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第3話 かぼちゃタルト 



「お姉ちゃんのバカっ!!」

 かわいい妹からのいきなりの侮蔑の言葉。パジャマのまま般若のような顔で怒鳴る妹と、味噌汁をすする姉。爽やかな朝にはふさわしくない光景だった。

「……は? 恵美、どうしたの」

「しらばっくれないでよ!」

 白い頬を怒りで真っ赤に染めた恵美は、殴りかかるような勢いで携帯電話の画面を和美に押しつけた。

 画面に映っていたのは、『岡島先輩☆』からの『ごめんね、今日も他の人と遊ぶから無理!』という軽い内容のメール。

「他の人って、お姉ちゃんのことでしょ」

 和美の首筋がゾクリとした。

「何回も何回も誘ってたのに毎回ダメって! なんでだろうって友達に相談したら、最近ずっとお姉ちゃんといるって言うじゃん! ひどいよ、なんで邪魔とかするの!? 人の彼氏とらないでよ!!」

 彼氏? ……恵美の?

 サーっと血の気が引くのを感じた。頭の重みを支え切れなくなりそうだ。

 おい、岡島! 私との『約束』はどうしたんだ!? おかしいだろう、昨日だって紅茶のシフォンケーキ食べに付き合ったじゃないか、なのになんでお前は恵美と付き合っていることになっている!?

「嘘でしょ!? 恵美、どういうこと!?」

「こっちが聞きたいよ――! 今まで岡島さんと仲良くしてなかったっていうじゃん、なんでいきなり!?」

「い、いや、それには事情が……。でも、恵美、岡島とは関わらない方がいいと思う!」

「何それッ!! お姉ちゃんに言われる筋合いないし!! これからモーションかけるんだから、ほっといてよね!」

 前のめりになって騒ぐ恵美に、和美は首をかしげてみせた。

「は? これから? もうつきあってるんじゃないの?」

「あ……。ま、次期彼氏っていうの?」

 恵美がちゃっかりと舌を出しながら笑うのを見て、和美は一気に力が抜けるのを感じた。

 次期!? 希望段階!?

「何考えてんだか、この子は」

 呆れてみせながらわきあがってきたのは、言いようもない安心感。

 よかった、と心の中でつぶやいたとき、何がよかったのか、と思わず自分に問いかけた。

 恵美が無事、岡島の餌食になっていなかったこと?

 当然それもあるが、なんとなくすっきりしない。もうひとつの理由、それは――――――?

 困惑する和美をさらに追い詰めるように、恵美の言葉がふりかかった。

「お姉ちゃん、ひどーい!! こっちは真剣だっつーの!! デートはちゃんとしたんだからね!」

 デートを、した?

 和美は震えそうになる体をおさえた。自信に満ちた恵美の声、これは願望や嘘ではない。さきほどの彼氏発言にはいきなり殴り飛ばされたような気分になったが、今度は急速に脳が回転するのを感じた。

「……恵美、いつ岡島とデートしたの?」

「え? んっと……、1ヵ月くらい前かな? お姉ちゃんが邪魔したから最近はぜんっぜんできなかったけど!」

 1ヵ月前。千秋が和美にまとわりつき始めた時期と一致する。

 これが意味するところは、千秋は和美と『約束』をした直後に恵美に手を出した、ということ。つまり最初からあんな『約束』など意味を成してはおらず、和美はただいいように振り回されていたのか。

 和美は唇をかみしめた。恵美にはかわいそうだが、おそらく岡島の中で恵美はもう自分にオチた女としてカウントされている。私は恵美を守ってなどやれなかったのだ。アイツは意味のない『約束』など取り付けて、恵美を捨てるついでに姉の自分に手を伸ばそうとしたのか。

 うっかりしていた。アイツは『寄ってきた女の子は片っ端から食い散らかして、泣くだけ泣かせてポイっ!』の最低男。自分も恵美も、知らぬ間に千秋のゲームに参加させられていたのだ。

