。手を繋いで走っていた少女も同様、一緒に倒れて声を上げる。
幽霊から逃れようと全力疾走していれば、曲がった角の先に何があるかなんて確認する余裕は無い。転んだ衝撃の痛みに構う暇なんて無く、同時に身に迫る危険と焦燥から頭が混乱してしまう。
幽霊はすぐ後ろまでやってきている。転んでしまった今、奴から逃げる事はもう不可能となってしまった。
あの幽霊の怨念は強い。黒く、深く、醜い。取り憑かれれば確実に呪い殺され、自分もあの怨念に飲み込まれてしまう。
どうしようか、どうすればいいか、どうしたいのか。少年は混乱した頭を無理矢理に回転させ、今、自分がすべき行動を導き出す。
せめて、隣で怯える幼馴染だけでも逃がさなければ……と。少年は決意し、幽霊が追ってくる後方へと身体を起こす。
霊感がある自分なら少しは抵抗が出来て、少女を逃す位の時間は稼げる。
霊感はあっても祓う術も知恵も持っていない。だが、せめて気持ちだけでも飲まれないようにと幽霊を睨み付ける――――が。
『あ、れ?』
もう目前にまで迫っている。そう考えていた予想は外れ、少年の口から無意識に声が出た。
こっちを忌々しそうに睨めつけ、足を止めて一定の距離を保っている幽霊。
何かを警戒し嫌悪するように、歪な笑みを浮かべていたのが、今は醜顔を晒して立ち尽くしている。
そして、少年は気付いた。幽霊が見つめているのは自分ではなく、自分の更に後方だというのに。




