第三十四話 シークレットタッチ
パトカーと救急車の赤いランプが、イルミネーションを背景にして場違いに回転している。救急隊員に、みおりは怪我がない事を確認して貰い、千穂は切創に包帯を巻いて貰っていた。幸いどれも傷は浅く、縫う必要はないという。救急車の中で両の手の平と左前腕に包帯を巻かれる千穂を、外でみおりが心配そうに見ていた。横に松ケ井も居る。
「千穂くん、ごめんね。大丈夫?」
救急隊員に礼を言って上着を羽織り降りてきた千穂に、飛びつくようにしてみおりが声をかける。
「うん。大丈夫。一週間くらいで治るって」
「縫わなくていいの?」
「浅いから平気。美織さん」
「ん?」
「美織さんのせいじゃねえから、謝んないで」
「でも」
「謝んなきゃいけねえのは、俺の方。カッコつけて飲み物買ってこようとしたせいで、危なかった」
みおりが、泣きそうな表情で微笑んだ。
「じゃあ……お互い様って事にしようか」
「ん。そうだな」
そして千穂は、松ケ井に目を向ける。
「さんきゅ、松ケ井。松ケ井のおかげで美織さん守れた」
「いえ。如月みお……如月さんの本の『秋葉原大輔』が、品川奏太だっていうのは公然の秘密で。今日東京で劇団のイベントのはずなのに、急に降板したんです。だから、俺も佐藤さん応援したくて大阪に来ました」
感謝の念を込めて、千穂が松ケ井の肩に手をかける。
「マジでさんきゅ」
「ありがとうございました」
みおりも深々と頭を下げると、松ケ井は戸惑ったように口ごもった。
「や、そんな。俺あなたのファンなんで、いつか本にサインください。それでチャラ」
「はい。いくらでも書きます」
「じゃあ俺、飛行機の時間あるんで。失礼します」
みおりたちが何か言う暇もなく、松ケ井はゲートに向かって走り去っていった。
赤いランプを回転させるパトカーの後部座席では、両側を屈強な警察官に固められて、手錠をかけられた奏太が何かをブツブツと呟いていた。千穂と並んで実況見分をおこなうみおりを、限界まで見開いた目の眼球だけでずっと追いかけている。
「みおりさんは僕だけ見てればいいんだ他の男を目に入れるなんて許さないみおりさんが僕の事を愛してなくても僕はみおりさんだけを一生愛し続けるって誓えるからこれは究極の愛だよなんで分からないのみおりさん僕はいつだってみおりさんの事を考えてるのにそんな男を愛するなんて間違ってる他の男の物になるくらいなら消えてしまえばいいのにみおりさん……」
視線の先にはみおりと千穂が居る。実況見分と事情聴取で二時間ほどかかり、全てが終わった頃には二十一時を過ぎていた。二人とも血液の付着したコートを着たまま、疲れきって駅前のホテルに向かった。
* * *
「キャンセルされてる?」
フロントにそろえられたキャリーバッグとバックパックを前に、みおりが信じられないといった声を出した。フロントの職員が、心底困惑したような顔で繰り返す。
「はい。十五時半に山田美織様のお名前でお電話をいただきまして、キャンセルになっております」
「私が山田美織です。キャンセルなんてしてません、なりすましです!」
思わず声が大きくなるみおりの肩に手をかけて、千穂が静かに言った。
「部屋を取り直す事は出来ますか?」
「申し訳ございません、連休の中日でして。当ホテルはスイートまで全て満室の状態です。身に覚えがないという事で、百パーセントのキャンセル料はサービスさせていただきますので、何とぞご容赦ください」
「そうですか……他を当たろう、美織さん。ありがとうございました」
フロントの職員は、彼女が『あの』如月みおりと知ってか知らずか、顔を覆って泣き出しそうなみおりを見て、声をかけた。