 殴り飛ばされたどころではない衝撃。

「お姉ちゃん? 具合、悪いの?」

 いきりたっていた恵美だが、顔色悪く黙り込んでしまった姉に驚き、思わず毒気をぬかれてしまう。

「ん。お姉ちゃんは大丈夫」

 和美はふうっと深く息を吸い込むと大きく吐き出し、残った味噌汁を一気に飲み干した。

「いーい!? アイツはタチ悪い女ったらしなんだからね!? 最後に泣くのは目に見えてるんだから、傷が浅いうちにさっさと縁切るのが吉! わかった!? コレお姉ちゃん命令だから!」

「何それ―――ッ!! あとひと押しって感じなんだからね!」

 恵美の怒号を背中で聞きながら、和美はさっさと鞄を持って家を後にした。

 頭の中をぐるぐるまわるのは、多くの女をはべらせるあの不抜けた笑い顔。

 和美の体の中で、急激に血が行ったり来たりしている。

 屈辱やら怒りやら情けなさやらで、どにかなってしまいそうだった。そして、荒れ狂う心の片隅に確かに存在している、ほんの少しの悲しみ。

 これ以上はまずい。

 深みにはまる前に早々に手を引いた方がいいのは、自分のほうだ。

 


「おはよー! かずちゃん、昼……」

「私、友達と食べるから」

「え」

 いつものように弁当を持って近づいてきた千秋を一蹴し、和美はさっと席を立った。追いかける余地も与えない。背後で千秋が硬直している気配は感じたが、ここで振り返るわけにはいかない。

 顔には慣れた仏頂面をはりつけた。これでいつもの自分に戻れたのだ。

 久々に昼食を共にした友人たちからは「どうした!?」「破局か!?」「浮気されたのか!?」と大騒ぎされたが、これもそのうち鎮まるだろう。破局も浮気もない、そもそも付き合っていないのだから誤解はすぐに解ける。

 放課後も同じ戦法でいこう、と和美は決めた。

 しかしどういうことだろう。弁当を食べている間も、午後の授業を受けている間も、和美は奇妙な居心地の悪さを覚えていた。 

 それに耐え抜いた放課後。

 千秋はやはり声をかけてきた。

「かずちゃん、今日どこに……」

「行かない」

 和美は千秋から顔をそむけたまま言った。

「はっきり言わせてもらうけど、もうどこも付き合うつもりないから」

「えー? さっきからどうしたのさ、いきなり。『約束』はァ? 『妹ちゃん』どうするの」

 いつもだったら、ここで決着は着くはずだった。千秋もそれを確信しているから昼は見逃した。だが、次の瞬間の千秋の顔は実に見ものだった。

「『約束』なんてとっくに破棄されてた。だったらもう私が付き合う必要ないでしょ」

 凍りつく、というのがまさにぴったりだ。

「かずちゃん?」

「これ以上話すこともないから」

 和美はそう言い捨てて教室を出ようとしたが、その腕を千秋は痛いほどの力でつかんだ。

「待ってよ」

「離して、痛い!」

「ごめんね、かずちゃん」

 千秋は素直に謝るものの、力をゆるめようとはしなかった。

「でも、どういうコトかはっきり聞きたいんだ」

 いつになく真剣な千秋に、和美はようやく目を合わせて頷いた。

「……わかった」



 放課後の第二音楽室は、校内から断絶された冷めた空間だった。防音はされているもののピアノさえ置いていない狭い教室で、現在では使われていない名前だけの部屋。つまり、こういった話し合いにはうってつけというわけだ。

