真暗 ‐マックラ‐ 弐
「幸せな者、幸せな家庭を不幸に陥れるんだの。ある筈だった明るい未来が、不安と不幸で暗い未来に一転される。故に……奴が“真っ暗返し”と呼ばれる由来だの」
昔の日本では、夢を見る事は別世界へ行く一つ手段と考えられていた時期がある。
寝る際に使用する枕は別世界へ移動する特別な道具と言われ、この世界と別世界との境界とみなされていた。その為、眠っている間に枕をひっくり返すと、その者の立場や環境が逆転すると考えられたのだ。
これらの一説が、真っ暗返しの能力と酷似していた為、枕返しの一種として名が付いた。
別名の“暗転がし”という名も、事態が急に悪いほうへ変化するという意味を持つ“暗転”からきている。
だが、取り憑いた人に嫌な夢を見させるというのはある意味、別世界に行ってはいないにしても、覗いているのかもしれない。
「んっひ、ひっひっひっひっひっひ」
聞き覚えのある、皺枯れた声。感情を逆撫でるような、不快な笑い方。
友恵の母親の後ろ。公園の入り口から、闇に紛れてそいつは現れた。
「真っ暗返しを知っとるとは意外意外」
「ッ!?」
がり、がり、がり、がり。
手に握ったゴルフクラブを地面に引き摺りながら、友恵の父親が姿を見せる。
その背中から覗かせる皺くちゃな老人。友恵の家で供助を襲った妖怪、子泣き爺が友恵を追って来た。
「貴様、いつの間に近付いた……?」
「ひっひ。なに、普通に歩いてきただけじゃが?」
「妖気だけでなく臭いまで消すなど、貴様のような下等な妖怪が出来る芸当ではないの」
気付かなかった。否、気付けなかった。
猫又は真っ暗返しと対峙していて警戒態勢、臨戦態勢に入っていた。目前の妖怪だけではなく周囲にも注意していたというのに、姿を見せるまで子泣き爺の接近に気付けず。
普通ならば鼻の良い猫又なら近くに来れば臭いで解る。だが、今回は理由も解らず納得も出来ない。
街で臭いを追っていた時もそうだった。不自然に薄く弱い臭い。子泣き爺程度の妖怪があそこまで上手く妖気と臭いを隠し、消せるとは到底思えない。
実力と合わない技術と、子泣き爺が見せる余裕。何か隠し種があると、猫又は警戒をさらに強める。
「ひっひ、んひっひっひっ」
「気色悪い笑い方をしおって……!」
下品な笑い声を上げる子泣き爺を睨み、猫又は妖気を放つ。
ひたすら殺意を込めた、突き刺すような妖気を。
「ひっひ、おぉ怖い怖い。ひっひっひ」
猫又の妖気の牽制を受けても、子泣き爺は余裕を見せながら顎の髭を撫でる。
むしろ、挑発するように笑って歯茎を剥き出す。
「ひっ、あれがお父さんに憑いている……妖怪?」
「そうだの。あの小柄な老人の姿をした奴が、友恵の父親に取り憑いた妖怪。もう一匹の元凶だの……!」
真っ暗返しと同様。
猫又の妖気に当てられ、子泣き爺も友恵の前に姿を見せる。
その汚さ醜さに、友恵は短い悲鳴を漏らす。
「っひ、ひっひっひ。その怖がった表情も悪くない。ひひっひ」
友恵の悲鳴を聞き、驚き怖がる顔を見て、子泣き爺は頬を緩める。
供助に言った、“子供の泣き声を聞くのが好き”だから子泣き爺という言葉通り。
子供である友恵の怯えと悲鳴に、老人は喜びから肩を揺らす。
「ちょっと待って……じゃあ、供助お兄ちゃんはっ!?」
一歩。友恵は前に乗り出し、今ここに居ない一人を心配する。
友恵を逃がす為に友恵の父親を、子泣き爺を足止めしてくれた供助が……居ない。
なのに、足止めをされている筈のモノだけが、この場にやってきた。それがどういう意味か、小学生の友恵でも理解出来る。
「ひっひっひひひひひ、これが答えじゃ」
子泣き爺は言って、友恵の父親は右手に持つゴルフクラブを前に突き出す。
公園の外灯に照らされ、鈍く光る銀色の棒。形は変わり、所々が曲がっていた。
そして、ゴルフクラブのヘッド部分には。赤黒く、べっとりと。生々しい赤色の液体が塗られていた。
「供、助……お兄、ちゃ……」
「今頃は三途の川を泳いでるんじゃろうなぁ。ひっひ」
「そん、な……」
脱力し、膝を着く友恵。
震える唇を隠すように両手で抑え、涙が頬を伝う。
「ひっひ、ひっひっひ、ひーっひっひっひっひっひっひゃ!」
友恵の反応、表情、感情。その全てが好物だと、堪らないと。
まるで美酒を煽り飲んだように、子泣き爺は恍惚の笑みを浮かばせる。
愉快痛快と、下卑た笑い声。それが闇夜の公園に、不気味に響く。




