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第二十二話 計画

 みおりが指定したのは、赤羽駅徒歩十五分の場所にあるこぢんまりとしたカフェだった。駅など人目につくところでの待ち合わせを避け、敢えて路地を入った現地での待ち合わせにする。初めて行く場所だったから、みおりはメモしてきた道順を確認しながら大通りを離れた。地図アプリはなんとなく信用していない。小さなメモ用紙を見ながら目的地を探すのが、みおりのいつものスタイルだった。大通りから一本入っただけで、随分と喧噪は小さくなる。

 みおりは、ベルトが太いブレスレットになった腕時計を、ブラウンのサングラスをかけた瞳で確かめた。待ち合わせの時間は十五時半だったが、『かっつぇ』の看板が見えてきたのは十五時過ぎだった。グレイヘアの丸眼鏡をかけた痩せぎすの高齢男性が、店の前をほうきとちり取りで掃除している。看板が出ていなければ、まるきり民家の作りだった。

「こんにちは」

 みおりは高齢男性に声をかける。彼は顔を上げ、目尻にしわを刻んで微笑んだ。

「はい、こんにちは。いらっしゃい。中に家内が居るから、どうぞ入って」

「ありがとうございます」

 階段を三段上がると、玄関扉の目線の高さに珍しいドアノッカーがついていた。実物は初めて見たかもしれない。猫がノッカーの輪をくわえた意匠だった。輪を握り、二回ノックをする。ややあってドアが開き、丸顔の高齢女性が笑顔を見せた。

「いらっしゃい」

「こんにちは」

 随分早いから座る席を探そうと思っていたが、三つきりの四人がけテーブル席の正面で、千穂が軽く手を上げた。

「美織さん」

 千穂は今日は、黒っぽいシティ迷彩風の杢調パーカーにネックレスを着けていた。まくった袖から覗く腕の筋肉そのものがファッションの一部になっている。

「千穂くん! 早いね。待った?」

「いや、俺も今来たとこ。美織さんも早いな」

 向かいの席に着きながら、みおりは隣の席にブラウンのリュックを下ろす。みおりも久しぶりに背伸びをしないお洒落を楽しんでいた。ブラックのロングジレとワイドパンツのセットアップの中に、シアー素材の長袖を着ている。もうすぐ十二月だが今日は十分に暖かく、二人ともコートは着ていない。みおりは嬉しそうにはにかんだ。

「なんて言うか。二人で会うの初めてだから、張り切って早く着いちゃった」

「そうなんだ。俺は、美織さんを一人で待たせたくねえと思って」

「ありがとう」

 千穂はみおりの顔から、店内に視線を向ける。

「ここ、面白い店だな。近所の人が来る感じ」

「うん。調べたんだ。オープンなお店だと、盗み聞きとかされるから」

「マジで?」

「うん」

 テーブルはもう一つが埋まっていたが、近所の高齢女性たちが店主の女性も加え五人でのんびりと世間話をしているだけだ。自分たちに注目が一つも向いていない事を確認してから、千穂はみおりに手を伸ばした。

「ちょっといい?」

「え。何?」

 正面からブラウンのサングラスを掴んで、ゆっくりと外す。

「これで顔が見られる」

 頬を緩める千穂に、みおりも照れ笑いした。渡されたサングラスを畳んで、みおりはテーブルの隅に置いた。先ほど店先で掃除をしていた高齢男性が入ってくる。カウンターキッチンで手を洗ってから、水とおしぼりを二人に出した。

「のんびりですまんね。あれは居るだけで働きゃしない」

 言葉はきついが楽しそうに話し込んでいる妻を『あれ』と言って顎で示す笑顔には、愛情がたっぷりと詰まっていた。みおりもつられて微笑む。

「いえ」

「飲み物だけ? 食事と軽食もあるよ」

 そう言って店主の男性は、年季の入ったメニュー表をテーブルの上に広げた。紅茶の専門店らしく、たくさんのフレーバーが並ぶ。二人は額を寄せ合ってメニューをしばし眺め、色々と指を差しては吟味した。

