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第二十九話 おかえり

 数日ぶりにみおりと会うが、あれこれ服装を選んでいる暇はなかった。それほど服を持っているという訳でもない。千穂はカーゴパンツにジップアップパーカーというシンプルな普段着で、みおりのマンションの前に乗りつけた。サイドブレーキを引いたタイミングで、太ももポケットの中の携帯が鳴る。ディスプレイには『社長さん』の文字。一瞬無視をしようかと考えしまいかけたが、思い直して出る事にした。

「もしもし」

『もしもし、千穂くん?』

 甲高い大声が響いて、千穂は思わず携帯を耳から遠ざける。

「はい。佐藤です」

『千穂くん、あの如月とかいうマネージャーと付き合ってるって本当?』

「付き合ってませんけど。誰から聞いたんすか」

「バイトの子からよ! ネットで有名なアバズレだっていうじゃない! 千穂くんがあの女と別れないとポスターも使えないから、今すぐ別れてちょうだい!」

「別れるも何も、付き合ってませんし。気に入らなければ、モデル代は後日お返しします。すみません、今忙しいんで、それじゃ」

 携帯の向こうでは何かわめく声が続いていたが、千穂は一方的に言って通話を切った。すぐにボタンを長押ししてサイレントマナーモードにするが、想像通り着信ランプが忙しなく点滅していた。千穂は車を降りてエレベーターで上がり、二〇五号室の前まで行く。インターフォンを押すと、みおりの声がした。

『千穂くん、今行くね』

「ん」

 短く返事をして、待つ。すぐに、ワンピースにブラウンのリュックを背負ったみおりが出てきた。

「美織さん、しっかり鍵して」

「うん」

 鍵をして千穂に笑顔を見せるが、その顔は泣くのを我慢しているようだった。その時、みおりのスマホが鳴る。

「美織さん、出なくていい。わんぱくキングの社長だと思うから」

「……ほんとだ」

「着信拒否にして」

「え?」

「いいから。今すぐ切って、着信拒否にして」

 千穂が恐く感じるほど性急なので、みおりは急いで言われた通りにした。

「……はい。したよ」

 千穂は、安心したようにふうっと息を吐いた。

「ごめん」

「え?」

「俺今、恐い顔してただろ」

「え、いや」

 恐いと感じたのは事実で、言葉を濁すともう一度千穂は謝った。

「美織さんを守らなきゃって、必死でさ。ごめん」

「……ううん」

 みおりは微笑んだ。

「また、仲直り出来たね」

「あー……何回目?」

「数えてないけど、千穂くんはきちんとごめんなさいが言える人だから、何回でも仲直り出来る気がする」

「……そっか」

 千穂も頬を緩めた。おもむろに、両手を広げて輪を作る。

「ん?」

 表情がナチュラルに変わった。何事も無理強いをしない、千穂のフラットさを体現しているような表情だ。

「もし恐くなかったらだけど。泣きたい時は、抱き締めて貰うと安心すんだろ」

「え、でも玄関先」

 千穂は一度腕を下ろした。

「撮られたっていいよ。正直さ。何をどうしたって俺たちが離れる事はないって、見せつけてやりたい気分」

 再度腕を上げると、みおりの少し困ったような機微を感じ取り、千穂は言い募った。

「あ、これ。いつも鈴にやってるやつな。ラブじゃなくて」

 そう言われて、みおりの顔に明らかに安堵が浮かぶ。一歩、踏み出して。見詰め合って。みおりは千穂の逞しい肩に頬を預け目を閉じた。千穂は柔らかく抱き留め、そっと頭を撫でる。

