第三十五話 静怒 ‐シズカナイカリ‐ 壱
「ひぃ、ひぃぎゃああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああぁぁ!」
耳を劈く老人の悲鳴が公園に響く。
友恵の母親の肩から倒れ落ち、地面にのたうち回るは児亡き爺。
果物ナイフを握っていた右腕は喰い千切られ、二の腕から先は赤黒い血が流れ出ていた。
「まさに血ー、ってか?」
供助は前髪を掻き上げ、自分でくだらねぇと思いながら鼻で笑いながら呟く。
何が起こったか解らず、理解出来ず。児亡き爺は混乱する。そして、痛みに悶える児亡き爺の視界に入ったのは。
黒い猫と、その足元に落ちている見覚えある藁蓑。
「ペッ……帰ったらイソジンで嗽だの」
黒猫は人語を話し、咥えていた腕を不快そうに吐き出した。
ここでようやっと子泣き爺は理解した。己がされた事、起こった事態を。
してやられた……頭の中はそれで一杯だった。
「貴様……儂、の、隠れ蓑を使いおったか……」
「ふん。こんな汚らしい物、出来るなら被りたくなかったがの」
供助が使い物にならないと言ったのも、猫又が砂煙を巻き上げたのも、こんな状況で麻雀なんて関係の無い単語を出したのも。
全てが伏線。先入観を与え、気を逸らす為の牽制。
供助が児亡き爺に話し掛けて気を引き、その間に猫又は砂煙に紛れて猫の姿になる。
そして、小さくなった体を供助の足元にあった隠れ蓑で身を隠し――――奇襲。
「だが、これで貴様は巫山戯た事は出来なくなったの」
「くっ、ぎ……!」
児亡き爺は左手で二の腕を押さえ、痛みと悔しみで額には冷や汗が浮かび。
黄色く汚い歯で歯軋りし、醜く表情を歪める。
「真っ暗返しぃぃ! その人間に完全に取り憑くんじゃあ! そうすればこいつ等は手出し出来ん!」
「ギィギギギッ! 確カニ!」
児亡き爺は干からびた声で必死に叫ぶ。
友恵の母親から落っこちたのは児亡き爺だけで、真っ暗返しはまだ取り憑いたまま。子泣き爺からの驚異は回避しても、まだ全てが終わった訳ではない。
友恵の母親の肩に乗っていた真っ暗返しは、溶けるように姿が薄くなって消えてく。
「これで手は出せなくなった! ひっひ、出せなくなった!」
ざまあみろ、と。児亡き爺は卑しく笑う。
「貴様等は殴るか、噛むか、引き裂く事でしか儂達を祓えん! さぁどうする!? 真っ暗返しを祓い、その人間も傷付けるかぁ? いーっひっひっひっひっ!」
今までも確かに友恵の母親に取り憑いていたが、今のは憑依に近い。先程までとは違い、真っ暗返しが姿を消して友恵の母親の中に入り込んだ。
姿を現していた時は真っ暗返し本体を攻撃すればいいが、憑依されてしまっては友恵の母親に触れるしかない。
こういう場合はお経を唱えたり、お札を貼って体から追い出したりと対処方法はそれなりにある。
だが、頭が悪い上に不器用な供助は、お経を唱える事も出来なければお札も持っていない。
猫又に至っては、妖怪がお経やお札を使える訳がない。