「かずちゃんは勘違いしてるよ」

 そう切り出した千秋に、和美は返答の代わりに冷え冷えとした視線を向けた。千秋は以前と異なり、笑顔でかわす余裕もないようだ。ずいぶんと傷ついた様子で言葉を続ける。

「『約束』は破ってない。オレは妹さんに近づいたりしてないよ」

「別に嘘つかなくていい。もうわかってるから」

「わかってないよ!」

 語気を荒げた千秋につられるように、和美の気持ちも高ぶっていく。イライラする。

「じゃあ何をわからせてくれるっていうの。早々に『約束』破ってデートしてたっていうのが誤解だって説明してくれるわけ? ふざけないでよ、恵美から話は聞いてる」

「恵美って誰だよ! なんでオレよりそんな子信じるの!?」

「妹信じるに決まってるでしょ!!」

 仏頂面もかなぐり捨て、怒りもあらわに怒鳴り返した和美は、「ん?」と首をかしげた。

 千秋のほうも「しまった」とばかりに黙り込む。

「……私の妹、恵美っていうんだけど」

「あー……、そう、だった、ね」

 千秋はばつが悪そうに目を泳がせた。

 千秋はもともと恵美と知り合ったから和美に近づいてきた。おそらくは妹との接点をより強く持つことが狙いだったのだろう、と和美は思っていた。だから妹に近づけさせないために体をはったのだが、その千秋がなぜ肝心の恵美の名前を忘れているのか。恵美は恋人になるまで秒読み段階だと豪語していたが、目の前の千秋を見ていると違和感を感じてしまう。もしこれが演技だとしたら、こいつは相当な役者だ。和美はかたくなだった心を少しだけ緩めた。

「……じゃあ何、岡島くんは恵美のこと好きじゃないの? 付き合う気ないの?」

「付き合う!? そんなワケない! ……ぶっちゃけ苦手。ああいう初対面の男にベタベタしてくるような子は」

「に、にがて!? でも恵美とデートしたんじゃないの!?」

 その問いに対しても、千秋は首を横に振った。

「デートじゃない。一度だけ、出先で偶然会って遊んだだけだ」

 二人でただ遊ぶのと、デートは全然違う。気持ちが違う。

 きっぱりと言う千秋だが、その理屈は和美には通じない。

「そんなのそっちの都合のいい言い分でしょう!」

 和美が睨みつけると、千秋は口の端を片方だけ器用に釣り上げて見せた。

「じゃあ聞くけど、かずちゃんオレと放課後でかけるのデートだと思ってた?」

 そう言われると、和美は押し黙るしかない。そういえば、連れまわされるのに慣れてきたといっても男女の交際とはまったく考えていなかった。ただ遊びに行っただけだ。

「ほらね」

 千秋は口ぶりとは反対にうなだれる。

「そ、それでも『約束』は『約束』でしょう! 恵美が嫌ならきっぱり断ればいいでしょう!?」

「断れないよ、だって……」

 今度は言いよどむ。その消えた言葉尻は、和美は頭の中でこう補完された。


『だって据え膳だし』


 怒りで体が震えた。

「あんた……バッカじゃないの!? だから最低って言われるの、わかってないの!?」

 ブッツンと堪忍袋の尾どころか袋ごと破った和美の怒りに対し、千秋はぐっと歯を食いしばる。

「やっぱり勘違いだった。ちょっとでもいいヤツだと思ったのが間違いだった! もうこれ以上私たちに近づかないで!!」

 和美が言い放ったとき、千秋はぐぅっと喉をならした。唸っている、と言ってもいいのかもしれない。 そして次の瞬間、千秋は腹の底から声を上げた。

「バカだよそうだよ大馬鹿だよ! そんなこと知ってる!」

 長身の男に見降ろされる威圧感はたまらないものがあったが、興奮状態の和美には効かない。

「開き直らないでよ、ならどういうつもりだったワケ!? なんでそういうことできるの!?」

 さらに追い詰めるように言うと、千秋は目をかっと見開いた。いつもは優しげにたれている目じりが吊りあがっている。

「そんなの、木内和美と話したかったからに決まってるだろ! けどどうしたらいいかわかんなかったんだよ!」

「……は?」

 何をやっても飄々とした態度を崩さなかった千秋。それが今、どういうわけか初めて激昂している。

というか、こいつは今何を言った? 和美は怒りも忘れて身を引いてしまう。

「オレがやったこと最低だってわかってる! でもそうでもしなきゃ和美はオレなんか見てくれないだろ!? オレ評判悪すぎるし、それ鵜呑みにしてる和美は今までオレに近寄ろうともしなかっただろ!? だからそれを利用した、妹を心配する姉の、和美の優しさにつけこんで!」