「千穂くん、お日様の匂いがする」

「あ、ごめん。風呂入ってくる暇なかった」

「ううん。石鹸や香水の香りより、百倍安心する」

 千穂は、愛おしそうにみおりの髪に頬を当てた。

「……安心していいよ」

    *    *    *

 リビングのドアが開く。

「ただいま」

「お邪魔します」

 ソファに座って鈴とアニメを眺めていた里紗が、飛び上がってみおりに駆け寄った。

「美織さん、いらっしゃい!」

 いつかのように、向かい合って両手を繋ぎ軽くバウンドさせる。

「ううん。おかえりなさいかな。美織さん居なくなった時、もう来てくれないんじゃないかってすっごく心配だった」

 みおりは笑顔を見せる。

「ありがとう。ごめんね。急な仕事が入っちゃって」

 奇しくも、その言い訳は千穂と一致していた。大人が咄嗟に考える子どもへの言い訳は、仕事のせいにするのが一番都合がいいらしい。

「美織さんお腹空いてる?」

「うん。ぺこぺこ」

「今あっためるね。待ってて」

 里紗がダイニングテーブルの上にラップをかけてある皿を電子レンジに運ぶのを見て、みおりもリュックを下ろして運ぶのを手伝った。

「え、美織さん座っててよ」

「おかえりなんでしょ? お客さんじゃないから」

「そっか!」

 味噌汁の鍋に火を点けてと頼んだり、温まった皿を手渡す時に熱いよと言葉を交わしたり。ダイニングテーブルに座って頬杖をつきそれを眺める千穂は、本当の姉妹のようだと思う。以前みおりが言ったように、男兄弟には言いづらい事も接しづらい事もあるのだろう。里紗はとても楽しそうだった。やがて食卓の準備が整うと、千穂がソファに向かって声をかけた。

「鈴、ご飯」

「うん」

 鈴がソファを離れたあと、千穂がダイニングテーブルに乗っていたリモコンでテレビを消す。

「いただきます」

 四人で手を合わせたあと、里紗が、

「召し上がれ」

 と応えた。千穂の背中を追っているのだろう。メニューは、豚肉の野菜炒めにきゅうりとわかめの酢の物にもやしと小松菜と油揚げの味噌汁だった。千穂が作り置きしていたと思われる山盛りの浅漬けもある。野菜炒めを頬張って、みおりは「美味しい」のイントネーションでうなった。

「んーふー!」

 ご飯も口に運び、よく咀嚼し飲み込んでから里紗に言う。

「これ里紗ちゃんが作ったの?」

「うん」

「凄く美味しい。野菜炒めって意外と難しいよね。火の通し具合とか」

 千穂も食べながら口を出す。

「うん。中一で初めて作った時はべちゃっとしてた。めちゃくちゃ腕上げたと思う」

「お姉ちゃんのご飯も好きー!」

 みんなに褒められて、里紗は照れ笑った。

「えへへ。ありがとう」

「今日さ。飯作り過ぎたから美織さん呼ぼうって言ったの、里紗なんだ」

「え、そうなんだ。ありがとう、里紗ちゃん」

「ううん。あたしも美織さんに会いたかったから」

 里紗は笑顔を絶やさない。みおりもつられて笑顔になる。いい方の連鎖だった。

「美織さん、お兄ちゃんから聞いた。ノンフィクション書いてるって」

「あ、うん。担当さんに言ったら、来週の企画会議にかけてくれるって。今、八万五千字まで書いたとこ」

「えっ、すごっ」

 驚く里紗とは対照的に、千穂がピンときていない顔をする。

「凄いのは分かるけど、八万五千字ってどれくらい?」

「もう本一冊分くらいって事」

 みおりの代わりに里紗が答えた。

「マジか」

「早けりゃいいってものでもないけどね。でも一つの特技」

「ちゃんと寝てる?」

 心配性の千穂にみおりは笑った。

「うん。夜中の十二時までには寝るようにしてる。千穂くんに怒られちゃうから」

 千穂は照れ臭いのか、返事はせずに白米を頬張る。

「あとね。レシピ調べて、なるべくスープとか一品増やすようにしてる。ねえ、千穂くん」

「ん?」

「この浅漬け、千穂くんのだよね」

「ああ、うん」

「作り方簡単だったら真似したいから、暇な時に教えて貰える?」

「いいよ。簡単。うちはキャベツがメインだけど、好きな野菜切って塩で揉んで重石(おもし)してしばらく置くだけ。あとうちの味にしたかったら、カレー粉」

 千穂は当たり前のように言うが、好きな野菜とは何かとか、塩はどのくらいなのかとか、しばらくとは何時間くらいかとか、みおりには分からない事だらけだ。

「千穂くんの「簡単」と、私の「簡単」はだいぶ違う気がする。重石って、買わなきゃ駄目だよね?」

「いや。やかんや鍋に水入れて乗せても重石になる」

「へえー! そんな裏技あるんだ」

 明るく声を上げるみおりに、里紗も続く。 

「お兄ちゃん、それあたしも習いたい」

「じゃあ今日はもう遅いから、今度一緒にな」

 その言葉に被せるようにして、鈴がみおりに向かって元気な声を上げる。

「お姉ちゃん、今日も絵本読んで!」

「え、えっと、ごめんね。今日は……」

「うん」

 味噌汁を飲みながら千穂がうなるように返事をする。

「そうしよう。泊まってきなよ、美織さん。よければだけど」

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