第五話 繋ぎ男
満員電車に乗ってすぐ、スマホを取り出して検索窓に『如月みおり』と打ち込む。決定ボタンを押しかけるが、躊躇していったん文字列を消した。窓ガラスに映ったスマホを胸に当てるみおりの表情は、浮かれたオレンジ色のワンピースとは対照的に疲れきっていた。電車が大きく揺れる。咄嗟に窓に手をつくが、前の椅子に座っていたスーツの男性に舌打ちされ、小さく「すみません」と謝った。
みおりは再度、検索窓に『如月みおり』と打ち込む。今度は迷わずに決定ボタンを押した。一番上に、七年前のネットニュースの記事が出てくる。スクロールすると、SNSの投稿がヒットした。ハッシュタグは『如月みおり』タップして開く。
『みおり、アプリで若い男漁ってた』
『ウケるマジで来たんだけど』
『めっちゃ若作りのワンピース』
『十代二十代気をつけて! ももこって名前』
日付は今日。添付された写真は、どれも悪意を持って選別された、顔の前に手をかざす写りの悪いものだった。逃げ回る動画は無様としか言い様がない。七年前のように、作ったばかりのアイコンが設定されていない捨て垢が群がって、また罵詈雑言が吹き溜まっている。心臓の音がうるさいと思った。耳鳴りもする。談笑する乗客たちの声が、全部自分を笑っているような気がした。
「あっ」
音にならないかすれ声がもれた。尻に、手の感触がある。はじめは控えめに撫でていたが、みおりが抵抗も出来ずに固まっていると、だんだんと大胆に揉みしだき始める。心の中で、みおりは自分を笑った。いや、笑えないか? 時たま見る『草も生えない』というやつなのかもしれない。自分には価値がない。今の自分に触れるのは背後で息を荒くした痴漢くらいのもので、三十一にしてもう自分には、女性としても人間としても価値がないのだと思えた。そう思ったら、不意に涙があふれた。窓ガラスに映る自分と目を合わせると余計悲しくなって、まぶたを閉じてうつむいた。
気にも留めなかったが、隣には金髪でネイビーの作業繋ぎに青いスカジャンを羽織った男性が吊り革に掴まり、ピアスの耳にブルートゥースイヤホンをして軽く頭を揺らし音楽に乗っている姿も映っていた。
号泣する。みっともなくならないように、これ以上写真を撮られて晒されないように、声を殺して号泣する。痴漢の暴挙はやまなくて、でも抵抗する気力も残っていなかった。
隣に立っている金髪の男性は、仕事帰りだった。肉体労働でこの季節でも汗をかくため、前髪が乱れている。窓ガラスを鏡にしてそれを直し――初めて、隣に立つみおりがうつむいて肩を震わせている事に気がついた。右耳のイヤホンを外してそっと顔をうかがう。日曜日のこの時間、泣いている乗客はたまに見る。泣き上戸の酔客だ。だから声をかけるべきか否か一瞬迷ったが、すぐに異変に気がついた。背後のサラリーマン風の男が、異常に密着して息を荒くしている。電車が揺れて身体が少し離れた時、みおりの尻を触っている手が見えた。一気に怒髪天をつき怒鳴る。
「おい! てめえ痴漢してんじゃねえよ!」
とにかく泣いているみおりを助けたくて、スーツの肩を鋭く押して手を離させる。丸っこくて白いカナル型のイヤホンが、カランカランと床を転がっていった。運悪く、電車がちょうど駅に着く。痴漢は他の乗客を突き飛ばしながら電車を降りた。
「うぉいこら!」
男性は足の間に置いていた大きな黒いボストンバッグを背負い追いかけようとして、振り返ってオレンジのマニキュアが施されたみおりの手を握った。
「ほら、あんたも降りて!」
「えっ」
引っ張られて、一緒に荻窪駅で降りる。快速急行が止まって丸ノ内線の乗り換えもあるターミナル駅だから、乗降客が多くて痴漢はあっという間に人混みに紛れた。
「待てこら!」
果敢に追いかけようとする男性の大きな手を、今度はみおりが両手で握って止めた。
「いいです!」
「は?」
みおりは必死に言葉をついだ。
「あのっ……もう追いつけないですし……いいです。ありがとうございます」
だが予想に反して、男性はいらついたような表情を見せた。
「だって、あんた。泣くほど嫌だったんだろ? 泣き寝入りしていいのかよ。取り敢えず駅員に言いに行こう」
一方的に言って、再び男性の方からみおりの手を握って、改札方面の階段を目指す。
「あの……」
「こういう時って、最寄りの鉄道警察とか行くんだっけ」
独り言のトーンで言いながら、ぐいぐいとみおりを引っ張っていく。不意に、麻痺していた怒りが、痴漢ではなく目の前の若い男性に働いた。
「あのっ!」
ピンヒールの足に力を込めて立ち止まる。男性も手を繋いだまま立ち止まって、振り返った。
「私が、いいですって、言ってるんです。勝手に決めないでください。もう、いいです……っ」
はじめの方の口調は怒っていたが、尻つぼみに声は細くなって涙声に変わる。助けて貰った事に甘えて理不尽をぶつけている自覚はあって、今度は自分自身の情けなさに涙が止まらなくなった。
