オレンジゼリー
今度結婚をするのです、とあなたが告げたので、僕は驚いて食べていたオレンジゼリーを掬う為のスプーンを落としました。それは銀色のとても華奢なラインをしたスプーンで、実は内緒なのですがこっそりとあなたに似ているのではないかと、そんな風に思っていたのです。
結婚、と僕は繰り返しました。とても間抜けに響いて、その言葉は幾億もの女の子達が憧れて夢見る、そんな素敵なものの名前とはとても思えないほどでしたのであなたも呆れたのでしょう、どうしたのですか、とあまり穏やかでない表情をして聞いてきました。
いいえ結婚ですか、と僕はもう一度言います。
あなたの為に出来るだけ今度は感情を込めたつもりでしたが、上手くいかなかったようでため息ひとつの返事を貰っただけでした。
「あら、雨が」
「……ああ、本当だ、」
ガラス張りの喫茶店は明るいのにその室内の狭さのせいかひどく暗いような気がします。いえ、本当のことを言えば、あなたが結婚などという単語を持ち出してきたので、僕は目の前を真っ暗にしてしまっただけなのでした。
「見てくださいな、ほら、傘が」
あなたは嬉しそうに、先程の僕の言葉の響きなど忘れてしまったかのように笑顔をこぼしましたが、その顔を見ても僕の心は少しも明るくなることはありませんでした。結婚などというつまらない言葉を、あなたが簡単に口にしたので。
「まるでお花のよう、傘の花が咲いているようだわ、ほら、赤にオレンジ、グリーンに黄色、」
「僕には黒い傘しか見えません」
可愛くないことを言うのですね、とあなたは笑います。けれども僕には確かに黒い傘ばかりが目に入るのです、それは色鮮やかな傘をさしているのがあなた以外の他の女性であり、そんなものを視界に入れるほど僕には余裕がないということなのです。僕は、あなたが好きだからです。
「……わたしはもう結婚するのです、ですから、こういう関係はもう、」
オレンジゼリーを中途半端に放り出している僕に、あなたは静かに本題を持ち出してきました。オレンジゼリーはガラスの器に入っていまして、小さな蘭の花が一緒に飾られていました。紫と白の、可愛らしい花です。清楚に淫猥な、まるであなたの女性としての深い闇の入り口のように。
先程まで僕達は街外れの白い壁に囲まれたホテルの一室にいました。一糸纏わぬ姿でお互いを貪り、吐き気がするぐらい深く繋がっていたのですが、どうしてそんな時間のすぐ後で結婚という単語の含まれる会話をしなくてはならないのでしょうか、それは僕以外の男とするであろう行為なのだから、僕の前に差し出すのは間違えているのです。
「……小学校の風景を思い出します。わたしの行っていた学校は北門と南門に分れていまして、校庭を挟んでそれぞれの門から生徒が入ってくるのです。雨の日には傘の花がたくさん移動してこちらにやってきまして、それは綺麗なのです、色とりどりで、動くお花畑のようで、」
「……あなたは僕ともう寝ないということですか」
「そんな、」
「あなたはもう、僕を好きではないのですね」
「いえ、」
「僕はもう、あなたにくちづけてはいけないんだ」
「……だって、」
「だって、……なんですか、」
あなたはわたしと結婚をしてくださらないでしょう、と言われ、今度は僕が黙り込む番でした。そうです、僕は一度結婚に失敗していて、もう二度と誰かと所帯を持つことなど御免だとあなたに告げていたのです、それは出会ったすぐの頃から。
「しかし、」
「……結婚が女の幸せとは言いません、ですけれど、わたしにとってはそれが幸せです」
「僕以外の人間とでも、」
「それはずるい言い方でしょう」
確かに。確かに僕はあなたと結婚することは考えられません。時間が経てば分かりませんが、少なくとも今は。けれども、あなたは今結婚したい気分になってしまっているのですね。それはタイミングというものなので、仕方がないのだと、僕も知っているのです。
「さようならをしたいのですね」
「……簡潔に言うとそういうことになります」
「僕がどんなにあなたのことを、」
僕の言葉は途中で遮られました。あなたが打って変わったような大きな声を出したからです。
「わたしがどれだけあなたを愛しているかも知らないくせに」
僕は何も言えなくなって黙り込みました。あなたの声に驚いたわけではありません、あなたのこぼした涙に驚いたのです。
捨てられるのは僕のはずなのに。
泣いているのはあなたなのです。
「……ごめんなさい、わたしったら、」
「いえ、それは、」
僕の科白です、と言えませんでした。
窓ガラスの向こうに、あなたの目にはまだ移動する傘のお花畑が映っているのでしょうか。僕の目には、相変わらず黒い傘しか映らないのです、それは少しも花に似ていないのです、ただただ邪悪だとされるカラスの羽のように見えて僕の心を覆い尽くすばかりです。
あなたの涙の為の傘は、と僕は泣き出したあなたを見て、不謹慎にもそんなことを考えていました。あなたの涙の為の傘は、淡い水の色をした小さな傘がいいでしょう、そしてそれを僕は持っていないのです。だから、あなたが結婚するかもしれない誰かはそれを持っているといいな、と心から思いました。それは紛れもなく本当の気持ちで、それだけがあなたの為に使ってあげられる僕の心の一部でした。
「……あなた以外の花は僕の目に入りません」
「……え、」
「傘の話です。いえ、幸せになってください」
「……止めないのですね」
「止めて欲しいと、」
わかりません、と首を振るあなたの向こう側で窓ガラスの外は雨に濡れ、まるで水族館のように思えました。窒息してしまいそうな気が。僕はオレンジゼリーをスプーンで掬います。それをあなたの口元へ、ぐ、と差し出しました。あなたは驚いた顔をして戸惑うばかりです。
僕が何も言わずにおいてもあなたがそのゼリーを食べてくれたなら、ひとつだけ言ってしまおうかと思うことがありました。今急に心の中へ飛び込んできた言葉です。だから、言っても良いものか迷い、賭けをしてみたのでした。
あなたはまだ戸惑っています。
口にして欲しい、と僕は平常を装い、しかし心臓を痛いくらいに緊張させてあなたの目を見ていました。あなたの目を、見ていることしかできなかったのです。