第三十一話 視線の先の異変
日曜日。みおりは、最後までしまえなかった愛用のブラシを、巾着袋に入れてキャリーバッグに収め、ジッパーを閉めて荷物をまとめ終えた。明るい色のロングワンピースに暗い色のキャミソールを重ね着して、カジュアルだが洗練された印象を演出している。ベルトが太いブレスレットになった腕時計を見ると、八時四十分だった。みおりはコートを着てブラウンのリュックを背負い、キャリーバッグを立てて玄関に転がしていった。留守にするため閉めきっていたベランダに行きカーテンを少し開けて見ていると、駅の方から歩いてくるバックパックを背負った長身が目に入った。みおりは自然と口角が上がってしまう。初めてわんぱくキングに行った時も、待ち合わせは十五分前行動の感覚が一緒で嬉しかったのを思い出した。コートのポケットからスマホを出して、千穂に電話をかける。眼下の千穂もチェスターコートから携帯を出し、開いて耳に当てた。
『美織さん?』
「おはよう、千穂くん」
『おはよう。なんかあった?』
「ううん。上見て」
千穂の視線が上がって、目が合う。みおりが手を振ると、千穂は軽く手を上げた。
「今、下りていくね」
『いや、待って。玄関まで迎えに行くから』
「え? なんで?」
『戸締りとか確認してえから』
みおりは思わず笑った。
「千穂くんって心配性だよね。居た事ないけど、なんだかお父さんみたい」
『おい』
千穂は不機嫌な声を出す。
「あ、ごめん。怒った?」
『いや、怒るっていうか。好きな女にそれ言われても嬉しくねえだろ』
さらりとした告白に、みおりも返す。
「ふふ。私も千穂くん好きだよ」
『エレベーター乗るから。切るな』
「うん。待ってるね」
千穂の方から電話が切れる事がないのは分かっているので、一呼吸おいて通話を終えた。カーテンを閉め、いつもはピンヒールだが歩きやすいパンプスをはき終わった頃、インターフォンが鳴る。扉一枚へだてて、みおりは直接声をかけた。
「千穂くん?」
「うん」
チェーンを外して鍵を開けると、細身のブラックデニムにゴツいブーツ、黒のノースリーブにグレーのニットジャケットを合わせた千穂が立っていた。堅苦しくなり過ぎないように、カジュアルめの装いで行こうと打ち合わせていた。
「迎えに来てくれてありがとう」
「ん。窓とか全部閉めた?」
「うん」
「エアコン消した?」
「消したよ」
「テレビは? 風呂の換気扇確かめた?」
「千穂くん」
「ん?」
「一応年上なんだけど……」
「それは関係ない」
みおりより年下な事を気にしている千穂は、少しふてくされた顔をする。みおりは可笑しそうだが、千穂にとっては切実な問題だった。一生かかっても、絶対的に男の自分が年下なのは変わらないばかりか、父親認識されているのは納得がいかなかった。キャリーバッグを転がして玄関を出てきたみおりが鍵を閉めるのを確認し、千穂もドアノブを回して再度施錠を確認する。
「ん。おっけー」
* * *
京浜東北線で東京に出て、十時台の新幹線で京都に向かう。到着が十二時台になるため、二人は弁当屋に寄って駅弁を買う事にした。
「千穂くん、好きなの選んでいいよ。いっぱい食べるでしょ」
みおりはすでにサンドイッチを買って、ビニール袋を提げていた。千穂は目当ての物があるようで、迷わずに手に取る。
「これ」
「あー! これ美味しいよね」
シウマイがおかずに入った弁当だ。
「お弁当一個で足りる? 二個選んでもいいよ」
「いや、流石に十代じゃねえし。足りる」
「じゃあ買ってくるね」
みおりがレジに向かうのを、店頭で千穂が見守る。その横顔を、遠くからズームするスマホがあった。細かく動く千穂を、しつこく何度も連写する。SNSを開いて画像添付ボタンを押し、今撮った千穂の大量の写真の中からスクロールして、なるべく写りの悪い物を選び決定する。ハッシュタグは『如月みおり』