「あの。差し出がましいようですが、連休の中日のこの時間には、付近の何処のシティホテルもビジネスホテルも満室です。万が一空いているとすれば……」
* * *
千穂は、バスルームに背を向けてクイーンサイズのベッドに腰かけていた。部屋の内装は濃いピンク色で統一されている。千穂が背にしているバスルームの壁もピンク色で、そのくせベッドルームとの境の壁はスケルトンで、背を向けなければシャワーを浴びているみおりが丸見えになってしまうのだった。千穂だって男だ。動揺していないといったら噓になる。目を泳がせると、大人のおもちゃの自動販売機が目に入ってしまって、額を押さえて一つ深く息を吐き「平常心平常心」と呟くのだった。横に目をスライドさせると、小型の冷蔵庫がある。千穂はこれ幸いと立ち上がって扉を開け、ビールを取り出した。ベッドに戻ろうとして一瞬振り返ってしまい、後ろ姿のみおりの肌がチラリと見えて慌てて背を向ける。ぎこちなく後ろに向かって歩き、元通りベッドに腰かけた。
ニットジャケットは部屋に入った時に脱いでハンガーにかけてあり、いつもの黒いノースリーブだ。千穂はブーツと靴下も脱いでベッド脇にそろえ、やけくそのようにビールをあおった。千穂は酒に弱い。酔ってしまえば、あとは寝落ちるだけだった。一息に三百五十ミリリットル缶を飲み干して、缶を持つ包帯の巻かれた手で唇を拭い、空き缶を床に置く。バスルームに背を向けたまま、クイーンサイズのベッドの随分端の方に横になった。嘘でもまぶたを閉じて寝てしまうに限る。千穂は深く大きく呼吸して、寝息を誘う事にした。
やがて、みおりがシャワーを浴び終わって出てくる。備えつけのパジャマは薄くて胸の大きく開いたバスローブ状の物なので、下にロングキャミソールを着ていた。千穂は背を向けてベッドに横になっている。いつか聞いた事のある、深くて大きい寝息が聞こえた。そっとベッドに乗って、背中から声をかける。
「千穂くん、寝ちゃった……?」
横座りのまま近づき、まぶたの閉じられた顔を覗き込む。逞しい肩に手をかけて、わずかに揺すった。起きて欲しいのか寝ていて欲しいのか分からない音量で、小さくささやく。
「千穂くん、お風呂いいの?」
「んー……いい」
みおりはわずかに笑った。あの時と同じ。寝ぼけているのだと思った。
「じゃあ、寝るね」
一人呟いて、一枚の大きな布団に入り、枕元のテーブルランプだけ小さく残して部屋の灯りを消す。はじめは千穂に背を向けて横になったが、しばらく経ってからごろりと反転し、千穂の背中にくっついた。みおりは千穂が眠っているのだとばかり思って取った行動だったが、背を向けた千穂の目は開いていた。千穂はベッドから落ちるギリギリまで移動し、みおりから離れようとする。だがみおりもきっちり同じ距離近づいて、また背中に張りつく。千穂は額を押さえ、努めて冷静を装いながら、小さく言った。
「……美織さん、離れて」
みおりは久しぶりに身体を動かした事もあって、まぶたをつむったまま夢うつつで返事をする。
「なんで……?」
「俺は誠実でも、お父さんでもねえから」
みおりが目を開いた。
「……千穂くん、寝てないの?」
「この状況で寝られる男は居ねえよ。離れて」
不意にみおりが笑った。背中に当たる吐息が、さらに千穂をあおる。
「何笑ってんだよ。離れろって」
千穂は若干キレ気味にいらいらと呟く。みおりはやはり笑みながらささやいた。
「安心した」
「何が?」
「千穂くんも普通の男の人なんだなあって」
千穂が突然反転して、みおりの頭の両側に手を突き、腕の中に閉じ込める。
「そうだよ」
みおりが目を見開いて驚いている。その顔を見て、千穂は激しく後悔をした。上半身を起こしてベッドに腰かけ、前髪をかき乱して欲望を散らす。
