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第九話 おやすみ

 普段は二十二時まで営業しているわんぱくキングは、今夜十九時半で臨時閉店だった。食べ放題七十五分を終えて少し経ったところで蛍の光のメロディと臨時休業を告げるアナウンスが流れ始め、みおりは思わず千穂に言う。

「わっ。ギリギリセーフだったね」

 千穂の頼みは、ひざの上で眠ってしまった鈴を起こさないように、しばらく抱いていて欲しいというものだった。快諾し、体温の高い鈴の身体を抱き締めていると、なんだかみおりまで眠くなる。口元を押さえてあくびを噛み殺し、いつものようにあくびが出てくれる平和を噛み締めた。

「いや……うん」

 だが千穂の返事は曖昧で、何故か店の奥を首を傾けてうかがっている。客は次々と帰り支度を始めているが、千穂が店を出る気配はなかった。

「あれ? ひょっとして千穂くん、臨時休業って知ってた?」

 少し考えてから、千穂はぽつりぽつりと語り出した。口元を隠すのは、恥じらいの仕草か。

「夏にさ。ノースリーブで食ってたら、いい筋肉だねって言われて。次に来た時、店の広告ポスター用の写真撮らせてくれって話になって。今日、その日なんだ」

「え? モデルって事?」

「そんないいもんじゃねえよ」

「お兄ちゃん、それってお店に失礼なんじゃないの」

 みおりに対して格好をつける兄が可笑しくて、里紗は含み笑った。

「うるせえな」

「いい筋肉?」

 ガテン系ではあったが、ゆったりめのジャケットを羽織った千穂は細身に見えて、思わずみおりは二の腕に触れる。思ったより太かったが、それほど筋肉質には思えない。

「んー?」

 疑問符を上げると、里紗が兄に助け舟を出した。

「お兄ちゃん、美織さんに自慢の力こぶ見せてあげなよ」

「いいよ」

 面倒臭そうに断るが、みおりは目を輝かせた。

「見たい。千穂くん」

「……えー?」

 女性陣二人の笑顔を交互に見てから、千穂は渋々といった体でジャケットの片袖を抜き、力こぶを作って見せた。女優などをやっていると、周りに筋肉自慢の俳優は多かった。だから見慣れていたが、それだけに半端な鍛え方ではないのが分かる。

「凄い!」

 かけ値なしに褒めると、千穂は恥ずかしそうにすぐに腕をしまおうとした。

「待って」

 だけど引き止めて、ナチュラルベージュのマニキュアを施した人差し指の腹で、力こぶを押す。

「凄い。凄ーい」

 褒める度に照れる顔色が面白くて、みおりは悪ノリして何度も褒めた。里紗も笑う。

「お兄ちゃんの唯一の自慢なんだ」

「うん。これは自慢出来る!」

「もういいだろ。おもちゃじゃねえんだから」

 まだつつく指をさけるように肩を少しいからせて、千穂はさっとジャケットを羽織った。その不器用さに、みおりと里紗は顔を見合せて笑う。千穂は、ふてくされたように視線を逸らしていた。

「千穂くんって、いくつ?」

 その表情が少し子どもっぽく思えて、みおりは尋ねる。

「俺? 二十六だけど。美織さんは?」

 流れるように問い返され、思わず笑った。里紗が不躾な兄を叱る。

「お兄ちゃん! 女性に年齢を訊くのは失礼だって、学校で習わなかった?」

「なんだよそれ。どこ中の話だよ」

 的の外れた兄妹の会話が可笑しくて、みおりは大きく上がりそうになる笑い声をうつむいて噛み殺した。抱き締めた鈴を起こさないように。千穂には、下手な小細工は不要なのだと思えた。顔を上げて、さっぱりとした表情で素直に答える。

「私は、三十一歳。今、ライターやってる。だから時間が自由になるの」

「そっか」

「へええ……テーマパークとかライターとか、美織さん平凡じゃなくてカッコいい!」

 でもその里紗の言葉は、みおりの心臓にチクリと刺さった。苦笑して鈴を抱え直す。

「そうかな。でも、平凡で普通なのが一番幸せなんじゃないかなあって、時々思う」

「……うん」

 千穂が同意する。そして初めて能動的に話し始めた。

「俺は、ビル清掃やってる。ゴンドラ乗って水切ってる窓の向こうで、普通のサラリーマンやってる人たちがパソコンいじったり上司に怒られたりしてるの見て、みんなないものねだりなんじゃねえかなって思う」