「え……ちょっ」
男性は肩にかけていたボストンバッグを床に下ろし、どうしたらいいものかと戸惑う。ホームで嗚咽するみおりと向かい合う男性を、通行人が興味深そうに眺めていった。男性は思わず、
「いや、違くて」
と小さく意味不明の弁解をする。
やがて、そっと。そうっと。ワンピースの肩のカーブに大きな片手の平がかかって、労るようにさすった。ぽつりぽつりと、男性が語る。
「いや、あの……悪かったよ。痴漢って、女にとっちゃとてつもなく恐いもんだって、そう言や妹が言ってた。誰にも知られたくないくらい、恥ずかしいもんだって事も。その……あんたの気持ち、考えてなかった。謝る」
そんなに人間らしい言葉をかけて貰ったのは、何年ぶりだろう。男性は繋ぎの胸ポケットから、長身には不似合いな可愛らしい猫のキャラクターがプリントされた子どもサイズのハンカチを出して、みおりに差し出した。
「これ。ちゃんと洗ってあるから」
「……ありがとう」
受け取って、頬に当てる。柔軟剤と汗の香りがふわっとした。嫌な匂いではなかった。繋ぎを着ているから、何かしらガテン系の職業なのだろう。改めてみおりは顔を上げる。初めてまともに男性の顔を見た。若々しく肌が綺麗でシュッとした、長身で毛先だけが金髪の男性が見下ろしていた。長めに伸ばした髪を後ろでくくっていて、キアヌ・リーブスには似ていないが、なんだか胸が高鳴った。
「私の方こそ、ごめんなさい。イヤホン……落としてましたよね。弁償させてください」
「え。いや。安いからいいよ」
みおりは男性の表情を観察する。みおりの顔を見て、態度が変わるかどうか。SNSのヘビーユーザーなら、トレンドに上がった今日の出来事はもう知っているだろう。遠慮しているだけなのか、助けたものの『あの』如月みおりと知って関わり合いたくないと思っているのか。
「じゃあ、あの。せめてご馳走させてください」
そう言うと、男性の顔色は明るく変わった。
「マジで? うちの近くにさ、安い食べ放題があるんだよ。七十五分千五百円。未就学児無料だから、中三と五歳の子ども連れて行ってもいいか?」
普通は図々しいと考えるのが先だろうが、みおりは違うところに食いついた。
「お子さん、居るんですか?」
「妹と弟。うち親居ないから、なかなか好きなもん食わしてやれなくて」
それでこの男の気が引けるなら、安いと思っているみおりが居た。
「いいですよ。じゃあ、連絡先交換して色々決めませんか」
「ああ、うん」
繋ぎの胸ポケットから出てきたのは、今時見かけなくなった、二つ折りでピンク色の携帯電話だった。これにも、ハンカチと同じ猫のキャラクターのシールがところ狭しと貼られている。まりもをモチーフとしたキャラクターのストラップが一つ、ぷらんと下がって揺れていた。
「ラインとかやってねえから。ショートメールで送って」
そう言って、電話番号を表示させてみおりに見せる。登録しながら、みおりは探った。
「それって、妹さんの?」
「うん。お下がり。妹は流石にスマホじゃねえといじめられるからさ」
「ネットとか見る?」
「見ないってーか、金かかるから見られない。だから悪いけど、画像も見られないから。なんか送って」
「え?」
「俺もあんた登録するから、なんか送って。名前でも」
世の中に、ネットを見ない若い男が居たなんて。みおりの悪い癖で、また『運命』の二文字がちらつく。名前を、芸名と本名のどちらで送ろうか画面を見て少し迷い――慣れ親しんだ『如月』姓で送る事にした。これも今や聞かなくなった、着メロが鳴る。バンドサウンドだった。
「バンド好きなんですか。誰の曲?」
「いや、妹が。設定そのまんま」
金髪にピアス。繋ぎでガテン系。職業的マウントは取れないが、若くて美しい男という点では折り紙付きの合格だった。男性は携帯の画面に視線を落として訊く。
「如月、美織?」
「はい」
念のため、本名の漢字で送った。男性もボタンを連打して、文章を打っている。
――ピコン。
ショートメールが着信した。
「佐藤……」
読み方に一瞬迷うと、男性が自己紹介した。
「千穂。佐藤千穂。よろしく。如月さん」
そう言って、重そうなボストンバッグを肩にかけ直す。
「あの、美織って呼んで貰えませんか。私も千穂さんて呼ぶから」
「うん、分かった。俺は、さんて柄じゃないけどな」
「じゃあ、千穂くん」
「ああ、それでいいよ。じゃあね、美織さん。気をつけて。俺丸ノ内線だからあっち」
そう言って行く手を指差し、寂しさを感じてしまうほど早々に背が向けられた。思わずみおりは声をかける。
「ありがとうございました! おやすみなさい」
振り返った千穂に向かい、みおりは控えめに手を振ってみる。クールだった表情が少しだけ緩んで、軽く手を上げて雑踏に紛れていった。