『マジで二人で大阪行くみたい』
アカウントを切り替える。どれも捨て垢だ。ネットで拾った不鮮明な写真を添付し、これにもハッシュタグ『如月みおり』をつける。
『こんなん見つけた、指名手配犯だったらしい』
それは少し若い頃の千穂の写真で、長めに伸ばした金髪を下ろしいかつくカメラを睨みつけていた。身長や体重などのデータと共に、『Gesucht』とドイツ語で大きくつづられ、被せるように小さく『指名手配』と日本語訳が入っている。アカウントを切り替え、拡散する。またアカウントを切り替え、拡散する。そうしているうちに、勝手に拡散の数字は爆発的に増えていった。
* * *
日月の連休なので世間的には三連休になり、新幹線は家族連れなどで混み合い賑やかだった。
「えーと……」
みおりはチケットを見てキャリーバッグを引きながら、指定席を探す。
「あ、ここだ。千穂くん、窓側がいい人?」
「いや。美織さんが窓側座って。万が一の時守れるから」
みおりが笑った。
「やっぱり、おと……」
「お父さんではねえから」
人差し指を軽く立て、千穂は若干キレ気味に被せて言う。みおりは何か言いたそうだったが、含み笑って黙った。『セックス依存性』という誹謗中傷のせいで男性から常に性的な目で見られ、何処かで男性が恐くなっていた。だが千穂が怒っても恐くない。不思議で、暖かい気持ちだった。キャリーバッグの持ち手を収納すると、当たり前のようにスッと千穂が持ち上げて上部の棚に収納する。
「ありがとう」
「ん」
千穂は自分のバックパックも下ろし、棚に上げてからみおりの隣の通路側に座った。弁当の入ったビニール袋からペットボトルのブラックコーヒーを出して一口飲む。
「コーヒー飲んだら眠れなくならない?」
「俺は寝ないから」
「え、四時間かかるよ?」
千穂がうろんな横目でみおりを見て、釘を刺す。
「お父さんって言うなよ」
「ん? うん」
「美織さんを守るために通路側座ってっから。寝たら意味ねえ」
「え……ちょっと待って。録画するからもっかい言って」
コートのポケットからスマホを取り出そうとするみおりに、また千穂がキレ気味に言った。
「なんで録画すんだよ、言わねえよ」
「えー。いいじゃん、ファンサしてよ」
「あ? 何それ」
「ファンサ知らない? ファンサービスの略」
「つまり俺のファンて事?」
「そうそう」
「だからそういうの嬉しくねえって」
あからさまに不機嫌になる千穂に、みおりは声を立てて笑った。眉間にしわの寄った千穂と目を合わせて、くすくすともらす。
「ごめん。私今まで男の人が怒ると、凄く恐かったの。でも千穂くんの事は恐くないから、なんだか嬉しくて」
千穂の表情が若干晴れた。
「それ褒めてる?」
「凄ーく褒めてる」
みおりはにこにことして話す。その顔を見て、千穂は溜飲を下げたようだった。
「美織さん、眠くなったら寝てもいいよ」
「えっ、ほんとに寝ないの?」
「うん」
「私絶対寝ちゃうんだけど」
「いいよ。俺が勝手に起きてるだけ」
「えー、なんか罪悪感が……」
そんな会話を交わしてから、三十分後。みおりは安心しきって、千穂の方に頭を預け眠っていた。千穂は宣言通り寝ていない。窓の外の景色を眺めていたが、視線を落としてみおりの寝顔を見る。先日のウェディングフォトを思い出して、千穂はそっと寄り添って目を閉じた。
通路の正面から、二人の席に向かって歩いてくる人物が居る。デニムのポケットから太いカッターを出し、自分のかげになるように尻のところで不穏な音を立てて刃をゆっくりと出していく。あと五歩というところで、千穂がまぶたを開いてその人物に目を向けた。カッターは使用されないまま、静かに刃が収納されまたポケットに戻された。その人物を見送ってから、千穂はブラックコーヒーをまた一口飲んで窓の外に目を向けた。