 独り言みたいなトーンで千穂は言う。

「俺たちはさ。暑さ寒さにやられて窓の内側の奴らが羨ましいなって思う時もあるけど、内側の奴らからしたら俺たちがカッコよく見えるらしくて、たまに声かけられる。俺たちだって別に普通の男なのにさ」

 声のトーンで深い話に聞こえて頷いていたが、みおりはふと意味を考えてしまう。

「ん? 声かけられるって……女の子に?」

 里紗が頭を抱えた。

「うん」

 平坦に答える千穂に、みおりは眉根を寄せて訊く。

「それって、モテてるって話?」

「え」

 目が合って、みおりの機嫌が悪い事に気がつき、千穂は手の平を見せて謝った。

「あっ、いや、ごめ」

 機嫌の悪い女には取り敢えず謝るのが有効だと経験で知っていて、咄嗟に口をつく。だがみおりは千穂の知っている二十代前半の女性とは一味違っていた。

「それって意味分かって謝ってる?」

「え」

「どういう意味で謝ったの?」

 追い詰められて、千穂は居住まいを正し広い肩幅を小さくしてうつむき――再び謝った。

「……ごめん」

 最悪の空気に、里紗は居場所がなくて残り少なくなったオレンジジュースのストローをすする。ズズズと音がして、図らずしも二人の注目が集まってしまった。里紗がそうっと視線を上げると、二人と目が合って気まずそうにストローをくわえたまま唇を引き結んだ。

「千穂くん、お待たせえ!」

 天の助けか、その時店の奥から声がかかった。出てきたのは、はっきり言うと五十代なのに二十代くらいの若作りをした女性だった。年相応にしていても十分に美しいのに、派手な茶髪やメイクやひざ上丈のワンピースが、全てマイナスの方向に働いている。

「あらあら。千穂くんいつもの繋ぎも素敵だけど、今日はお洒落してるのねえ」

 そう言って女性は、やたらと千穂にボディタッチする。肩を撫でたり二の腕を掴んだり、みおりからしたらどう見てもセクシャルハラスメントだった。

「む」

 みおりは小さくうなって、女性を睨めつける。妙にオンナをアピールする大声で、鈴が起きてしまって腕の中で身じろぐのに、みおりはしきりに頭を撫でた。

「こんばんは」

「あん、千穂くん。そんな他人行儀な挨拶は要らないのよお」

 猫撫で声で甘えるのは、はたから見れば軽いホラーだ。千穂に続いて、里紗が挨拶した。

「こんばんは」

「あら、里紗ちゃんも鈴ちゃん(・・・)も来てたのね、美味しかった?」

「はい! とっても」

 笑顔の里紗の感想、これは嘘じゃない。心の中で「鈴は、ちゃんやのうて、くんや!」と盛大に裏拳を入れながら、満を持してみおりが笑顔で挨拶をした。

「こんばんは」

「あら、こちらはどなたかしら」

 訝しげな表情に、千穂が口を開く。

「社長さん、こちら美織さんといって……」

「初めまして。如月と申します。佐藤のマネージャーをしております。この度は佐藤の広告ポスター起用のお話、有難く頂戴いたしました。では早速で恐縮ですが、ギャランティの交渉から始めさせていただきます」

 その有無を言わせぬ理論的な口調に、里紗がテーブルの下で親指を突き出して力強くサムズアップした。

    *    *    *

「凄いのお兄ちゃん! あんなにグズってた鈴が、美織さんだと五分で寝ちゃうの!」

 リビングに入ってきたパジャマの里紗が興奮して、ソファに座り髪をタオルドライしている千穂に声をかける。千穂が顔を上げると、裾を折り上げたブカブカの黒いスウェットパンツに、これもブカブカのライブティーシャツを着たみおりと目が合った。眼鏡は丸首の前に引っかけている。みおりは笑顔を向けるが、千穂はまた下を向いて髪を拭った。

「よかった。取り敢えずパジャマになって」

「うん」

 里紗が千穂の隣に足も上げて座って、ルーティンになっているのかリモコンでテレビをつけあちこちチャンネルを変える。みおりは、千穂から離れたソファの端に遠慮がちに座った。全員風呂には入ったはずだがみおりはメイクをしたままで、千穂が余計な気を回す。

