第七話 笑う太陽
ズーム会議を終えて、スマホを手に取る。千穂からのメッセージは、短かった。
『お疲れ様』
受信日時は十四時二十一分。一般的に仕事が終わる時間としては、随分早く思われた。
『お疲れ様、千穂くん』
『お仕事終わるの早いね』
こんな何気ない言葉を交わすのも久しぶりで、思わず口角が上がってしまう。フリック入力して、送信ボタンを押した。
地下駐車場に、着メロが反響する。千穂は、昨日と同じネイビーの繋ぎにヘルメットを被って、バケツの水でガラス清掃のT字の道具――シャンパーやスクイジーを慣れた手つきで洗っていた。腰のホルスターに収めてから、ビルの地下に設えられた清掃員用の水場にバケツの水を捨て、同じく腰に提げたポーチからタオルを出して手を拭う。胸ポケットから携帯を取り出し、空のバケツを提げて広い駐車場を移動する間、メールを打った。
『たまたま早い現場だった』
『お礼だけどさ』
『ほんとにいいの?』
みおりにとっては『初デート』と言える約束だ。逆にないと困る。
『もちろん』
『どこのお店でもいいよ』
『いつがいい?』
千穂は白いハイエースの周りに集められた三角コーンやポリッシャーなどの道具類を手際よくバックドアから収納していく。同じ繋ぎで中肉中背の四十代男性が持ってきた長い三脚を受け取って、長身の千穂が車の屋根にくくりつけた。ヘルメットは取ってバケツの中に入れ、腰のホルスター類は大きな黒いボストンバッグにしまう。汗で額に張りつく前髪を適当にかき乱し申し訳程度に整えた。
「小手さん、終わりすか」
「おう」
千穂は三脚を渡された小手の返事を待ってから、跳ね上げられていたバックドアを勢いよく閉める。そばに立ってスマホをいじっていた│二十歳そこそこに見える小柄な後輩が、大きなバックパックを背負って頭を下げた。
「お疲れ様でした」
「松ケ井、お疲れ様」
返事をして、松ケ井とはそこで別れる。千穂は運転席に乗り込んでスカジャンを羽織りシートベルトを締め、エンジンをかけた。外では小手がいつものように、仕事終わりの煙草を一服している。再び携帯を出してハンドルに片手をかけながらボタンを連打した。
『明日空いてる?』
『南阿佐ヶ谷』
『わんぱくキング』
みおりは聞いた事がなくて場所などを尋ねようとし、思い当たる。
――そっか。地図も送れないんだっけ。
検索すると、南阿佐ヶ谷の大きなアーケード商店街を抜けた先、駅から徒歩三十分ほどのところに店はあった。チェーン店ではなく大きな駐車場があり、駅からの客よりもマイカー客の需要を見込んだ店だろう。公式ホームページを見ると、確かに未就学児無料とある。一番安い『わんぱくコース』が七十五分千五百円。破格だ。
『いいよ』
『十八時でどうかな』
ハイエースの助手席のドアが開いて、小手が乗り込んでくる。
『じゃあ十八時に駅で』
『車で迎えに行く』
珍しく携帯を見ている千穂に、冗談めかして小手が言った。
「おっ。どうした千穂。彼女でも出来たか」
「そんなんじゃありませんよ」
ショートメールにはみおりの、
『車持ってるの?』
のメッセージが届いていたが、すぐに携帯を畳み胸ポケットにしまう。小手が笑った。
「照れんな照れんな」
車を発進させ左右を確認しながら、千穂は憮然とした顔で言う。
「だから、そんなんじゃありませんって」
* * *
そのあと、みおりは渋谷に来ていた。七年前は買い物といえば渋谷で、何処になんの店があるかだいたい把握している――つもりだった。渋谷では数年で街の様子が一変する。ファションビルのテナントは随分と様変わりし、好みの服を探すのに手間取ってしまった。だが無事にセンスのいいセレクトショップを見つけ、ロングワンピースを両手に持って身体に合わせ、どちらがいいだろうかと迷う。ライトブルーとミントグリーン。顔を隠すブラウンのサングラスをずらし、色味を確かめた。
「よろしかったら、試着してみませんか?」
店員が声をかけてきて、みおりはサングラスをかけ直した。今でも一部のアンチから、みおりへの誹謗中傷は続いている。おまけに再炎上したばかりで、念のための警戒はしてもし過ぎるという事はなかった。
「はい。あの……派手になり過ぎないように、お洒落したいんですけど」
普段着でない服を買うのも久しぶりだ。おずおずと尋ねると、店員が逆に訊いてきた。
「どのようなシーンですか?」
「えっと」
どう言えばいいか迷って――みおりは、正直にアドバイスを求める事にした。
「実は、初デートで」
「そうなんですか?」
営業スマイルだった二十代半ばの店員のテンションが、一気に上がったのが分かる。店舗柄いわゆるギャルではなかったが、長く伸ばされたアートネイルなど、元ギャルの香りがする彼女は嬉しそうに話し出した。
「ワンピースもいいですけど、逆にパンツスタイルも可愛くてお勧めですよ。ワイドパンツにショート丈のカーディガンを合わせるのが今年のトレンドです。前を開けて綺麗めのカットソーをインすれば、ウエストの細さが強調されますし」
