第三十五話 トラウマ
カーテンが開け放たれたままのリビングには、鳥の声と朝陽が差し込んでいる。部屋の中は開けっ放しのキャリーバッグなどで雑然としていて、お世辞にも綺麗とは言えない。ローテーブルの近くには脱ぎ落としたまま申し訳程度にまとめられたコート、ゴミ箱の周囲にはビールの三百五十ミリリットル缶が四~五本乱雑に置かれ、シンクには冷凍食品のプラスチックトレイが放置され溜まった水の上に蛇口から水滴が落ちている。
みおりはあれから新幹線の時間を千穂とずらして一人で東京に戻り、寝食を忘れて執筆していた。企画会議は火曜日の始業十時以降だ。月曜日の午後にノートパソコンを開いてから一昼夜、一度も休みなくキーボードを叩き続けている。黒縁眼鏡がかけられた目は泣き腫らして赤くなり、時々小さなアイシングバッグを当てて冷やしていた。『大阪に行くまでエゴサをしない』という千穂との約束はもう果たし終わったので、帰りの新幹線の中で存分にエゴサーチをした。
『今新幹線でみおり居るけど一人だよ』
『泣いてる、別れたんじゃないざまあw』
『彼氏の指名手配はマジ?』
『まあでも別れたんならいいか』
『一応通報しとく』
そこで初めて、千穂のバンド時代の写真が出回って、指名手配犯という誹謗中傷を受けている事を知った。あんなひどい別れ方をしたのだからもう会う事はないだろうが、自分のせいで一時でも夢を見せてくれた人たちに迷惑をかけるのは嫌だった。キーボードを叩き続ける。
『彼はかつて『Gesucht』というインディーズバンドで活動をしていた。ドイツ語で、『指名手配』の意味がある。拡散された写真はその際に撮影されたプロモーション用の宣材写真であり、犯罪とは一切の関わりがない事を明言させていただく。』
エンターキーを二度押して改行する。
『彼には、若年性アルツハイマーの母親に親孝行をするために、あくまで婚約者の『ふり』をして貰っただけである。彼と婚約している事実はなく、私と彼とは今後違う人生を歩む事になるだろう。』
もう一度改行する。
『私と関係のない人間を誹謗中傷しても面白くあるまい。私は逃げも隠れもしない。私にもの申したければ、いつでもハッシュタグ『如月みおり』と打てばいい。気が向いたら、反応しない事もないだろう。ただ一つ言えるとすれば、『好き』の反対は『興味がない』だから、君たちは如月みおりに人生をジャックされている。四六時中私の事を考え一挙手一投足に夢中なのだ。君たち流に、その状況を表現しようとするのならば。『草も生えない。』というやつなのかもしれない。 了』
パソコンのデジタル時計を見る。九時四十五分だった。みおりは急いで、書き上げた十万字をワードの原稿用紙にコピー&ペーストし保存して、圧縮してから小関へのメールに添付した。間に合った。みおりは簡潔に文章をつづる。
『小関様 お疲れ様です。ノンフィクションの初稿、お送りします。よろしくお願いします。 如月』
そしてかろうじてワンピースを洗濯かごに入れグレーのスウェットに着替えてから、メイクも落とさずベッドに直行した。布団に飛び込むようにして横になるとすぐに腫れたまぶたが落ちて、みおりは深い寝息を立て始めた。
* * *
千穂は屋上からの窓ガラスのラインの最後の一枚を切り終わり、カラビナを調節して一階は吹き抜け状になった壁のへりを蹴って地面に降り立つ。ブランコを外していると、小手がバケツの水でシャンパーを洗いながら、声をかけてきた。
「千穂、昼休憩。一時半まで」
「はい」
今日の現場は休館日の図書館だった。ポリッシャーでの床清掃は松ケ井が担当し、館内のベンチで昼食を摂る。先にコンビニ弁当を食べていた松ケ井が顔を上げた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
「おう」
相変わらず松ケ井は現場では、無言で仕事をしているかスマホをいじっているかで、大阪での話を特に持ち出す事はなかった。千穂も語る事柄は多くないので、それが逆に有難い。置いてあったボストンバッグから巾着袋を取り出す。ベンチに腰かけ、いつもの大きめに握ったお握りを二個、ブラックコーヒーで流し込み始めた。向かいで小手が、ひざに乗せた弁当箱を開ける。あまり意識した事はなかったが、その手作りの弁当は千穂が里紗に持たせるような残り物や冷凍食品ばかりでなく、食欲をそそる色や栄養バランスが計算された愛妻の手本のような弁当だった。
「……結婚ていいすか」
何も考えず、口に出ていた。弁当を口に含みながら、小手が少し驚いた顔をする。
「え?」
「あ、いや。なんでもないです」
明らかに動揺して打ち消しうつむいてお握りを頬ぼる千穂に、小手は穏やかに話し出す。
「いいかどうかは、人によるんじゃないかね。結婚して不幸になる奴も居る。俺はたまたま、順調だってだけ」
「結婚して何年でしたっけ」
「今年で十二年かな。付き合ったのは二十代の頃だから、全部合わせると二十年くらい」