「俺、シナモンティー」

「私はスコーンセットで、アプリコットティー」

「はいよ」

 どうやら店を切り盛りするのは男性店主らしく、伝票に走り書きしてキッチンに向かった。

「美織さん、その」

「ん?」

 言いづらそうに途切れた言葉を、みおりがうながす。

「こないだ……ひどい事言って、ごめん」

「え? なんだっけ」

 みおりは本当に忘れていた。千穂は口元を覆って、言葉を絞り出す。

「ほら。モデル勧められた時にさ」

「ああ」

 みおりはようやく思い当たった。今度はみおりが頭を下げる。

「私の方こそ、ごめんなさい」

「え」

「あとから考えたんだ。私、千穂くんの言った通りだなって。心のどっかで千穂くんのお仕事、ちゃんとリスペクト出来てなかった。だから、ごめんなさい」

「や、いや」

 再度頭を下げるみおりに、千穂が手の平を見せて慌てる。視線を上げて、みおりは千穂を真っ直ぐに見詰めた。

「許してくれる?」

「もちろん」

 その流れで目が合ったまま、次は千穂のターンだった。

「俺も……寝起きで頭回ってなくて、カッとなった。俺、他人に怒った事ほとんどないから、怒り方も上手くなくてさ。みおりさんの気持ち考えてなかった。ごめん」

「でもそれって」

 不意にみおりが微笑んだ。

「他人じゃないって言われてる気がして、ちょっと嬉しい」

 千穂はなんだか複雑な表情をして、みおりと同じ言葉を口にする。

「許してくれる?」

「もちろん!」

 千穂はうつむいてふうっと大きく息を吐いた。

「よかった。一番にそれが言いたくて」

「……お母さんにね」

 千穂が顔を上げる。みおりは目を伏せて水のグラスを両手で握り、追憶した。

「仲直りが出来るような友だちは大切にしなさいって、よく言われた。喧嘩した数じゃなくて、仲直りした数を数えなさいって」

「なんか美織さんのお母さん、名言とかいっぱい出てくんな」

「四年前まではね」

 その言葉に、千穂が頬杖をついてから言葉を選ぶ。

「今は?」

 みおりの表情がかげった。

「施設に入ってる。若年性アルツハイマーで。薬で進行は遅らせられるけど……だんだんお母さんが壊れていくのが恐くて、ここしばらくは連絡も取ってない」

「しばらくって、どれくらい?」

 テーブルの上で、みおりの指が数を数える。拳が握られて、また開き始めた。

「七ヶ月くらい。今年の春、一緒に桜を見たのが最後」

 所在なげに手の中のグラスを持ち上げて喉を潤すみおりを見ながら、千穂は拳の親指側を口元に当てて考え込んだ。しばしあって拳が開き、何かを提案するように人差し指を立て口を開きかけてから、躊躇うように言葉を飲み込み指も引っ込める。

「ごめんね。こんな話」

 話を切り上げようとしているのが分かって、千穂は飲み込んだ言葉と人差し指を再度出した。

「それって」

「ん?」

「俺で力になれる? 例えば……一緒に着いてくとか」

 みおりの目が泳ぐ。

「嬉しいんだけど……お母さんね。会う度に「いい人を紹介しろ」ってうるさかったから、千穂くんの顔見たら勘違いすると思う」

 曖昧に笑ってやはり次の話題を探す素振りのみおりに、だが千穂は流されなかった。真摯なまなざしでみおりを見詰める。

「俺は、別に構わないけど」

「え」

「もちろん、本当にそうなろうって、美織さんの意志を無視してる訳じゃない。母子家庭だったんだろ。親孝行として、俺はそう思われても構わないって話。友だちとしてな」

「でも」

「俺の経験だけど、親っていつ居なくなるか分かんねえのを知ってるから。美織さんがお母さんの事話す時は、いつも笑ってた。まだ間に合うんなら、今親孝行しねえと後悔すると思う」

 千穂は真剣そのものだった。それはみおりも感じていた事だ。会いに行きたい、でも壊れていく母を見るのが恐い、もし会いに行って自分の事を忘れていたら? そんな自問自答を繰り返していた。「ええ人おらんの?」と訊かれて「あの人めっちゃ忙しいねん。また都合つけて連れて来るわ」とずっとつき続けている嘘が、次第に自分を傷つけてもいた。『あの』如月みおりに、もういい人など現れないのだと。