「あー、今のなし! 俺床で寝る」
だがその言葉が終わらぬうちに、後ろからみおりが千穂の胸に両手を回した。
「……美織さん」
「千穂くん」
言葉ではなく、ニュアンスで会話する。千穂がゆっくりと振り返り、目が合う。みおりの腕にいつものブレスレットがない事を見て取って、左手の手首を持ち上げると、そこには何度も切ったような細かい傷がついていた。不思議と敬虔な気持ちでそこに口づけてから、みおりの後頭部に血のにじむ包帯の巻かれた手を当てた。顎を傾ける。みおりが目を閉じた。そっと、いつかのようにファーストキスみたいな触れるだけのキスをして。あとはもう若い情熱のままに抱き締めて、二人は指を絡ませ合った。
* * *
みおりは、隣室のドアが開閉する音で目を覚ました。ヘッドボードのデジタル時計を確認すると、八時過ぎ。窓は防音してあり朝陽は入ってこないので、灯りを点ける。みおりはロングキャミソール、千穂はブラックデニムに黒いノースリーブで寄り添って眠っていた。上半身を起こしひじをついて、みおりは千穂の無垢な寝顔を間近に観察する。精悍な頬をマニュキュアを施した指でつつくと、軽くうなって手で払われた。幸せだった。やがて千穂がまぶたを開く。確か里紗は、「朝は強い」と言っていた。千穂がゆっくりと上半身を起こす。みおりも身を起こし、間近に見詰め合った。
「おはよう、千穂くん」
そう微笑んで、何年ぶりになるのか、彼に『おはようのキス』を贈ろうと肩に手をかけて目を閉じかける。
「ごめん」
「……え?」
だが、冷水を浴びせられるような言葉で目を見開く。千穂は、いつものフラットな千穂だった。だからこそ余計に、その謝罪が痛い。
「ごめん。俺……責任も取れねえのに」
そう言って、みおりと間近に目を合わせる。その視線は、|本当に許しを乞うていた《・・・・・・・・・・・》。
「……は?」
しばらく見詰め合って不意にみおりは、腹の底から怒りがふつふつと込み上げるのを意識した。こんなに怒ったのは久しぶりだと、何処か俯瞰で思う。幸せだった。さっきまでは。思わず関西弁でぶちまけ出す自分を止められない。
「……なんやのそれ」
「だから、ごめん」
「私と寝たんは、謝らなあかん事なん?」
「だから責任……」
大きな声が出てしまう。
「ふざけんといて! 二十歳やそこらの生娘ちゃうねんで、一回寝たくらいで責任取れとかそんなしょーもない事よう言わんわ!」
千穂はその剣幕に驚いたようで、目を見張った。
「美織さ……」
「出ていき!」
枕元にあったケース入りの重いボックスティッシュを投げつける。千穂は立ち上がって距離を取り受け止めた。そのあとはもう、みおりは目につく物を全て千穂に投げつけた。ハンガーにかかっていた千穂のジャケットとコート、ブーツに靴下。
「美織さん、待っ……」
「出ていき言うてんのが分からへんの!」
みおりは手当たり次第に物を投げながら、半狂乱で泣きながら激昂していた。床にひざをつき顔を覆ってしゃくり上げるみおりに、下手に優しい千穂が対応を間違える。近づこうとして、
「出てけ!」
と千穂の荷物のバックパックも投げつけられた。受け止めると腹にずしりと重量があって、流石の千穂もうめいて少し怯む。千穂の荷物は全て、投げつけられて手元にそろっていた。ブーツをはきジャケットを引っかけ、コートとバックパックを手にして出口に向かう。
「美織さ……」
一度振り返って言葉をかけようとしたが、返事は枕が投げつけられただけだった。千穂は律義にそれもきっちり受け取って床に置いてから、戸惑った気持ちのままそっと部屋を出た。肩で息をしていたみおりは、扉が閉まる小さな音を聞いて、床に突っ伏して身も世もなく声を上げて泣き出した。




