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第三十六話 半年後

 二人が別れてから、半年が経っていた。新宿の大きな書店の楽屋で、みおりは鏡に向かってリップを塗り直す。

「如月先生、もうそろそろです」

「あ、はい。用意は出来てます」

 声をかけてきたのは小関だった。相変わらずピシリとパンツスーツに身を包んでいる。みおりはカジュアルとフォーマルの間を取ったような華やかなワンピースだ。イベントスペースと扉一枚へだてたバックヤードに立ち、みおりはもう腹をくくっていつもの腕時計が十五時を差すのをジッと待つ。小関の方が、落ち着かなく何度も腕を上げて時計を確認していた。

「本当に大丈夫ですか、如月先生」

「はい。私もう失う物何もないんで。無敵です」

 にっこりと微笑んで見せたが、それは自分に言い聞かせる言葉でもあった。日曜日の書店は、たくさんの買い物客であふれている。おまけになるべく目立たないように準備がされていたが、イベントスペース前のデスクを見て足を止める客もちらほらと居た。十五時まで一分を切ったところで、小関がスマホを取り出す。七年前に時が止まったままだった『如月みおり』のSNSアカウントには、十五時ジャストに予約投稿がしてあった。十五時になり小関が画面を再読み込みすると、『本日千穐楽!』の投稿から七年ぶりに、新しい投稿が現れる。先ほど楽屋で撮った、書籍を持ってピースサインをしているみおりの笑顔の写真が添付されていた。変わっているところと言えば髪の長さくらいかと思うほど、みおりは歳を重ねてさらに美しくなっていた。

『本日サイン会! 新宿にてお待ちしています』

 末尾には笑う太陽の絵文字。十五時ジャストに、サイン会場の隠されていた書籍やポップや『如月みおりサイン会』の看板などからも布が取り去られ、バックヤードにも聞こえるほどのどよめきが充満した。小関がドアノブに手をかけ、みおりの顔を見る。行ける。みおりは口角を上げて、頷いて見せた。ドアが開く。サイン会場に出てデスクの横に立つと、はっきりと聞こえるほどあちこちから「如月みおり!」という声が飛ぶ。そしてみなが競い合うようにしてスマホを取り出し、写真を撮り始めた。シャッター音が途切れる事はない。遠巻きだったそれらにみおりは好戦的とでも言おうか、媚びない笑顔で応えていたが、やがて大胆に目の前に来てレンズを向けられると、ピースサインでポーズを取った。小関がみおりの一歩後ろで、ネットの動きをチェックしている。みおりのサイン会告知には、はじめ捨て垢の否定的なリプライが吹き溜まっていた。

『今更何やっても無駄』

『またどうせ過去の失恋話でしょ』

『通報しました』

『いい加減氏ね』

 サイン会ではあるが、事前告知がなかった事もあり、まだサインを貰いに来る者は居ない。だが横に平置きされた書籍を手に取ってレジに向かう者はちらほらと出始めた。タイトルは『草も生えない。』

「ありがとうございます!」

 みおりはその一人一人に威勢よく頭を下げる。今まで恋愛シリーズの中では、例えるなら『カワイソウな女』を演じてきた。だが本来のみおりはそうではない。これからは仮面を被る必要も、ネットの嘘を恥じる必要もなくなるのだ。臆する事なくレンズにはピースサインを、真実を手に取る読者には惜しみなく感謝の声をかける。小関がハッシュタグ『如月みおり』を検索した。写真つきでたくさんの投稿がヒットする。

『え、みおり新宿でサイン会やってんだけど』

『目の前で撮ってやったらピースされたウケるw』

『恋愛シリーズじゃない、ノンフィクションだ!』

『冒頭だけ読んだけど、鴻巣との事、完全否定してるよ』

『つまり鴻巣の方が不倫野郎だったって事?』

『まだ誰も並んでない、勇者求む』

 やがて新宿に居合わせたインフルエンサーたちも反応し始める。『草も生えない。』の書影を大きく写した写真から始まった。

『ちょっと全部読むまで時間をください。取り敢えず七年前の事件は完全否定。裁判で言ってた証言と一致してる。信じるか信じないかはあなた次第の世界ですね。』

 そして書店での生配信は禁止されているが、おそらく確信犯だろう。派手な見た目のいかにも動画配信者が、自撮り棒にスマホをセットして一言投げてきた。

「如月みおりさん、書いてある事は真実ですかー?」

「はい、神様は信じてないんで、自分に誓って真実です」

 そう言って「イェーイ」と配信者と共にカメラに向かってピースサインをする。だがすぐに、念のため配置されていた警備員に剥がされ配信を中止させられた。

 イベントスペースは上階にあるため、階段を上がる黒い作業靴があった。ネイビーの繋ぎを着ている。書籍を手に取り、反対に向かってピースサインをしているみおりの前にスッと並んだ。みおりが気づいて、あっという顔をする。