「お待ちどお様」

 みおりが返事をする前に、店主がトレイを持ってやってきた。紅茶のポットが二つと、スコーンが二つ入ったかごが、テーブルに並べられる。ティーカップにそれぞれ一杯分、店主が注いでくれる間その綺麗な琥珀色を眺めて、少し気分が落ち着いた。

「冬は心も冷えるからねえ。美味い物食べてあったかい物飲んで、楽しんでって。これサービス」

 小皿が二人の真ん中に置かれた。手作りのクッキーが四枚、入っていた。

「えっ。ありがとうございます」

 みおりが目を輝かせると、店主はにっこりと笑んでキッチンの奥に引っ込んだ。二人は店主の言葉に触発されて、まずは紅茶に口をつける。

「美味しい」

「うん」

 流石専門店だけあって、深いフレーバーが口の中に広がって鼻に抜けた。みおりが今度は、ティーカップで両手を暖めながら尋ねる。

「千穂くん」

「ん?」

「お仕事って、何日か休めるの?」

「うん。小さい会社だから、結構融通利く」

 みおりが、伏せていた視線を上げた。

「じゃあ……お母さんの話だけど。婚約者のふり、して貰えるかな?」

「いいよ」

「お母さん、大阪に居るんだ。旅費も宿泊費も全部出すから、安心して。千穂くんは顔見せるだけでいいから」

 花の形に型で抜かれたクッキーを一口頬張ってから、千穂が首を傾ける。

「お母さん、大阪なんだ」

「うん。四年前にボヤ出して病気の診断受けてから、実家引き払って一回東京に連れて来たんだけど。夕方になると、家に帰るって暴れて手がつけられなくて」

「うん」

「試しに実家の近くの施設に入れたら落ち着いたから、お母さんの幸せはそこにしかないんだろうなあって」

 少し沈んだ表情のみおりに、千穂が口をもぐもぐさせながらクッキーを指差す。

「これ、めちゃくちゃ美味い」

 みおりはほっとしたように微笑んだ。七年前の騒動があってから、自分に近づいてくる者の話題はほとんど全てが『あの』如月みおりについてのものだった。食べ物が美味しいとか、景色が綺麗だとか、動物が可愛いとか、そんな日常会話は失われて久しい。みおりもクッキーをつまんで一口かじった。

「ほんとだ。美味しい。小さい頃お母さんが作ってくれた味がする」

「な。これ砂糖控えめだから、美織さんのお母さん、健康にも気ぃ遣ってたんじゃないかな」

「そっか。……そおかあ」

 千穂が身を乗り出した。

「なあ、どうせ大阪まで行くんならさ。ただ顔見せるだけじゃなくて、全部乗せしよう。お母さん、ウェディングドレスが見たいとか言ってないか?」

「え、どうして分かったの」

「なんとなく。俺も里紗に着せてやりたいし。孫の顔は……鈴が居るけど、流石にいきなり五歳児は無理があるか」

 千穂が言わんとしている事は伝わってきて、二人で顔を見合せて小さく笑った。

「先輩居るって教えたろ。小手さんていう」

「うん」

「結婚式はしないで、ウェディングフォトで済ませたって話を聞いた事ある。もし美織さんが金大変じゃなければ、俺撮るよ」

「え……でも。そんな写真あったら、ほんとに結婚する時に話がややこしくなるっていうか……」

「美織さん。遠慮はなし」

 後ろめたくて下がっていた視線を上げると、千穂と目が合った。その顔は、この七年間向けられ続けてきた嘲笑でも侮蔑でもわざとらしい作り笑顔でもなく、リラックスした自然な表情だった。

 ――千穂くんと居ると安心する。自分が、『あの』如月みおりだっていう事を忘れられるから。

「うん。ありがと」

 みおりは答えて、スコーンを一口頬張った。

「んー。千穂くん!」

「ん?」

「これも凄く美味しいよ。一個あげる」

「え、マジで」

「絶対好きな味だと思う」

 渡されたスコーンに千穂が豪快にかぶりつき、うなる。

「んー!」

「ね?」

 そのあと二人は、紅茶と軽食とお喋りを、他人の目を気にせず存分に楽しんだ。キッチンの奥で新聞を読みながら時々顔を上げる店主の目には、二人は恋人同士に映るのだった。

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