 覚えてるワケ? どうせ覚えてないだろうけど、クラス一緒になれてうれしくて、いっちばん最初に和美に話しかけたんだよ!「これからよろしく」って! そしたら和美は「悪いけど岡島君とはあんまりよろしくしたくない」ってバッサリ一刀両断したんだよ! オレのあの時の絶望感わかる!?

 千秋は頭を抱えながら怒鳴り続けた。だが「そんなことあったっけ?」と首をかしげる和美を見て、熱はだんだん冷めていく。それも、イヤな方向に。

「ハハ、そうだよね…… その程度だよねぇ、和美にとってはさ。それでもオレは、ずっと和美のこと見てた。だからどんな食べ物が好きか、どんな本が好きか、とか全部知ってるつもり。でももう一度話しかける勇気もきっかけも見つかんなくて、話しかけることもできなくて。気持ち悪いだろうから黙ってた」

 でももういいや、と力なく笑う千秋。やわらかい笑顔が売りだったはずの彼だが、今は物哀しげにやつれてしまっている。目には涙がいっぱいにたまって、今にもこぼれそうだ。

「えーと……岡島くん?」

「はい。何かな、かずちゃん」

「あの……だいじょぶ?」

「だめぇ。もう悲しくってはずかしくって。言うときはちゃんと言おうって思ってたのに」

 がっくりと長机に腰を下ろした拍子に、千秋の滑らかな頬に涙がつたった。正直なところ、その情けない姿からは『女の子遊びなら百戦錬磨! いいように振り回して泣かすだけ泣かせといて飽きたらポイだよっ!』の岡島千秋は想像できない。

「ねぇ、私ってもしかして岡島くんについて勘違いしてるのかな」

 和美はさきほど放りだした鞄から、ハンカチを取り出した。ゆっくりとした動きで千秋に渡そうとすると、千秋は意外なほど強い力でハンカチごと和美の手を握りしめる。

「そうだねぇ。この際だから弁解させてくれる?」

 今や『ぽろぽろ』というよりも『だーっ』という表現のほうが似合う涙の量だが、それをぬぐおうともせず、千秋は言った。

「オレ、女の子とっかえひっかえとか器用なことできないから」

「ま、まじで?」

 つい疑ってしまう和美だが、わかってる、と泣きながら千秋は微笑む。

「そう、疑いたくなるみたいだけど、まじなの」

 どういうことだ、と問い詰めたい気持ちを抑えつつ、和美は無理やり手を動かして千秋の顔をふいた。

「痛いよ、かずちゃん」

「顔ぐちゃぐちゃ」

 ぐちゃぐちゃでもなぜか整って見えるっていうのは美形の美点だわ、と和美は内心思う。

「オレさぁ、けっこう人当たりはいいほうなワケ。人見知りとかしないし」

「うん」

「で、女の子とも話すワケ。だって人間女と男しかいないんだから、当たり前じゃんそんなの」

「ま、そうだね」

 目元が赤くなった顔を隠すように、小さい子どものように、千秋は和美の手を額に当てた。

「でさ、仲良くなったと思った女の子たちから告白されることがそれなりにあって。でもこっちは友達としてしか見てないから、当然断るの。そうしたら……」

 いつの間にか『とっかえひっかえ女泣かせの遊び人伝説』誕生。

「そりゃ頭も特別良くないし寝坊はするけど、遊び人とかじゃないし、普通だよ。なのに違うって言っても聞いてもらえないし、なぜか噂は広まるし……。オレ、そういうのできないのに。むしろ、自分がイヤになるくらい重たい気持ち悪い男なのに」

