第三話 現実
カーテンが開け放たれたままのリビングには、鳥の声と朝陽が差し込んでいる。部屋の中は雑然としていて、お世辞にも綺麗とは言えない。ピンチハンガーに何日も部屋干しされたままの下着や靴下、ゴミ箱から二~三本突き出た五百ミリリットルのペットボトル、シンクには皿が何枚か残り溜まった水の上に蛇口から水滴が落ちている。ローテーブルの上に置いてあったスマホが、鈍い音を立てて震えた。
「ん……うーん……」
開いたノートパソコンのキーボード上に突っ伏して寝ていたみおりは、目を閉じたまま緩慢に覚醒して音の出どころを手探った。夢を見ていた。七年前の、スポットライトを浴びて輝いていた自分を。
人前に出なくなって七年、みおりはグレーのスウェット上下に長い黒髪をタオル地のヘアバンドで押さえ、ほぼすっぴんの顔には黒縁の眼鏡をかけていた。さまよった手に押され、スマホがローテーブルからグレーのラグの上に落ちて鈍い音を立てる。
「んー……」
顔を上げると、みおりはラグに落ちたスマホを拾った。画面には『小関直美』の表示。
「やばっ」
寝惚けまなこから一気に目を覚まし、みおりは慌てて通話ボタンを押した。
「はいもしもし!」
努めてハキハキとした声を出すが、スマホの向こうからは重箱の隅をつつく姑みたいな声がした。
『お疲れ様です、如月センセ』
「お、お疲れ様です!」
小関は編集者という立場上みおりを『先生』と呼ぶが、その語尾は尻切れとんぼに一音上がり『センセ?』と聞こえ、常に疑問形の印象で会話する時は無駄に緊張してしまう。みおりには、体感としてはまるで絶えず責められているように感じられた。だがそれはけして気のせいばかりではなく、小関はいつものようにみおりを追い立てるのだった。
『明後日までに新作のプロットをお願いしてますが、進み具合はどうですか?』
「あ……えっと」
ずれた眼鏡を上げ直しノートパソコンの画面を見るが、画面いっぱいには『っっっっっっっっ』の文字が羅列され、デリートボタンを連打して消しても消しても本文が出てこない。
『センセ?』
「あ、はいっ」
みおりは焦って、昨日寝落ちる前に書いていたプロットの中身を思い出しながら、しどろもどろに説明した。
「えっと……高校生の恋愛もの、いわゆるアオハル系を考えていまして……」
いつもみおりのアイディアを否定する事から始める小関は、今日もやっぱり否定から始める事にしたようだ。鼻で笑ったような音が入る。
『センセ。アオハルって……如月センセ、もう三十一ですよね? フレッシュな作家が書くアオハルには、到底リアリティで適いませんよ』
「で、でも、恋愛ものには自信があるんです。そこそこ売れましたし」
なけなしの勇気を振り絞って反論してみるのもいつもの事で、ボイスレコーダーを再生するように頭ごなしに諭されるのもいつもの事だった。
『でもね、センセ? 今まではセンセの実体験だからリアリティがあったんです。公演に全通して監視する元ファンの束縛男、劇団でいい役を掴むためだけにセンセに告白した新人俳優、自称モデルの六股をかけてたヒモ野郎。読者は、センセの泥沼の実体験に興味があったんです。刃傷沙汰、コンプライアンス違反、変態的なセックス! それがあったから、そこそこ売れたんです』
「そんなっ……」
『センセ、センセには創作の才能はありません。ネタが切れたのなら、新しい恋愛をしてください。とびきりの、人の道を外れた泥沼の恋愛をね』
あまりにも思いやりのない言葉に、咄嗟に反応が出来ない。人間はひどく傷つくと心を守るために、一時的に思考を停止するというような記事を何処かで読んだ。今まさに、そんな状況だった。
「……分かりました」
七年前鴻巣に屈した日から、諦め癖がついていた。わざわざ反論をするのもたまらなく面倒臭い。その返事に満足したように、小関は取ってつけたように明るい声で話を締めくくった。
『じゃあ、センセ。また明後日の十四時に。失礼します』
* * *
劇団を退団せざるを得なかったみおりは、表舞台から姿を消した。脚本担当の奏太にアイディアを提供する事もあったから、食べていくために片っ端から出版社に電話をし、唯一拾ってくれたのが現在の聖恋文芸社だった。本を出版する度にアンチがわいて小さな炎上を繰り返す現状だが、みおりはそのアンチが生み出す印税で生活をしている。言うなれば共依存の関係だった。
――新しい恋?