「如月さん。サイン貰いに来ました」

「あの時は、ありがとうございました」

 松ケ井だった。落ち着いていたシャッター音が、また連続する。

『勇者あらわる』

 が、ネットの反応だった。みおりはデスクに座って、一ページ目をめくりさらさらとサインをした。悪戯っぽく笑って松ケ井を見上げる。

「約束だから。いっぱい書きますね」

 書籍を裏にして、裏から一ページめくり、そこにもさらさらとサインした。

「あとは? 何処に書く?」

 いつも無表情の松ケ井が、思わず笑う。

「や。一個で十分ですけど」

「松ケ井くんていうんだよね。名前入れる?」

「あ、はい。お願いします」

「木の松だよね」

「あとカタカナのケに、井戸の井です」

「はい、松ケ井様へ」

 みおりはついでに「命の恩人です!」と添えて、笑う太陽のマークを入れた。しっかり両手で握って渡すと、松ケ井は受け取って右手を差し出した。

「あの。握手して貰っていいですか」

「もちろん」

 松ケ井の右手を、みおりは丁寧に両手で握って笑顔を見せる。

「松ケ井くんが、記念すべきサイン第一号」

「えっ、マジですか」

 後ろを振り返ると、呼び水になったのか、もう列が出来ている。その全てがみおりを肯定する者ばかりではないだろうが、サイン会としては成功が見える行列だった。

「ありがとう。またいくらでもサイン書くからね!」

「はい」

 離れていく松ケ井に笑顔で手を振ると、気恥しそうに小さく振り返して彼はレジに向かっていった。それからは列が途切れず、みおりはサインを書き言葉を交わす作業に没頭した。後ろでは小関がネットをチェックしながら見守っている。列が他の客の妨げになるほど伸びてきたのを確認し、書店側の判断で整理券が配られ始めた。みおりの負担もあるため、ある程度のところで整理券も配布を終了とする。その事を告げる一報がネットを巡ると、遠方から遠征途中だった野次馬たちから非難の声が上がったが、書籍内容の性質上クレームとしては数件だったようだ。

「あっ」

 懐かしい顔が三人並んで、みおりは思わず立ち上がった。

「みおりさん、お久しぶりです!」

「僕たちみおりさんの事、信じてました」

「みおりさぁん」

 三人目はほとんど泣いている。劇団旗揚げ当初からみおりを応援する、古参のファンだった。陽光炉のグッズティーシャツを着て、『みおり』とデコレーションされたうちわや、うらら櫻子の応援カラーピンクのペンライトを持っている。みおりは彼らとも丁寧に握手した。

「いつも応援ありがとう! 信じてるって言って貰えるの、一番嬉しい」

「信じてます!」

 三人が口々に言った。そして、一人四冊ずつ書籍を差し出す。みおりは懐かしそうに笑った。一冊ずつサインしながら言う。

「これが観賞用でー。これが保存用でー。これが布教用でー」

 三人も久しぶりのその決まり文句に楽しそうだ。最後の一冊を開いて、顔を見合せてやっぱり笑った。

「これが保存用の予備!」

「そうです、覚えててくれたんですね」

「もちろん覚えてるよー! すっごく楽しかったもん」

「みおりさん、もうお芝居はしないんですか?」

「んー。まだ考えてないかなあ。でもひょっとしたらイベントとかはするかもしれない。SNSで告知するね」

「はい、楽しみにしてます!」

 合計十二冊にサインし終わり、また丁寧に握手を交わす。三人は応援してますや頑張ってくださいの言葉を名残惜しそうにかけながら、手を振って帰っていった。他にも劇団時代の知り合いや、嘘か誠か陽光炉の新人だという者も駆けつけた。疎遠になっていた何人かと、また連絡すると言葉を交わして別れる。無理もないかもしれない。みおりに味方をする事は、イコール自分にネットの攻撃が向く事であったから。この本の出版によって、安心してみおりと付き合えると判断した関係者も、確かに居るのだろう。結局三時間半、みおりは休憩も取らずにサインし続けた。

「頑張ってください」

「ありがとうございました」

 最後の一人と丁寧に握手を交わし見送ってから、みおりは席を立つ。後ろに立っていた小関が言った。

「お疲れ様です。通販のセールスが好調です。すぐに重版がかかるかもしれません、如月先生」

「えっ、ほんとですか?」

 デスクに背を向けて、小関と喜びを分かち合った時だった。

「あの、もう終わりですか」

 走ってきたのか、息を切らした声を聞いて、みおりは心臓が口から飛び出すような錯覚におちいった。何度か荒く息を吐いて唾液を飲み込み喉を整えて、再度声がかかる。

「あの」

 正直、振り向くのが恐かった。反応出来ずにいると、小関が助け舟を出す。

「如月先生」

 ゆっくりと振り返ると、そこには懐かしい見慣れた顔があった。だが見慣れない部分もあって、目を見張ったあと思わず小さく噴き出す。その笑顔に安堵するように私服の千穂も頬を緩めたあと、また表情を引き締めた。