「うわー……」

 涙ながらに切々と語る今の千秋には、いつもの底抜けの明るさがまったくなかった。じめじめと湿気を吐き出す丸まった背中。むしろ、こちらのほうがこの男の本質なのではないだろうか。和美にはそう思えた。

 千秋の場合はその特出した外見がまた災いしたといえる。やっかみ半分憧れ半分、いらぬものまで買ってしまったのだろう。

「それから、『約束』も破ってないよ。妹さんと直接会ったのは、オレが和美に話しかける前日だ」

 それを聞いて和美はぐりりと胸をつかれたような気分になった。

 千秋は「妹と友達になったから」と和美に接触してきている。恵美の言ったデートとは、千秋が恵美と知り合って遊びに付き合った日の出来事を指していたのだ。つまり『約束』は破られていない。恵美は一ヵ月くらい前と言っただけだ、それなのに勝手に勘違いして怒鳴りつけて、ただ千秋を責めた。更なる罪悪感が和美にのしかかってくる。

「えーと、それらについては、ごめん。失礼なことたくさん言った」

 そういえば、一緒にいる間は他の女の子侍らすこともナンパすることもまったくなかった。この1ヵ月千秋がはりついていた女の子は和美だけだった。

 和美は今更ながらそれを思い出す。

「いや、謝るのはオレのほうだし」

 千秋はぐす、と鼻をならした。

「妹さんが、和美の妹だからそのよしみで仲良くしてくれって言ってきたとき、正直やったって思ったよ。これで和美に話しかけるきっかけがみつかったってね。妹さんの気持ちに応える気なんか全然ないのにかずちゃんとあんな『約束』して、妹さんにはっきり断ることもできないで。オレひどいことしてるな、と思った。けど、どうしてもオレは妹さんを突き放せなかった」

 千秋の腕に力がこもる。和美はぼうっと千秋の茶髪を見降ろしたままだ。

「だって、妹さんだけがオレと和美をつないでくれるから」



「なーんだ」

 和美は思わず口からもれていた声に、自分でびっくりした。だがそれも一瞬で、「なーんだってなんだよー、オレにとっては大問題なのに」と泣きっ面を見せる千秋に今度は笑いだしてしまった。

「ひどくなーい? かずちゃん」

「あっはは、ごめん」

 和美は謝りながらも口元がゆるむのを止められなかった。

 千秋はそんな和美を腫れぼったい目で眩しそうに見つめた。

「それ、本当の話?」

「かずちゃん。ソレを疑うようなら、さすがにオレも怒る」

 千秋の語気が強まったので、和美はもう一度笑う。

「なんなのさー、オレやっぱりバカみたい。恥ずかしい」

「そうだね。バカじゃない? それでちょっと気持ち悪い」

「……うん、ごめんね。しかもサイテーだ。和美と出かけたりしたのは、オレにとってはデートだった。すっかり舞い上がって、こうして追い込まれなくちゃ本当のことなんて言えなかった。本当にごめんなさい」

「謝んなくていい。バカは私も同じだし」

「え?」

「恵美に謝らないといけないな」

 和美は大きく息を吐き出すと、いまだに自分の手に覆いかぶさっている千秋の手を見つめた。

「あ、ごめん」

 千秋が手を離そうとすると、今度は和美の手が千秋の手を包んだ。

「え、か、かず」

 赤くなった目元をさらに染め上げる千秋は、思った以上にめんどうで純情なヤツなのかもしれない。和美はそう思った。

「私も、恵美を守るって御題目ずっと唱えてたよ」

「え?」

「今度は『コーヒー・紅茶の店 ススキノ』でお茶でもしよっか」

 なんだ、笑顔って簡単に作れちゃうものなのか。口角が勝手にあがってしまう。

 あぁ、私は今、ひどく不抜けた笑みを浮かべていることだろう。

 いつもバカにしている千秋のことは棚にあげ、和美は自分の笑顔をそう称した。



 なんやかんやで、結局次の日も、その次の日の放課後も和美は千秋と過ごしていた。今日は最近2人で発掘した小さな喫茶店だ。市松模様のカップと、温かい黄色のほろほろかぼちゃタルトに添えられた市松クッキーがかわいらしい。ただ、紅茶を頼んだところで「ウチはコーヒーのがおいしい!」と注文内容を変えてくるマスターは少々やっかいだ。店名の意味がない。そのせいかはわからないが、相変わらず人の少ない店だ。そこも含めて和美は気に入っている。

