第二十八話 クレーム
それから数日間、みおりは執筆を続け、千穂は仕事をし、里紗と鈴は外ではマスクをして過ごした。千穂はみおりと朝晩の挨拶を交わしながら、みおりの既刊も読み進める。夜、布団に入ってから横になって読むのが千穂の読書スタイルだった。
みおりは金曜日、いつものように十三時五十分からズームを繋いで、ギリギリまで執筆を続けていた。十四時ぴったりに回線が繋がる。
『お疲れ様です』
「あっ、お疲れ様です」
画面には、きっちりスーツに身を包んだ小関が映っていた。
『如月センセ、ずいぶん炎上してるようですけど。その後どうですか?』
相変わらずみおりを小馬鹿にしたような調子だ。だがみおりは笑顔で応対する。
「えっと、今日は恋愛シリーズの話じゃなくて。ラインでお知らせした、ノンフィクションの事なんですけど」
『おっしゃってましたね。恋愛じゃなかったら、何に関するノンフィクションなんですか?』
「実は……ある方たちに助言をいただきまして。私の素直な文章が面白いとか、ノンフィクションを書いてみたらどうだとか」
『そうなんですか』
自分はそうは思っていないという意志を持って返される。
「それで、七年前から順を追って、真実を書き起こしてみようと思いまして」
『七年前って……あの事件からですか?』
「はい。裁判を示談で終えてから、ずっと沈黙してきました。何を言っても言わなくても叩かれたので、私の人生は終了したんだって諦めていたんです。でも……「生きてるんだからまだ人生は終了してない」って言ってくれる人が居て。切り捨てるんじゃなくて、一緒に生きていくにはどうしたらいいのかって考えてくれる人が居て。決心がつきました」
画面越しの小関は、複雑な表情をした。人生を諦めている、そんなみおりを見下し文章に好き放題手を加える事で、まるで自分の方が高次元に居るようなプライドを保ってきた。だが今のみおりは、作家としても人間としても女性としても、明らかに自分よりも輝いている。そんなみおりの変化にどう応えたらいいのかにわかには分からずに、しばし沈黙した。
『……もう執筆されてるんですか』
「はい。八万字近くまで」
おおよその目安として、一冊の本は十万字前後が望ましいとされる。校閲が入るが、それはかなり完成に近い文字数だった。小関が若干態度を改め、背筋を伸ばす。
『拝読させてください。下読みしてから、月曜……は祝日なので、火曜日の企画会議にかけてみます』
「はい! よろしくお願いします!」
みおりは初めて、小関に心からの笑顔を見せた。
* * *
千穂がハイエースを家の駐車場に止め、ボストンバッグを担いで玄関に向かう。今日は少し遅い時間で、西陽が眩しい。胸ポケットから鍵を出して開け、家に入るといい香りがした。
「ただいま」
「おかえり、お兄ちゃん」
もこもこの部屋着を着た里紗がマゼンダピンクのエプロンをして、キッチンで洗い物をしていた。ダイニングテーブルには、三人分の夕食にラップがかけてある。
「飯作ってくれたのか?」
「うん。明日休みだし」
「助かる。着替えてくる」
千穂はボストンバッグを持って二階に上がる。黒いスウェットに着替えたところで、携帯が着信した。みおりからのショートメールだった。
『千穂くん、書けるところまで書いたから、会えないかな? この間のカフェで。』
返信をする前に、千穂は一階に下りて里紗に確認をしに行った。
「里紗。せっかく飯作って貰って悪いけど、美織さん執筆に一区切りついたから、お茶してきてもいいか?」
「えっ、もちろんいいよ。なんなら量がよく分かんなくて作り過ぎちゃったから、晩ご飯うちで食べて貰ってもいいし」
「そっか。誘ってみる」
そう言ってショートメールに返信した。
『支度するから、一時間半後とかでもいいか?』
『うん、ちょっと営業時間調べてみるね。』