みおりは考える。レッテルの貼られたみおりを女性として見てくれる男性などおらず、この七年間過去の恋愛経験を切り売りするだけの毎日だった。それすらも、自費出版で何冊か本を出している自称元作家の小関に大幅に改稿され、大失恋を面白可笑しく喜劇にされる。編集部には本がそこそこ売れているのは、小関の脚色のおかげだと評価されていた。グレーのラグの上に、グレーのスウェット上下。部屋にグレーが多いのは、多少横着をしても汚れが目立たないようにするためだった。おまけにみおり自身も、鴻巣との裁判の結果限りなく黒に近いグレーの女だ。
昔は違った。毎日綺麗に化粧をして、お洒落をして劇場に通っていた。部屋にも小さな観葉植物やカラフルな小物を飾り、訪れた者にセンスを褒められたりしていた。昨日の朝スキンケアしてそのままローテーブルの上に伏せてあった鏡を手に取ると、このところろくにパックもしていない疲れたアラサーの顔が映る。
『ネタが切れたのなら、新しい恋愛をしてください』
小関の言葉がよみがえる。そう言えばみおりの夢は、二十九歳までには結婚して惜しまれながら引退し、三十代には夫と子どもに囲まれた幸せな生活を送る事ではなかったか。でもプライドが邪魔をして、恋愛結婚以外はナシだと決めつけていた。もはや誰もみおりを女性として見る者など居ないのに、だ。
――このままじゃいけない。
手鏡を伏せて、スマホを手に取る。震える指で、検索した。『マッチングアプリ』たくさんのアプリがヒットした。何を基準に選べばいいのか分からずに、『成婚率ナンバーワン!』とうたわれている一番上に出てきたアプリに取り敢えず登録する。
ニックネームは――少しだけ考え、敢えてみおりから遠いものにした。『ももこ』性別は女性、年齢は三十を選んでしまってから三十一に訂正する。友人たちも蜘蛛の子を散らすように姿を消して、誕生日を祝ってくれる者も居ないから年齢が曖昧だ。
写真。同じような理由で、最近の自撮りなどなかった。カメラロールをスクロールすると、食べ物ばかりの写真の末に、七年前の写真が出てくる。エックスデーとなったあの朝、SNSに「本日千穐楽!」と上げたあの写真だ。七年若いが、今流行りの加工しまくった写真よりはまだマシだろう。編集で背後のフラワースタンドをずらして、『如月みおり様』や『劇団陽光炉』の名前が入った札を消し、花だけ残す。写真の中の自分は華やかで、なんだかほっとした。
あとは、マッチングするための自己紹介や細かな情報入力。ものの十分で登録は完了し、アプリ上に『ももこ』の花に囲まれた笑顔が表示された。マイページで打ち損じがないか確認していると、ハートマークに重なる数字が増えていった。
「ん? これは……『いいね』の数?」
数はどんどんと増えていく。嬉しくないと言ったら嘘になるだろう。まだ世の中に、自分を女性として求めてくれる人がたくさん居るように錯覚した。
――ピコン。
そのうち、プッシュ通知が来た。メールマークに『1』の表示。少しその表示を眺め、迷って、いったんスマホをテーブルに伏せる。これを開いてしまったら、もうあと戻り出来ないような気がした。努めて忘れようとしながらインスタントのスープに目玉焼きにトーストの簡単なブランチを作り、土曜日の情報バラエティ番組を観ながら食べ、食べ終わって食器を溜まっていた物とまとめて洗う。みおりは、ラインも溜まってから返信する質だった。すぐに返信をするのは、自分を安売りしているような気がして。今や、ラインの繋がりもほぼ皆無に近いのだが。普段やらないようなこまごまとした雑事をこなし、早めの夕食はデリバリーでビビンバ丼を取った。そんな風にじりじりと時間を潰し、十八時まで耐える。満を持してスマホを手に取ると、メールマークの数字は『2』に増えていた。
――こんなものか。
正直、拍子抜けする。あの写真なら、もっとメッセージが来ると思っていたからだ。でも七年前、二十四歳でババア呼ばわりされた事を思い出す。アラサー女の現実なんて、こんなものなのかもしれない。画面を五秒見詰めてから、『2』の表示をタップした。メッセージは四十歳の会社員『部長』と、二十二歳の大学生『桃太郎』からだった。