 窓際のテーブル席で2人は向かい合って座っていた。

「ぶっちゃけちゃうと、妹さんはオレの一番のライバルだった」

「何ィ?」

 さっくりとした触感のタルト生地を味わい、せっかくの幸せ気分だったというのに、千秋はぽつりと聞き捨てならないことをつぶやいた。

「そもそもかずちゃん、なんでオレと一緒にいてくれた?」

「そりゃもちろん恵美と引き離すため……って、あ」

 千秋はほらね~っとジットリした目つきで和美を見つめてくる。

「すっごくうれしかったけど、複雑な気分だった。結局はオレより妹さんのが大事ってワケじゃん」

「当たり前でしょ、そうじゃなかったらあんな『約束』しない」

「当たり前って……!!」

 千秋はぐだぐだと泣きごとを言い始めた。

 あれ以来、いつでも笑顔の能天気お茶らけ女ったらしは、泣き虫のヘタレた男に変貌してしまった。その上少々ストーカーじみた粘着性まで持ち合わせている。今も目に涙を浮かべた情けない顔をさらしていた。

 これがまたいいかも、なんていう女子が現れ始めているが、はてさて。

 和美はふっと笑って千秋の茶色の髪に手を伸ばした。

「まァいいでしょ。結局はアンタの思う通りなんだから。非常に不本意だけど」

「かずちゃん……!」

「恵美への謝罪と説得は手伝ってもらうからね」

 うんうん、と恐ろしく真剣に頷く千秋を尻目に、和美は昨日「お姉ちゃん、気になる人ができちゃった~」と別の男の名前を挙げた恵美のふにゃふにゃした顔を思い出していた。昨日の「遊び人・岡島の女生徒第二音楽室連れ込み事件」の噂は和美のクラスだけにとどまらず、一つ下の妹の学年にまで届いてしまったのだ。名前からして岡崎の色ボケ伝説が増えただけかと思いきや、内容はまったく違う。もっぱら話題になっているのは2人が音楽室から出てきた様子だ。和美に手をひかれ泣きじゃくりながら学校を後にする千秋の姿は、2人が思った以上に人目をひいたらしい。

 それにしても、自分に脈がないとわかるやいなや方向転換する変わり身の早さは、妹ながら恐ろしい。今度はどんな相手を選んだのか、やはり心配ではある。

 千秋にこうしてプレッシャーを与えているのは散々振り回してくれたお礼だ。

 問題なんて最初からなかったのかもしれない。千秋は確かに卑怯者で、臆病で、めんどうくさい遠まわしなやり方しかできなかった。和美も噂だけをかたくなに信じきっていたため、千秋が近づくことすら許さなかった。それでも時間をかけて、互いに勇気と寛容さをもって歩み寄っていれば、こんなややこしいことは起きなかったかもしれない。

 しかし、そう思えるのも今があるからだ。

 それよりも今は、教室中から「やっとか!」と冷やかされるほうが和美にとっては問題だった。「やっと」ってなんだ、「やっと」って。

「かずちゃん」

 名前を呼ばれて和美が顔をあげると、いつも通りの千秋の不抜けた笑顔があった。

 でも、ま、悪くない。

 和美はそう考えるようになった自分を残念に思う反面、そうした変化が嬉しいことのように感じられた。

 明日はどこへ行こうか。

「千秋」

 口元をゆるめながらそう呼びかけてみるのも、案外いいものだ。





これで本編は完結です。

読んでいただき、本当にありがとうございました!


次回、番外編を載せてこのお話を締めくくりたいと思います。

ぜひそちらもよろしくお願いいたします。


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