個人経営のカフェだと夕方で閉店の事もある。みおりはスマホの検索窓に『赤羽』『カフェ』『かっつぇ』『営業時間』と入れて情報を探した。近所の奥さん相手の店だから、公式ホームページはない。エゴサーチをしないという約束は守っていたが、不意にその検索で『如月みおり』の名前が目に入った。
「え……?」
ページは老舗のレビューサイトだ。指が震えて躊躇したが、我慢出来ずにタップして開く。かっつぇのレビューページだった。4.1あったはずの評価は2.9まで落ちている。最新の評価は『如月みおり』
『ジジイとババアばっかで、せっかくのデートが台無し。二度と行かない。』
その上に短く、店からのお知らせが一文あった。
『十年以上に渡るご愛顧ありがとうございました。本日をもって閉店いたします。』
日付を確認すると、みおりたちが来店した次の日だ。心臓の音がうるさいと思った。耳鳴りもする。気がついたら、無意識に千穂に電話をかけていた。
『もしもし』
「千穂くん……っ」
乱れた声に、千穂が即座に反応する。
『美織さん? どうした?』
「かっつぇが……」
『うん。ゆっくりでいいから。落ち着いて』
その言葉に甘えて、しばらく深呼吸を繰り返す。過呼吸気味だったのが、次第に治まった。
「……かっつぇがね」
『うん』
「閉店してた」
『……え?』
千穂はその事実とみおりが結びつけられずに聞き返す。みおりは顔を押さえながら、涙声で話し始めた。
「七年前にも、あったの。私がいつも行ってた喫茶店とか、立ち寄る店とか全部。あの事があってから、店員さんの態度がおかしくなって……よく行く店は、みんな潰れていった。なりすましアカウントが、クレームを入れてやったって言いふらしてた」
千穂は一瞬、絶句した。滅多に怒らない千穂だが曲がった事が大嫌いで、痴漢を見つけたあの時のように、静かに激昂し始める。
『……んだよそれ……。悪い事やってんの、向こうだろ』
「でも私の言い分は誰も聞かない。最近は落ち着いてたから、忘れてた私が悪い。私が出歩くと、人に迷惑がかかる」
『そんな事ない。それ、美織さんのせいじゃねえよ』
語尾を食い気味に、千穂が大きな声を出した。キッチンから千穂の横に歩み寄って、里紗が心配そうに見上げる。
「でも……」
『そうやって「自分のせい」だって美織さんに思わせて、美織さんの人生をめちゃくちゃにすんのがそいつらの目的なんだろ。だったら気にしたら負けだよ』
怒りに任せて言ってから、後頭部に手を回して発言を撤回する。
『あ、いや。こういうのは勝ちとか負けじゃねえのは分かってっけど。一個だけ言えるとしたら、それは美織さんのせいじゃねえって事』
「うん……ありがとう」
『この事も書いてやれよ。そうしたら誤解がとける』
みおりはにじむ涙を指で拭って、吹っ切るように一つ吐息で笑った。
「うん。そうする。オープンなお店だと盗み聞きされちゃうから……今日はやめておくね」
『待って、美織さん。今日うち、里紗が飯作り過ぎちゃって。もしよかったらだけど、晩飯食いに来ねえ?』
横で里紗がこくこくと頷く。
「え……でも……」
『迷惑とか考えないで。嫌だったら遠慮するけど、うちは歓迎だから。来るなら、車で迎えに行く』
「え……えっと……」
『俺は美織さんに会いてえよ。美織さんは?』
少しの沈黙のあと、小さな声が紡がれた。
「会いたい……」
『よし。決まり。すぐ迎え行くから。待ってて』
「うん」
『四十五分で着く。じゃあな、美織さん』
「うん。あの……」
『ん?』
「ありがとう。千穂くん」
『ん。じゃあな』
じゃあな、とは言ったがやはり千穂の方から通話を切る事はなく、みおりは泣きそうな顔で微笑んで終話ボタンを押した。もうメイクもして外出着に着替えている。少しくらいの変装に意味がない事はとうの昔に思い知っていて、眼鏡もかけていなかった。みおりは胸のところで握っていたスマホをローテーブルに伏せ、ノートパソコンを開いて思いの丈をつづり始めた。




