第六話 プロット
みおりは帰って風呂に飛び込んで、疲れとメイクを落としたあと、またグレーのスウェット上下に黒縁眼鏡ヘアバンドスタイルでノートパソコンに向かった。文章を書く時は、文字数がカウントされるウェブサイトに書き溜めるようにしている。小説を新規作成のボタンを押すと、タイトルやキャッチコピーを記載するページが現れた。タイトルは適当に、『運命の恋(仮)』と仮題をつける。次にエピソードを作成のボタンを押して、エピソードタイトルに『設定』と入れる。明日までに提出する、プロットを書くのだ。登場人物は『佐藤千穂』と『如月みおり』これはあとで別人の名前に変える。
みおりはブラインドタッチが出来ない。打ち込みはそこそこ速いが、キーボードとモニターを交互に見るようにして文章を打ち込んでいく。細大もらさず、マッチングアプリを入れたところから千穂との出会い、別れまでをまずは箇条書きで並べていった。小説を書く前段階、物語の骨組みや流れを決めていくのがプロットだ。千穂が手を上げて雑踏に紛れたところまで書いて句点を打ち、エンターキーを押したところであくびが出た。口元を手で押さえて、にじんだ生理的な涙を拭う。
――今私、あくび出た。
なんとも言えずに嬉しい。ろくに外出もせず締め切りに追われて四六時中パソコンに向かっていると、いつの間にか寝落ちしているがあくびは出ない。精神が緊張しているのだ。だからあくびが出た日は心が健やかな証拠で、安らかに眠れる。画面の右下の小さなデジタル表示を確認すると、二十二時過ぎだった。ノートパソコンを閉じて眼鏡とヘアバンドを外し、スマホを持ってベッドに入る。リモコンで電気を消すと、スマホの灯りがぼんやりと暗闇に灯った。時期尚早の気がしてまだメッセージは送れないが、登録した『佐藤千穂』の名前を表示させる。微笑みがスマホの光に照らし出されて、やがてそれも消えて静寂の中に深い寝息が響き始めた。
* * *
カーテンがきちんと閉められたリビングに、鳥の声が差し込んでいる。部屋の中は整頓され、一昨日とは見違える印象になっていた。ローテーブルで寝落ちもしていない。アラームはかけていなかったが、自然と目が覚めた。枕元のスマホを取って、横になったまま千穂のショートメールに『おはよう』と打ち込んでから、
「いや……彼女じゃないんだし」
呟いて、消去する。だが開いているショートメールのタイムラインに、不意にメッセージが現れた。
『おはよう美織さん』
『風邪ひいてないか?』
『昨日薄着だったから』
反射的にガバッと起き上がって、その気遣いを噛み締める。すぐに返信をしなかったプライドは捨てて、素直につづった。
『おはよう、千穂くん。』
『ありがとう。熱いお風呂入ったから大丈夫。』
そして気づいて、慌てて言葉を重ねた。
『あっごめん』
『マルハラしちゃった』
『怒ってないよ!』
すぐに返事が返る。
『そういう細かい事、気にしないから』
『美織さんも気にしないで』
『じゃあ仕事終わったらまた』
少し迷って、彼女みたいと躊躇っていた挨拶を送った。
『うん。行ってらっしゃい!』
それきり返信は来なかった。ラインと違って既読がつかないから、既読無視なのか読んでいないのかは分からない。でも少なくとも、既読無視されてモヤモヤを抱える事はなかった。新鮮で健全な関係だと思った。
タオル地のヘアバンドで前髪を押さえ、顔を洗って歯を磨いてから、またノートパソコンを開いてたった今したやり取りをプロットに箇条書きにする。昨日書いた部分を読み直し、ワードの原稿用紙にコピー&ペーストして圧縮し、小関のメールアドレスに送った。今日は延び延びになっていた新作のアイディアをプレゼンする日だったから、十四時からズーム会議の予定だった。
* * *
遅刻が絶対に許されない舞台畑の人間だったから、何事も早めに行動する癖がついている。みおりは十三時五十分から回線を繋げて待ち、観るとはなしにモニターの向こうのテレビに映るワイドショーをぼんやりと眺めていた。何かの事件の裁判のニュースが流れ、証言台や傍聴人、正面の何段か高いところに真面目くさった顔で座る黒衣の女性裁判長が映る。七年経っても忘れられない記憶が、不意にフラッシュバックした。
『ですから、枕営業を打診してきたのは鴻巣さんの方なんです!』
鴻巣が被害届を提出した暴行に関して、刑事事件としては『嫌疑不十分で不起訴』となったが、納得しなかった彼は治療費や慰謝料を求めて民事裁判を起こした。何度目になるか分からない証言をするが、四十代の男性弁護士は頭ごなしにみおりを糾弾する。
『ではこの写真をどう説明するおつもりですか?』
ネットニュースの記事にもなった、みおりが鴻巣の手を握って微笑んでいるように見える写真と、テーブルに金を出している写真が示された。
