昔夢 ‐オモイデ‐ 弐
掠れた声。紙を擦りつけたような乾いた声で、呼ばれる。
声にされるのは名前でも特徴でもなく、ただただ、何度も何度も同じ言葉で。少年は幽霊に手招きされながら、毎日誘い呼ばれる。
オイデ、オイ、デ――――と。
空を見上げるのを止め、目を向けるは柵の向こう。平原の端っこにぽつんと、一本だけ伸び立つ木。その木の下に、左半身だけを晒す不気味な女性が居た。
黒く長い髪。細く薄紫になった肌。土色で汚れたワンピース。髪はぐしゃぐしゃに乱れ、前髪の間から覗いてくる目は……黒一色で闇のよう。
薄らと浮かべる歪んだ笑み。唇の隙間から見えるのは白い歯ではなく、闇眼と同様に口の中も空洞で真っ黒に染まっていた。
……ひっ。
少年は微かに悲鳴をあげ、思わず後退る。不気味さ、気味悪さ、異様さに。ここ最近ずっと、あの幽霊が少年の周りを彷徨き、憑き纏う。
逃げよう、助けを呼ぼう。そう考えて足を踏み出そうとして……少年は、踏み止まった。
踏み止まって、疑問が浮かび、自問自答する――――何処に逃げて、誰に助けを求めるのかと。
『なんだよ、なにもないじゃん』
『何を言ってるの、なんも聞こえないでしょう?』
誰に何を言っても、少年に見える存在は誰にも見えなかった。
どんなに教えても、どんなに怯えても、どんなに本当だと言っても。誰も、一人も……信じてくれる人は居なかった。
『あいつ、またかよ』
『もう、いい加減にしてちょうだい』
少年が幽霊に驚いても。襲われても。怯えても。怖がっても。逃げても。助けを求めても。
回数を追い、日が経つにつれて。少年は周りから嘘吐きと言われるようになっていった。
それでも幽霊が居ると騒ぐ少年に、周りの子供や大人達は気味悪がり、相手をしなくなって……そして、それを理由に疎外した。
だから、少年は理解した。自分が見えているモノを周りは理解出来ない事を、理解した。
それから騒ぐ事を、助けを求める事はやめた。どうせ周りは信じてくれず、冷ややかに笑うだけだから。
結果、周りの大人達は。
『気を引きたかったから嘘を吐いていたんでしょ』
『誰も相手にしてくれなくなったから、飽きて止めたのかしら?』
なんて、小馬鹿にして笑って話していた。少年の悩みも、恐怖も知らずに。大人達は笑い話で済ませたのだ。
見えない、聞こえないからと嘘と決めつけ。理解出来なかったのではなく、理解しようともしなかった。
子供達も同様。お化けだ幽霊だと騒がなくなった少年を馬鹿にして、孤立した少年は孤立したまま何も変わらず。
一人ぼっちのままどれだけを過ごしただろうか。誰かと一緒に遊んだ記憶も、大人とまともに話した記憶も、思い出せない位には一人が続いている。
こちらから話し掛けても気味悪がられて離れていき、一人でいれば馬鹿にする声と言葉が投げられる。
気付けば子供達に“化物”とあだ名を付けられていた。少年も化物だから幽霊が見えるんだ。そんな子供らしく簡単で残酷な理由。
幽霊が出たと言えば気味悪がって疎まれ、何もしなくても後ろ指差されて化物と呼ばれる。
少年はもう限界だった。環境も、状況も、心も。逃げ場も無ければ心の拠り所も無く、居場所も無い。
周りがしているから同じようにそれに合わせていた。ご飯を食べ、息をして、夜は寝て、朝を迎える。でも気付けば、そんな事をする理由がどこにあるのか解らなくなった。
周りに疎まれ、気味悪がられ、居場所も無く、生きる目的も理由も無い。
――――オイデ、オイデ。
また聞こえてきた声。擦り切れ掠れた女性の招き。
真っ黒い眼と口を歪ませ、幽霊は少年に微笑む。気味悪くも。不気味でも。不可解でも。優しい言葉で呼び寄せる。
柵の向こう、平原の片隅にある木から。ゆっくりと手を動かし、幽霊は手招きする。