「ごめん、美織さん。気合い入れてたら、遅くなった」

 みおりはデスクの脇を通り千穂に一歩近づいて、くすくすと笑う。

「ほんとに、随分気合い入れたね」

「覚えてた?」

「うん。少なくとも鈴くんの七五三程度には気合い入ってるんだなって分かる」

 後ろでくくられた千穂の髪は、根元まで白に近いほどの金髪だった。千穂はまだ整わぬ息を逃がして、もう一度唾液を飲み込んでから話し出す。

「美織さん。俺、ずっと謝りたくて」

「偶然だね。私も千穂くんに謝りたいなあって思ってた」

 サイン会は終了しているが、一般の買い物客はまだたくさん居て、千穂に気づいたネット民が一斉にシャッターを切り始める音がした。だがもうそれを気にする理由は何一つなく、衆人環視の中で二人だけの会話をする。千穂が人差し指を軽く立てた。

「まず一個だけ言い訳してもいい?」

「うん。いいよ」

「俺さ。昔付き合った女の親に、責任を責められた事があってさ」

「うん」

 真剣な顔で発される告白に、みおりもフラットな表情で聞き入る。

「男が、なんか責任取んなきゃいけねえって強迫観念があって。だから謝った」

「そっか」

「美織さんがあんなに傷つくと思わなくて。ほんとにごめん」

「うん」

 みおりは聞き終わると、微笑んだ。

「千穂くん、やっぱり凄いなあ」

「え?」

「そうやってきちんと正直に謝れる人って、実は世の中そんなに居ないのを知ってるから。千穂くんには敵わないなあって、尊敬する」

 千穂は話を逸らされて、少し戸惑って押し黙る。みおりが続けた。

「私も、ごめんなさい。あの時、あんまり幸せだったから。勝手にそれを全部否定されたような気がして、勝手に怒った。勘違いした私が悪い。本当にごめんなさい」

 千穂がふと、珍しく可笑しそうに微笑んだ。

「じゃあ……お互い様って事にする?」

 あの時交わしたいつかの台詞。みおりも笑った。

「そうしよっか!」

 二人の間には、三歩分の距離があった。

「美織さんの近くに行きたい。近づいてもいい?」

「うん」

 大股に一歩、千穂が近づく。

「もう一歩いい?」

「うん」

 また千穂が近づく。

「……もう一歩?」

「待って」

 みおりがさえぎり、ぴょんと跳ねるようにして千穂に一歩近づいて、間近に見詰め合った。また周囲からシャッターの切られる音がする。

「里紗に、ウィキペディアで調べて貰った。美織さん、誕生日おめでとう」

 パンツの後ろポケットに隠されていた、金色のリボンがかかった青ばらが一輪差し出された。

「えー、ありがとう!」

 思わぬプレゼントに、みおりは素直に声を弾ませて受け取る。千穂が、口元を手で覆った。恥じ入る時の仕草だと、もうみおりも分かっていた。

「その。また責任とかの話になっちまうけど。俺、美織さんとの事いい加減な気持ちじゃねえから。美織さんがもし……俺と結婚したいって言ってくれるんだったら、俺は籍入れてもいいと思ってる」

 その無骨で不器用な愛情表現の仕方に、みおりは何故だか笑いが止まらなかった。くすくすともらすと、千穂の機嫌が少し悪くなるのが分かる。

「え。なんで笑うの」

 それだけ真剣な告白だったとは分かるのだが、やっぱり笑いが止まらない。

「美織さん」

 最終的には、涙がにじむほど笑ってしまった。千穂はすねたような表情で、みおりが涙を拭うのを見ている。

「ごめん。千穂くん、ごめん」

 ようやく笑いを収めて、不安そうな顔の千穂に微笑んだ。

「青ばらの花言葉って知ってる?」

「知ってる」

 手の中の青ばらに視線を落とし、静かに語る。

「これはね、諦めたんじゃない。私が選択したの。千穂くんとは結婚しない」

「……そっか」

 後ろで全てを聞いていた小関が、そっとスマホを見た。ハッシュタグは『如月みおり』

『え、彼氏が公開プロポーズしたんだけど!』

『でも今みおり断ったよな?』

『みおりって誰でもいいから結婚したい女じゃなかったの?』

『あれも嘘って事か』

 二人の会話を聞いたからか、横でまた何人か、平置きの書籍を手に取っていく客が居た。

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