第三十話 うちの味
子ども部屋で、鈴がぐっすり眠っていた。枕元には、『消えたお天道様と迷子のラド』の絵本が置かれている。
「じゃあ取り敢えずうちの分の作り置きするから、キャベツメインで作るな」
「はいっ」
一階のキッチンでは千穂を講師に、佐藤家秘伝の浅漬け講習会が開始されていた。生徒は、みおりと里紗だ。二人ともスマホを構えている。年齢は違えど、スマホでメモするスタイルなのは変わらないらしい。
「まず、キャベツ。漬かるとしなっとするから、食べ応えを残すために俺はこれくらい大きく切る。はい、切って」
「は、はいっ」
まさかいきなり実技がくると思っていなかった二人は、メモする手を止めて慌ててスマホを伏せる。手を洗って、千穂の手本を見てからみおり、里紗の順番にキャベツ半玉を切っていった。その間に千穂は人参のへたを落とし皮をピーラーで剥いている。きゅうりも片側のへたを落とした。
「出来ました、先生!」
大きなボウルに切ったキャベツを入れ、里紗がノリノリで千穂に声をかけた。
「ん。あとは人参ときゅうりを、太めのスライサーで下ろしてく」
同じボウルの中に少量、二~三ミリ角の千切りに切れるスライサーで、人参ときゅうりを散らしていく。きゅうりは長さが出るように、斜めに持って下ろした。鮮やかなオレンジとグリーンが、食欲をかき立てるようだった。
「はい、里紗」
「えっ、あたし」
やっぱりスマホでメモしていた里紗は、追いつかずに慌てる。千穂が少し悪戯っぽい表情で、人参とスライサーを差し出してもう一度言った。
「はい、里紗」
「待って待って」
里紗は慌てていて気づいていないが、それが千穂のささやかなユーモアだと分かって、みおりはメモしながらくすくすと笑った。千穂と目が合って、ひそかに共有する。人参が終わると、きゅうりとスライサーを差し出してみおりに声をかけた。
「はい、美織さん」
「うん。これ便利だね。欲しい」
「これから買うなら、安全装置つきのやつにするといいかもな。これついてないから、指も下ろさないように気をつけて」
「はあい」
みおりはほとんど料理をしないから調理器具もあまり持っていなく、あっという間に千切りが出来てしまって感動する。
「え、凄い。千切りなんて初めてした!」
「味噌汁とか作る?」
千穂が包丁で生姜の皮を剥きながら訊く。
「えっと、インスタントならたまに」
「もし作るなら、大根と人参をこれで下ろせばすぐ出来る」
「そうなんだ。私はまず、お味噌買ってこなくっちゃ」
みおりは自虐的に笑ったが、やはり千穂はそれを笑わなかった。
「理屈はよく分かんねえけど、ビタミンとかミネラルとか味噌身体にいいって聞いてから、一日に一回は必ず味噌汁作ってんな」
「千穂くんちのお味噌汁美味しいよね。具だくさんで」
「手、気をつけて」
話に気を取られていると、こまやかに注意される。
「あ、うん。ありがと」
「生姜は入れても入れなくても、好みだな。うちは入れる」
そう言って千穂は、糸状に細かい千切りになるスライサーで、ボウルの中にサッと生姜一かけらを下ろした。慣れているだけあって、スピードが二人と全く違う。手の中に残った分も細かく刻んで入れた。
「あとほんとはちゃんとした乾燥昆布を、細かくして入れると美味いんだけどさ。高いから、塩昆布を入れる」
糸状にカットされた塩昆布の袋を傾け目分量で、ボウルの中にザザッとたっぷりめに入れる。みおりと里紗は、真剣にスマホにメモを取っていた。千穂は長身を屈ませて作業台の下から粗塩のケースを取り出す。
「塩は一つまみくらいな」
生徒陣が途端に目を凝らす。
「えっ、一つまみってどれくらい?」
「お兄ちゃん手、見せて」
「ん」
「えっ、何グラムとかじゃないと分かんないかも」
メモしながらも焦るみおりに、千穂はついでにつけ加えた。
「これアジシオじゃなくて粗塩な」
「えっ? 普通のお塩じゃ駄目なの?」
「アジシオは余計な味がついてっから、素材の味で食う浅漬けは粗塩な。……もう入れていいか?」
色んな角度から『一つまみ』を観察する里紗に訊く。
「う、うん。それ作る時にまた教えてね」
「ん」
全体にまぶすように塩が入れられた。千穂が再び屈んで、カレー粉の缶と砂糖ケースを両手に戻ってくる。
「カレー粉はこんくらい」
――パシャパシャッ。