「なんだっけ。メイク落とし? とかあるか?」

「あ、うん。寝る前に落とす」

「ん」

 次々と変わるチャンネルをみおりもぼうっと眺めていると、千穂が低いトーンで言った。

「ごめんな、美織さん。結局撮影まで付き合って貰って」

「あはは。マネージャーが途中で帰る訳にいかないから。私こそ泊めて貰っちゃってごめんね」

「明日早くなかったら送っていくんだけどさ。ドライバーとして人の命預かる以上、しっかり寝るようにしてて」

 生真面目に答える千穂に、みおりは微笑んだ。

「そういうお仕事に対する姿勢、素敵だと思うなあ」

「ギャラの交渉もありがとな」

 社長と呼ばれる女性が千穂目当てなのは明らかで、相場を知らないのだろう彼女にだいぶふっかけてやったのだった。みおりは憤慨する。

「ギャラが店の割引券とか、舐められてるよ千穂くん。また何かあったら、私に言って。いつでもマネージャーするから」

「あれは気持ちよかったよね。社長さん、美織さんが見てるから一切お兄ちゃんに触らなくなったじゃん」

 深夜のバラエティを観るともなく観ながら、里紗が笑う。小さくあくびをしてから訊いた。

「テレビ消していい?」

「おう」

「美織さんも?」

「あ、うん。いいよ」

 リビングに静寂が降りた。

「じゃあ、あたし寝るね。美織さんはあたしと鈴の部屋の一番奥に布団敷いてあるから、そこで寝てね」

「うん。ありがとう」

「おやすみなさーい」

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 挨拶を交わして床につく。そんな当たり前の営みは、一人暮らしだったから七年よりもっと前から失われていて、なんだか心が暖まった。千穂はまだ寝る素振りがないので、話していたくてブカブカのティーシャツをつまんで見せる。

「このライブティーシャツ、サイズ千穂くんのだよね? ライブ行ったりするの? 読めないけどなんてバンド?」

「正式な読み方はちょっと違うけど。『ゲズー』って名乗ってた。ドイツ語で、指名手配って意味」

「え。名乗って、た?」

「うん。大学中退して二年バンドやってたけど、親居なくなって稼がなくちゃいけなくなったからやめた。この話、里紗たちの前でしないでな」

「そうなんだ。分かった」

 打ち明けてくれたのが、ほんのり嬉しい。訊いていいものか迷ってから、みおりは静かに口にした。

「その……ご両親は、亡くなって?」

「いや。生まれたばっかの鈴残して、離婚してどっかに行っちまった。行方不明ってやつ」

「……そっか。頑張ったんだね。今も頑張ってる。えらい」

 うつむいていた千穂が不意に、顔を上げてまじまじとみおりを見た。

「ん?」

「いや。美織さんって、やっぱ変わってるよな。普通この話するとみんな、なんでだか謝ったり「大変だったね」ってテンプレみたいに言うんだよ」

 みおりは軽く腕を組んだ。

「うーん。それも間違ってないけど、頑張ってる人にはそれを伝えてあげたいかな」

 そう言ってから、みおりは小さくあくびをした。ベルトの部分が太いブレスレットになった腕時計を見ると、二十四時だ。

「そろそろ寝ようかな」

「うん、俺も寝る」

「洗面所借りるね。おやすみなさい」

「あ」

 立ち上がって背を向けたみおりを、千穂が呼び止めた。

「ん?」

「昨日さ。おやすみのあとに、太陽の絵文字つけてたじゃん」

「あ、うん」

「なんで? おやすみに太陽つけなくない?」

「あー、昔、陽光炉って劇団に居てね」

 言ってしまってからハッと口を押さえたが、千穂はネットを見ないのだと胸を撫で下ろす。

「えっとね、お日様の陽光って字を書くの。だからメッセージの最後にはお日様マークをつけるのが癖になってるんだ」

「へえ。ちゃんと理由あったんだ」

 笑いを含んでいて、みおりは問う。

「なんだと思ってたの?」

「特に理由もないのにおやすみに太陽つける、やべえサイコパスかと思った」

「ちょっと!」

 笑いながら拳を振り上げると、千穂はよけずに大きな手の平でみおりの拳を受け止めた。

「ほら。興奮すると眠れなくなるから」

「もう……」

 家族のような空気が流れて、自然と目的の場所に向かって分かれていった。

「じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみ」

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