『これは鴻巣さんに時間を無駄にさせられたので、意趣返しに一度手を握って期待させてから、つねり上げてやったんです』
『こちらは?』
『カクテルを四~五杯飲んだので、自分の分の飲食代をテーブルに置いて、そのまま帰りました』
鴻巣側の弁護士は声を張り上げた。
『ですが鴻巣幹男さんはこう証言しています。「度重なるストーキングに恐怖を感じていたから、念のためカメラマンを待機させていた」と。そこに│齟齬はないばかりか、鴻巣さんは広く愛妻家として知られています』
そして弁護士は、対峙した者にしか分からない機微だったが、ポルノ雑誌をめくるような男性としての優越感に唇を歪めてみおりの身体を見下ろした。
『如月さん……あなた、セックス依存症なんですってねえ?』
みおりが奥歯を噛み締める。みおりの弁護側が勢いよく手を挙げた。
『異議あり! 根拠のない虚偽情報です』
女性裁判長が冷静に頷く。
『異議を認めます。根拠に基づいた、違う質問をしてください』
鴻巣側の弁護士は含み笑った。
『失礼しました。……質問は以上になります』
いくら真実を発言しても、世間はそこそこ売れている舞台女優より、お茶の間で人気を博す鴻巣を支持した。若い男性弁護士が、みおりに耳打ちする。
『まずいです。匿名のネット情報は証拠にはなりませんが、如月さんの印象を操作する材料にはなります』
『負けるって事ですか? 悪いのは全部向こうなのに!』
無実と正当防衛を訴えても、鴻巣側の証言ばかりが注目される日々だった。女性裁判長は「疑わしきは罰せず」と重々しく言ったが、匿名で繰り広げられる『正義』のための晒し上げで、みおりが社会的制裁を受けている事を知らないはずもない。やがて何もかも無駄なのだと精も根も尽き果てて、『示談金を要求しない代わりにこれ以上争わない事』という鴻巣側の条件を飲んでしまった。残ったのは、裁判費用分目減りした預金通帳と、『ストーカー不倫暴行モラハラ女』というレッテルだけ――。
我に返るとテレビの話題は動物園に変わり、画面にはカピバラの赤ちゃんが映っていた。だがどうしようもなく心はささくれ立ち、リモコンを突き出して電源を切る。忘れようと額に手を当てて、ふうっと一つため息をついた。
『お疲れ様です』
そのタイミングで、ズームが繋がる。ノートパソコンのモニターには、五十代のスーツを着た女性が映っていた。スウェットにほぼすっぴんのみおりとは対照的に、身だしなみは完璧に整えられいかにも出来る女といった風貌だった。
「お疲れ様です。新作のプロット、読んでいただけました?」
みおりは気分を切り替え、小さく声を弾ませる。だが小関はやっぱり否定から入る事にしたようだった。
『読みましたけど、如月センセ。痴漢に遭っている女性を助けたところから始まる恋愛もの、ご存知ない?』
「あー……そう言えば」
随分昔の事だったから、言われて始めて思い当たる。
「でもあれ、二十年以上前じゃありませんでしたっけ」
『映画にもドラマにもなってる大ヒット作です。二番煎じと大炎上する未来しか見えません。それともセンセ、炎上商法のおつもりですか?』
「あ、いえ。そういうつもりじゃなくて」
みおりはカメラに両手の平を見せて否定したあと、その両手を合わせてわずかに躊躇ってから口にした。
「この間、小関さん……「新しい恋愛をしてください」って言ったじゃないですか。それ……なんですよね」
抑えようとしても、何処か喜びがもれてしまう。小関が何故か眉根をしかめた。
『え? ノンフィクションなんですか?』
「はい」
小関ははっきりと鼻で笑った。
『そうですか。センセの事を知らない男性、まだ居たんですね』
向こうも馬鹿にしているが、みおりも五十代で独身の小関の事を少なからず馬鹿にしているから、おあいこだ。
『じゃあ、これから始まるんですね』
「はい」
『お相手に彼女が居なければのお話ですけど』
――どうしてそんな言い方しか出来ないんだろう。
みおりは小関が少し哀れになった。余裕を見せて笑む。
「それはもちろん。六股ヒモ男はもう書いたから、それこそ二番煎じですしね」
――ピコン。
そのとき、ショートメールが着信した。画面に『佐藤千穂』の文字。
「あ、今メッセージきました」
小関の眉間のしわは、ますます深くなる。
『今まで通りそれとなくノンフィクションをうたって私が手を入れれば、またそこそこ売れるかもしれません。頑張ってください』
「はい!」
表情はともかく、激励の言葉にみおりは笑顔で頷いたが、小関は最後に度肝を抜くような台詞を残していった。
『でもね、如月センセ? 読者が読みたいのは、センセの泥沼と失恋なんです。せいぜいカワイソウな女って思われるように、幸せにはならないでくださいね。おまんまの食い上げですよ』
そのまま「お疲れ様でした」と回線は切れて、みおりは唖然と五秒固まるのだった。