缶から直接、ボウルの中に小さじ二分の一ほど振り入れられたカレー粉に、シャッターが切られた。砂糖ケースからはスプーンに気持ち程度の砂糖を取り、ボウルに入れる。
「砂糖は好みで少し。入れなくても美味いけど、うちは鈴が居るから、カレー粉があんま辛くないように」
「まろやかに?」
「そう、それ」
みおりに答えて、ボウルの底からひっくり返すようにして千穂が大きな手で揉み込みながら混ぜ始めた。
「混ぜる時はなるべく大きいボウルでな。きちんと混ざんねえから」
そして長方形の、野菜のイラストが描かれたプラスチックの容器に中身を移しかえる。上から、専用の重石を乗せてギュッと押し込んだ。
「これでしばらく置けば出来上がり」
「はい!」
美織が目線の高さに手を挙げる。
「ん。美織さん」
「しばらくってどれくらい?」
「あ、それあたしも聞きたかった」
スマホから顔を上げて里紗が言う。ボウルや包丁を手早く洗いながら、千穂が答えた。
「硬めであっさりでよければ、最短十分」
「えっ、そんなに短くていいの?」
驚くみおりの方を見てから、千穂が佐藤家の味を伝える。
「まあ好みだな。うちはだいたい三~四時間漬ける」
洗い物を水切りかごに片づけて、千穂は浅漬け専用器を冷蔵庫にしまった。
「はい!」
「ん。美織さん」
「冷蔵庫で漬けるの?」
千穂がエプロンを外す。
「うん。……一回夏にしまい忘れて、全部駄目になった」
ボソッとつけ加えられた情報に、みおりと里紗が思わず顔を見合わせてから、小さく噴き出した。
「千穂くんでも失敗する事あるんだ」
「そりゃするよ」
そんな台詞で締めくくって、佐藤家の浅漬け講習会はお開きになったのだった。
* * *
「美織さん、俺明日も早いから送れなくてごめんな」
「ううん。大丈夫」
みおりは初めて千穂の家に泊まった時と同じ、ブカブカのスウェットパンツにライブティーシャツを着て、ソファで髪をタオルドライする千穂の横に腰かけた。
「日曜日は家まで迎えに行くから」
「えっ、東京駅待ち合わせでいいよ」
「よくない。それは俺が駄目」
みおりは笑顔になって、ソファの上で膝を抱えた。視線を落として、含み笑う。
「ん?」
「なんかね。七年前あの事があってから出会った人で、私をまともに扱ってくれたのって、千穂くんが初めてかもしれないなあって」
「マジか」
「うん。近づいてくるのは、『あの』如月みおりとどうにかなりたい人ばっかり。だから私、だいぶ人間不信になってた」
「うん」
しばらく、千穂がタオルドライをするゴシゴシという小さな音だけがリビングに満ちた。おもむろに千穂が口を開く。
「で?」
「ん?」
目が合った。
「俺の事は信じてくれた?」
「……うん。千穂くん、私の事『あの』如月みおりだと思ってないでしょ」
「うん。美織さんは美織さんだと思ってる」
みおりは、抱えた膝小僧の上に顎を乗せる。
「ふふ。嬉しい」
「日曜日、九時に迎えに行けば間に合うよな?」
みおりが顔を上げた。
「うん。十時台の新幹線だから」
「俺さ、大阪行くの二回目」
「行った事あるんだ?」
「北海道の高校の修学旅行は、だいたい東京と京都と大阪。でも神社見学とかするから、ほとんど京都だったような気がする」
「そっか。新幹線、京都で降りるけど観光したい?」
「いや。特に観光したいとかねえけど」
みおりは何か思いついた顔をする。
「千穂くん、テーマパークとか行く人?」
「昔は行ったけどな。今は余裕がなくて」
「大阪まで付き合って貰うんだから、お金の事は考えなくていいよ。じゃあ、ついでにテーマパーク行かない? 学生時代以来だから、私も凄く懐かしい」
「うん。美織さんが行きたいんなら」
「うわあ。楽しみだな」
ジッとしていられないように、みおりがソファに上げた足先を足踏みするようにパタパタと動かすと、千穂が小さく笑った。
「子どもみてえ」
「大丈夫! 私遠足の前の日でも、ちゃんと眠れる子だから」
「そっか。そうだったな。じゃあ、寝るか」
「うん。そうだね」
立ち上がって、千穂がダイニングテーブルの上のリモコンを手に取る。
「消すぞ」
「うん」
みおりを先に階段を上がり、子ども部屋の前で別れた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」