「マジすか。俺長く付き合った事ないから、想像出来ないっす」
しばらく、男たちは黙々と食事をする。小手が、言葉を選びながら探りを入れた。
「何、千穂。結婚でも考えてんのか」
千穂は口の中の白米をブラックコーヒーで飲み下してから、答える。
「正直、分かんないっす。自分が結婚するのとか想像した事ないし、出来るとも思った事ないんで。今まで、鈴を成人まで育て上げる事しか考えてなかったんで」
「そうだよなあ。お前が必死にやってきてんのは、この五年見てきた」
千穂が何か言いかけ、いったん口を閉じる。よく考えるように一点を見詰めてから、再度口を開いた。
「俺、マジで分かんないんですけど。女ってやっぱ、結婚したいんすか?」
「んー。それも人によるな」
小手は敢えて主語を明確にせず、一般論として話す。
「大昔の歌じゃないけど、女はいつも待ってるなんて思ってんのは男の勝手な思い込みで。自立してばりばり働きたい女も居れば、子どもの頃からお嫁さんになるのが夢の女も居る。お前と同じだよ、千穂」
一瞬、意味が分からなかった。
「俺?」
「お前だって、世間一般でいう結婚して子ども作るのが当たり前の世界線に生きてないだろ」
「そっか」
「そういう事。結婚したいかどうかも人による」
千穂がまた考え込むのを見て、小手もなんと言えば伝わるかと考えたが、千穂がぽつりぽつりと語り出す。
「バンドやってた頃、好きな女が出来て。俺はほんとに一生幸せにするつもりで付き合ったんだけど、そいついいとこのお嬢様で、親が「娘を傷もんにした」って怒鳴り込んできたんです」
「うん」
小手は相槌だけ打って、千穂に話させてやる。
「俺は責任取るって言ったけど、親は「バンドなんてチャラチャラした奴に娘はやれない」の一点張りで。強制的に別れさせられてから、トラウマなんです。男としての責任の取り方ってなんなのかなって」
「そうか」
小手はその初めて聞く千穂の過去を噛み締める。
「そりゃトラウマにもなるわな。責任を取らせても貰えないんじゃ」
またしばらく沈黙が落ちた。男たちの咀嚼音だけが小さく響く。やがて小手が思い切るように、明るい声を出した。
「ま、一つ言えるとすれば、もし今心の底から守りたいって思う女が出来たんなら、手だけは離さないでやれって事かな。いつも引っついてる必要はないし、距離を置いた方がいい時もある。でも、絶対手は離さないって事だけは、きちんと伝えた方がいいと思う。俺の考えだけどな。お前が不器用なのは知ってるから、別に「愛してる」とか、そんな歯の浮くような台詞を言えって言ってんじゃなくて。ここの問題だよ、要は。それなら得意だろ、千穂」
ここ、と言った時に小手は、拳で胸を叩いて笑って見せた。千穂もつられて頬を緩める。
「小手さんの話、分かりやすいっす。ここなら自信あります」
千穂も拳で胸を叩いて見せた。
* * *
「鈴、凄く喜んでた」
絵本を手にリビングに入ってきて開口一番、里紗が明るく言った。ソファで髪をタオルドライする千穂の横に足も上げて座り、笑顔を向ける。
「お兄ちゃん、よく図書館の場所知ってたね」
「ああ、いつも休館日に清掃入るから借りられないんだけどさ。館長さんの厚意で貸して貰った」
里紗は絵本を眺める。カラフルなイラストの上に『かぼちゃのお化けと迷子のラド』、下には小さく『きさらぎけいこ』と作者名が入っていた。
「あたしも鈴に読んでて、一緒に楽しくなっちゃった。迷子のラドシリーズ、確かもう一冊出てるはずだから、これ返す時に三冊目もお願い出来ないかな」
「うん。頼んでみる」
「それで、美織さんに読んで貰いたい」
無邪気に笑う里紗に、千穂は落ち込むように瞑目してうつむく。誤魔化すのは千穂の性に合わなかった。気合いを入れるために一つ大きく息を吐くと、里紗がその機微を感じ取って不思議そうな顔をする。
「里紗」
「うん」
「もう美織さん来ないかもしれねえ」
「えっ」
「俺が、悪かったんだと思う。美織さんを傷つけた。……初めて会った時、美織さん泣いててさ」
里紗は、初めて聞く話に驚きつつも耳を澄ます。
「俺がどうにかしてやれるもんなら、もう泣かしたくねえって思ったんだ。でも結果的に、美織さんをまた泣かせたのは俺だった。俺は、俺が許せねえ」
少しの沈黙のあと、里紗が言う。
「でもお兄ちゃんいつも言ってるよね。悪いと思ったら、意地を張らずに誠心誠意謝れって。それでも伝わらなかったら諦めるしかないけど、伝わる人には伝わるものだって」
それは小学校の時友だちと喧嘩したと泣いていた里紗に、千穂がかけた言葉だった。まだ覚えていた事に若干驚くが、盛大なブーメランに軽く頭を抱える。
「言ったな。そんな事」
「落ち込むって事は、美織さんの事嫌いじゃないんでしょ。頑張れ、お兄ちゃん!」
底抜けに明るい里紗のエールに、だが千穂は複雑な表情のままガシガシとタオルドライを再開するのだった。