早口で言い切ってから、失言に気づいたように店員は口元を覆う。
「あっ、すみません。初デートって聞いたら、自分の事みたいに嬉しくて……」
みおりは思わず笑った。
「いえ。最近お洒落してなかったから、トレンドとかも分からなくて助かります」
みおりの笑顔に、店員もほっとしたような表情を見せた。
「ちなみに、行く場所によってもお洒落の仕方ってだいぶ変わるんですけど……行き先はお決まりですか?」
「はい。あの、彼が下のご兄弟にも美味しい物を食べさせてあげたいって、食べ放題のお店に行くんです」
千穂を『彼』と呼んで、みおりは弾んでしまう声を抑えられなかった。
「ご兄弟思いの彼氏さんなんですね。それでしたら……」
店員の『彼氏さん』の言葉にも気分が上がる。店員は張り切って、パイプに吊るされたたくさんのハンガーの中から、みおりに合うサイズの候補をどんどんと選び始めた。
* * *
風呂から上がり逞しい首にバスタオルを引っかけ黒いスウェットパンツ一枚で、千穂はリビングをうかがう。手前の、カーテンレールにかけられた黒いノースリーブの針金ハンガーにフォーカスが絞られた。何かに怯えるように辺りを見回し、えいやっと早足で目標に向かう。だがちょうどリビングのドアの前で、それが音を立てて開いた。
「ごめんごめんごめん!」
何か言われる前から千穂は謝り倒し、走っていって黒いノースリーブをハンガーから下ろす。
「お兄ちゃん!」
「ごめんごめん……」
筋骨隆々の背中をリビングに向け、謝りながら千穂は急いでノースリーブを着てしまい、中に入ったバスタオルを引っ張り出しながらパジャマの小柄な少女の方を向く。手の平を見せて弁解しようとするが、家庭内でのヒエラルキーは少女の方が上なのだった。
「何回言ったら分かるの! ちゃんと着替え持ってお風呂入って! 年頃の女の子の前を裸でウロウロしない!」
「いや、ほ、ほら」
黒いノースリーブをつまんで手の平を見せ、裸じゃないと言外にアピールするが、軽蔑のまなざしはやまない。
「まともに恋愛出来なくなったら、お兄ちゃんのせいなんだから!」
「……ごめん」
言葉尻を下げ真摯に謝ると、ようやく少女は千穂から目を離してため息をついた。
「もうっ」
少女はダイニングテーブルの上にあったリモコンを持って、L字に組まれたソファに足も上げて座りテレビをつける。だが特に目当ての番組がある訳ではないらしく、数秒ごとにチャンネルを変えた。気を取り直し、千穂もソファに座ってバスタオルで長い髪を拭いながら少女に声をかける。
「│鈴、寝た?」
「うん」
「いつも寝かしつけ、ありがとな」
ノールックだが心のこもった礼を欠かさない兄に、中学三年生の│里紗は溜飲を下げたようだった。
「いいけど」
テレビを消す。
「あのね、お兄ちゃん」
「ん」
「鈴、また絵本覚えちゃったみたいなの。だんだんグズるようになってきてる。新しい絵本か、もうそろそろ児童書を買ってもいいかもしれない」
「……そっか。分かった。そのうち」
「じゃあ、寝るね」
「あ、里紗」
立ち上がった里紗を、千穂が呼び止めた。
「昨日言ってた話あんじゃん。明日六時にわんぱくキングって話になってるけど、行けるか?」
「え、ほんと? お兄ちゃん、たまにはいい仕事するじゃん」
「決めていいか?」
「うん! めっちゃお腹空かせて行こ」
やっと笑顔を見せた妹に、千穂も少し頬を緩めた。
「じゃあ、おやすみなさーい」
「おやすみ」
里紗がリビングを出ていって、部屋は静かになった。かすかに、二階への階段を上がる足音が聞こえる。居なくなった両親が唯一残してくれた財産が、この一軒家だった。五年経つが、幸いまだ家具家電に不具合はなく、千穂の一馬力だけでなんとかやっていけている。だが来年は里紗の高校進学だ。贅沢は出来ない。
千穂は立ち上がって、ダイニングテーブルに置いていた携帯を開いた。昼間送られたみおりからの『車持ってるの?』のメッセージを最後にタイムラインは止まっている。カウンターキッチンでコップに三分の一ほど水道水を注いで飲み干し、コップを握った手の甲で軽く唇を拭った。洗って水切りかごに入れてから、ソファに座り直して髪をタオルドライしながら返事を打つ。
『仕事の車運転してるから』
『時間外にもたまに使う』
少し考えて、もう一文打った。
『妹めちゃくちゃ楽しみにしてる』
着メロが鳴った。
『中学三年生だっけ』
『そう』
『家族仲いいんだね、羨ましい』
『美織さんちは?』
と疑問符を打ってから、すぐに続けた。
『あ、いや』
『話は明日しよう』
『おやすみ』
リラックスしたのか、初めて絵文字付きの一文が送られてきた。
『そうだね』
『おやすみなさい』
おやすみなさい、のあとに笑う太陽の絵文字。普通は星や眠る顔の絵文字ではないだろうか。
「なんで……太陽?」
千穂は目線の高さに上げた携帯の画面を眺め、そう呟いたあと、
「変わってんな」
と小さく笑った。そして携帯を閉じてダイニングテーブルの上のリモコンで電気を消してから、リビングを出て自分も二階への階段を上がっていった。




